『悪党、再び』




 驚いた、というのがひづりの率直な感想だった。ちよこを先頭に集った《和菓子屋たぬきつね》の畳部屋で長机を挟み三十分ほども掛けて語られたその凍原坂家と夜不寝家の話は、かれこれ二ヶ月以上も《悪魔》と付き合いをしているひづりをして、それでも中々現実味を帯びてはくれなかった。《グラシャ・ラボラス》の《契約者》は百合川臨だ、と知った時と同じ思考の止まり方をしていた。


 話したことがほぼ無いとは言え、一年生の頃から顔も名前も知っていた同級生である夜不寝リコが、よもや《魔術》関連で生前の母と関わりのあった凍原坂春路の義妹だったなど、どうして想像が出来ただろう。しかも彼女は凍原坂と同じく《妖怪》を見る事が出来て、凍原坂と《火庫》たちの関係まで把握しているのだという。


「申し訳ありません」


 普段どんな難しい話をされてもそのシカゴピザより分厚い面の上に愛想笑いばかりを浮かべるちよこでさえ口元に手をやって沈黙する中、説明が終わるなり凍原坂はにわかに座布団一つ分後ろに下がって平伏する様に頭を下げた。


「今回の事はすべて私のうかつさが招いた事なのです。ひづりさんとリコちゃんの学校が同じ綾里高校だということに気づかず、《火庫》と《フラウ》が《和菓子屋たぬきつね》さまでお世話になるという事を予めリコちゃんに説明していなかった私が悪いのです。本当に申し訳ありません。二人を預かって頂いてまだ二日目というのに、こんな事で……」


 彼の大きな背中が小さく丸まり、それを見て隣に座る夜不寝リコが目を皿の様にしたところで、ようやく考えが纏まったかちよこは腰を上げるとやや身を乗り出した。


「そんな、よしてください凍原坂さん。《火庫》ちゃんにすぐにでも働いて欲しいと急かして慌しくしてしまったのは私たちですし、そもそもあのお話からまだたった二日ですもの。ええ、きっと急な事でしたわ。リコさんも、凍原坂さん達を想って、心配で、こうして来られたのでしょうし……。私、とても感動してしまいました。今のお話を聞いてどうして他人事なんて思えましょう。凍原坂さん。《和菓子屋たぬきつね》はもうお互いどんな事でもお世話に成る身です。ですからどうか、そんな風におっしゃらないでください」


 うわぁ、すごい堂々とすり寄るぞ、この女。ちくしょう、そうか、《火庫》ちゃんを預かる事にあんなにも賛成していたのは、集客力の高い可愛い女の子の働き手が得られるのと同時に、凍原坂に対しこういった恩の売り方が出来ると踏んでの事だったのか。あれだけ叱ったのにまだ凍原坂に取り入ろうとする姉の諦めの悪さにひづりは呆れるようだった。


「そうです凍原坂さん、頭を上げてください。採用するなり《火庫》ちゃんを翌日から働かせようなんて言い出したのは姉さん一人ですが、それを許してしまった私たちにも非があります。凍原坂さんは何も悪くありません」


 ちよこにばかり話の主導権を握らせてはいけないとひづりが声を張ると、凍原坂はおずおずと頭を上げて、しかし変わらず申し訳なさそうな顔をしていた。


「……ふむ。なるほど、話は大体分かった。凍原坂の義妹、ひづりの同級生か」


 聞けば大した話でもなかったな、という退屈そうな顔で天井花イナリは息を吐き、改めて凍原坂と夜不寝リコを見比べた。


 じろりと視線を向けられるなり夜不寝リコはヘビに睨まれたカエルの様に固まって、もう傍目にも分かるほど緊張した様子で顔を青くした。


 三十分前、凍原坂とちよこが先に入った畳部屋へ連行されるなり、彼女は天井花イナリに縛り上げられたまま出し抜けに髪の毛を数本、ぶちり、と引き抜かれていた。




『昨日と一昨日、一月ぶりの営業再開で慌しかったのでな。菓子作りをしておるうちのたぬこは今日、三階で休んでおるのじゃ。……言うておる意味が分かるか、騒がしい童よ?』




 そう言って指先に摘んだ毛髪をはらりと捨てると天井花イナリは続けざまにまた夜不寝リコのその綺麗に切り揃えてある前髪へ白い指先を這わせ、脅した。夜不寝リコは一気に怯えた顔になって、唯一動かせる頭を懸命に縦に振り、そうして以ってようやく天井花イナリの大蛇のような白髪から解放されていた。


 図らずも義兄と同じく天井花イナリに対し初対面からなかなか拭えない種類の苦手意識を抱いてしまったらしい彼女の顔からは普段教室で見られる陽気で勝気な活発さはすっかり消え失せており、もう何なら買い手に引き取られたばかりの小動物の様な寂しささえあった。


 だがそんな事に構う気も無いのだろう天井花イナリは崩した座布団の山の中でふんぞり返ったまま夜不寝リコに淡々と訊ねた。


「では、どうするのかの? 今回の事は《火庫》自ら言い出した事であるし、凍原坂も《フラウロス》もこれを承諾して話は纏まった。わしらは《火庫》の覚悟を受け止め、既に従業員として使うつもりで準備も進めておる。夜不寝のリコと言うたな。お主としては寝耳に水であろうが、しかしもう話はお主の心配だけを理由に引っ込められる段階には無いのじゃ。それとも何かあるのか? この場で《火庫》に、この店を辞める、と言わせ、わしらを納得させられるだけの提案が? よもやまた騒ぎ立てるだけとは言うまいな?」


 最後の一言はやや語気が荒く、隣に座っていたひづりでさえ少々肝が冷えるようだった。正面から浴びせられた夜不寝リコはびくりと肩を震わせ、その小さな体をまた一際小さくさせた。


 夜不寝リコが凍原坂家に対し、強い家族愛にも似た感情を抱いている、という事は、ここまでの話で充分に分かった。そうして思えば、《天界》なんて訳の分からないところから狙われている《和菓子屋たぬきつね》に、何の相談もないまま《火庫》たちが預けられている、という状況に怒りを抱いて店へ突撃してきた事にも納得がいく。


 実際、ひづりはだいぶ心を揺さぶられていた。夜不寝リコの事は好きか嫌いかで言えば大嫌いなタイプだったし、度胸も無い陰口ばかりの性悪女だと思っていたが、しかし親類である凍原坂たちが怪しい人に騙されているのではと思うなりその日のうちに店へ押し掛けるなんて、そうそう出来る事ではない。


 ひづりにも甘夏や紅葉という幼い頃からたくさん世話を焼いてくれた大好きな親族が居る。嵐の様に突然の事だったが、それでもひづりは今日だけで夜不寝リコに対して一度に好感と親近感を抱くに至っていた。好きか嫌いかで言われれば、嫌いくらいにはなっていた。


 しかし、それとこれとは話が別だった。


 ひづりとしてはラウラ・グラーシャが遺してくれた現状の最善策である《ナベリウス王》との接触が叶うまで、あるいは《天界》がその《ソロモン王》から贈られたという天井花イナリの持ち物を完全に諦めたと分かるまで、許される限り《火庫》と《フラウ》には《和菓子屋たぬきつね》に出入りを続けてほしかった。単純にフロアの人手も欲しいし、店に可愛い猫ちゃん従業員さんが居る、という状況も、たった二日で手放すにはあまりに惜しい。


 それにいくら仲が良いと言っても、夜不寝リコと凍原坂春路は別の家の人間なのだ。凍原坂春路が娘である《火庫》と思いを一つにこの《和菓子屋たぬきつね》と協力すると言う以上、夜不寝家の夜不寝リコにはそれをやめさせる権限など無いはずだった。


 加えて、もし仮に凍原坂や《火庫》を説得する事が叶ったとしても、天井花イナリと、何より《火庫》を既に自分の財産とでも思っているこの吉備ちよこという女の首を縦に振らせるにはきっと普通の女子高生の収入や貯金では届かない。何なら搾り取れるだけ搾り取られてそのままうやむやにされる事だってあり得る。


 なので「凍原坂さんには悪いけど、夜不寝さんには帰ってもらうしかないだろう」とひづりはもうほぼ終わった事として受け止めていた。


「…………春兄さんは……最近、急にやつれました……」


 すると畳部屋の長机の上へ、さも儚い鈴の音の様な声がぽつりと転がされた。


「何じゃと?」


 眉根を顰めた天井花イナリに、しかし夜不寝リコは目元をきゅっと引き締めると意を決したようにその顔を上げた。長らく青ざめさせていたそこには一転して店の戸口へ現れた時と同じ強気な色があった。


 まだいくらか怯えた調子のままだったが、それでも彼女はしっかりと天井花イナリの眼を見据えて言った。


「春兄さんはやつれましたっ!」


 それからはもう勢いのまま、夜不寝リコは隣でぽかんとしている凍原坂の肩を掴んでぐいと引き寄せた。


「元々太い方じゃなかったけど、先月から突然頬がこけました! それについて、店主のちよこさんは気づいていますか!?」


 そして凍原坂の頬の辺りを指差し、彼女はちよこに問い詰めた。


 左右に座る天井花イナリとちよこの反応を見た後、ひづりは改めて凍原坂の顔を注視した。


 ……痩せ……た……? そう言われれば、確かに七月に出会った頃と比べるとほんのりとそうかもしれない、という程度の感想は浮かんだが、それだけだった。痩せている、と確言出来るほどの変化には思えなかった。天井花イナリとちよこもどうやら同じ答えらしく、小首を傾げていた。


 言葉に困った《和菓子屋たぬきつね》の面々を置いたまま、夜不寝リコは今度は凍原坂に怒鳴った。


「約束が違うよね。たとえその……魔術? で、皆に嘘吐いてるとしても、でも未婚の春兄さんが火庫とフラウを西檀越家に預けずに自分で育てます、って話になってるのは、春兄さんが健康に問題なく二人を育てる、って約束がおじいちゃんたちとの間であったからでしょ。その約束は、そばで全部見てる訳じゃないからわかんないけど、それでもこれまでは守れてるって安心感があった。……それが、先月からだよ。恩人の官舎万里子さんが亡くなったって知って、その娘が経営しているお店の住所が分かって、挨拶に行った。それは、良いよ。でも、それからだ。《和菓子屋たぬきつね》と関わるようになってから、春兄さんはやつれた。そのうえ今度は火庫が危険覚悟で働く話になったって……そんなの、血縁がどうとか関係ない! 聞き流せるもんか!」


 言うなり、ぎろり、と彼女はひづりたちのほうを睨みつけ、同時にその細腕をめいっぱいに伸ばして凍原坂を護る様に抱き寄せた。


 けれど彼女は不意に悲しげな顔になって、にわかにその声も弱く小さくなっていった。


「……でも、昔から春兄さんが官舎万里子さんの話をする時は、決まってすっごく嬉しそうな顔して、火庫たちの事ぎゅって抱きしめて……。いつか会えたら恩返しをしたい、ってずっと言ってた。それに、痩せたけど、最近の春兄さん、すごく明るくなった。今まで暗かったって訳じゃないけど……でも、この間親戚の人達も言ってたんだ。春路さん最近なんだか幸せそうだね、って…………」


 彼女は肩を震わせながら凍原坂の腕におでこをぎゅうと押し当てた。


「わかってるよ……。官舎万里子への恩返し……相手は違っても、春兄さんが納得する形でそれが果たせるなら、ウチも応援したい……! でも、命を狙われるかもしれないんでしょ!? ここで働いてたら、春兄さんも、火庫も、フラウも……っ!!」


 涙で赤らんだ顔を上げた彼女はひづりの眼をまっすぐに見据えて訴えるように声を荒げた。初めて向けられたその夜不寝リコの心からの慟哭にひづりは思わずたじろいだ。


 それからしばらく、静まり返った畳部屋に夜不寝リコのすすり泣く声が続いた。


「……ごめんね、リコちゃん。僕が思っていたより、ずっとずっと、心配を掛けてしまっていたんだね……」


 ここまで勢いに押され黙ってされるがままだった凍原坂もようやく心が決まったらしく静かに穏やかな声音で謝るとしがみつく義妹の小さな頭をその大きな手のひらでそっと撫でた。


「…………」


 だが夜不寝リコは三回ほど撫でられたところでおもむろに凍原坂の手をやんわりと払い除け、鼻を一度だけ啜り、それから無言で自分の座布団にちょこんと座りなおした。行き先を失った凍原坂の手がしばらく宙に浮いていた。


 凍原坂はひづりたちの方へ向き直ると、少し時間を下さい、と深めのおじぎをしてから、また夜不寝リコに膝を向けた。


「伝え遅れてしまったし、急なことで、とても受け入れられないと思う。でも、ちよこさんやひづりさん、このお店の方たちは本当にとても良い人なんだ。万里子さんは僕に《火庫》と《フラウ》と暮らす日々をくれた。僕はあの人のお嬢さんたちの助けになりたい。リコちゃんが言ってくれたように、今、《火庫》がこのお店で働く事は、長年抱いてきたそんな僕の願いでもある。……ごめんね」


「……じゃあウチもこのお店で働く」


 凍原坂が言い終わるなり、夜不寝リコはまた一つすんと鼻を鳴らしてから、小声でそう言った。


「…………は?」


 思わずひづりの口から率直な困惑が音になって漏れた。いや驚いたのはひづりだけではない。ちよこも、天井花イナリも、凍原坂も、凍原坂の隣でずっと微動だにせず静謐に佇み続けていた《火庫》でさえ、その夜不寝リコの発言には眼を大きく見開いていた。無反応だったのは数分前から座布団の上で丸まってしまっていた《フラウ》だけだった。


「え、な、何を言い出すんだい、リコちゃんまで働くって……」


 うろたえる凍原坂の様子からもうまるでデジャヴの様だった。


「いいえ! 私は良い案だと思いますよ!」


 よもや『解決困難な問題に直面したらそのお店で働く』なんて流行りでもあるのかよ、話にならないぞ、とひづりが呆れていたところ、今度はにわかにちよこが声を張った。


「凍原坂さんや《火庫》ちゃんが危険に晒されている……リコさんはそれが心配でならない……でも凍原坂さんたちの気持ちも大事にしたい……。分かります、その気持ち。私もひづりの事が心配ですもの……」


 ちよこはずいと隣のひづりの方に体を寄せつつ、わざとらしく泣きの入った仕草で続けた。


 ……なんだ? 似てはいるが《火庫》の時とは違う、何かぞくりと背筋に来る嫌な感じがして、ひづりは姉の顔を注視した。


 しかしそんなひづりの怪訝な表情も気にせずちよこは立ち上がると今度は一体どこから持って来たのかという熱い口調で夜不寝リコに問うた。


「つまりリコさんは、《火庫》ちゃんがお店で働くなら、しっかりと労働法を守ってまっとうに従業員として扱われているか、そばで確認できる位置に居たい! 凍原坂さんがやつれちゃったのも《和菓子屋たぬきつね》と関わり出してからだし、何かお店に原因があるのかもしれないから、それを自分の眼で見定めたい! それらを叶えるために、自分もお店で働く! という事でしょう!?」


 びしり、と指差され完全に辟易した様子だったが、しかし夜不寝リコはこれをチャンスと見たか、すぐに長机へ身を乗り出すと元気よく答えた。


「は、はい! そうです! 接客のお仕事だったらウチ、したことありますし! きっとお役に立てると思います!」


「まぁ! 接客経験者! 助かっちゃいます~!」


 ちよこと夜不寝リコはがっちりと両手で握手を交わし、無理矢理に過ぎる勢いだけで話を纏めた。


「は、ちょ、ちょっと待ってよ姉さん!? 何勝手に決めてるの!?」


「勝手じゃないもーん! このお店の採用担当はお姉ちゃんだも~ん! それにどうして? リコさんはひづりの同級生なんでしょ? 素性も分かってるし、断る理由なんてないじゃない? それとも、リコさんじゃ駄目な理由でもある?」


 慌てて抗議したひづりに、しかしちよこは逃げる様に素早く机を迂回して凍原坂と夜不寝リコの間にするりと挟まると、実にこちらが突かれたくない質問を返してきた。ちよこはどうもいやらしい事に学校での夜不寝リコとのあまり丸くない人間関係についても既に気づいているらしく、ひづりは、ぐっ、と言葉に詰まった。


 反論が無いと見るとちよこはそのまま凍原坂の両肩へ背後からうやうやしく手を回し、それから彼の眼を至近距離で見つめ、囁くように言った。


「──それに、ねぇ、凍原坂さん……。《火庫》ちゃんが働くというお話、リコさんにしてなかったんですよね……? それってやっぱり、自分の家の問題だ、と思ったからでしょう? 夜不寝さんの御宅とは関係ない事だ、と……。でしたら、それはリコさんも、同じ主張が出来るんじゃないでしょうか……?」


「そ、それは……」


 凍原坂は肩を竦め、後ろめたさからだろう、堪えかねたように視線を逸らした。


「じゃあ問題ありませんね! 夜不寝リコさん、採用です!!」


「ほんとですか!? ウチ、がんばります!!」


 そうしてこのまま宴会でも始めそうなテンションでちよこと夜不寝リコは騒ぎ立てた。


 ひづりは愕然としていた。これ以上はもういくら文句を並べても意味が無い事に、ここへ来てようやく気づかされていた。


 《火庫》であれば分かるのだ。彼女は、同調する事で《フラウ》と共に高い《神性》と《魔性》を発揮し、《ソロモン王の七二柱の悪魔》である《ベリアル》とも互角に戦う事が出来た。《火庫》を従業員として店に迎え入れる事は、ちよこにとっても《和菓子屋たぬきつね》が《天界》に対する抑止力を得る事に繋がっていた。


 しかし、《妖怪が見える》ばかりのただの人間である夜不寝リコには、《天界》に対して何ら脅威となるものが無い。ちよこが彼女を雇って得られるものは、本来の正しい従業員としての能力がそのすべてのはずだった。


 顔の広いちよこであれば、本当に従業員として欲しい人材などもっと他に居るだろう。でありながら、彼女は《火庫》を迎え入れたのと同じように夜不寝リコを《和菓子屋たぬきつね》に受け入れた。


 それはつまり夜不寝リコに対して、従業員としてではない、《もっと別の利用目的がある》ということだった。


 夜不寝リコはきっと今、何か分からないが上手く話が纏まったとでも思っているのだろう。しかし違うのだ。ちよこが善意で動く事はありえない。必ず誰かが奪われ、損失を被る結果になる。ちよこが利益を得るためだけの養分にされる。七月に何も知らないまま店へ訪れた凍原坂が危うく骨の髄まで舐め尽されそうになった様に。


 しかし、ひづりにはこの悪夢の様な状況を止める手段が無かった。ひづりにとって《火庫》と《フラウ》は《天界》からの攻撃に備える上で非常にありがたい重要な戦力で、凍原坂にとっても《和菓子屋たぬきつね》へ《火庫》と《フラウ》を預ける事は官舎万里子への恩返しとなっている。それは同時に、その前提を崩さなければ、それが維持された範疇であれば、吉備ちよこは店主として《和菓子屋たぬきつね》内でなら何をしても許される、という事だった。夜不寝リコが働きたいと言うなら、経理担当のちよこは何の障害も無くそれを受理する事が出来る。


 ちよこは今日の事をすべて初めから読んでいた訳ではないはずだった。夜不寝リコが凍原坂の義理の妹で、ひづりと同級生である、という情報まではもしかしたら得ていたかもしれないが、《妖怪が見える》なんて話までは知らなかったはずなのだ。全くの突然に過ぎる来訪者のはずだった。


 それでもちよこはこの着地点へと話を運ぶ事が出来た。それは他でもない、凍原坂たちが《和菓子屋たぬきつね》と深い協力関係になってしまっていたからだ。ひづりが、凍原坂が、《火庫》が、それを望み、自ら声に出して決定してしまっていたからだ。


 なんということだ。やはり凍原坂たちを店の内側に入れたのは間違いだったのだ。七月に初めて会った時から、こうなる可能性を考えなかった訳じゃないのに。ひづりは一人、座布団の上で遅過ぎる後悔に沈んだ。


 入院中やけに大人しかったから、油断をしてしまっていた。天井花イナリと和鼓たぬこの《契約印》が自分に移った事で、《和菓子屋たぬきつね》の人事に於ける当面の問題は解決した、と安心しきってしまっていた。


 自分が馬鹿だった。そんな訳が無かったのだ。


 何も変わってはいなかった。《悪魔》に体を撃ち抜かれたくらいで、姉が変わる訳が無かった。


 《天界》や《魔術》の事より何より、官舎ひづりは吉備ちよこから周囲の人間を守らなくてはならなかった。そんな大事なことも忘れて、考えなくても良いような事にばかりかまけて、無様にも最も重要な問題を見落としてしまっていた。


 凍原坂や《火庫》の件で何も手の打ちようがないのは、夜不寝リコなどではなかった。


 気づかないまま、何も出来ないようにされていたのは──。


「──リコさんの研修、がんばろうね、ひづり!」


 楽しげに凍原坂と夜不寝リコの肩を抱き寄せ、ちよこはニッコリとひづりに微笑んだ。












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