『従業員?』




「いやはやしかし。ちゃんと来てくれたんだね。ありがとうね」


 目じりに涙を浮かべたまま、吉備ちよこは殴られたばかりの脳天をさすりながら何事もなかったかのように机を挟んだひづりの向かいに腰を掛けた。


「そりゃあ、やるって決めたし……」


 ひづりも席に掛け直すと、少しだけ戻った緊張感に視線をわずか逸らした。ひづり達が掛けている席は中々に良い席で、壁側には隣の席まで貫いた大きな窓があり、そこから商店街の通りの様子を眺める事が出来た。ひづりが今まで見てきた限り大体いつもここは埋まっていて、先ほど店を出て行った三人組の老女もここに掛けていたのかもしれない。


「ひづりはバイト初めてでしょ。だからきっと色んな事わからなくて大変だと思う! けど安心してね! 私たちがしっかりとフォローしてあげるから!」


「あ、ありがとう。お願いします……?」


 そんな事を考えていると出し抜けにちよこが身を乗り出してひづりの両手を掴み、熱烈な『出来るお姉さんアピール』をした。こういう人なのだ、ひづりの姉は。実際は、『一応出来るが面倒くさがってやらないお姉さん』なのだが、仮にも初勤務地の経営者、ひづりは反射的に信用の態度を取ってしまった。


 分からない事が、の辺りが頭の中に響いていたところでひづりはふと思い出して右を見た。やはりまだ居る、幻覚の幼女店員。


 当然気乗りしなかった。「あそこに居る狐の耳と竜みたいな角を頭に付けた和服にメイドエプロンのヨーロピアン幼女はあなたにも見えていますか」なんて言ったらどうだろう。この姉に、かつて見たことがないような眼で見られる気しかしない。


「あ、それでもうご挨拶はした? イナリちゃんに」


 言えず言うまいか言うべきか言おうかしていたひづりに、ちよこは幻覚の幼女店員を指差して事も無げにそう訊ねてきた。


 逆に反応が遅れたひづりだったが、もう一度姉が指差す先に居る奇妙ないでたちの少女を注視した。よもや、いや、そんな。


「イ、イナリ、ちゃん……?」


「そう! お狐様で、悪魔で、フリフリメイドのロリっ娘店員さん! かんわいいでしょぉ~! うちの自慢のフロア担当なの!」


 得意げに、自慢げに、楽しげに語る姉の顔と、その姉が指差す怪奇な姿の幼女店員とを数回見比べてから机に両肘をついてひづりは盛大に頭を抱えた。


「姉さんが何言ってるか分からない……サトオさん、サトオさんはどこ……」


 部分的に姉と似たところこそあれ、こういった奇行だけはしない常識人である義兄、吉備サトオの姿をひづりの眼は藁にもすがる思いで店内に探した。


「サトオくんは今ね、和菓子職人の専門学校時代の友達が始めたお店で人手が足りないらしくって、そっちに普段出払ってるの。だからこの時間帯は店に居ないのよ」


 絶望。ひづりは吉備ちよこという奇行悪行をその身に宿して生まれて来たような人物が今この《和菓子屋たぬきつね》の支配者であると宣言されたのだ。きっとひづりが断っても勝手に採用されたことになって退職出来ずあの狐耳みたいな変な格好をさせられて昼も夜も姉の思いつく限りの変態的な――。


 いや、待て。


(義兄さんが、この店に居ない……?)


 今後の自分の初アルバイト生活が地獄に落ちたであろう事実に絶望して頭がいっぱいになってしまったが、とても重要で簡単な問題がそこにはあるはずだった。


 一度は店じまいをしていたこの店を祖父から受け継ぎ立て直したという義兄の吉備サトオ氏が主に和菓子を作り、経営のほとんどを妻の吉備ちよこが行い、この《和菓子屋たぬきつね》という和菓子屋は成り立っていたはずだった。


 ひづりにアルバイトをしてみないかと誘いが来たのだって、三ヶ月ほど前に二人居た従業員が辞めてしまったからだと言う話で、表に求人の紙がまだ貼ってあることにしたって、それを間違いない事実として物語っている。


 半年ほど前、ひづりが顔を出したとき店に居た人間は四人だった。経営者の吉備ちよこ、和菓子作りの吉備サトオ、フロアの木下という中年の女性と、そしてフロアをしつつ和菓子作りの補佐もしていたサトオさんより少し若い狭間田という男性だ。


 木下と狭間田が辞め、そして肝心のサトオが居ないのであれば、一体誰が《和菓子屋たぬきつね》の和菓子の味をこの三ヶ月、提供し続けているのだ?


「あの、ちよこさん、業者さんいらっしゃってます…………。ぅ…………?」


 不意に、従業員室へ繋がる暖簾から見知らぬ女性が顔を覗かせた。ちよこに話しかけながら、視線は自然とその向かいに座るひづりの方へと向けられ、結果ひづりと見つめ合う形になった。


「あら、もうそんな時間だったかしら。すぐ行きますね」


「は、はいお願いします……」


 身軽にも品のある仕草で席を立つとちよこはそのまま彼女の方へ歩き出した。


「ごめんねひづり、ちょっとだけ待っていて」


「お、うん……」


 ひづりはつい変にうわずった返事をしてしまった。しかしそれもその彼女、たった今ちよこを呼んだ彼女、従業員室から出て来た、少し背が高く、けれど控えめな雰囲気を持つ彼女に視線と意識が釘付けになってしまっていたせいだった。


「こ、こんにちは……」


 ちよこと話していた感じからひづりをちよこの知人だと思ったのだろう、彼女はたどたどしい動きでお辞儀をした。


 ひづりも思わず我に返って席を立つとお辞儀を返した。


「ど、どうも……」


 それ以上何か言葉を交わすでもなく、ひづりの方を見つつも周りをやけに気にする様子で居た彼女はやがて「で、では」と言い残して逃げるように従業員室へと隠れていった。


 ひづりは席に戻るとゆっくりと首を左に回してガラスの向こうに流れる商店街の風景に視線をやり、それからまた机に両肘をついてもうこれで今日何度目だという風に頭を抱えた。


 今、ちよこを呼んだ長身の女性店員は話し方こそ普通だったが、先ほど姉が説明したイナリという奇妙店員と同じく頭に丸い狸のような耳と、こちらはやや小ぶりな二本の丸っこい角を頭から生やし、ふわんふわんと波打った濃い緑色の長髪は腰の辺りまで流れ、極め付けに去り際に振り返ったその腰の辺りには、尻尾、尻尾が、尻尾が生えていた。狸のような尻尾が。


 異常事態。憧れていた《和菓子屋たぬきつね》に起きているこの異常事態を前に、ひづりはほとんど諦念を胸に背中を曲げ、姉の帰りを待つ他なかった。








「という訳で! ちょっとごたごたしたけど挨拶しましょう!」


 午後の二時が店の昼休憩の時間らしく、入り口の扉に掛けられていた『営業中』の札が裏返されて『休憩中』になる。当然、もうそれまでの会計は済ませてあり、店内に客は一人も居ない。


 ひづりと、ちよこと、イナリと呼ばれた白髪の少女と、もう一人、同じく耳と角を生やした長身の緑髪の女性、その四人だけが従業員室の中にあった。


「こちらがうちの優秀な従業員、フロア、接客担当のイナリちゃんと、そしてこっちが和菓子作り担当のたぬこちゃん。そしてこっちはこれからこの《和菓子屋たぬきつね》で働く予定の私の妹、ひづりです。先輩である二人はしっかり手本を見せてあげて下さいね!」


 まくし立てるようにちよこが説明すると、イナリと呼ばれた白髪の少女は腕を組んだまま言った。


「宜しく頼むぞ、ひづり」


「よろしくお願いします……」


 短く、本当に挨拶だけをしたイナリのあと、少し後ろに立っていた、今しがたたぬこと説明された緑髪の女性がまた控えめな声で挨拶をした。


「あ、はい、よろしくお願いしま――」


 先輩二人の挨拶に思わずそこまで言ったところで、ひづりは我に返った。


 無言で姉に近寄ってその腕を掴み、二人から引き離すように少しひっぱってそのまま部屋の角の方へ追いやった。


「わざとやってるよね、姉さん。私が求めてるのは……確かにこの、こういう、普通の挨拶は大事だし、当然の工程だけども、いま私が求めている紹介っていうのは、まさしくそこの部分の話じゃないでしょ。ねえ?」


 六歳年上だがほとんど背丈の変わらない姉の頭を、ひづりの両手が左右からがっちりと捕まえていた。


「ごめんなさいふざけましたはい説明しますします痛い痛い痛いからぁ!!」


 頭蓋骨が軋みを上げる中、ちよこがついに降伏した。




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