第13話 『悪魔の愛した変名』





 《ベリアル》と名乗ったそいつは、まるで作り物のように整った中性的な顔立ちをしていた。


 戦車の端に片足を乗せてこちらをじろりと見下ろしているその身長はおそらく二メートルを超えており、真っ黒な背中の翼とは正反対のその青白い顔には悪鬼の如き怒りの色が一切隠す様子も無くありありと現れており、深い皺となって刻まれていた。


 その迫力たるや。立派な甲冑の二頭の黒馬と、白い炎に覆われた巨大な戦車などまるでただのおまけであるかのようだった。その周囲をぐるりぐるりと舞い続ける無数の黒い羽根もそいつを非現実的な存在としてひづりの眼に焼き付けていた。


 このような外見の存在に、ひづりは心当たりが一つしかなかった。


 《悪魔》。そしてその背中の鳥のような翼や美しい顔立ちは、おそらくは《堕天使》と呼ばれている方のものだと推察出来た。


 ただ、それでもその《ベリアル》の姿は、およそ今までひづりが見て来た《悪魔》と雰囲気が違い過ぎた。カリスマを有していながらもその外見は可愛らしく、美しい天井花イナリ。子供のような《フラウ》。唯一外見的に《悪魔》らしいのは《ヒガンバナ》だったが……何も知らないひづりでも全身の産毛が逆立つようなその張り詰めた感覚で理解出来た。


 この《ベリアル》はおそらく、彼の《ソロモン王》の――。


「恐怖より、驚きと戸惑いで頭が回らぬということか。言語も失った訳ではあるまい。では良いだろう。己らの罪の懺悔に付き合ってやろう。我がかつて《天使》であった事に感謝することだ」


 やはり《堕天使》。そういえば岩国城で天井花イナリは言っていた。悪魔はその《角》の大きさで《魔性》が決まる。《天使》にはそれが無い。目の前の《ベリアル》にはその《角》らしいものがない。《天使》から《悪魔》へ堕ちたからなのだろう。


 だが、かつて《天使》だとこいつは言ったが、その面影などほとんどなかった。絵画に描かれているような後光も、白い羽根も無い。


 何より慈悲の欠片も見受けられない、その感情を抑えきれていない憎悪と憤怒で歪みに歪んだ表情と殺意に満ちた眼差し。


 あまりにも自分たち人間と違う光を《ベリアル》はその眼に宿していた。そもそもひづりたち人間を見るその眼差しの奥に、相容れるための何かが見えない。話し合うことも懺悔も許すが、最終的には必ず殺す、というそれ以外の意思を感じられない。憤怒に燃え上がりながらも冷たく、暗い、そんな眼差しをしていた。恩讐に囚われ、臓腑を憎しみに焼け爛れさせた者の相だった。


 故にひづりは、自分はいま生まれて初めて本物の純正の《悪魔》を見たのではないか、と気づかされていた。


 《悪魔》。そうだ。天井花さん、和鼓さん。ひづりはもう一度周囲を見渡した。けれどやはり二人の姿は無い。どこにも、何も言わず、気づいた時にはすでに境内の入り口で煙のように消えてしまっていた。ちよこが右肩を打ち抜かれた瞬間から。


 そこでひづりは、先ほど《ベリアル》が言ったことをようよう思い出した。




『いや、もう《元・契約者》だな。《契約印》をブチ抜いてやったのだからな……』




 《契約印》。召喚者と、召喚された《悪魔》とを繋ぐ、《契約》のしるし。そのものは体内に刻まれる故に外側から肉眼では確認出来ないが、魂のやり取りを交わした人間の体に刻まれるという、《悪魔》と繋がりを持った者のしるし。


 ブチ抜いてやった……? 《元・契約者》……? そこまで頭で繋いだところで、ひづりは改めて、《ヒガンバナ》が言ったことの意味を理解した。


 《彼女たち》は、この《人間界》から《退去》した、と《ヒガンバナ》は言った。《契約印》は、召喚者と《悪魔》とを繋ぐ約束の印だ。ブチ抜いた。《元・契約者》になった。それはつまり。


 ひづりは、サトオに抱きかかえられたまま千登勢の小さな《魔方陣》によって行われている《治癒魔術》を受ける姉のちよこを見た。その、血まみれの中心に空いた肩の穴の場所を。


 吉備ちよこの《契約印》は右肩にあった。そして先ほど、この《ベリアル》によってそれが打ち抜かれ、破壊されたことで、ちよこと天井花イナリたちを繋いでいた《契約》が切断され、《彼女達》が《人間界》に留まることが出来なくなった。


 そういうことだった。ひづりは理解して、体中から力が抜けていくようだった。


 帰った……? 天井花さんと、和鼓さんが。《魔界》では片や王で、片や《下級悪魔》。二人の絆を裂いたその世界に、二人はまた戻されたと……?


 にわかに脳と心臓が燃え上がるのをひづりは感じた。歯を食いしばり、拳を握り締めた。


「……懺悔……だぁ?」


 ひづりは姉の傷口にタオルを当てたまま《ベリアル》を睨み上げた。


「さっきから聞いていれば……相応しくないだの、劣等種だの、悪行だの償えだの……何様だてめぇ!! 返せよ!! 天井花さんと和鼓さんを!! 二人には《人間界ここ》が必要だったんだ!! つらつらと手前の勝手な都合ばっか並べやがって……。不意打ちで一方的に奪った奴が何を正当ぶってやがる!! 返せよ!! 二人の生活を今すぐ、ここに返せ!!」


 かつてこれほど激昂した事があったかというほど、ひづりの喉は凄まじい声量でばりばりとまるで獣のように吼えた。


 睨みつけていた《ベリアル》の下瞼が不意に、ぴくり、と痙攣した、と、ほぼ同時にその右手がにわかにひづりへと向けられた。




 ドンッ。




「――があぅっ!」


 刹那、ちよこの右肩を貫いたあの鈍い音が鳴った。それが今度は、ひづりの眼前に飛び出した《ヒガンバナ》の胸に突き刺さって。


 ひづりは一気に血の気が引いた。


「《ヒガンバナ》さん!?」


「《ヒガンバナ》!?」


 千登勢は特に悲鳴にも近い声を上げた。


 《ヒガンバナ》の胸に突き刺さったそれは、やはり《ベリアル》の周囲を舞う黒い羽根の一枚であった。《ベリアル》が腕を上げた瞬間、一瞬ちかりと光って見えたのは、どうやらその先端の白い小さな炎が起爆剤の役割を果たして黒い羽根を、まさに銃弾の要領で発射している故のようだった。


 千登勢とひづりの声を背に、《ヒガンバナ》は胸から血を滴らせながら膝をつき、おもむろに《ベリアル》にまるでかしずく様にした。


 《ベリアル》は顎を上げると更に見下すようにして言った。


「人間の小娘よ。口を利く許可など出した憶えは無いぞ。今ので死ぬべきだった不敬だ。……それより、己……白面の《下級悪魔》よ……? 己、何を《勝手に》動いたのだ……? 我が、この王が、低俗な人間への躾をしてやろうと言うのに、今、邪魔をしたのか……? 己程度の《下級悪魔》が……? それにその白狐の面……この国の《神性》のものではないか……? ハァそれでは己にも躾が必要なのだろうかなぁ!?」


 《それ》はじわじわと燃え上がっていく炎のようにその怒りを吐露した。


 戦車が前進し、勢いよく振り上げられた黒馬の前肢が、かしずいていた《ヒガンバナ》の頭を思い切り踏みつけて石畳に叩きつけた。石畳が、狐の面が割れ、血しぶきが散らばる。


「……も、申し訳、ございません……《ベリアル》様……。お許しを……何卒、この人間達のお命だけは……お許しを……」


 続けざまにぐりぐりと蹄に踏みつけにされながら、しかし《ヒガンバナ》は懇願を始めた。


「わたくしめのこの命、あなた様にお捧げ致します。我が身は頑丈だけが取り柄なれば……。煮るなり焼くなり、轢くなり千切り棄てるなり、如何様にしてもお楽しみ頂けます……。ですから、どうか、この人間達の命だけは、どうかお助けくださいませ……」


 ひづりは背筋が凍るようだった。《ヒガンバナ》は今、『自分の命を差し出すから、ここに居る人間たちの命は見逃してほしい』と言っているのだ。自分の命を投げ打つ嘆願をしているのだ。


「《ソロモン王の七二柱の悪魔》に於いて……数多の王の中でも、勇猛にして最強なる八十の軍勢を持ち……大戦時には誰よりも栄えある素晴らしき功績をお挙げになった、偉大なる王の中の王……《ベリアル》様……。あなた様に殺して頂ける事以上の名誉はありません……。ですから何卒、何卒この我が命、どうかあなた様の心行くまで遊楽に用い下さいませ……!」


「駄目です! そんなことやめてください! 《ヒガンバナ》さんが命を投げ出すなんて、そんなこと!!」


「ひづりさま!」


 叫んだひづりに、《ヒガンバナ》は制止する声を張った。


「あなたさまには今出来ることはありません。死ぬべきでもありません。ここはどうかわたくしにお任せください、どうか、抑えてください……!」


 踏みつけにされた《ヒガンバナ》の丸まった背を見つめたまま、そんなこと、そんなこと……とひづりはしかし実際に無力な自分が悔しくて、先ほどまでの怒りの火がにわかに弱まってしまうようだった。


「な、なぁ《ベリアル》!? もういいよ! もう充分だよ!」


 その時、にわかに聞きなじみの無い……いや違う。一度だけ聞いた覚えのある汚い声が境内に響いた。


 声の主は神社の柱の陰の方から飛び出して《ベリアル》の元へと駆け寄った。


 《ベリアル》の視線がおもむろにそちらを睨むように動いた。ひづりの視線も必然、そちらへ向く。


 ばたばたとした無様な走り方。やはり見覚えがある。その顔にも、髪型にも、その緑色の上着にも。


 あの日、和鼓たぬこの菓子を侮辱して、天井花イナリに舌を切られそうになっていた、いつかのクレーマーの中年女だった。


「もういいよ! 確かに和菓子屋の連中を痛めつけてくれって言ったけどさぁ……こ、ここまでするとは思わなかったんだ! もう、もう充分だって! ほら、そっちの店主の女もう、し、死にそうだしさぁ……!?」


 ……私たちを痛めつけろ? この女が、この《ベリアル》という《悪魔》にそう命じたのか? 《契約》をしたというのか? この女が……? 怒りも湧いたが、それと同時にひづりは疑問が浮かんだ。《召喚魔術》には十分な知識と金銭的な準備が必要だと聞いていた。この女に、そんなものが……?


「それに、あ……む、無関係の境内に居た人たちまで、あんなむごい……。い、いやだよあたしは! 逮捕されるなんて絶対――」


 そこまで言ったところでにわかに《ベリアル》の羽根が一枚風を切り、中年女の足首に突き刺さった。ひづりの体もびくり、と震えた。


「ぎゃあっ! いっ、痛ああいいい……! ひい、ひいああ……」


 女は足を押さえて転がり、石畳の上でもんどりうった。


「……誰が喋って良いと言ったのだ? 《魔術師》でもない、仮初の、ただの《願望契約者》風情が。己は黙って、我が魂を奪うまで隠れて大人しくしていろ」


 ひづりは《ベリアル》に視線を戻した。聞きなれない単語が出た故だった。


 《願望契約者》……? 何だ、それは。《契約者》と何が違うんだ?


「願いを果たしてやるまでは生かしておいてやると言ったはずだ。それまでは殺さんが……だが王に対する敬意を欠いた言動は一つにつき一枚、我が羽根がその肥え太った醜い体を針刺しにすると思え、豚女。……失せろ」


 彼女の足元に《転移魔術》の《魔方陣》が現れ、にわかにその体が消えたかと思うと、次には神社の遠く隅の方に同じ《魔方陣》が現れ、まるで放り捨てるように彼女をそこへ落として転がした。


 ふん、と鼻を鳴らすと《ベリアル》は再び踏みつけにしたままの《ヒガンバナ》を振り返って見下した。


「して、己。話の続きだが……ならん。己らは全員殺す。我がそう決めたのだ。変更はない」


 馬の前足がにわかに《ヒガンバナ》の頭を蹴り飛ばした。彼の二メートル近い巨躯が転がり、石畳に血の跡が描かれる。


 戦車がまたひづり達の元へ一歩進んだところ、再び《ヒガンバナ》は前へ出て馬の脚へとしがみついた。


「あなた様の偉大なる一撃によって《ボティス》様の《契約者》に在る《契約印》は完璧に破壊されました! あなた様の完全なる勝利で御座います! 我が《ボティス》王の敗北で御座います! 王に勝利した後に、御身自ら人間を屠るなど、あなた様の功績に――」


「……《ボティス》?」


 《ヒガンバナ》が口にしたその名前をひづりは思わず繰り返すように呟いた。どこかで聞いた名だ、と思った。そこで思い出した。


 あの日、図書室で百合川がネットで調べてくれた時に出て来た《悪魔》の名前だ。だが、不思議な事にあの時は何も思わなかったはずのその名が、何故か今はひづりの耳の奥へと爽やかに通っては暖かく心地よい残響となって胸に残った。


 この感覚は……? 目の前で起こっている事態が出し抜けにすべて消えてなくなって、自分が真っ白な世界に取り残されたかのようなそんな不思議な感覚に包まれ、ひづりは最後に妙な体の疼きを感じた。


 しがみつく《ヒガンバナ》の頭を踏みつけていた馬の脚がふと止まり、《ベリアル》が顔を上げた。


「……何だ。己、奴の名も知らんかったのか? これは……何という侮辱か。やはり生かしておくことはならぬな劣等種……」


 再び怒りの炎を灯した眼差しで《ベリアル》はひづりを睨んだ。見返すひづりは我に返り、歯を食いしばった。


「そこな吉備ちよことかいう女とつい先刻まで《契約》しておった《悪魔》の名は《ボティス》……。かつて《ソロモン王》に名前を授かった事を喜びながら、あの二枚舌は……この《人間界》に来れば今度は天井花イナリなどと人間から与えられた名を喜んで使い、加えて運よく《人間界》へ召喚されると知った時にはいきなり『召使いに《下級悪魔》を一匹連れて行く』などと抜かして、王としての自覚を捨てた勝手な振る舞いをし、そうして誇り高き《七二柱の悪魔》でありながら貴様ら人間と一緒になって人間のこま使いなどしておった、我々と同属であるなど腹立たしいほどに恥を知らず秩序も持たぬ、極めつけに《人間の仲たがいを治める》などというふざけた権能しか持たない、ちょろちょろと鬱陶しいだけの惨めな蛇女だ!!」


 その青白い顔に激情を燃え上がらせ、《ベリアル》は続けざまに罵りの言葉を叫び上げた。


 《ボティス》。それが天井花イナリの、本当の名前。《悪魔》としての名前。三千年前、《ソロモン王》から貰ったという、本当の。


 不意に《ベリアル》の戦車が数メートルばかり下がった。


「がはっ!! ぐっ! うっ……」


 一、二、三、と、《ベリアル》の手のひらから黒い羽根が三枚飛び、《ヒガンバナ》の体に突き刺さった。


「《ヒガンバナ》!!」


 千登勢が悲鳴を上げて彼の元へと駆け寄った。


「……ああ、そして《下級悪魔》よ……。どれだけ言っても分かっておらんようだから教えてやろう。……理解出来るならばであるがな」


 淡々と説明するように語り始めた《ベリアル》を乗せたまま、おもむろにその戦車は再び宙に浮き始めた。


「我は己ら、《ボティス》に関わった全てを破壊しに来たのだ。怠惰にも人間に媚を売った《ボティス》を《魔界》に連れ戻し、《悪魔》の王としての自覚を取り戻させ、そして《ボティス》を堕落させた己らを罰しに来た……。身代わりになるから見逃せ? ハッ、冗談にもならぬ。あまりに的外れが過ぎよう。初めから我は己も殺すうちに入れておったのだ。それに、命乞いだと……? 一体誰に向かってそのような軟弱な行為を期待しておるのだ。この我を誰だと思っておるのだ!!」


 《ベリアル》の戦車が上空十メートル程の位置で静止すると、今度はその車輪が急速に回転を始めた。噴出す炎は量を増し、馬の蹄や甲冑までもが白い炎に包まれていく。


 《ヒガンバナ》は《ベリアル》を王と言った。持ち上げる意図があってのことだろうが、《悪魔》の中の《悪魔》だ、とも。だがそれに相応しいよく響く威圧的で高圧的で暴力的な怒号を《ベリアル》は上げた。


「我が名は《ベリアル》!! 王の中の王にして、戦いと蹂躙を尊ぶ《悪魔》!! 《ソロモン王》と関わり落ちぶれた愚かな同属共を粛清する者なれば!! 今日この日を以って、《人間界》に上がり平和呆けした愚か者の《ボティス》めを《魔界》へと叩き落した!! よってこれよりその締めくくりとして、奴を軟弱にしたこの地に住む罪深き人間共を――」


 天に向けられていた《ベリアル》の右腕が下ろされ、ひづり達へと向けられた。


「――皆殺しにする!!」


 浮遊する二頭の馬が中空をまるで大地の様に駆け、《ベリアル》を乗せたその燃える戦車がひづり達の元へと一直線に馳せた。


 轢き殺される。それがはっきりと理解出来る頭でひづりは一人、絶望的なほどの《後悔》に苛まれていた。


 ――何が覚悟だろうか。何が決意だろうか。自分は始めから、《彼女達》の土俵にすら上がれていなかったのではないか。悔しさで涙が滲んでいた。


 もし、姉に少しでも《魔術》の事を教わっていれば。天井花さんに、《悪魔》への対抗方法か何か、教わっていれば。ああ、だが遅い。もう何もかも遅い……。


 向かってくる《ベリアル》の戦車の突進の一撃で自分たちは全員爆破するように焼き殺されるのだろう。姉も、義兄も、叔母も、その《悪魔》であり、身を挺して守ってくれていた《ヒガンバナ》も、皆。


 悔し涙を流しながらひづりは歯を食いしばり拳を握り締めた。もう《ベリアル》の事など意識の外にやってしまったらしく、千登勢は瀕死の《ヒガンバナ》のそばでその名を泣き叫びながら必死に《治癒魔術》を掛けていた。青ざめた顔でひどく汗を掻いているちよこを抱くサトオの眼差しも今はもうどうしようもないその死をもたらす白い炎の戦車を見上げて光を失い、最期の時と見て、腕の中の妻の顔へとその視線を向けた。








 ――封鎖された境内に轟音が響いた。








 雷鳴の様なその爆音の残響が消えた頃、衝突の瞬間に咄嗟にうつむいて瞑られていたひづりの瞼がおもむろに開かれた。すり潰されたと思ったその体はまだ石畳の上に座り込んでいて、右手はサトオと共に姉のちよこの左手を握り締め、意識はその頭蓋の中に残されていた。


 ひづりは、まだ世界を見る事が許されていた。




「「――貴様に役目があると言うのなら、《わっちら》にも成さねばならん事がある」」




 不意に前方から聞き覚えのある可愛らしい声がステレオ音声のようにぴたりと重なって力強く響き、ひづりの鼓膜を震わせた。


「な……!? お、おのれ、己ら、何故……!?」


 初めて耳にしたその《ベリアル》の戸惑う様な声にそっと視線を上げたひづりは涙で滲んだ両目で《それ》を見た。


 ごうごうと燃え盛る、紫苑と緋の色を持つ二つの炎を。


「はぁ、はぁ、間に合ってよかった……」


 続いて背後からも声がした。こちらも聞き覚えがある、人に安心感を抱かせる優しい声音……。


「凍原坂さん……!」


 ひづりは思わず表情がほころんで、浮かべていた悔し涙は一度に嬉し涙へと変わった。


 走って来たのだろう。凍原坂は掻いた額の汗をぬぐいながら強がって笑って見せた。


「もう大丈夫。あまり上手には出来ないだろうが、《治癒魔術》ならちよこさんから少し教わっているから……!」


 彼はサトオとちよこのそばへすぐさま駆け寄ると、手から小さな《魔方陣》を作り出した。それがゆっくりと動いてちよこの血に濡れた右肩を透き通って輝いた。


「己!! 一体どうやって入って来た!! 《フラウロス》!!」


 絶叫に近い、戸惑いが大いに混じったその咆哮が《ベリアル》の口から放たれた。


 しかし宝石のようにギラついたその左右で異なる輝きを湛える《二匹》の双眸は《ベリアル》の怒号を真正面から受け止め、返した。


「久しぶりでずいぶんな挨拶ではないか、《ベリアル》。にゃはぁん」


 《フラウ》と《火庫》。彼女たちの腕が燃え盛る二頭の馬の首にその鋭い爪を食い込ませ押さえ込んで戦車の動きを完全に封じ込めていた。




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