『攻略戦争』     2/5




「────はぁ……、はぁー……ぐ、は……はぁー……」


 不愉快な冷たさが右頬にあった。硬い金属の地面に横たわっている事を理解した。口内は喉の奥まで乾燥していて、それが酷い吐き気と息苦しさを催していた。


 少しだけ頭を動かした。視界はぼやけており、何かに焦点が合うまで嫌に時間が掛かった。


 やがて連続する衝撃音に気付いた。白い鞭のようなものが忙しなく動いて、空中を飛び交う何かを弾き続けていた。


「…………はっ!」


 そこではっきり覚醒し、ひづりは瞬きをした。


「があっ!! あぁ、ああっ……!!」


 同時に痛みも蘇り、咄嗟に右手で左肩の辺りを押さえて身悶えた。


「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……!」


 右肩を下にした格好で動きを止め、ひづりは恐る恐る自身の左腕を見た。


 やはり、無くなっていた。何故か出血は止まっていたが、それ以外は気絶する前と全く同じ状態の、斜めに切断された短い左腕がそこにあるばかりだった。


 「何が起こったんだ、一体何がどうなってこんな事に……」と夢中で思い出そうとして、しかしひづりはすぐ「違う。重要なのは、今どうなっているのか、だ」と考えを改めた。


 なるべく左腕が痛まないよう最小限の動きで体を捻り、天井花イナリの方を見た。


 彼女は凍原坂の尻に跨る様な格好でしゃがみ込み、《治癒魔術の魔方陣》を描いた左手を彼の背に当てたまま、左側から飛んで来る矢は自在に動くその白髪で、右側から来る矢は右手の《剣》で叩き落し続けていた。《火車》は体を丸め、凍原坂の頭を覆うような体勢でうずくまっていた。


 良かった、二人とも生きてる。ひづりはそれを確認してひとまず安堵した。


 だが。


「て、天井花さん……!?」


 霞んでいた目を凝らしてよくよく見てみると天井花イナリの背中と右足にはそれぞれ矢が一本ずつ突き刺さっており、貫通した矢尻の先端からはぽたりぽたりと血が零れ続けていた。


 ひづりは段々と思い出して来た。激痛で何も分からなくなっていた間に起きた、この場での出来事を。


 左腕の肘から先を吹き飛ばされたひづりは慄いて倒れ込み、激痛に我を忘れ、右腕の《防衛魔方陣術式》も消してしまった。天井花イナリはそんなひづりの襟首を掴んで引き寄せると凍原坂の《治癒》を一旦中断してひづりの腕の傷を塞ぎ始めた。それと同時に《主天使》たちは密集陣形を解いて素早く散開し、瞬く間に《檻》を中心とした包囲陣形をとり、同士討ちをしないようにかそれぞれ三メートルほどの高さまで飛び上がってから天井花イナリに対する継続射撃を再開した。ひづりの止血を終えた天井花イナリは引き続き凍原坂の《治癒》をしながら自身の髪と《剣》で迎撃を行ったが、ひづりの《防衛魔方陣術式》を失った状態で始まった《主天使》たちによる全方位からの攻撃に対応し損ね、負傷してしまった。


「すみ、ません、すみません、私の、せいで……!」


 任せると言ってもらったのに、左腕を失ったくらいで右の《盾》まで消してしまうなんて、私はなんて根性無しなんだ、とひづりは恥ずかしくてたまらなくなった。


 しかし天井花イナリは淡々とした調子で早口に答えた。


「案ずるな。この程度で死にはせん。それよりひづり、《盾》はまだ張れるか。一枚、先ほどと同じ方角で良い。そうすればその分わしの髪の護りもいくらか厚みを出せようし、凍原坂の《治癒》にも意識を向けられる」


「は、はい……!」


 そうだ、護るのは私の役目だ、泣き言なんて漏らしている場合ではないのだ。ひづりは一つ鼻を啜ってから右腕だけでどうにか体を起こし、天井花イナリの髪束の間から手のひらを突き出して《防衛魔方陣術式》を展開させ、上空の《弓弩兵》たちに対応すべく傘のように斜めの角度で構えた。絶えず左腕はずきんずきんと痛んだが止血と同時に痛み止めもしておいてくれたらしく、《魔方陣》一枚程度なら維持するのにさほど不便は無かった。


 しかし、先ほどと比べひづりの《防衛魔方陣術式》を打つ《主天使》たちの矢の音は明らかに激減していた。それもそうだった。密集陣形でひづりの《盾》を一斉に攻撃していた先ほどまでと違い、今の《主天使》たちの陣形は《フラウ》の時と同じ包囲陣形で、それも明らかに天井花イナリを集中して攻撃している。ひづりの《盾》の防御範囲を狙ってくる《弓弩兵》は五人程度で、残りの二十人程は全員天井花イナリの髪と《剣》が迎撃を担当する位置に矢を降らし続けていた。矢の弾幕が厚い方を代わってあげたくても、ひづりの《防衛魔方陣術式》は触れると天井花イナリの髪や体を焼き焦がしてしまうため、うかつに方向転換も出来ない。とても良い状況とは言えなかった。


 加えて。


「ぐう……!」


 左腕を切断され大量に血を失ったせいかひづりの頭の中にはずっとぐるぐると天地が回転するような感覚があり、視界はぼやけたまま、天井花イナリの《治癒》によって一度は緩和されていた痛みと吐き気は再びじわじわと主張を強め始めていた。


「はぁ、はぁ……」


 ちらり、とひづりは改めて左腕の傷口を確認した。上腕から前腕の中ほどまでが鋭利な刃物で斜めに削ぎ落とされた様になっており、二の腕の辺りではむき出しになった脂肪が白くつやつやと逆立って、そこから零れた幾つかがあたかもご飯粒よろしく胸や脇腹にぺったりと付着していた。自分の体内にあった物のはずだったが酷く汚らしく思えてひづりはすぐに顔を背けた。傷の具合を把握するためだったとしても自分の腕の中のこんなグロテスクな様子なんて本当に見るべきではなかったと後悔した。


「……痛むであろう、ひづり」


 凍原坂の《治癒》と矢の対処をしながら天井花イナリが小さな声で言った。ひづりは上手く呼吸が出来ず、すぐに返事が出来なかった。


「お主の歳の《魔術師》にその様な傷を負わせたまま《魔術》を使わせるべきではないのじゃが……すまぬ、この事態はわしの不手際故じゃ。お主の腕を射た矢はお主の背後、わしの正面から飛来した。後で謗りは受ける。そのためにもどうか今は耐えてくれ」


 そう言われ、そういえばあの時自分は左腕を前に引っ張られるような衝撃を受けてつんのめったのだ、とひづり思い出した。傷も、左前方に突き出していた左腕の肘側から親指側へ向けて走っている。真後ろから狙撃された、という事だった。


 だが、天井花イナリはこう言うが、たとえ《治癒》に意識を向けていたからといって真正面から飛んで来た矢にまるで気付かないなんて事があるのだろうか、とも思えた。


 すると彼女は悔しそうな声で続けた。


「言い訳にしか聞こえんかもしれんが、お主を射た矢はどういう訳かこの《檻》の中に入って来るまで《見えん》かった。出し抜けに目の前へ現れ、対処をし損じた」


「見え……なかった……?」


「ああ。奴ら、やはりまだ明かしておらん手があるらしい。射落とされた後、お主の左腕は《檻》の外へと転がって行き、霞の中へ隠れた。繋ぎ合わせて縫合するためすぐに捜したのじゃが、しかし伸ばせる範囲どれだけ髪を伸ばしても何故かまるで見つけられんかった。転がり落ちた勢いで何十メートルも向こうへ行く訳は無い。情報が少ないゆえ確証は無いが、わしにも感知の出来ぬ高位の《不可視》か《認識阻害》で身を隠しておる《天使》がこの《檻》の周囲に居って、それがお主を撃ち、転がった腕をこっそり盗んだのではないか、とわしは見ておる」


 伏兵。ひづりは周囲をもう一度見回した。綿毛のような霞が敷き詰められた足場、全方位には武器を構える《主天使》、そして彼方の青空。霞は十センチから二十センチ程度の高さしか無いのでそこに《主天使》が何人も隠れて行動出来るとは思えないが、しかしこの《神のてのひら》という足場自体がそもそもこちらの知識に無い、全く初めて見るものだった。天井花イナリの言うような、彼女の感知を無効化するほどの強力な《不可視》を《主天使》たちに付与する固有の《能力》が備わっている可能性だって否定は出来ない。


 だとしたら。


「次に飛んで来るその《直前まで見えない矢》も、防ぐのは難しい、って事ですよね……」


「……そういう事になる」


 くそっ……! ひづりは苦虫を噛んだ様だった。


 《不可視の矢》は恐らく次もひづりの腕を狙って来る。《防衛魔法陣術式》が使える残りの右腕を、だ。そうしてこちらの《盾》を完全に使用不能にしてしまえば、後はもう《主天使》側にだけ有利な持久戦が始まる。一人で全方位を護らなくてはならなくなった天井花イナリは凍原坂の《治癒》に意識を向けられなくなり、やがて凍原坂は絶命し、《フラウロス》の再召喚は果たせず、こちらの打つ手は完全に潰える。


 凍原坂の傷はまだ癒えきっていない。内臓の治癒を優先しているのか裂けた服の合間から見える傷口はぱっくりと開いたままで、同じく繋がっていないらしい肋骨もそれぞれあらぬ方角を向いて皮膚を歪に盛り上げていた。心肺蘇生法が行えるのはまだまだ先の様だった。


 あれから何分が経っているのだろう。途中意識が混濁していた上に腕時計をしていた左腕は切断され紛失してしまったため確認のしようが無かった。天井花イナリが《治癒》を継続している以上まだ蘇生可能時間を過ぎていないのは確かだろうが、ひづりは増し続ける左腕の痛みもあってひどく不安で落ち着かなかった。


 油断があったのではないか、とひづりは自身を省みていた。先ほど《主天使》たちがとっていた密集陣形をひづりは『主天使たちの護りの姿勢から出た甘えの行動では』と判じたが、しかしあれから更に追い詰められた現在の状況を見れば、あれはこちらに「どうにか対応出来る」と希望を持たせ油断をさせるための印象操作だったのではないか、《指揮》が見せた『ボティス王だけは絶対に殺す』というあの剣幕も『主天使の狙いは天井花イナリだ』とこちらに思い込ませて《不可視の矢》をひづりの腕に当てやすくするための演技だったのではないか、と思えた。


 こうなってしまった以上もうこちらの行動は全て《主天使》たちの掌の上だった。《契約者》が先に死んでしまい討伐目標の《悪魔》を喪失する、という《フラウロス》の時と同じ轍を踏みたくない《主天使》たちは次の《不可視の矢》による攻撃の際も必ず《弓弩兵》たちの矢の弾幕を一旦中断する。そうしないと《不可視の矢》がひづりの右腕の《防衛魔方陣術式》を破壊した瞬間、生物としての強度の差から《弓弩兵》たちの弾幕はひづりの方を先に殺してしまい、天井花イナリを取り逃してしまうからだ。《ソロモン王》から譲り受けたという例の宝物は彼女の《転移魔術の蔵》の中に収められている。強奪するためにはこの場で彼女を絶命させ、《転移魔術の蔵》を開放させなくてはならない。奴らとしては絶対に《契約者》の方を先に殺す訳にはいかないのだ。先ほどひづりの左腕を射る際に《弓弩兵》たちの攻撃がぴたりと止んだのはそうした展開を恐れての行動と見てまず間違いなかった。だから《不可視の矢》が飛んで来る兆し自体はそれで分かる。しかし問題は『弓弩兵たちの攻撃が止んだからと言って、本当に不可視の矢がすぐに飛んで来るとは限らない』という点だった。《弓弩兵》たちの攻撃が止んだ瞬間、天井花イナリは《不可視の矢》の対応に意識を向けざるを得なくなり、凍原坂の《治癒》がまた中断される。その時、《主天使》たちは《不可視の矢》を撃っても良いし、撃たなくても良いのだ。いつまでも撃ってこなければ天井花イナリは凍原坂の《治癒》に当たれず、やはり凍原坂蘇生までの残り時間は奪われる。


 本当にうかつだった、とひづりは強く奥歯を噛み締めた。本来ならまだ《主天使》たちの隠し玉や搦め手に対する警戒心を持っておくべきだったのに、《主天使》たちの陣形判断は甘く、《防衛魔方陣術式》は矢の弾幕を防ぎきり、更には──すでに《主天使》たちに悟られているかは分からないが──凍原坂の蘇生によって《フラウロス》を呼び戻せるかもしれない、という安堵と希望につい気が緩んでしまっていた。自分の甘さ一つで皆の命が危険に晒されるかもしれない事くらいもう十分過ぎるほど分かっていたはずなのに……。






 ──凍原坂さま……凍原坂さま……!






 凍原坂の頭に覆い被さったまま《火車》がすすり泣いていた。他でも無い《死者を扱う妖怪》ゆえか、彼の目の前まで迫った不可逆の死を繊細に感じ取っている様子だった。


 ちくしょう、凍原坂さんを絶対に護るって、《火庫》さんとも夜不寝さんとも約束したのに……。ひづりの両目にまたじわりと涙が滲んでいた。状況判断が甘く《魔術》もろくに使えない自分などではなく、優れた《魔術師》だったという母が今も天井花さんの《契約者》としてこの場に居てくれたなら、と、そんな風に思わずにはいられなかった。


 天井花イナリは以前、『万里子のやつは十枚以上同時に、また大きさも自由に防衛魔方陣術式を展開出来ておった』と気に食わなさそうに話していた。十枚以上同時に発動出来る《防衛魔方陣術式》。その部分だけ見ても今この状況をくぐり抜けるには十分に違いなかった。こんな風に《天使》たちからの襲撃を受けたとしても、母ならきっと幾らでもどうとでも出来たのだ。


 勿論ひづりも、自分ではなく母だったら、なんて、今更そんな事を考えたってどうしようも無い事くらい分かっていた。それでも尚そう思ってしまうほどひづりは天井花イナリの《契約者》としても《火庫》や夜不寝リコの同僚としても何一つ期待に応えられない自身の未熟さが憎く、堪らなかった。視界が滲んでは《防衛魔方陣術式》の精度が落ちると分かっていたが涙は後から後からぼろぼろと溢れて来た。






『……ぱち、ぱち、ぱち、ぱち』






「ッ!?」


 その時、突然一人分の拍手の音らしきものが《檻》の中に響き渡った。《弓弩兵》たちの矢と天井花イナリの《剣》がぶつかり合う衝撃音をものともしない、スピーカーを通した様な大音量だった。






『驚かされたよ、官舎ひづり。てっきり《魔術》を習い始めたばかりの未熟な小娘だと思っていたが、なかなかどうして……。左腕を半分以上削ぎ落とされた状態でまだ《防衛魔方陣術式》を展開出来るとは、さすがは《ボティス王》が認めた《契約者》……ということなのかな』






 拍手の音に続いて聞こえて来たのは得意げな《指揮》の声だった。








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