『些細な変化』




 馴染みの店が一ヵ月半ぶりの営業再開であるからと言って、午前十時に腹いっぱい和菓子を食べる人間は居ない。ちよこがその人脈と口の上手さで以って掻き集めたであろう客たちも大抵一品ばかり頼んでちよこと一つ二つ話をするともう各々休日の予定があるのだろう、すぐに店を後にする者ばかりだった。


 だから十二時前にはすっかり落ち着いて、どちらかと言うと静かな雰囲気の、いつもの《和菓子屋たぬきつね》へと戻っていた。食べ終わればアサカとハナも長居させず帰らせた。


「ようやく人心地、というところかの」


 一つまたテーブルを拭き終えた天井花イナリが腰に手を当ててふうとため息を吐いた。


「ええ、かなり忙しかったですね。何だかまだ頭が火照ったままです」


 がらんとした店内を見渡してひづりもまた少し長めに深呼吸をした。


 これから十二時になると客足が一瞬ぱたりと途絶えるが、それから二十分もするとまたちらほら席が埋まり始める。そういった客は、ちよこいわく、駅前の方で昼食を済ませた後、まだ少し腹に何か入れたい、または雑談の場に使いたい、という人達らしい。《和菓子屋たぬきつね》の休憩時間が十二時でなく十四時からとなっているのはこのためだった。


「表はわしが見ておく。ひづりはちよこの手伝いに行ってやれ。どうせ食器も溜まっておろう」


「分かりました。お願いします」


 椅子にどっかりと掛けた天井花イナリに見送られ、ひづりは休憩室へ向かった。


 簡易的にサトオの調理場となっている休憩室の隅、大きな流し台のあるそこでちよこはこちらに背を向けて、大量の食器を前に小さくなっていた。


「え~ん……片付かないよぉ~……。サトオくんも手伝って~……」


 などと泣き言を零しながら。


 暖簾をくぐったひづりに気づくとサトオは困った様に笑い、ちよこの方をちらりと見て、それからひづりに小さく頭を下げた。……しょうがない夫婦である。


「ほら、サトオさんは午後の準備があるんだから、泣きつかないの。お客さんとずっと話してるのが悪いんでしょ、もう」


 袖をまくって隣に立ったひづりに気づくとちよこは俄に顔を明るくした。


「ひづり~! 手伝ってくれるの? ありがとう~!」


 濡れた腕で抱きつくのはさすがにまずいと思ってだろう、姉は妹の肩に頭をぐりぐりと押し付けて来た。


「あーもううざい。フロア、今だけ天井花さん一人に任せてるんだから、早めに片付けるよ」


 食器をすすぎながらひづりが言うとちよこはしゃんと背筋を伸ばして上機嫌な声を上げスポンジを握り締めた。


「承知!!」


 ……こういうのだけは本当に分かりやすいんだからなぁ、この人は。








 昼の応対を終え、あと三十分で昼休憩、というところで、凍原坂が来た。


「いらっしゃいませ。お久しぶりですね」


 奥の席へ通された三人にひづりは声を掛ける。《火庫》はいつも通り凍原坂の左側にちょこんと座り、凍原坂に背負われ眠った状態で入店した《フラウ》は彼の右側の椅子に下ろされて、しかしまだ眠そうな顔をしていた。


「お久しぶりですひづりさん。お元気そうで何よりです。天井花さんも」


 未だに天井花イナリに対して若干の苦手意識があるらしく、彼は店に入ってから彼女に案内される間ずっと緊張した様子で、そして今もその両肩は少々強張って見えた。七月末、一度は共に旅行にこそ出かけたが、やはりこの《和菓子屋たぬきつね》の店内で会うとなると、初めて会った時の事が思い出されるのだろう。慣れるまでまだ時間が掛かりそうだった。


「おかげさまで。今日はお呼びだてしてすみません」


「いえそんな。お店の営業再開日、是非お伺いさせてくださいとお願いしたのは私の方です。それに、こちらの和菓子の味があれからずっと恋しかったんです。とても楽しみにしていたんですよ、私も、《フラウ》も《火庫》も」


 そう言って彼は寄り添う娘達の頭を撫でた。《火庫》はほんのりと頬を赤らめて、《フラウ》は無反応だった。よく見ると座ったまま寝ていた。


 凍原坂には、この日この時間に店へ来てもらえないか、と数日前から連絡を入れていた。もちろん都合が合わなければまた別の日か、あるいは十九時以降の営業時間終了後でも、と伝えたのだが、彼はすぐに最初の指定日時で参じると言ってくれた。大学の教師と言えば時間を作るのも大変だろうに、少しばかり心配になる即答ぶりだった。


 やや日を跨いだが、ラウラの一件……《グラシャ・ラボラス》の一件は、彼にもちゃんと話しておかなくてはいけない、とひづりは捉えていた。この後、休憩時間になったら彼らをまた奥の和室へ招き、ラウラが語ってくれた母の事や《願望召喚》についての話をするつもりだった。


 ラウラは別れの日、天井花イナリに『天界の狙いは、ボティスが所持しているソロモン王からの贈り物である可能性が高い』と指摘して行ったらしい。官舎甘夏が過去に犯した罪や、楓屋紅葉の他者に語るにはあまりに憚られる過去まで話す訳にはいかなかったが、それでも凍原坂は官舎万里子を今でも尊敬している数少ない人物で、何より天井花イナリと同じ《悪魔の王》である《フラウロス》の《契約者》であり、そして自分達に親しくしてくれる良き隣人だった。最低限の情報は共有しておかなくては、今後また《ベリアル》のような相手と直面した時、今度こそ取り返しのつかない事態を招きかねない。


「姉さんにも声掛けて来ますが、まだ仕事が片付いてないので、たぶんもう少し掛かります。ですからゆっくりしてて下さい。注文が決まったら呼んでくださいね」


「分かりました。さぁ《火庫》、《フラウ》、どれにしようか。……《フラウ》? あれ、寝ているのかい?」


 これも一ヵ月半ぶりの光景であった。微笑ましい気持ちを胸にひづりはそっと机を離れようとしたが、その時ふと、凍原坂の入店時から抱いていた小さな違和感の正体に気がついた。


 彼の眼鏡だった。七月に初めて会った時から凍原坂は黒いフルフレームの眼鏡をかけていたはずだったが、それが今日は、アサカがしている様なアンダーリムの物に換わっていた。デザインもどことなくお洒落で、印象は仄かに垢抜け、歳もいくらか若く見えるようだった。


 眼鏡の変化だけで決め付けられるものではないが、しばらく会わない間に彼の生活の中で何かしら心情の変化が起こる様な出来事があったのかもしれない。例えばオシャレをする理由が出来た、とか、そういう。


 少々踏み込んだ話かもしれないと思い、ひづりはとりあえず今は指摘しない事にした。







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