『悪党』




「か、家庭内暴力だ……」


「うるさい! 悪いところばっか母親に似て!! 人の人生を勝手に決めるな!!」


 頭を抑え、しゃがみこんで被害者ヅラをする姉にひづりは怒鳴りつけた。


 こういうやつなのだ、ちよこという姉は。母親に似て、かなり自分本位な行動を起こす。実際に母親から譲ってもらったという《悪魔》に店の雰囲気と合っていないメイドエプロンなど着せて働かせているところからも察しの通りである。


 ただこちらは余計にタチが悪い。そうなのだ。母の万里子より、この長女のちよこと《契約》の関係になってしまった事の方が、二人の《悪魔》にとっては不幸に違いないのだ。


 何故なら吉備ちよこという女は、自分が楽をして得をするために、そして人生に於ける自分にとっての敵を排除するために起こす行動、そのどれもが、必ず誰からも咎められないからなのだ。


 可愛いから許される、とかそういうふざけた話ではない。もっと深刻だ。


 人には大なり小なり《弱み》というものがあり、そしてその《弱み》をなるべく他者に見せないよう隠して生きている。知られればちょっと人間関係が悪くなるような秘密から、知られれば家庭が崩壊するような秘密など、色々とある《弱み》だ。


 吉備ちよこは日常の中でそういった人の《弱み》を観察し、強く記憶し、必要な時に引き出して使う。ただし何らかの後ろ暗い結果を求めて行動した際、その原因である自分のところへその疑惑が降りかからないよう、完璧に、適切なタイミングと相手にそのカードを切る。


 しかもそれを躊躇わない。自分が得をすると分かったら、自分に害する敵がいると分かったら、その記憶して所持している他人の《弱み》をどれだろうと使えるならば使い、たとえその結果その人に多大な損害が出て、果ては死ぬとしても、ちよこはそれをするのだ。


 その主犯でありながら、その事件が発生するまでの過程に何人もの人間の《弱み》を挟むことで、さも関係ない一般人を装う。だから人から咎められず、法からも咎められない。


 吉備ちよことは、そういった人心掌握術だけが顕著に特化して生まれてきた女なのだ。仮に人類で《悪魔》という呼称が与えられるなら、それは間違いなくこの姉を措いて他には居ないだろう、とひづりは今改めてそう感じていた。


 そしてその《悪魔》の様な女が、よもや本物の《悪魔》を従えるなんて。


 ……いや、しかし、どうなのだろう。ひづりは店の外観や、駅前から歩いてきた時の周囲の事を思い返してみた。


 以前より非常にこの《和菓子屋たぬきつね》に客足が増えているとか、商店街の《濃》の部分でやたらに店が潰れていたとか、そういう事態にはなっていなかった。競合店の一つに違いない、駅近くにあるケーキ屋も健在だった。災害的なほどの被害を競合店が被っている訳でもなく、この《和菓子屋たぬきつね》自体がやたらに収益を出している様子もない。


 もちろんそれには理由があるのだろう。潰れると困る店がちよこにもあるという事だろう。妙な噂が立つことも避けているのだろう。そういうことをやる時、間違いなく慎重になるはずだから。


 では実害はそれほど出ていないのか。いや、実際に今、官舎ひづりの人生が勝手に《悪魔》と繋がる事が説明されたという実害は確実にあった訳だが。


 正直、薄ら寒い。この女が《悪魔》なんてものを二人も手中に収めておいて、まだ何もしてない訳がない、何もしようとしていない訳がない。妹のひづりですら十七年付き合って来て図りかねる事ばかりなのだ。


 ひづりは本当はアルバイトを始めるならば身内とは関係のないところにするつもりだった。理由は簡単、何だか気恥ずかしいのと、不意に意識しないところで家族、ようするに姉に、嫌なタイミングで甘えてしまいそうだったからだ。


 しかし他店で働くというひづりの主張に対し、ちよこが猛反対した。いや、これは表現が正しくない。


 ひどく反対した。いや違う、これも正しくない。


 めちゃくちゃ泣き喚いて地面に転がり手足をばたつかせながら、さながらオモチャを買ってもらえなかった幼児の如く、果たしてこれが二十歳を三年過ぎた成人女性が成せる技かというほど見事な駄々を、相談場所に選んだ喫茶店でこねて見せたからだった。


 あの時、周囲の眼など気にせず恥を忍んででも断っておけばよかったのか、とひづりは天を仰いだ。ひどい脱力感と倦怠感が全身を支配していた。


 ふとかたわらのイナリを見た。ひづりに殴られ、痛そうにしているちよこを見て、これがもう非常に胸が空いたような顔をしている。普段ひどい、すごくひどい扱いを受けているのだろう。察した。


 《悪魔》と聞くと、角と翼と尻尾が生えていて、体が大きくて乱暴で、というイメージがひづりの中にはあった。しかしイナリやたぬこを見ているとそういう感じがしない。


 イナリはやけに古風で偉そうな喋り方こそするが、どちらかというと非常に品があり、落ち着いていて、ちよこなどよりはるかに大人な雰囲気があった。哀れにも可愛らしい子供用のメイドエプロンなど装着させられてはいるが。


 隣のたぬこにしても、こちらが逆に心配になるくらいおどおどしていて、《悪魔》だ、と聞いて尚、世の中の残酷さから守ってあげたくなるような雰囲気すらある。


 《悪魔》とは言うが、あの悪ふざけの過ぎる母が召喚したというくらいだから、おとなしくてそんなに凶暴じゃない、人間にそこまで害の無い、弱い《悪魔》なのかもしれない、とひづりは思った。


「それじゃあ、その、話が逸れましたけど、イナリさんとたぬこさんは、この、姉さんの《使い魔》みたいなもの、って感じなんですか?」


 観たことのある魔法使いを題材にした映画で、彼ら魔法使い達が猫やフクロウといった相棒を従えていたのをひづりは憶えていた。


 《魔法》というと本場はイギリスだと聞くが、仮に母がイギリスに居たのがその《悪魔》にまつわる《魔法》について調べるためだったとして、ではちよこはどうなのだ、となる。姉は一度もイギリスに行った事なんて無いはずだったし、そんな勉強が出来るようなタイプでもない。


 ちよこがこうして制御していられるのなら、そういった――。


「何じゃと」


 にわかにイナリの声のトーンが変わった。低く、その小さな体から発されるにはあまりに強烈な凄みを持った一言で、たったそれだけでひづりの全身の産毛は逆立ち、思わず後ろに身を引いてしまうほどだった。


「《使い魔》じゃと? 身の丈も知らず《魔》の力に手を出しおったあの薄汚い魔女共の矮小な畜生とわしらが同類とは、よくぞ言うたな小娘!!」


 イナリの真っ赤な瞳がひづりをまっすぐに見据えていた。彼女の周囲が何か黒いもので塗りつぶされ、それがじわりじわりと大きく広がってひづりを包み込もうとしていた。


「我は誇り高き《悪魔の一柱》!! 《神性》なぞに縛られようと、人の子一人消す程度、難しい事ではないのじゃぞ!!」


 殺される、と思った。ぐらぐらと煮えたぎるように真っ赤に光るその瞳から一瞬たりとも眼が離せず、ひづりは――。


「そうだ、みんなまだお昼食べてなかったね」


 異次元の雰囲気に呑まれていた中、突然日常的な声、姉の声がすぽんと入り込んで来た。


「あっ」


 と同時に、イナリの口から変な声が出た。変、というか、可愛い声だった。


 ちよこは何やら一抱えほどの箱を手にしていて、イナリは今までひづりに向けていた殺気としか表現しようのない何かを一度に消してしまうと、一目散に彼女の元へと駆け寄った。耳があるだけに、その姿はまるで餌に駆け寄る動物さながらだった。


 ちよこが箱から取り出したのは稲荷寿司だった。駅前で売っているやつだ、と、そのパッケージで分かった。


 それをイナリは受け取るとぱくり、と口に運んで咀嚼し始めた。嬉しそうな顔で。幸せそうな顔で。先ほどまでの迫力が同じ存在から放たれていたとは思えないほど、無邪気で幸福そうな顔だった。


「ね、姉さん、もしかしてこのイナリさんて人……いや《悪魔》……?」


「うん。稲荷寿司あげたら大体おとなしくなるのよ。可愛いでしょ~?」


 うわぁ。ひづりは少し引いた。イナリに対してではなく、ちよこにだ。姉は稲荷寿司を美味しそうに口に含み味わっているイナリを後ろから抱きしめて頭をなでなでしていた。


 それはもう、あからさまなタイミングだった。今、自分は確かにこの《悪魔》、イナリという《悪魔》を怒らせてしまっていた。どうやら怒りに触れる一言を放ってしまったらしかったから。


 そしてその絶妙なタイミングでちよこはそれを取り出した。稲荷寿司。イナリが、たった今まで殺意に燃えていた彼女が、その入れ物を見ただけでまるで一匹の飼い猫のようにご飯にありついてしまう、そうなるのを理解して。


 そうしてこんな風に可愛らしくもおとなしく稲荷寿司を頬張る《悪魔》の頭を、完全に保護者の顔で撫でている。支配している。


 だがそれはとにかくとして、ひづりはここで一つ、聞こうと思って逃していた事があったのを思い出した。


「姉さん。イナリさんって、やっぱり、狐、なの? 名前からしてそうだけど、お稲荷様と何か関係あるの?」


 そう、それはイナリの外見の事だった。真っ白な髪、真っ白な長い狐の耳。そこに朱色の瞳と眉毛。耳の内側も同じ朱色。ひづりが彼女を《悪魔》だと信じられなかった理由の一つに、そんな彼女の姿があまりにも日本の稲荷神社のキツネそっくりな様相をしていた事が挙げられた。


 でも、彼女は《悪魔》なのだという。先ほどは「我は誇り高き《悪魔の一柱》」などとも自称していた。そこが謎だったのだ。


「あーそれはねー」


 腕に《悪魔》を抱いたままご機嫌な調子でちよこは語り始めた。


「母さんが日本で二人を召喚した時に、《契約》で、《私の魂を差し出す代わりに、あなたたちは狐と狸の姿に化けてください》ってお願いしたんだって」


「え、何、それ」


 意味が分からなかった。命を掛けて頼むほどの事とは到底思えない。


「まさか、それで母さん死んだの?」


「ははは、いやまさか。イナリちゃんとたぬこちゃんを召喚したのは二年くらい前らしいし、母さんがイギリスで死んだ二ヶ月前も、二人にはうちでずっと働いてもらってたもの」


 なるほど? と思ったが、今、母さんが死ぬ前から《和菓子屋たぬきつね》で二人は働かされていた、と言ったのか。この母娘、まさかこの《悪魔》二人をシェアしていたのか。


「まぁそれでね、日本に召喚された二人の《悪魔》は《契約》に従って狐と狸の姿に変身した訳なんだけど~」


 そこから、えへへ、と彼女は満面の笑みになった。ここから面白いんだよ、という顔だった。


「するとどうでしょう~。日本の稲荷神社の事を知らなかったイナリちゃんはその強力な《魔性》を持ったまま日本で狐の姿になってしまったせいで、《魔性》が《神性》に反転、稲荷神社の神様の使いである白狐の姿になってしまって、その結果《悪魔》じゃなくなって魂を奪う事が出来なくなり、《契約》は中途半端なまま果たされず、母さんの半永久的などれ……支配下に入ってしまったのでした~」


 今「奴隷」って言いかけた。いや、それはともかく。


 そんな事が起こりえるのか。《魔性》とか《神性》とかよく分からなかったが、母さんは意図してそんな事をしたのか? 成功すると分かって?


 まさか、そんな事をするために二十三年間もイギリスで《悪魔》について研究していたのか? 《悪魔》を騙して、こんな風に従業員として便利に使うために?


 どれだけ自由なんだあの女。


 しかしそうだとすれば、なるほど、ちよこが魔法など使えなくても、強力な《悪魔》だというイナリを制御できている説明にはなる。


 《悪魔》でなくなり、彼女は稲荷神社の使いの白狐になってしまったから、稲荷寿司を与えるだけですぐおとなしくなってしまう。加えて稲荷神社の神様といえば、「人に幸福をもたらす神様」として、都心にあってこのすぐ近くにも大きめの神社が構えているほどに有名な神様だった。


 《悪魔》でありながら、普通に話している時には何の敵意も悪意も感じられなかったのはそれが原因だったのか、とひづりは納得した。


 おや? それでは、となりのたぬこさんはどうなのだ。彼女の姿はたぬきだが、たぬきの神様というのをひづりは知らなかった。


「たぬこちゃんはね、元々イナリちゃんほど強力な《悪魔》ではないの。だから神様ではないんだけど、日本の昔話の影響が入り込んじゃったみたいでね」


 昔話? と連想してみたところで、先ほどのイナリの説明を重ね、ひづりは「あぁ……」と察した。


「そう、日本の狸は、昔から悪さをして、人間の大人に退治される存在だから、それになってしまったたぬこちゃんは《人間の大人恐怖症》になってしまったのです」


 だから、初対面のときからあんなにおどおどしていたのか。店内に居る人間の大人が怖いから。


「あと兎も怖いらしいです。背後で火が燃える音も」


 可愛そうだ。ひづりは同情のあまり涙が出そうですらあった。


 しかしなるほど、だから彼女は和菓子作り担当なのか。接客が出来ないから。


「ちなみにイナリちゃんがこの通り、食料が人間の魂から稲荷寿司に代わったように、たぬこちゃんはお酒が主食になってます。お腹空いてるみたいだったらたまにあげてね」


 おもむろに戸棚から取り出した酒瓶をテーブルに置くと、たぬこの耳がぴくんと動いて視線がそこに釘付けになった。なんだその、たまにお水あげてね、みたいな言い方……。


 かつて《悪魔》であったという二人は各々の食料を口にしながら、おとなしくテーブルに座らされた。ひづりとちよこもその向かいに掛け、昼食として稲荷寿司をいただく。


 美味しい。久々に食べたが、イナリでなくても、あの店の稲荷寿司にはそうなってしまうだけの美食の品格があるとひづりは思った。








「理由は、聞いたの?」


 食事を終えると先ほどの事など忘れてしまった様子でイナリはフロアへと午後の営業準備のために、そしてたぬこも同じく厨房の方へと消えていった。


 ひづりは二人きりになった休憩室で食器洗いをしながら、母がイナリ達を召喚した理由を姉に訊ねてみた。


 母が自分達、特に父を孤独にしてまでその悪魔召喚の研究に人生を投げ打った理由を、姉のちよこは聞いていたのだろうか。


 隣でしぶしぶ食器洗いを手伝うちよこだったが、急にしおらしくなって答えた。


「従業員さんが三ヶ月ほど前に二人辞めてしまって困ってたところに、母さんがイナリちゃん達を譲ってくれたの。二人の事を知ったのはその時が初めてだった。イナリちゃん達の扱いと、困ったときの《魔術》に関するいくつかの本をくれた以外は、何も教えてくれなかったわ。でも、あの人嘘が下手だったから。悲しそうな顔をしてた。近いうちに自分の身に何かが起こる事を分かってたみたいだった」


 それきりちよこは黙ってしまった。蛇口から流れる水の音と、食器同士が軽くぶつかる音だけがしばらく続いた。


 長女ちよこが生まれてから人生のほとんどをイギリスで過ごし、《魔術》の研究に明け暮れ、帰国したかと思えば天真爛漫、自分勝手に旅行プランを立てて家族を巻き込んで連れ回り、そして最期はイギリスで勝手に死んだ母。


 彼女の人生は楽しそうだった。何の連絡も無く帰国しては攫われて旅行に連れ出されていたひづりとしては実に本当に良い迷惑だったが、母と、そして父は楽しそうだった。


 そうだ。父は楽しそうだったのだ。幸せそうだった。世の中には、暴力や、子供の頃のトラウマが原因で狂った人間関係しか築けず、無意識に自分を不幸にする相手を選んで結婚してしまうような、どうしようもない人間の心理というものが在る事をひづりは知っていた。


 けれど断じて父はそうではなかった。母は快楽主義が人の形をとったような女だったが、父に一度として暴力や暴言を放った事はなかった。少なくともひづりが見てきた人生に於いて、母と一緒に居る時の父の顔は、母の写真を眺める時の父は、決して己の不幸に酔いしれる愚か者の顔ではなかった。ひづりが父を軽蔑した事は一度もなかった。


 父は幸せだったのだ。母が居て、いつもは遠く離れていたとしても、それでも父は母を愛していた。


 それなら。


「私、ここで働く。いや、働かせてください」


 すすぎ終わり、最後の一皿を置いた所で、ひづりはちよこに頭を下げた。


 母が何を思ってあの《悪魔》二人を遺したのかは分からない。だが、それが父にとって不幸になる事だけは何があっても絶対に無いのだろう。今日初めて《悪魔》なんてものを眼にしたひづりだったが、それだけは胸を張って断言出来た。


 何故なら母も、誰より父を愛していたのだから。


「もちろん。ひづりは体が丈夫だし、それにとってもしっかりしているから、絶対働いてもらおうと思ってた。みんなとも仲良くやれるわ」


 ちよこは手を拭い終えると一歩だけ寄り、ひづりの頭を撫でた。


 身長は姉の方がほんの数センチほど高いだけだが、姉が姉らしい事をしてくれていると分かった今は、母と父が本当に愛し合っていたと改めて分かった今は、恥ずかしさなどより家族としての繋がりの喜びが勝り、数秒間くらいは撫でさせてやらんでもない、とひづりは思った。


「あの二人お給料要らないから経理のごまかしに人間の従業員欲しかったしね」


 ――は? 固まったひづりをよそに、ちよこは踵を返すと軽い足取りでカレンダーに駆け寄った。


「じゃあ初出勤日、いつにしよっか!!」


 待って待って。ちょっと待って。


「あの二人! まかないだけで働いてるの!?」


 稲荷寿司とお酒、食糧での受給のみだと!?


 《和菓子屋たぬきつね》店内の内装に於いて、従業員室では一番広くて会議にも使われるこの休憩室に入ってから抱いていた小さな違和感の正体に、ひづりはついに気づかされてしまった。


 シフト表が無いのだ。誰がどの時間に勤務して退勤します、というのが記された、大体どこの店にも本来あるべきものが。


 まさか、よもや。


「そうだよー。イナリちゃんがフロアの仕事全部、たぬこちゃんが和菓子作りを全部してるの。それぞれ一人でこなしてくれてるの。すごいでしょ。さすが元《悪魔》!」


 きゃっほう、と片腕を上げて喜んで見せる姉に、ひづりは血の気が引いた。


 この《和菓子屋たぬきつね》の経営に於いてイナリやたぬこのような従業員に本来支払われるべき給与、その代替受給対象役として、身内である自分が選ばれた。あからさまに違反している労働基準法から逃れるための隠れ蓑にするために、実の妹を。


「……《悪魔》だ」


 思わずひづりの口唇からそんな言葉が漏れた。愕然とする、とはまさにこの事だった。


 こんな事は許されてはいけない。たとえ《悪魔》といえど、この《和菓子屋たぬきつね》を支えている重要なあの二人には、従業員として正しい勤務時間の設定と、何より給料が支払われなくてはならない。


「それでいつから働くー?」


 無邪気に、楽しげに、何の悪びれた様子も無い吉備ちよこの問いに、


「明日からでも」


 ひづりは決意するように応えた。


 この店は変えねばならない。私があの二人の《悪魔》を、姉の魔の手から守ってあげなくてはならない。


 官舎ひづり人生初のアルバイトは、何よりまずそれが最重要事項となったのであった。









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