『思い違い』        4/5




「ありがとうございました。またいらしてくださいね」


 十四時。会計を済ませ最後の客を見送ったひづりは表に掛けている『営業中』の札を『休憩中』にひっくり返してからそっと戸を閉め、店内に戻った。


「《火庫》の容態、もうずいぶん落ち着いたようであるぞ。目はまだ覚まさぬようじゃが」


 ひづりが一恵と渡瀬のテーブルへ向かうと、先ほど畳部屋へ様子を見に行ってくれていた天井花イナリがフロアへ出て来てそう言った。


「そうですか……」


 ひづりも一恵たちもひとまずほっと胸を撫で下ろした。


 あの後、《火庫》は畳部屋へと運ばれ、天井花イナリの指示で夜不寝リコと凍原坂が介抱にあたった。あまり皆で詰め寄せて騒がしくなっても良くないだろうから、と一恵と渡瀬はフロアでこの時間まで待ってくれていた。フロアはひづりと天井花イナリの二人で回す事になったが、《火庫》が倒れた事で彼女や夜不寝リコ目当てで来ていた客らはこちらに気を遣ってくれたらしくすぐに会計をして帰って行ったため、幸いいつかのように手が足らず店が回らないというような事態にはならなかった。


「俺、火庫ちゃんがそんなに具合が悪かったとは思わなくて……。悪い事をしたかもしれないな……」


 渡瀬が珍しく体を小さくしながら眉を八の字に寄せてぽつりと言った。


「なんじゃお主、心当たりでもあるのか?」


 そばへ来て天井花イナリが訊ねると渡瀬は顔を上げひづりたちの顔を一通り見てからまたうつむいて口を開いた。


「火庫ちゃんの体調不良については分からないけど……一恵さんと店に来てすぐだ、凍原坂に挨拶した後、俺、トイレに行っただろ。それで用を足してトイレから出たら、目の前に火庫ちゃんが立っててさ。どうしたのか訊ねたら、火庫ちゃん、『死んだ人が妖怪になる確率』、みたいな話を聞きたがったんだ。ひづりちゃんは知ってるよな、前に大学で話したあの続きみたいな感じだよ」


 そう言われ、ひづりは「そういえば二時間ほど前にレジの横でそんな場面を見たな」と思い出し、頷いて見せた。ただ、《火庫》ちゃんはさっき渡瀬さんに何か話があったようだからきっとその用事だろう、と思ってその時は特に聞き耳も立てたりしなかったのだが、しかし彼女の前世、西檀越雪乃としての話は既に納まった話だったはずで、ここへ来てまた彼女が渡瀬と《妖怪の話》をしていたとは少々意外に思え、ひづりは一体どうしたのだろうと内心首を傾げた。


「俺は、滅多に無い事だよ、って答えたんだ。奇跡的に偶然が重なるか、誰かが意図してちゃんとした儀式でもしなきゃ人間は妖怪にはならない……そうでなきゃ、紛争地域なんかじゃ死人の分母が増えて妖怪ばかりになっちゃうからね、って。……でも、調子が悪いなら、もうちょっと気の利いた、夢のある話をしてやった方が良かったんだな……」


 渡瀬はかなり落ち込んでいる様子だった。事実はともかく、彼とって《火庫》は凍原坂と同じく《妖怪》の話が出来る大切な友達だからなのだろう。


「体に障るような事をしてしまったのは私もです。リコに秘密にしてって言われてたこと、うっかり官舎さんに話してしまって……。火庫ちゃん繊細な子だから、リコの困った姿を見て、それがいっぱいいっぱいだった体に応えたのかもしれません……」


 一恵も亡くなった姪の娘である《火庫》の事は心配らしく、《火庫》が店の奥に運ばれてからは渡瀬と同じくもうずっとこんな調子だった。


 ひづりは従業員室の方を振り返った。ひづりとしては《火庫》の事も心配ではあるが、けれど突然明かされた同級生の転校の話も十分に気がかりな事ではあった。


 先ほど夜不寝リコが「お前のせいだ」と言った理由について、あの後ひづりは自分なりに考えてみて答えを見出していた。というより、冷静になれば考えるまでもない事だった。


 もし、夜不寝リコが働き始めた時点で彼女が十月には転校して店も辞めるのだと知っていたら、自分はどうしただろう。どうせすぐ居なくなる夜不寝リコの不安など拭う必要は無いのだから、凍原坂の体調や《火庫》の《記憶》の憂いについてもどうでもいいと捉え、彼らのために何もしなかっただろうか。それは否だ。夜不寝リコがどう思おうと、可能であるなら自分は凍原坂家の手助けをしただろう。ひづりはその確信があった。


 けれど夜不寝リコにとってはそうではない。官舎ひづりが凍原坂家のために好意的で協力的な行動をするかどうか、これまで互いに不仲のクラスメイトだった彼女にはそれを確かめる手段が無い。そもそも彼女は《和菓子屋たぬきつね》が凍原坂や《火庫》を脅して理不尽な要求をしているのではないかと疑ったから自分も店で働くと言い出した訳で、だから彼女が《和菓子屋たぬきつね》の人間であるひづりを信じておらず、自分が転校する事を告げたら《和菓子屋たぬきつね》は監視の目が無くなったと喜んでまた凍原坂や《火庫》たちに好き放題するのではないか、と疑う気持ちも分からないではないのだ。故に、そういう諸々を思えば彼女が転校の事をひづりに秘密にしていたのは確かにこれまで学校などで彼女に対し友好的な態度をとらず凍原坂家との関わりについても信用出来るだけのものを示せていなかったひづりに問題があると言えばあるのだ。同じく姉を持つ者同士であり、また《火庫》と仲良さそうに働く夜不寝リコの姿を最近見ていたのもあって、ひづりはついもう仲間の様な意識を抱いてしまっていたが、しかしそれら当たり前の前提を忘れて「どうして転校のことを教えてくれなかったの」なんて、怒鳴られても仕方が無いよなとひづりは反省していた。


 ……ただ、それはまたそれとして、ひづりは夜不寝リコの転校の話を知って一つ気になる事があった。他でもない、姉のことである。夜不寝一恵は店主のちよこには夜不寝リコの転校と引っ越しの事を打ち明けていたという。十月いっぱいで仕事を辞めて引っ越す予定であるというなら、保護者としてはそれを店主に伝えておくのは当然だ。だが、《天界》に対する抑止力としての効果が期待出来る《火庫》と《フラウ》はともかく、ちよこが夜不寝リコを雇ったのは確実に何かしらのいかがわしい企みが理由のはずなのだ。面接をして即日採用した時には知らなかったかもしれないが、けれどちよこの情報網である、調べれば翌日にでも夜不寝家の事情などすぐに丸裸だっただろう。であろうに、たった一ヶ月程度しか店にいられないと最初から分かっていながらちよこは夜不寝リコを従業員として抱え、高いメイド服を買い与え、店も改装して……いやそれは関係あるのかどうかは分からないが……とにかく雇い続けていた。


 姉は本当に一体何をするつもりだったのだろう……? 残り一ヶ月も無いなかで、夜不寝リコに何を期待していたんだ……?


 ひづりは一恵に視線を戻した。彼女たち夜不寝家の事情について自分も直接本人達に訊ねれば、今回の姉の行動の真相について、答えそのものでなくても何か手がかりくらいは分かるのかもしれない。


 誰にとっても倒れた《火庫》の事が気がかりな今のこのタイミングで他所の家庭の話に踏み込むのはちょっと良くないんじゃないか、とひづりは少し迷ったが、しかしこのあと夜不寝リコに問い詰めても彼女が素直に答えてくれるかどうか分からない以上、訊くなら一恵が店に居る今しかないように思え、ひづりは覚悟を決めて訊ねる事にした。


「あの……さっきの夜不寝さんの転校の話、ちゃんと聞かせてもらう事って出来ませんか」


 一恵はひづりの顔を見上げた。渡瀬と天井花イナリもこちらを振り向いて、それから一恵を見た。


「そうだ、リコちゃんの引っ越しの件、俺も初耳ですよ。一恵さんと克さん、ご夫婦でどこかへ越してお仕事でも始められるんですか?」


「わしもちよこやリコから聞かされてはおらなんだ。一恵、話して聞かせよ」


 一恵は肩をすくめ、さながら先ほど黙り込んだリコと同じ様な顔をした。娘の引っ越しについては職場の人たちには本来伝えておくべきだけれど、しかしその娘には先ほど大声で怒鳴られてしまったし……と葛藤しているようだった。


「……ウチが話すよ」


 すると従業員室の暖簾をくぐって夜不寝リコが顔を覗かせた。四人の視線が彼女に向けられた。


「転校とか引っ越しのこと、ウチが官舎さん達に話す。だから母さんはもう帰って。渡瀬さんも、すみませんが、後で春兄さんから聞いてくれますか」


 ひづり達のテーブルまで来ると彼女は静かにそう言った。その面持ちは何か苛立っているようにも、逆に落ち着いているようにも見えた。


 一恵はじっと娘の顔を見つめ返していたがやがて小さな吐息と共に頷いた。


「分かったわ。……官舎さん、天井花さん、すみません、後日またちよこさんのいらっしゃる日にお伺い致します。渡瀬さんもごめんなさい、今日はもうこれで」


 そう言って鞄を手に腰を上げた。渡瀬は凍原坂の居る畳部屋の方を名残惜しそうに見たが肩でため息を吐くと一恵に倣って席を立った。


 ひづりは夜不寝リコと共に軒先へ出て、駅前へと歩いていく一恵と渡瀬の背中を見送った。夜不寝リコとの間に会話は無く、そのまま無言で二人は畳部屋へと向かった。






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