『悪くないじゃないか』




 殴られるだろうなとは思っていた。それはもうしこたま。なので一応だが覚悟は出来ていた。


 ただ、平気ですかと問われれば、そんなことはまるでなかった。むしろこれから《グラシャ・ラボラス》に魂を取られて死ぬことよりも、百合川はこっちを後悔していた。


 官舎ひづりというこの一年半の図書委員を共に過ごしてきた女子生徒には、あるバイオレンスな噂があった。


 彼女と同じ中学校だったという生徒が言うには、同級生数人を竹刀で叩きのめして病院送りにしたという味醂座アサカと並び、官舎ひづりも当時は相当に危険な生徒で、校内外問わず、また老若男女問わず、何故か毎日の様に誰かと喧嘩をして痣を作っていたという。


 過去を知るという《グラシャ・ラボラス》から詳細を訊けば、どうやらそれは彼女の母親の体にあるという酷い傷跡が関わる事だと分かった。そしてそんな噂があって尚、彼女が普通に穏便な高校生活を送っている訳も理解出来た。


 官舎ひづりを《百合ハーレム》の中心人物として見極めていたが、それらの過去を知った事で百合川はより彼女の事を好きになってしまった。ちなみに言うまでもないだろうがこの好きは勿論恋愛的な好きではなく上質な《百合》を提供してくれる最高の相棒としての大好きである。


 そんな相棒を、自分は身勝手な目的のために苦悩させてしまった。《グラシャ・ラボラス》と《契約》してから過ごしたこの一ヶ月、胸にはずっと彼女に対する罪悪感があった。


 全てが終わった今、やはり彼女へ抱くのはこの上ない感謝の念と、そしてそれと同じくらいの申し訳なさだった。


「すまなかった、官舎」


 キレた時のラウラと同じくらいの恐ろしい形相で睨みつけてくる官舎ひづりを前に百合川の両足は震えたままだったが、しかし謝罪の言葉は驚くほどすんなりと飛び出した。


 ぴくりと官舎の眉が揺れた。


「俺の我侭のために、お前の家族や親戚の人たちに迷惑掛けて……すまなかった。本当に反省してる。だから思いっきり殴ってくれ。気の済むまで、全力で」


 それから百合川は彼女の言う通り舌をしまって歯を食いしばった。


 ただ、覚悟が出来ていても恐怖心は拭えていなかった。官舎ひづりには柔道の心得があって、喧嘩慣れしていて、また自分などよりもはるかに肝が据わっているのだ。


 だからたぶんめちゃくちゃ痛い。普通に歯とか折れるのだろう。百合川は眼前まで迫りそして立ち止まった図書委員の相棒が怖くてたまらず、つい両目を瞑った。


 真っ暗闇の中、しかしいつまで経っても百合川の体には衝撃も痛みも訪れなかった。


 不思議に思い、全身を強張らせたまま恐る恐る目を開けた百合川は、そこで呆気に取られて眼を見開いた。


 その大きな瞳で真っ直ぐこちらを睨みながら、官舎ひづりは泣いていた。


「馬鹿野郎……馬鹿野郎が……」


 彼女は握った拳を、とん、と百合川の胸に押し当てて来た。


「ああ、迷惑だよ。父さんや千登勢さんまで巻きこんで……。しかもその目的が《百合》がどうとか……。ほんとバカじゃないの。……でも、それがラウラの目的でもあって……甘夏さんや紅葉さんも、今まで母さんの事で苦しんでたことが、きっとこれからは少しだけでも良い方に変わっていけるんだと思うから……。だから、それは良いよ……見逃してあげる」


 そう言って静かに拳を下ろした。


「でも」


 改めて百合川の眼を見つめるとまた少しその目に涙を滲ませて彼女は声を張った。


「私が、心配したんだよ……!」


 その切実な声音に、表情に、百合川はどくんと心臓が跳ねた。


 眼が離せず、見つめ合う。


「最初に、百合川が死なずに済む方法は何かないかって、天井花さんに相談したんだ。……答えは一つだけだった。《契約》が不履行のまま、《グラシャ・ラボラス》を《魔界》に帰せばいい。そうすれば《グラシャ・ラボラス》が再召喚されない限り、百合川が魂を取られることはない、って。……でもそれは、召喚された《悪魔》が《魔界》に戻されるっていうのは、つまり、《グラシャ・ラボラス》が、ラウラが死ななきゃいけないってことだ、って……」


 ぎゅう、と官舎の両の拳が強く握り締められた。


「選べるもんか。ラウラにも、百合川にも死んで欲しくなかった。それにラウラは天井花さんの友達なんだ。天井花さんとラウラが殺し合うなんて、絶対に嫌だった。……そうしたら天井花さんが言ったんだよ。百合川も《契約者》なら、その覚悟があって魂を懸けているんだろう。決意のもとに行動している以上、同じ《契約者》としてそれを尊重するべきだ、って」


 肩で一つ大きな深呼吸をし、官舎はその顔から怒気を除いた。


「百合川。お前は分かっていて《契約》したって言ったな。《悪魔》と《契約》したら死ぬって、分かっていて。お前にとって《百合》ってものがどれだけ大事か、私は知らない。でもそうするだけの理由がお前にはあったんだろう。なら、きっと私には止められなかった。何も出来なかった。お前が死ぬ結末を、私はどうあっても変えられなかった……」


 彼女はしかめっ面になって、それから再び百合川に拳を突きつけると言った。


「でも、お前が今回の事で心配を掛けたのは、私にだけだ。お前が死んでも、アサカにもハナにも、ラウラとの事は伝わらない。お前が死ぬ理由も、全部、私しか知らない。もし、アサカとハナまでこんな気持ちにさせてたなら、絶対許さなかった。だから、一発だけ殴る。私に心配掛けた分だ」


 一つばかり鼻を啜ってから彼女は右の拳を引き、静かに腰を落とした。


 百合川は目が覚めるような想いだった。


 心配。官舎ひづりは、自分の事を心配してくれていた。こっちは死ぬ事なんてとっくに覚悟していたというのに、それでも助かる方法は無いか、なんて、そもそもそんなところから悩んでくれていた。


 一月前からラウラと二人で隠し事をしていた。こちらの思惑を知りようがない以上、彼女は今日だってひどく不安だったろうに。


 官舎の言う通り俺は馬鹿だ。欲に負けて、こんな最高の相棒を悲しませて。


「思い切り、頼む……」


 返せる言葉が見つからず、百合川はぽつりと零した。


「……分かった」


 官舎が短く言い放つとラウラによる拘束が解かれ、百合川は開放された。そして目の前が一瞬、真っ暗になった。


 視界が回転している。客観的にそんな事を思った直後、自分の体が何かにひどくぶつかって跳ね上がったのを感じた。回りに回った目がようやく落ち着いてきたところで、百合川はようやく自分が広場の土の上で寝そべっている事を把握した。


 殴られる瞬間がよく見えなかったため少々混乱していたが、どうやらその勢いでスッ転んだらしい。上下の感覚がないまま、百合川は両手を地面に立てて体を起こした。まだ世界はぐらぐらと揺れていたが、官舎やラウラを目で捉える事は出来た。


 と、そこで違和感を覚えた。


 ……あれ? なんか、距離が遠い……?


「アハッ。すっごい飛びましたね!」


 官舎の隣でラウラが愉快そうな声を上げつつ、ふらんふらんと体を揺らしながらこちらに近づいて来た。


 飛んだ……? ああ、殴り飛ばされた、って意味か。だからこんな距離がある、と。なるほど、本当に思いっきり殴ってくれたんだな、官舎。自分の体が吹っ飛んだ瞬間をちゃんと認識出来なかったのが何だかちょっと悔しい。


 ふと、左頬に触れてみた。歯医者で麻酔をした時の様な、妙なごわつきがあった。どうやらそこを殴られたらしい。


 最初何も感じなかったが、次第にじんわりと痛み、それから熱がこみ上げて来た。


 痛い。あ、痛い。これかなり痛い……。


 …………え……?


 いっったッ!? 熱っ、えっ、痛!? めっちゃ痛ッ!?


 うおおおぉいってぇええ!?!?!?


 左頬を押さえたまま、百合川は再び地面に倒れこんで無様にもんどりうった。


「あーらら、ふふふ」


 熱で赤らむ視界の中、落ちてきた声に振り返ると、ラウラが腰を曲げて覗き込むようにしながら愉しげな表情で見下ろして来ていた。


「かなり良いのが入りましたね。ひづりが殴り合いの喧嘩をしていた過去を見たことはありましたが、たぶん今までで一番良いストレートでしたね? まぁ止まってる相手なんだからそれはそうでしょうけど。しかし見事なものでした。二時間経ったら保存されたものが見られるようになるので、その時繰り返しで見させてもらうとしましょう、うふふ」


 そう言いながらしゃがみこんで彼女は百合川の左頬をつついてきた。やめてラウラさんこれ本当に痛いんです。想像してたやつの五倍くらい痛いの。


「立てないでしょう百合川。思いっきり顎に入ってましたから、盛大に脳が揺れているはずです。仕方ないですねぇ最後まで世話の焼ける《契約者》なんですからー」


 好き放題言いながらラウラは百合川の腕をとると首に回し、すっくと立ち上がってみせた。実際下半身にまるで力が入らない状態だったため助かったが、なんとも無様に過ぎて思わず百合川は左頬だけでなく顔中が熱くなるようだった。


 ラウラに引きずられ、百合川は官舎ひづりとその《悪魔》である天井花イナリの前に改めて突き出された。


「……ありがとうな。殴ってくれて」


 どうにか喋れるようになってきた口で百合川は伝えた。


 官舎は顔を逸らして眉根に皺を寄せた。眼や鼻はまだ赤らんだままで、気を抜いたらまた泣き出してしまいそうな儚さがそこにはあった。


 きっとこれでお別れなのだろう。もう互いに伝えるべきことは伝え終えた。後は、《グラシャ・ラボラス》が俺の魂を持っていくだけ。


「ラウラも、ありがとう」


 その長身をやりづらそうに屈めて支えてくれているラウラにも、百合川は感謝の言葉を贈った。


「お前が見せてくれたのは、きっと千年に一度あるかないかってくらい、本当に尊くて素晴らしい《百合》だった。親子間の、姉妹間の、親戚間の、そして何より人間と《悪魔》の《百合》なんて、この世のどこ探したって見つからないだろう。ああ、俺が求めていたものは全部、何の取りこぼしもなく見させてもらった。かつてない程の充足感がこの胸にある。……だから、《グラシャ・ラボラス》」


 一つ大きく息を吸って、それからちゃんと百合川は《悪魔の王》の顔を見据えた。


「俺と君の間に交わされた《契約》は、今日を以って全て達成された。人生に未練がわずかもないかと言えば嘘になるけど、それでもやっぱりこの感謝が勝るよ。ありがとう。つまらない男の魂だけど、これはもう君のものだ。好きに持って行ってくれ」


 百合川、と官舎が震える声を漏らした。けれど百合川はもう彼女の顔を見る事が出来なかった。見たら、きっと死ぬのが怖くなってしまうから。


 《悪魔》と交わした《契約》は絶対的なものである。それは初めから決まっていた事だ。ただの一つも例外は無い。願った分、その対価は支払わなければならない。


 かつて官舎ひづりの母親がそうであったように、百合川臨もついにその魂を差し出す時を迎えていた。


 徐にラウラの右手が百合川の頭を鷲づかみにした。身長は二メートルを超え、両翼は幅十メートル以上という《グラシャ・ラボラス》としての姿をとった彼女の掌はとても大きく、体格としてはほぼもう成人男性に近い百合川の頭蓋骨でさえこうしてすっぽりと覆われてしまうほどだった。


 不意に頭の中で耳鳴りの様な音が聞こえて、しかしそれはすぐに消えた。


 ラウラの手が百合川を開放し、同時に首に回していた腕も離した。


「脳に《治癒魔術》を掛けました。もう一人で立てる状態のはずですよ」


 抑揚の無い声でそう言いながらラウラは百合川から離れた。彼女の言う通りぐわんぐわんしていた頭はすっきりしており、頬の痛みはそのままながら、足にはちゃんと力が通って大地を踏みしめる事が出来るようになっていた。


 ありがとう……? と礼を言おうとしたところで、にわかにラウラの右手が今度は百合川の胸にそっと添えられた。


 どくん、と体内で鼓動が一際強く鳴ったのを百合川は聞いた。


「ええ、百合川。もちろん頂きますよ、あなたの魂もね。今回、半分は私の目的でもありましたが、《契約》は《契約》ですから」


 鳩尾の少し上、ちょうど心臓の辺りをラウラの人差し指の背は触れており、そこから生じた小さな《魔方陣》は少しずつその輝きと径を増し始めていた。


 先ほどラウラが取り出して見せた官舎ひづりの母親の魂。ここから自分の魂もあんな《白い球体》となって抜き取られるのだろうか。百合川は思わず息を呑んだ。


「百合川っ!!」


 官舎が叫んだ。決意が揺らいでしまうから振り返ってはいけなかったのに、百合川はつい彼女の声に惹かれてしまった。


「私、百合川のこと好きだったよ! それは、たぶん、恋愛感情じゃないけど……でも、楽しかったんだ! 一緒に図書委員の仕事が出来て良かったって、今でも思ってる!」


 図書室の阿吽像の片割れが、そんな嬉しい事を言ってくれている。小さい頃から《百合》ばかり見て心を満たして来たが、女の子からこんな風に想われるのもそう悪くはないらしい。


 ……ああ、悪くはないな……。


「ありがとう官舎。俺も、お前と同じ図書委員で良かった」


 最期の笑顔を返す。視界が滲み、官舎の泣き顔がよく見えなくなった。








「――じゃああと一年半、続けて下さい」








 とん、と胸を押され、百合川はたたらを踏んだ。


「…………。…………え……?」


 自身の胸に視線を落とし、触れ、それからまた顔を上げた。


 ラウラは突き放す様な格好で右手を伸ばしたまま、うっすらとだがその口元に笑みを浮かべていた。


「な、何……?」


 起こった予想外の出来事に、百合川はそんな無様な問いかけしか出せなかった。官舎も眼を丸くして、《魔方陣》がいきなり消滅した百合川の胸元と、そしてラウラの微笑みとを見比べていた。


 両腕を左右に広げるとラウラは機嫌が良さそうに瞼を閉じ、まるで歌う様に言った。


「だから、二人で図書委員続けたら良いじゃないですか。あと一年半、高校卒業まで」


 そして眼を開くと百合川と官舎を見て、にまり、といたずらに成功した子供のようにその顔を光らせた。


「ラウラ、どういうこと……?」


 同じく事態を飲み込めていないらしい官舎が問うと、ラウラは腰の後ろで手を組み、くるくると回りながら気ままにその辺りを歩き始めた。


「何ですかひづり? ついさっき話した事、もう忘れちゃいましたか? 万里子の魂はあんまりに量も質も良いので、《魔界》の私の王国、今後二百年は安泰でしょう、って、そう言ったじゃないですか。持って帰って分配してもかなり余ってしまいます。ですから、要するに」


 ぴたりと足を止め振り返るとラウラは百合川にウインクした。


「満腹状態なんですよ。今の《グラシャ・ラボラス》とその王国民にとって、《魔術師》でもない人間のはした魂なんて、急いで回収する理由も価値も無い、ってことです」


 百合川も官舎も言葉を失ってしまっていた。それは、この《悪魔の王様》の言っている意味が、全て理解出来たからだった。


 彼女の言う通りなのだ。《魔術師》として稀代の才能を持ちながら、更にその力を磨くために残りすべての人生を懸けた官舎万里子。そんな人物の上質に過ぎる魂を回収したばかりの《グラシャ・ラボラス》にとって、百合川臨の様な《魔術師》ですらない子供の魂など、そもそも比較にさえならない。


 しかし、それでは――。


「ただ《契約》は《契約》です。ええ、百合川の魂は何の間違いもなく、現在私の手中にあります」


 すると百合川と官舎の意を汲んだ様にラウラは続けた。


「ですがこちらも前以って説明した通り、《契約》達成の後、魂を回収するタイミングは全て私達《悪魔》側にあります。万里子の人生に猶予を与えたようにね。では、私は百合川に何を《課す》べきなのか? ハハァン、そんなものは決まりきっています」


 薄く細めた眼差しで彼女は百合川を見下ろした。


「百合川。さっきひづりは、百合川が心配を掛けたのは自分だけだと言いました。確かにその通りではあります。今回、あなたを心配していたのは事情を知るひづりだけでした。……でもです。私の大切な友人の娘であるひづりに、こんなどうしようもない事で心配を掛けたこと……。それに関しては私、結構根に持っています。《契約》を持ちかけたのも実行に移したのも私ですが、それとこれとは別の話です。なので――」


 彼女は自身の顎をすっと撫でた後、その手で百合川を指差した。


「今から死ぬまで、あなたにはひづりの事を守ってもらいます。《悪魔》や《天使》関連のことであればまぁどうにか出来るでしょうが、しかし人間同士の事となると《ボティス》はほぼ無力です。特に学校内ではね。ですから百合川。あなたはひづりに迷惑にならないよう配慮しつつ、かつ、その命に代えてでもひづりを守ってもらいます。すでに《悪魔の王》に差し出した命です。ノーとは言わせませんよ。断るならもう生きているあなたには興味ありません。そのちっぽけな魂を回収して、私の国民に与えるだけです」


 その長い足で歩み寄ると、彼女は身を屈めて百合川に顔を近づけた。


「――さぁ、どうしますか、百合川?」


 《グラシャ・ラボラス》ではない、それはこの一ヶ月、二年C組に今夏最後の陽気な風を巻き込んだ一人の少女の爽やかな笑顔だった。


 眼と鼻がにわかに熱くなって百合川は思わずうつむいたが、けれどすぐに顔を上げると彼女の黄色い瞳に笑って見せた。


「是非もないなぁ、ラウラ……」


 それから一つ息を吸って精一杯背筋を伸ばすと、百合川は彼女の前に跪き、手をとった。


「……その慈悲に感謝致します。百合川臨、これよりは官舎ひづりの命を守るため、あなた様より与えられたこの命を余す事無く使う事、ここに誓います。我が王、《グラシャ・ラボラス様》……」


 そして映画のワンシーンの見様見真似ではあるが、その手の甲にそっと誓いの口づけをした。


「ラウラ……!!」


 官舎ひづりは普段の振る舞いからは想像もつかない、恥も外聞もない愛おしそうな声を発しながらラウラにぎゅうと抱きついた。


 赤らめた目元も気にせず泣き咽ぶ彼女に、ラウラも「ふふふ」と微笑みながら抱きしめ返していた。


 百合川はふと、この山中広場に到着したばかりの時、ラウラが彼女に言っていた事を思い出した。




『それは、後で百合川本人に確認してください。でも、私は《悪魔》です。《契約》が果たされたら《魔界》に帰らないといけません』




 あの言葉。《不可視化》で身を隠したままそばで聞いていた時は官舎と同じく理解が出来ていなかったが、しかし今ならもう全てが分かる。百合川はまた涙が滲むようだった。


 《グラシャ・ラボラス》は三ヶ月前、《契約者》であった官舎万里子の魂を奪って《魔界》へと帰還した。《悪魔》が果たされた《契約》によって魂を回収するのは当然のことで、だから親しかった官舎万里子の魂を奪ったことに関しても彼女はこれまで一度として後悔の言葉を口にしなかった。


 だが、人間の親友を殺した事を悔やんでいないとしても、それでも、これ以上その友の娘を、官舎ひづりを悲しませたくないと彼女は思ったのだろう。それがきっと今回の《グラシャ・ラボラス》の動機で、何の便りもないままに官舎ひづりから母親を奪ってしまった事への、《悪魔》としてではない、《官舎万里子の友人として》の贖罪だったのだろう。


 ラウラは、彼女は、本当に何も奪わない気でいたのだ。官舎ひづりにとってただの委員会仲間でしかない、きっと彼女の人生の中ではそれほど重要ではないはずの、こんな人間の命さえ。


 これが《ソロモン王の七二柱の悪魔》、人文科学に精通する《知恵の王》、《グラシャ・ラボラス》。


 賢く、冷酷で、しかしどこまでも愛情深い――。


「……ありがとう、ラウラ」


 立ち上がり、百合川は頭を下げた。泣きべそを掻く官舎ひづりの頭を撫でながら、彼女は満足そうにその《悪魔の王》としての風格を漂わせる大らかな微笑みを百合川に返した。


 一月前、百合川臨の願いを聞き入れた彼女が企てたそれは今日、こうしてあまりにも完璧過ぎる結末を以って幕を下ろした。


 しかもアフターサービスまで完備と来ている。


 今まではラウラ×官舎が至高だと思っていたが、官舎×ラウラも悪くない。ああ、悪くない。


 悪くないじゃないか――!









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