『毎年の楽しい時間』




 大改築されている。


 車が官舎本家の見える位置まで来た時、父娘が互いに言葉を交わさないながらも全く同時に抱いた感想はそれだった。


「話には、聞いてたけど……えっ、うちだよね? ここ、パパの実家だよね?」


「自信を持って、父さん。二十年暮らしてきたんでしょ。……いや、気持ちはとても分かるけども」


 二人は胸の内に強い戸惑いと猜疑心を抱きつつ、その様変わりしてしまった家屋を見上げ、ゆっくりと車をその敷地内へ進めた。


 近隣の家屋、表のネームプレート、そしておおよその家の位置などから、たぶん、きっと、ここが官舎本家であることは間違いない、という結論に一応至り、空いている駐車スペースに車を入れるとエンジンを止め、二人はそろりそろりと辺りを窺いながら車庫を出た。


「塗り替えた……うん、塗り替えたとは聞いた。オレンジに……」


 そのかなり明るいオレンジ色の洋風家屋を見上げて父が独り言のように呟いた。ひづりも隣を歩きながらその建物の外観の随所を確認した。かつて灰色に近い白だったその家屋の色相が一気にオレンジ色に傾いたのには驚かされたし、用途不明だが増築されたばかりらしい、周囲に並ぶ二つの小さな小屋にもつい視線を奪われるが、本体の建物の骨格構造自体はやはりそのままの物であり、また年始の帰省時に見たのと同じ花壇や柵などが見受けられる事から、ここがやはり官舎本家であることは間違いないと判別出来た。何より、近づいてみると玄関扉のところにちゃんと『官舎』と書いてある。近所に同じ苗字は無いはずだった。


「……姉さん、加減ってものを忘れてるっぽいな……」


 父が呆れた様子でそんな事を呟いた。


 姉。官舎幸辰の姉。官舎ひづりの父方の伯母に当たる人。


 そうなのだ。今からもう二年ほど前、父の両親が亡くなってからこの官舎本家は幸辰と紅葉の姉、つまり官舎家の長女が一人で管理をしているのだ。


 ……している。はずなのだが。


「父さんと母さんが死んで誰も文句言わなくなったとは言え……これは……」


 少々汗ばんで来たその額に手を当て、父は諦念気味にそんな事をぼやいた。


 その時だった。ふと玄関扉のすり硝子の向こうで動く人影が見えた。ひづりは思わずハッとなって、和鼓たぬこ製の和菓子が入っているその保冷バッグの紐をぎゅっと握って背筋を伸ばした。


 からんからん、という耳心地の良い金属製の玄関ベルの音と共に、一人、よく見知った佇まいの女性がひょっこり姿を覗かせた。


 ひづりの足は咄嗟に駆け出していた。


甘夏あまなつさん!」


 現れた伯母にひづりはそのまま、ぎゅぅ、と抱きついた。


「あは。あらあら。ひづりちゃん久しぶり。うふふ。相変わらず甘えん坊さんねぇ?」


 彼女はそう言いながらひづりの背と頭に手を添えて優しく撫でてくれた。


「違います。これは再会が嬉しくてハグしてるだけです。甘えてません」


 ひづりは抑えようも無く緩んでしまったその口元でそんな言い訳をしながら、甘夏の首元に自身の鼻先をすりすりと擦り付けた。


「……姉さん。ただいま」


「うん。ゆーくんもおかえりなさい。さぁさ、ひづりちゃんも上がって上がって。そろそろ来ると思って、私、準備していたのよ。クーラーもつけてあるから、ゆっくりと涼んで、まずは旅の疲れを癒して頂戴。あ、荷物、私が持つわよ」


 そう言うなり扉を開け放し、ひづりが引いていたそこそこ重いはずのキャリーバッグをひょいと持ち上げて彼女は玄関を上がり、その片手間に手早くスリッパを棚から取り出して並べて見せた。


 相変わらず所作に一切の無駄が無くて、しかも末っ子の紅葉と体つきこそ似ていながらその身体能力は四十八歳を迎えてなおパワフルで少しの老いも感じさせない。ひづりは玄関でつい立ち尽くして羨望の感情と一緒にまた安堵した。


 官舎甘夏は未婚だった。そのうえ二年前には両親を亡くし、この広く大きな官舎本家で一人暮らしの身となった。寂しい想いをしているのでは、という不安をやはりひづりも父も抱いていた。のだが。しかしどうも、今日改めて確信したが、彼女はそういった孤独だとか寂しいだとかの鬱憤を、相変わらずその《行動力》で発散しているようなのだった。


 ひづりは蜜柑色になってしまった外観だけでなく、冬に見た時より更に増改築が進められているその内装を眺め、安心したような、しかし父と同じく少し呆れてしまったような、ちょっとだけ複雑な気持ちになった。


 如何にも。官舎甘夏というこの人物を一言で表現するなら、《行動力の化身》、それに他ならなかった。学問やスポーツにしても、また経営や家の改築などでも、とにかく何に於いても彼女はひづりの知る限り、昔からひたすらに意欲的で能動的だった。


 そんな彼女にひづりとちよこは幼少期、月に一回ほどの頻度で、またそれより幼い頃はもっと多かったらしいが、とにかくたくさんお世話をしてもらっていた。だから自分の本好きや、姉のお金儲けに対する意欲というのは、やはり彼女のその生き様から影響を受けたものだとひづりは捉えていた。


 母親の代わりという訳ではないが、しかし彼女、官舎甘夏は、官舎ひづりに今も尚こうしてその《活力》をまるで人生の手本であるかのように見せつけ続けてくれている。


 ひづりが天井花イナリ達に会わせたい人とは、つまるところ彼女の事なのだった。








 官舎本家の奥の間。ご先祖様の白黒写真が並んでいるそこでは毎年お盆には仏様を迎える飾りつけを行っているのだが、祖父母が亡くなってからは専ら甘夏とひづりが行うようになっていた。昼食を済ませると二人はその作業に入り、そして今年もまた幸辰は台所に残され、食器の片付けをさせられていた。


「ごめんねぇひづりちゃん。お姉さん、またお飾りの準備忘れちゃってたんだ」


「ふふ、構いませんよ。甘夏さんのお手伝い出来るのは嬉しいですから」


 これは嘘だ、とひづりも気づいていた。とても分かりやすい、そして可愛らしい嘘なのだ。甘夏は、姪と何かをするのが好きなのだ。だからあえて毎年、この飾り付けの準備を、準備の状態で用意してひづりが来るのを待っている。彼女は弟の幸辰の事も大好きなのだが、ひづりに対する愛情はそれと同じか、あるいはそれ以上に深かった。だからこの時間、彼女は弟を台所に押し込んだりなどしている。


「まぁ。ひづりちゃんたら、またそんな嬉しいこと言ってくれるようになってしまったのね。相変わらず、とっても良い子ね。甘夏お姉さん、伯母として誇らしいわ」


 にんまりと甘夏は笑って、紅く染めたその頬に両手を添えた。ひづりも照れくさくて「あはは」と笑って誤魔化しつつも同じくついその顔が熱くなってしまうのを抑えられなかった。


 外観こそ一般的な洋風建築だが、仏壇の在る奥の間と隣の来客用の部屋は和室で、クーラーが設置されていなかった。飾りつけは中々に重労働なので、コンセントを引っ張って来た扇風機だけが二人の体を涼めてくれていた。


「それと言えば、一緒にちよこちゃんのお店で働いてらっしゃる天井花さん、だったかしら? それとお昼に頂いた、あのとっても美味しい和菓子をお作りになった和鼓さん? ……ひづりちゃん、本当に良くして貰っているのね? 年始に見た頃よりずいぶんと大人っぽくなったわ。お姉さん、驚いちゃった」


 提灯の脚を組み上げながら甘夏が言った。その褒め言葉はひづりにとって本当にとても嬉しいもので、ついまた童心に返ったようになってその顔に力の抜けた笑みを浮かべてしまった。


「そ、そう見えますか? ……でも、ええ、本当にお二人には、ずっとお世話になりっ放しで……。……私、先月まで『大人になる』、ってどういうことか、いまいち分からずにいたんですが……でも、これからもあのお二人のために何か出来るようになりたい、立派な人になりたい、って、最近ようやくはっきりとそう思えるようになったんです。それもまたやっぱり、天井花さんと和鼓さんのおかげで……」


 今は《和菓子屋たぬきつね》にてその留守を預かってくれている彼の《悪魔》たちの顔を思い出しながら、ひづりはそんな心からの想いの丈を口にした。


 提灯を一度畳の上に置くと甘夏はひづりのそばに寄って来てまた頭を撫でてくれた。


「そうなのね。それは、本当にとっても良い人たちと出会えたのね。ひづりちゃんが幸せだと、なっちゃんお姉さんも嬉しい」


「わ。もう、私、もうその呼び方してませんから!」


 ひづりは笑いながら甘夏の手をやんわりと振りほどいた。ひづりは幼年期、甘夏の事を『なっちゃんお姉さん』、紅葉のことは『みーちゃんお姉さん』と呼んでいた。それをたまに彼女はからかって来る。ただ、いつもこうしてひづりが不愉快に思わない程度に。


「あらあら、そうだったわね。ごめんなさい。でも、たまにはそう呼んでくれても良いのよ? いつだって、私はひづりちゃんのお姉さんなんですから」


 甘夏は少し下がって腰を下ろし、また上品に笑った。


「……気が向いた時に、考えておきます」


 ひづりは口角を上げたまま憎まれ口を叩きつつ、担当していたもう一方の提灯を完成させた。


「おや。もうほとんど終わってるね? 今年こそは一緒に準備しようと思って急いで片付けたんだけどなぁ……。……というか姉さん、洗い物、毎年わざと多く用意してるだろう? さすがにもう気づいたぞ?」


 開け放した障子の陰から父の幸辰が顔を覗かせて残念そうな顔をしつつ、甘夏を責めた。


「あら、本当に早かったわね。でも、嫌だわゆーくんたら。これくらい、気を利かせてくれたって良いじゃない。帰って来てくれた時くらいしか、お姉ちゃん、ひづりちゃんとお話できないんだから。ゆーくんは良いよね。毎日一緒にひづりちゃんと暮らしてるんですから」


 少し拗ねた様子で、甘夏も番の提灯を完成させた。


「変わらないね、姉さんは。ああ、分かったよ。お盆休みの間は、ひづりの貸し出しを許可しよう」


「私はレンタル専用じゃないんだけども」


「……販売の予定があるのか、ひづり。相手は誰だ。パパの知ってる生徒やつか」


 急に深刻な顔になって目の前に正座した父に、ひづりは思わず、ふふ、と笑ってしまった。


「貸し出しとか言うからでしょ。生憎、相手なんて居ませんよーだ」


 ひづりは甘夏の肩に隠れると、舌を出して父にあっかんべーをして見せた。


 父は心の底から安堵した様子で正座を解くと胸に手を当てて大きなため息を吐いた。


「そうか……よかった……。うん。ひづりはこれからもずっとパパと一緒に居てくれるもんな」


「いやいや、非売品扱いでお抱え在庫になる気はないよ」


「……予約が入っているのか、ひづり。相手は誰だ。パパの知ってる生徒やつか」


「誰でもないって言ってんだろ!! 悲しくなるからやめろ!!」


 ひづりは甘夏の背中におでこをくっつけてキレた。来月で十七歳。花の女子高生ともありながらこれまで一回も恋愛した事無くて、お父上様にはまっこと申し訳のぅ思っておりますともさ!!


「……ゆーくん? ひづりちゃんだって、ちゃんと女子高生してるのよ? たまたま、まだひづりちゃんと肩を並べて歩けるだけの良い相手が居ないだけよ。無理に聞き出したり、催促しちゃ駄目よ? それにひづりちゃんが認めた相手なら、心配要らないでしょ? ひづりちゃんは賢いもの。ゆーくんの子供だもの」


 そう言うなり甘夏は体を捻ってひづりを捕まえると、その頭を自身の膝の上に転がした。


「ね? ひづりちゃんも頑張ってるものね」


 優しくて暖かい笑顔のままに甘夏はひづりを認めてくれた。


 ひづりは無言で甘夏のお腹に顔を埋めた。


「あらあら、うふふふふふ……」


 彼女は姪の頭を撫でながら、ついでに弟に対して勝ち誇ったように笑った。




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