第3話 『その日、店内はかしましく』



 3話『その日、店内はかしましく』








『ひ、ひぃちゃんのお店で、夜不寝さんが!?』


 アサカの携帯に電話を掛ければ予想通りの返事を貰い、ひづりは改めて今日の《和菓子屋たぬきつね》での悶着を現実の悲劇と噛み締めて肩を竦めた。


「そうなんだよ……本当に困った事に、決まっちゃったんだ……。後でハナにも伝えるんだけど、気が重いよ……」


 エプロン姿のまま椅子の背もたれに体を預けつつ、ひづりはこれから帰って来る父にも同じ説明をしなくてはならないのだと思い、食卓に準備し終えた二人分の夕飯を眺めながらついまた溜め息を漏らしてしまった。


「姉さん絶対何か悪いこと考えてる。想像もつかないけど……でもきっとめちゃくちゃに悪いことだ。あれは絶対、悪いことを考えてる顔と行動力だ……」


 あの後、ちよこはサトオのデジカメで証明写真を撮ったり、《火庫》用に買ったばかりらしい履歴書の残りを持って来て記入させたり、ひづりが眼を離した隙に駅前の文具店へ判子を買いに凍原坂を走らせたりと、あっという間に夜不寝リコが《和菓子屋たぬきつね》就職に至る面接前後の手続きを済ませてしまった。




『忙しくなるぞぅ! あ、リコちゃん用の制服発注するのに今日の内に採寸とか色々済ませてしまいたいので、凍原坂さん達はもう帰って頂いて大丈夫ですよ。心配しないでください! 必ず日が暮れる前には、私たちでリコちゃんを駅までお送りしますから~! ひづりも邪魔するだけならもう帰って勉強してなさい! お姉ちゃんは仕事があるので!』




 最後にはそう言ってひづりたちを店から追い出した。


 住み込みの天井花イナリが見張っている以上、露骨に問題があるような事はしないはずだが、けれどあの姉の張り切り様を見てひづりには到底安心感など抱けるはずがなかった。


『ぁ……じゃあ、ちよこさんが全部、決めちゃったの……?』


 ひづりが確信を胸に独り言のように呟くと、電話口のアサカはいくらか落ち着いた様子を見せた。


「うん……。私としては、正直に言えば、夜不寝さんと一緒に働きたいとは思わないし……。でも、お店の経営をしてるのは姉さんとサトオさんだし、人事についてはやっぱり私、口出し出来ないからさ……納得いかないけど……」


 店ではとても言えなかった、夜不寝リコ採用に対する個人的な感想。報告と前置きこそしたが、ひづりがアサカに聞いてもらいたかったのは主にこちらだった。


 どんな理由を積んでも、とても上手くやっていける気がしなかった。学校生活でさえ互いに良い間柄とは言い難かった夜不寝リコと、いきなり同じ店の同じ業務に就く。悪夢でさえ見なかった現実だ。


 携帯を握ったままひづりが普段あまり出さない種類の声で弱音を吐露すると、アサカは一つ何か考えるように間を置いてから言った。


「……ひぃちゃん。私に出来る事だったら、何でも言ってね? 本当に、何でも……」


 通話時にスピーカーから発されるのは機械で変換された合成音声だと聞いた事があったが、たとえそれがアサカ本人の声ではないとしても、ひづりは胸へ圧し掛かる重荷がにわかにほっと軽くなったように感じられた。


 友人はそれなりに居るつもりだったが、こんな風に愚痴を言えるのも、こんな風に過ぎるくらい心配してくれるのも、幼稚園の時からひづりにはアサカだけだった。気が弱っているのもあってか、思わず両目が熱くなった。


 けれどひづりはアサカからそうした暖かな気持ちを贈られたところで同時に、今月の頭、甘夏から叱られた事を思い出した。






『──千登勢さんやその凍原坂さんという方と違って、《魔術》の知識も無く、当然《悪魔》の使役もしていない私達は、件の《天使》や《悪魔》に関する事で、ひづりちゃん達に何もしてあげられない。状況が危険だと知らされただけで、何も出来ない……。それはすごく辛いわ。だからこの気持ちは、きっとアサカちゃんや学校のお友達には、味わわせてはいけないわね?』






 あの日──『天井花イナリと和鼓たぬこの契約者として魔術の世界で生きていく』と決意を口にした、あの七月の末日。最も負担を抱えたのが他でもない父である事をひづりは理解していた。


 母伝いで得たものらしいが、姉のちよこはいくつかの効果的な《魔術》が扱える。凍原坂には《フラウ》と《火庫》という、今もひづりたちが期待を寄せる戦力がある。千登勢も、《転移魔術》が得意で機動力の高い《ヒガンバナ》が居る。それらはいずれも、きっと天井花イナリを狙う《天界》にとって無視出来ない障害のはずだ。


 しかし父の幸辰は違う。頭の先まで《魔術》の世界に浸った母と違って、彼はひづりとちよこを全力で愛し、普通の人間に育ててくれた人だった。


 父には扱える《魔術》も使役出来る《悪魔》も居ない。次女が《魔術》の世界に足を踏み入れると言った時、彼の心労は一体どれほどだったのだろう。


 その上、父はそれを甘夏や紅葉には打ち明けず、それどころかひづりに対し今後も秘密にするようにさえ言った。自分と同じ気持ちを姉や妹にはさせたくないから、と。


 父が危なっかしい次女への気苦労をこれまで以上に重ねるであろう事は、誰に言われなくてもひづりが一番分かっていた。世渡り上手な姉と違って、ひづりは数え切れないほど幸辰に心配を掛け、困らせ、泣かせて来た。だからもうしくじる訳にはいかないと思った。


 しかし運命とは皮肉が効いていて、歩き出したばかりの小娘に対し、優しくも都合よくもなかった。幸辰と約束をしてから一ヶ月もしない間に、ひづりの秘密は甘夏たちに知られることとなった。どうしようもなかったとはいえ、ひづりが父との約束を守れなかった事に変わりは無かった。


 だが甘夏は、幸辰が何故今まで《悪魔》に関する事を黙っていたのかすぐに察しがついたようで、だから先日、ラウラが去って間も無くしてひづりにそうした戒めの言葉をくれたのだった。


 天井花イナリからだけでなく、ひづりは父や伯母たちからも期待されている。なら、今度こそ隠し通してみせなくてはならない。大切な学友である味醂座アサカや奈三野ハナに同じ様なつらい想いをさせないために。


 それに今は、アサカはアサカで、愛犬のアインの事がある。八月もラウラの一件で負担を強いてしまったばかりの彼女に、これ以上こちらの都合ばかりの心配は掛けられない。


 アサカには笑顔でいて欲しい。それは責任でも期待でもなく、また誰に言われたものでもなく、ひづりが物心ついてからすぐに抱いた、ひづり自身の願いだった。


 一つ深めの呼吸をして、ひづりは傾きがちだった自身の気持ちを整えるように背筋をしゃんと伸ばし、それから電話の向こうで返事を待っている可愛らしい幼馴染の顔を思い浮かべた。


「ありがとう、アサカ。私、頑張るよ。弱気になっていられないや。もうすぐ父さんが帰って来て夕飯だけど、それまでちょっとでも勉強していようと思う。聞いてくれてありがとう。夕飯時に電話してごめんね」


 例え心配を掛けないためだとしても、アサカに嘘を吐くのは良い気分ではない。なら、少しでも早く解決を目指すためにも、官舎ひづりは足を止めてはいられない。


 《天界》に対する防衛力として《ナベリウス王》を見つけ出し協力を仰ぐ、という方針で話は纏まったが、それはそれとして、ひづりが魔術師として成長しなくてはならない、という課役はやはり変わらないのだ。


 ひづりはもっと《魔術》の勉強を進めなくてはならない。次に習得する《魔術》として、特に《召喚魔術》に関わりのある《治癒魔術》や《転移魔術》の《魔方陣》をまずは精確に覚えるよう天井花イナリから言いつけられていたし、それにひづりが将来的に《召喚魔術》を扱えるまでになれば、八月に去ったラウラを今一度《人間界》へ呼び戻す事だって出来る。《ボティス》、《フラウロス》、《グラシャ・ラボラス》、《ナベリウス》の四柱が一箇所に揃えば、さすがに《天界》だって考えを改めるかもしれない。


 アサカやハナに嘘を吐かなくてもいいように、心配を掛けないで済むように、官舎ひづりは頑張らなくてはならない。不仲なクラスメイトと同じ職場になったくらいで落ち込んでいる場合ではないのだ。


『あっ、うんっ、いつでも電話は大丈夫だよ! え、あ、ひ、ひぃちゃんの今日の、……晩御飯はなぁに……?』


 決意も新たにひづりがさてと立ち上がって片手でエプロンの紐を解きながら通話を終えようとすると、アサカは焦った様子で訊ねて来た。


 話の最後に彼女が突飛な質問を投げてくるのは昔からだったので、ひづりはふふふと笑いながら鍋の蓋を持ち上げた。


「今日はねぇ、チキンカレーと、冷凍庫から出して茹でただけのブロッコリーと、昨日の残り物の野菜炒めだぜ~。へへへ、献立考えるのめんどくさかったんだ~」


 今日一番のおふざけ口調で返しながら、ひづりは話を聞いてもらってすっかりご機嫌になってしまった分かりやすい己を自覚して、ちょっと照れた。


『そっか、いいね、チキンカレー。うちも今晩カレーだといいなぁ』


 しかしアサカは笑いもせず、のんびりとした調子で返事をくれた。それがどうにもたまらなくて、ひづりは改めてお礼を伝えた。


「……聞いてくれて、ありがとうね」


 愚痴と、決意と、今晩の献立。そのどれもに対して。


『ううん、こっちこそありがとうだよ。私も勉強がんばるよ! じゃあ、またあとでね、ひぃちゃん』


 うん、また後で。そう言ってひづりは今日もまた押すのが名残惜しくなってしまった通話終了のボタンにそっと触れた。










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