『再現』





 兄の次女、官舎ひづりが自身の母親に対して良い感情を抱いていない事は、彼女と幼い頃から正月やお盆に官舎本家で顔を合わせてはよくゲームなどして一緒に遊んでいたため紅葉も察していた。


 身内に、自分と同じく官舎万里子を嫌う人間が居る。卑屈ながらも、それによって紅葉の心はこれまで多少なりとも支えられて来た。


 けれど今年の初夏、官舎万里子の葬儀の日、ひづりは泣いた。幼い頃から歳不相応にしっかりしていて、子供らしい理由で泣く事がほとんど無かったひづりが、高校生になってあんな風に人前で泣き崩れた。


 紅葉は動揺した。兄が辛いだろうと思い参列した葬儀だったが、そんな事も忘れてしまうほど、その姪の泣き顔は紅葉の頭の中を真っ白にした。


 自分とひづりは同じではない、そんなことは最初から分かっていた事だった。けれど、同じくあの女を嫌う人間だという矮小な同族意識を、紅葉はひづりに対して抱いていたかった。仲間だと思いたかった。ひづりに対し、紅葉は都合の良い幻想を見ていた。考えるのを避けていた劣等感が、この時になって押し寄せて来た。


 ただ、それでも紅葉の中でひづりに対する「好きだ」という気持ちが消える事は少しも無かった。兄に似たその家族愛の強い性格。苦しい事から背を向けたくていつも酒や煙草に逃げる自分に対しても依然変わらず親類としては普通以上の愛情を向けてくれる、優しくて可愛らしい姪……。どんなに顔が義姉に似ていようと、嫌いになどなれるはずもなかった。だから、自分の中で彼女に対する愛情が変わっていないことを、他でもない己自身に示すため、学校の友達の分もまとめて今年の浴衣をプレゼントしよう、などという分かりやすい行動にも出た。


 けれどもう駄目だった。今日を以って楓屋紅葉という女の本性は暴かれてしまった。薄汚く卑劣で汚らわしいこの内面を全て知られてしまった。愛していたかった官舎ひづりに。




『――紅葉さんはそのままで良いんだと思います。私の母さんのこと、好きになれなくても、きっとそれで良いんですよ――』




 今年のお盆に彼女から贈られた言葉。あの一言で、紅葉は汚れきっていた自分の人生のあらゆるものが救われた気がした。怨恨も嫉妬も、全てが許されたようだった。


 しかし、過去と言う鏡を見て冷静に考えれば、あの様な、人が人に向けるべき暖かな言葉を、自分などが受け取って良いはずがなかった。


 どこまでも優しく許してくれる官舎ひづりの眼差し。作り自体はそっくりだが、それでも母親とは絶対的に異なる、生気と愛情に満ちた眼差し。自分を見てくれる眼差し。


 ……あの眼と向き合う資格が果たして自分にあったのか。


 扇万里子と兄が付き合うようになってから、紅葉は当て擦りのように非行に走るようになった。髪を染め、煙草を吸い始めた。箔を付ける為にどうでもいい男達と付き合うようになった。学校で問題を起こしては親と言い争った。


 けれど本当は不良になどなりたくなかった。素直に笑って、兄と一緒に手を繋いで出歩ける様な、そんな妹でいたかった。


 気づけば自分の体を大事に思えなくなっていた。酒浸りにニコチン中毒、しまいには着物の腕を認めてもらうために、また行き遅れていた十歳上の不仲な姉への当て付けというくだらない理由で、別に好きでもない太った呉服屋の倅と二十歳で結婚した。


 何もかもを諦めて来た。正直な気持ちを蹴り捨てて、したくもない判断をした。たくさんのものを取りこぼし続けて来た。


 気分が落ち込むといつも思い知らされる。自分はあの十歳の子供だった時に大きく道を間違えて、そのまま心をそこに置き去りにしてきてしまったのだ、と。和裁技能士として認められ、結婚して母になり、叔母になっても、胸の中に残った言葉にしようのない幼い感情はいつまで経っても成長してくれる事は無かった。


 官舎紅葉は自分で勝手に迷子になった。自分で勝手に、自分を大嫌いな女にした。


 ひづりは、父方の叔母がこれほどまでに愚かだったとは思いもしなかっただろう。それに彼女が自身の父をどれほど愛しているか、紅葉だって知っている。最愛の父を苦しめた張本人の正体が今日、分かってしまったのだ。許してもらえる訳がない。許されて良い訳がない。兄の幸辰も、妹に対しこれでもう愛想が尽きたことだろう。


 二人の顔が見られない。向ける顔がない。官舎家の親族が集まるこの場で、楓屋紅葉の居場所はもはやどこにも無くなってしまっていた。


 グラシャ・ラボラスは最初に「贖え」と言った。義姉を憎み続け、味方でいてくれた実の兄を苦しめ、そして最後は愛しの姪まで失望させた、愚かな女の末路。きっとこれが彼女の願った結末なのだろう。グラシャ・ラボラスが官舎万里子と親しかったのは今日のこれまでの話でもう十分に分かっていた。なら、官舎万里子が幸せになる未来を否定し続けた楓屋紅葉を、彼女が厭悪していないはずがない。


 この後自分はどうなるのだろう。悪魔である彼女に殺されるのだろうか。……きっとこの場でそれを反対する者は居ないだろう。自分は兄とひづりからの信頼を失った。昔から不仲な姉は、愛する弟を苦しめ続けたのが妹だと知って、きっと怒り狂っているだろう。花札親子も官舎万里子を今なお愛している。ちよこは……どうだろう。けれど彼女は妹のひづりを溺愛している。であれば父方の叔母の肩を持つようなことはまずないだろう。


 息子の千秋の顔がふと頭に浮かんだ。生まれた時から父親そっくりな丸顔。母親の自分と同じく、中学生になると不良ぶって煙草を吸ったりして。でも、最近は建築デザイナーになりたいと言って、大学へのお金も自分で貯めているらしい。……自分にはもったいない息子だと思う。


 こんな母親でも、死んだらきっとあいつは泣くのだろう。昔から甘えん坊で泣き虫だった。せめて成人式までは見届けてあげたかったが……まぁ、父親の佳代秋は何だかんだしっかりしているし、楓屋家は他の呉服屋と比べても繁盛している方だ。父子二人になってもやっていけるだろう。


 思わず笑ってしまいそうだった。過去を暴かれた自分には、思いのほか生への悔いというものがなかったらしい。それどころか、ようやくこの苦しみから解放されるのだ、という期待さえあった。


 ただ、それでも一つだけ悲しいことがあった。ひづりちゃんに、楓屋紅葉の穢れた過去を知られたくなかった。こんなものを見せたくなかった。背負わせたくなかった。


 優しい事は壊れやすい。紅葉はグラシャ・ラボラスに対して忿怒の念を抱くばかりだった。自分の事が憎いなら、殺そうと思っていたのなら、ただ殺してくれれば良かったのだ。


 こんな風に、最悪の形で姪を巻き込まないで欲しかった。


「さて。どうしますか、ひづり? 今の紅葉の話を聞いて、どうですか」


 グラシャ・ラボラスが声を張った。それは名指した通り、官舎ひづりの方へと投げられていた。


 ……どうする? それを問うのか、この悪魔は。紅葉は彼女への怒りが増すようだった。


 これ以上ひづりちゃんを苦しめる必要などないだろう。あたしを殺したいのなら今すぐ殺せば良い。


「どうって……全面的に母さんが悪いと思う」


 グラシャ・ラボラスに物申そうとして上げかけた紅葉の頭が、ぴたり、と止まった。


 ひづりが今まるで「当たり前だろう」という口調で放ったその言葉の意味が、にわかには頭の中へと入って来なかった。だから地面を見つめた格好のまま、紅葉は彼女の言葉を反芻した。


 ……何と? 彼女は今、何と言ったのだ……?


「アハァ。ひづりはやっぱりそう答えますよね。万里子の友人であった身としては少々耳が痛いですが、そういうブレないところ、万里子の血縁という感じがしてやっぱり惚れ惚れしますね。んー、ちゅっ」


 続けて、場違いに軽いグラシャ・ラボラスの声と、更には投げキスのリップ音が響いた。


 理解が追いつかず呆然と顔を上げた紅葉が見たのは、想像の二倍はにこやかな表情でひづりを見つめていたグラシャ・ラボラスと、眉根を寄せつつもその視線を受け止めて困ったようにはにかんでいるひづりだった。


 二人は、まるであの花火大会の日の様な、日常がそのままそこにある様な、ただただ穏やかな雰囲気で見つめ合い立っていた。


 何が起こっているのか。自分は気がどうにかしてしまったのか、と紅葉が困惑していると、ひづりが視線に気づいて振り向いた。


 彼女はそばへ来るとしゃがみ、小さな石ころが転がる地面を何度も叩いたせいで出血していた紅葉の手を優しく包んで悲しそうな眼をした。


「ああ、やっぱり血が出てるじゃないですか。市郎おじいちゃんもそうでしたけど、駄目ですよ、手をこんな風にしたら……」


 それはいつもの官舎ひづりの声だった。父親似の柔らかい音の使い方で、酒癖の悪い父方の叔母をやんわりと叱る時の、いつもの優しい声だった。


「…………なんで……?」


 戸惑うまま、紅葉の口から言葉がつい漏れた。ひづりは視線を上げ、紅葉と眼を合わせた。


 すると彼女はにわかに両腕を広げ、紅葉の頭をその胸の中に包み込み、言った。


「あの女……紅葉さんまでこんな風に苦しめて……。……すみません、紅葉さん。つらかったですよね……」


 そしてまるで子供でもあやすかのように、抱き込んだ紅葉の頭をすりすりと丁寧に撫で始めた。


 紅葉は言葉が出なかった。何が起こっているのか、彼女が何を言っているのかわからなかった。


 まさか……彼女は分かっていないのか……? さっきまでの話を、この子は理解出来ていないのか?


 君の父方の叔母は、君の父親と母親を貶めるために、官舎の親族に悪い噂を流していたんだぞ――。


「良い馬鹿面ですね紅葉。何が起こっているのか分からない、なんでひづりに慰められているのか分からない、ってところですか。ハハァ。後で《過去視》をして見返す楽しみが一つ増えましたね」


 グラシャ・ラボラスがそのやけにスタイルの良い体でポーズを取り、高笑いを決めた。


 事態は飲み込めないが、まさに彼女の言う通りではあった。


 とにかく、姪に、がっちりと抱きしめて来るひづりに、紅葉は改めて説明しなくてはいけないと感じた。彼女はきっと何か勘違いしている。でなければ、こんな行動に出るはずがない。


「それと、言っておきますが紅葉、ひづりは何か思い違いをしている訳でも、勘違いしている訳でも、話を聞いていなかった訳でもありませんよ。全部聞いて理解した上で、あなたのその無様なツラを多少まともにするために、そうやって撫で撫でしているんです。良い歳して姪に慰められるなんて、情けないと言ったらありませんね」


 再びまるで焦る紅葉の心を読んだかのようにグラシャ・ラボラスはそうつらつらと続けた。


 ――分かっている? 理解している? ひづりちゃんは今……その上で……?


「……ねぇ、紅葉さん。憶えてくれていますか」


 徐にひづりの撫でる手が止まり、吐息交じりの声が頭上から落ちて来た。


「私、あの時……二人でドライブした時、言ったと思います。もし、姉さんと結婚したサトオさんが悪い男だったら、私は絶対にその結婚を良く思えなかったでしょうし、それに私は堪忍袋の緒が細い性質ですから、きっと紅葉さんより正直に、嫌いっていう気持ちが出てたと思います、って……」


 紅葉はハッとした。二週間前のお盆、紅葉と佳代秋が官舎本家を去る日、一緒に出かけた車内で彼女は確かにそんな事を言ってくれていた。


 腕が解かれ、ひづりの両手が紅葉の両肩をそっと掴んだ。そして改めて正面から真っ直ぐに紅葉の眼を見据えた。


「紅葉さんの事、分かりました。でも、さっきも言いましたが、それらも全部、全面的に私の母さんが悪いと思います。あの人は本当に周りの迷惑を考えない女でしたから、きっと私が知らないだけで世界中に苦しむ人をたくさん生み出してるんだろう、って、ずっと思っていました。……紅葉さんもその一人だろうってことは、考えればすぐに分かったことでした。でも、私はそれを考えたくなくて……考えることそのものから逃げてました。……ごめんなさい、紅葉さん……」


 そう言って彼女は頭を下げた。悔いを浮かべたその顔に、思わず紅葉の肺は一気に空気を吸い込んだ。


「なんでっ、なんでひづりちゃんが謝るの!? 違う、そんな、あたしは兄貴を――」


「知っていたよ」


 出し抜けに、遮るように幸辰が言葉を投じた。紅葉は傍らに立つ兄の顔を見上げた。


「紅葉が俺と万里ちゃんを別れさせたくて、親戚の人たちに電話してたの、分かってた。前に母さんから聞いていたから……」


 彼は悲しげな面持ちでそう語った。紅葉はきっとまた自分が馬鹿面を下げていると自覚しつつも、それに返す言葉がろくに見つからなかった。


 気づいていた……? 分かっていた……? それなのに、そんな妹に対して、これまで変わらず、優しい兄でいてくれたというのか……?


 どうして――。


「どうして……そこまで、あたしの事……」


 可愛い妹などではないはずだった。家の名を汚す様な事をたくさんしてきた。十代の頃はひたすら家族に迷惑を掛け続けた。


 それなのに、何故。


「そんなもの、そこの幸辰が、元々弩の付くシスコン野郎だったからに決まっているでしょう」


 にわかに呆れたような口ぶりでグラシャ・ラボラスが言った。彼女のその直接的過ぎる物言いに幸辰は眉を八の字にしていたが、再び紅葉に向き直ると娘と並んでしゃがみ込んだ。


「……《グラシャ・ラボラス》の言う通りだ。十七歳だったあの頃、恋人が出来たからって、そのせいで紅葉が荒んでしまったって、それでも俺は、紅葉の事が本当に可愛くて仕方がなかった。……紅葉は知らないだろう? 俺はね、紅葉が生まれて来るまではずっと姉さんに甘えきりだったんだ。でも、紅葉が生まれた時から、守らなきゃいけない妹が出来た時から、俺は、しっかりしたお兄ちゃんになろう、って、そう思うようになったんだ。俺が今の俺に成れたのは、他でもない、紅葉が生まれて来てくれたからなんだよ」


 そう言って、彼はひづりと交代する様に紅葉をぎゅうと抱きしめて来た。


 ……なんだ、それは。なんなんだ、兄貴も、ひづりちゃんも、二人して。紅葉の両目からまたぼろぼろと涙が溢れ零れ始めた。


「やめて……やめてよ……」


 腕に力が入らない。兄の腕を振りほどくだけの気力が湧いてこない。けれど、紅葉の喉はどうにか拒絶の意思を音にした。


「許さないでよ……あたしはみんなに酷いことしたんだ……。兄貴や……万里子さんを傷つけた……。許されない事をしたんだ。あたしには、そんな風に優しくされる資格なんて……もう……」


「まぁそう言うでしょうね」


 と、グラシャ・ラボラスがまた関心の薄そうな声を転がした。見ると、やはり彼女は紅葉達の方など眼もくれず、広場の向こうで風に踊らされている木の葉など見ていた。


 しかし徐に首を捻るとそのつまらなさそうな顔を紅葉に向け、言った。


「兄夫婦の悪評を親戚に流した事。子供じみた理由で不良になって家族に迷惑を掛け続けた事。兄の結婚式に出席せず、祝福の言葉を贈らなかった事……。ここまでで見てもらった聞いてもらった通り、紅葉の後悔はそれこそ数え切れないほどあります」


 そして一つ咳払いをすると、グラシャ・ラボラスは広場に集められた面々に視線をぐるりと流し、通りの良い声を張った。


「この語らい、私が皆さんと話すのもこれが最後です。なので改めてここへ皆さんを集めた目的について……まぁもう言うまでもないでしょうが、一応です、説明しますよ。ご存知の通り私は《過去視》だけでなく《未来視》も可能です。ですから、この場であらゆる過去を暴き、ひづりと向き合わせる事で、皆さんの抱えた苦悩や後悔といったものをこうして解消させられると最初から分かっていました。……あなた達には、万里子が遺した愛娘であるひづりを、これからも支えて貰わなくてはいけません。万里子との確執によってそれが滞るというのであれば、万里子の命を奪った事に対して謝罪などする気は微塵も無いですが、それでも責任自体は取らねばと私も思ったという訳です。……ただ」


 言葉の間、その浅黄色の瞳が紅葉を射抜いた。


「それでは足りない者が一人だけ居ました。過去を見せ、ひづりに許されて尚、前を向けない者。愚かで、考え無しで、馬鹿。おそらくこの中で最も残念な人間です。どんな可能性の未来視をしようと、ひづりの父方の叔母であるそこの楓屋紅葉だけは、ほんの少しも前に進めない未来しか持ち合わせていませんでした。問題を先延ばしにする癖が抜けず、後悔ばかりを積み重ねる、どうしようもない女です。ですから私は、甘夏や市郎とは違う特別な手を用意しなくてはなりませんでした。はっきり言って御免被る一手でした。一生恩に着てもらっても割に合わないです。紅葉、あなた、死ぬまでひづりのために生きてくださいよ」


 不満げに、高圧的に、グラシャ・ラボラスは紅葉に指を差して言った。


 一手……? 何の話をしているんだこいつは、と紅葉が眉根を寄せ首を傾げたところで、にわかにグラシャ・ラボラスの頭上に紫色の大きな魔方陣が現れた。


「……例え万里子の親類であろうと、人になど見せてやる気はありませんでした。ですが、万里子のため、ひづりのため、私は《これ》を一つの手段として使いましょう」


 魔方陣が一際強く発光し、その中心から直径一メートルほどの仄かに光る《白い球体》が現れた。それはそのままゆっくりと下りて、グラシャ・ラボラスの掌に音も無く着地した。


「《グラシャ・ラボラス》……お主……」


 沈黙を続けていた天井花イナリの顔に初めて当惑の色が浮かんだ。その手に構えていた毒々しいデザインの剣の切っ先が微かに揺らいだのを紅葉は見た。


「天井花さん、あれ、何ですか……?」


 存在感はあるが全体の輪郭はぼやけ、また重量感も窺えないその《白い球体》を指してひづりが天井花イナリに訊ねた。どうやらひづりも知らない物らしい。


 天井花イナリはグラシャ・ラボラスから視線を外さず、しかし先ほどまでとは明らかに異なる緊迫した表情で答えた。


「……あれは人の魂じゃ。わしら《悪魔》が《契約》によって回収し、栄養とする人間の魂……しかし、あの大きさは――」


「察しの通りです」


 グラシャ・ラボラスはその両手に大事そうに抱えた《白い球体》へと視線を落とした。


「《魔術師》の家系に生まれ、その半生を《魔術》の研鑽に打ち込み、そして三柱もの《ソロモン王の七二柱の悪魔》を使役した《魔術師の魂》……。これは、私の《契約者》、官舎万里子の魂です。……ひづり。これを、少しの間だけ持っていてくれますか」


 彼女はそう言って《白い球体》――官舎万里子の魂だというそれを、そっとひづりの方に差し出した。


 ひづりは眼を見開いて、それから傍らの天井花イナリを振り返った。


「……よい。ひづり、お主らには実感の湧かぬ事であろうが、わしら《悪魔》にとって果たされた《契約》で得た魂とは誉れであり、そこには《契約者》に対する敬意が伴う。《悪魔》と《契約》した者は、その《契約》の達成を以って人間を越え、魂となって《魔界》に迎え入れられる。故に、その回収した魂は通常、人間の眼になど晒さぬ。まして預けるなど……。……《グラシャ・ラボラス》、お主、そこまでの覚悟であったか」


 天井花イナリは静かに構えを解き、同時に右手に握っていたその巨大な剣をまるで幻の様に消してしまった。


「万里子の魂の手前、あやつはもう嘘は吐かぬであろう。わしの警護も不要となった。ひづり。《グラシャ・ラボラス》の想いに応えると言うたのはお主じゃ。受け取ってやれ」


 一歩下がって腕を組み、天井花イナリはひづりに促した。母親の魂、と言われたその戸惑いはまだ拭えない様子であったが、それでもひづりは頷き返すと立ち上がって紅葉に背を向けた。


 グラシャ・ラボラスが歩み寄り、その官舎万里子の魂だという《白い球体》を大事そうにひづりへと手渡した。


「現代の《魔術師》にあって、あまりに上質な魂です……。これ一つで、おそらく私の王国は今後二百年、飢えずに暮らしていけることでしょう。本当は回収し、《魔界》に戻った時点ですぐに取り込もうと思ったのですが、しかしこうした問題がある以上、私の国民にはもう少しばかり我慢してもらわなくてはなりませんでした。……紅葉」


 その猛禽を思わせる鋭い眼差しがまた紅葉を睨みつけた。


「三ヶ月前にあなたが逃した、最後だったはずの挽回の機会。あなたが犯した最大の失態をやり直し、贖うための機会。それをこれから与えましょう」


 世界が白光に包まれた。グラシャ・ラボラスの傍らに現れたデジタル時計が高速で回転し、過去へと向かっていく。


 やがて甲高い音と共に時計は止まった。白んでいた眩い視界は次第に色彩を得て、紅葉たちの眼にその過去の景色を映し出し始めた。







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