『ならば、今はただ白狐として』




 反省の第一歩として姉には食器洗いを今日から全てやらせる事にした。今日から、だ。だからいま彼女は――厨房だと和鼓たぬこの邪魔になるので――休憩室にある流し台の方でひたすら与えられたその仕事に従事していた。午後の営業時間が過ぎた頃には吉備サトオも帰って来る。それまでに手を打たせないため、ひづりは姉から携帯電話も没収していた。そうして悪徳夫婦が揃った時、改めて今回の事に落とし前をつけさせてやる。


 濃密で慌しかった昼の休憩時間が直に終わろうとしていた。店内で人気の席、窓際から商店街の様子が眺められるその席に、いま官舎ひづりと凍原坂春路は向かい合って座っていた。凍原坂の膝には相変わらず二匹の《猫》が、外出時はもうそこが定位置なのであろう、また枕にして眠っていた。


「なんだか、想像していたよりずっと大変な騒ぎになってしまって……『抜けている性格だ』とは今までにも何度か言われて来ましたが、今日ほど自分のうかつさを呪った日はありませんでした」


 入店時よりもずっと彼は申し訳なさそうな顔になっていたが、ひづりは逆に何度もお礼を返していた。彼のおかげで今日、ついに天井花さんと和鼓さんに正しい従業員としての権利を与えられるようになったのだから。


 彼女達に給与と休日を獲得させるというのは、ひづりにとってこの《和菓子屋たぬきつね》でアルバイトを始める事を決意した理由の一つだったし、加えてそれがついに今日果たされた事は、この九日間を共に働いて彼女達の事をたくさん知ったひづりにとって、当初よりもずっと価値のあるものとなっていたのだ。だから彼、凍原坂春路にはどれだけ感謝の気持ちを伝えても尽きることはなかった。


 お礼とお詫びと恩返しのつもりで来ていた凍原坂はそんなひづりの態度にひどく困惑しつつ、けれどもちゃんとその言葉を受け止めてくれていた。母に抱いているというその恩の強すぎる感じ方からうっすらとそんな気はしていたが、やはり彼はとても生真面目な性格のようだった。あの時ひづりが行動していなかったら間違いなく本日を以って吉備ちよこの養分の一つとして搾取されることが決定していただろう。


 ただ二人とも、ひづりには天井花イナリから《フラウ》を守ってもらったことで、そして凍原坂には姉の悪行をやめさせるきっかけを作ってもらったことで、このとき互いに、このご時勢に可笑しいのだが、戦友のような感情を抱くに至っていた。


 ふとまた机の端からわずかに覗いている二匹の《猫》の頭にひづりの視線が移った。《二人》は相変わらず心地良さそうに体を丸めて眠っている。やはり可愛らしい。天井花イナリは狐の耳を生やしているが、その性格や振る舞いから尊敬の念の方が大きく、撫でてみたいなど思うこと自体おこがましいと思えたが、しかしこの隙だらけの《半悪魔、半妖怪》の二匹を見ていると、ひづりの胸に宿るのはやはり「撫でてみたい」という、愛玩動物へ向けるそれなのであった。


「もしよかったら、少し撫でてみますか?」


 凍原坂の突然の提案に、びくり、とひづりは顔を上げて「え?」と訊ね返した。


「奥の部屋に居た時から、ひづりさん、とても《フラウ》達の事を優しい眼で見てくださっていたので……。猫、お好きなんですか? 《火庫》は私以外の人に触られるのを嫌うので無理かもしれませんが、《フラウ》なら、きっと……」


 そう言って凍原坂は《フラウ》の居る右隣をひづりに促した。


 少し緊張したが、せっかくの機会なのでひづりはご厚意に甘えさせてもらう事にした。


 ……すり。……すり。起きない。すりすり。やはり起きない。《フラウ》はひづりにその黒い頭を撫でられたり、そのぴょこんと飛び出した和鼓たぬこの物と似ている耳をふにふにされても起きる様子が無かった。猫と言うと音や接触に敏感なものだが、こうして鈍感なのは、やはり子供の体だからなのだろうか。


「平気みたいですね」


 凍原坂は嬉しそうに小声で微笑んだ。


「はい。あはは」


 ひづりも小声のまま、それからしばらく《フラウ》の頭を撫でたり左右のおさげを揉んだり喉をさすってみたりした。心地良さそうに猫科特有のぐるぐるという声を出し始めた時はさすがに驚いて、凍原坂とまた視線を合わせると一緒に声を控えめに笑い合ってしまった。


 それから休憩時間が終わるまでの間、『確かに二人は喋るしほとんど人間の子供と同じ背格好ですが、帰宅するとすぐに撫でろとせがんできて匂いをつける様に頭をこすりつけて来て。かと思えばにわかにふいと逃げてしまいますし、日中は揃って日なたでよく寝ていますし、夜、私が寝ているとベッドの真ん中へ真ん中へ来ようとするので、最終的に私が隅の方へ押しのけられたりして……。特に困るのはパソコンで作業をしている時ですね。二人してキーボードを叩く私の腕に乗って来たり、画面を顔で遮ったりして来て……』といった、本当に猫らしい行動ばかりであるというその《二匹》の話をひづりは教えてもらった。その間ずっと「うちも一匹くらい飼えたら良いのだけれどなぁ」とひづりは羨ましく思ったが、残念ながら父が猫アレルギーなのだ。こればかりは仕方が無い。


 これまでも、そしてこれからも凍原坂家が《いびつ》である事は間違いないだろう。彼はかつて婚約者を失った。その後《妖怪》につきまとわれるも、《悪魔》と融合させる事で問題を解決したのち、彼女達を娘として迎え入れ、周囲には《認識阻害魔術》で『妻を亡くした男とその忘れ形見二人』を演じて、今日まで過ごしている。


 だがそれでも幸せなのだ。凍原坂も、《フラウ》も、《火庫》も。


 守れて良かった、とひづりは改めて思った。たとえそれが《いびつ》なものであったとしても、事実として幸せであるこの家庭が壊れなかった事は、それを守れたことは、やはり嬉しかった。もちろんそれを天井花さんが壊さずに済んだ事も。


「万里子さんとの思い出を美化している、とひづりさんに言われて、一つ、気づいたことがありました」


 不意に凍原坂がそんなことを呟いた。ひづりは顔を上げてその横顔を見たが、思い出してすぐに視線を逸らし肩をすくめた。


「あ、あー……あれはちょっと……言いすぎました……」


「いやいや、事実でしたし。それより、気づいた事ですよ」


 凍原坂は膝でよく眠るその《猫達》の頭を優しく撫でながら穏やかな表情で言った。


「確かに万里子さんはむちゃくちゃな人でした。ですが彼女に恩返しをしたくてこの十四年、万里子さんの知人であるという方たちから話を聞いていたりしたんですが……どうも、どんな動機であれ、目的であれ、手段であれ、あの人がひとたび行動を起こすと、不思議な事に、それに関わった人たち皆に大なり小なり、いつも幸福な結果が与えられているように私には思えたんです。……私とこの子達がそうであったように……。実際、今日は万里子さんの事でお邪魔させて頂いて、……いろいろとありましたが、結果的には私もひづりさんも、どうやら求めていた目的や答えに、ばったり出会えてしまったみたいですから。嘘じゃないかもしれないでしょう?」


 ……そう言われるとそう、か? とひづりは首を傾げた。未だに母を良く思う事を、脳が半ば反射で拒絶する。


「それに今日起こった出来事の中で私が一番嬉しかったのは、きっとひづりさんにお会い出来た事なのだと思います」


 にわかに凍原坂はそんな口説き文句じみた事を言い出した。なんだいなんだい、私は年上は趣味じゃないぞ、とひづりが返そうと思っていると、


「ひづりさんはとても万里子さんに似ていらっしゃる。見た目もそっくりでいらっしゃいますが、その肝の座った物言い、度胸、一歩を踏み出せる行動力。……こう言われるとあまり良く思って頂けない事とは承知ですが、正直に言うと私は、今日のひづりさんを見て、まるであの頃の万里子さんを見ているかのように感じられました。――だからお会いできて、本当に良かったと思ったんですよ」


 ……ああ、なるほど。ひづりは納得して少し肩に入れていた力を抜いた。


 母に似ている、と言われるのは、実のところ今まであまり、というより実際に好きではなかった。だって、あの母だからだ。嬉しい訳がない。父方の従兄弟にそっくりだそっくりだ似ている似ていると笑われた時はさすがに殴り倒したくらいだった。


 けれど今、凍原坂と今日知り合って話して知って、そして褒められた今。あの自分勝手だった母が、少なからず誰かの役に立っていたこと。無自覚でも、誰かの幸せの種を撒いていた、それを知った今は、少しだけ。


 嬉しい。そう思えたのだ。








 午後の営業の時間が迫ると凍原坂は《火庫》を起こして手を繋ぎ、起きない《フラウ》は背負って、店の出入り口へと向かった。


 しかし見送ろうとしたところでひづりの背後からおもむろに天井花イナリがその姿を現し、凍原坂の体がビシリと硬直した。


 彼女はあれからお昼ご飯にしていた和鼓たぬこと共に休憩室に閉じこもっていたが、何か言い残した事があるのだろうか、まるで凍原坂を引き止めるように彼の眼をまっすぐに見つめたまま、ひづりの隣まで来て立ち止まった。ひづりにも緊張が走った。彼女は無表情で、たすき掛けもまだせず、その袖を組んでいた。


「こっ、この度は大変な失礼を致しました。その……《フラウ》……《フラウロス》様の事は重々承知いたしましたので、今後はもう、こちらのお店様に顔を出したりは致しませんので――」


 凍原坂がそこまで言ったところで、天井花イナリはにわかに被せる様に声を張った。


「良い。また来い」


 ……え? その意外な一言に、ひづりも凍原坂も呆然と彼女を見つめてしまった。


「……は、え……?」


 言葉に詰まったように声を漏らす凍原坂に、天井花イナリは着物の袖を組んだまま少しだけ不機嫌そうでありながら、けれどその声に攻撃的な響きは無く、ただ無表情に、淡々といつも通りの様子で、ただ伝える事だけに努めるような物ぐさな口ぶりで続けた。


「お主は客として来て、そして出されたたぬこの菓子を美味と言い、そして代を払って客として帰った。それを『二度と来るな』などと言う店員が我が店に居るものか。じゃから、また来店せよ、と言うておるのじゃ。……謝罪はする。すまんかったの。急の話とは言え、聞くでもなく先に気を立ててしまったのはわしの非であった。ただ、《フラウロス》の件は憶えておく。聞いた以上はな。じゃが《フラウ》というその小娘の事など知らぬ。お主の娘なら、次はあまり騒がぬように躾けておけ。それと――」


 ふい、と天井花イナリはにわかに顔を背けて何気ない風を装うようにして続けた。


「それと、多少、店が暇で、気が向いたなら、その娘らを……《フラウ》を、たまにならわしの玩具にしてやっても構わん。……それだけじゃ」


 そう言い捨てると天井花イナリは踵を返してその手にしていたたすきを手際よく掛けながらやがて店の奥に消えて行ってしまった。


 取り残されたひづりは彼女の背中を見送った後、振り返って凍原坂春路を見た。彼もこの店のフロアリーダーである《悪魔》が去るのをぼうっと見送っていたが、我に返るとにわかにひづりへと視線を向けた。


「今日は、本当にお騒がせ致しました」


 《フラウ》を背負ったまま、彼は再び深く深く頭を下げた。


「それはもう良いですって。それに、その……母さんのことも聞けて、よかったです」


 ひづりは笑顔で返した。凍原坂はそれを見ると心の底から安心したような笑顔になった。


「天井花イナリさんは、本当に良い《悪魔》なのですね」


「はい! 天井花さんは最高の先輩従業員で、私が唯一尊敬する、一番の《悪魔》なんです!」


 胸を張って、そう心から正直な気持ちをひづりは伝えた。


 凍原坂はまた静かにお辞儀をするとそっと戸を閉め、娘たちと共に商店街の先へと歩いて行った。


 ――また来て下さい。きっとそう多くは無いだろうけれど、また母の話を聞かせてください。


 そして天井花さんに《フラウ》さんを会わせてあげてください。姿形は変わっても、それでも懐かしいものはあるはずだから。


 だから天井花さんは「また来い」と、そう言ったのだろうから。










 店の定休日には毎週《悪魔》たちに店の大掃除をさせるという悪行を行っていたちよこも、天井花イナリと和鼓たぬこに正式に休日が与えられ、外出もひづりとであれば可能となり、給料もちゃんと支払われるようになると、《彼女達》が休みの日の店の大掃除は全てちよこの仕事となった。


 共犯者だったサトオも妻の顔面を人質に取った上で更に和鼓たぬこの《魅了》がどういうものかを教えて脅し、比較的穏便に言いくるめることに成功すると、定休日には翌日出勤する和鼓たぬこさんが働きやすいよう、店をちゃんと整えた状態にしておいてくださいね、とも約束させた。


「今まで二人の口座から抜いて使っていた分を全部返せと言わないだけマシだと思ってください」


 ひづりが《和菓子屋たぬきつね》でアルバイトを始めるに至ったその当初の目的が、まだ一ヶ月も経っていなかったが、どうにかほぼ解決に至っていた。


「凍原坂さん、次の日曜日、来られるそうですよ」


 ちよこから凍原坂の連絡先を聞き出していたひづりは、フロアが少し暇になった時間にそれとなく天井花イナリへそう伝えてみた。


「……そうか。前回の事もある。多少、もてなしの準備でもしておかねばならぬか。騒がしいのも来るのであろう。面倒なことじゃ」


 こちらを見ずにテーブルに布巾をすべらせる彼女の声は、本人は隠しているつもりだったのだろうが、ひづりにはやはり少しばかり嬉しそうに聞こえた。







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