第10話 『ハゲワシはその星月夜を待っていた』





 新宿駅から西へ高幡不動駅まで三十分ほど。それから多摩モノレールに乗り換えて、南へ数分。


 時刻は十時前。ひづりは目的地である多摩動物公園駅に一人、降り立った。


 駅を出るとすぐに集合場所である多摩動物公園の入場門が見えたが、そちらへ数歩進んだ所でひづりは思わず立ち止まって視線を上げ振り返り、つい先ほどまで自身が利用していたモノレールの仰々しい建築構造をした駅と、その彼方へ続く線路をぼんやりと眺めた。


 多摩動物公園には小学生の頃に一度学校の遠足で来た事があった。その時もクラスメイトらとモノレールに乗って、そして今と同じように入場門の前で頭上を走る線路と駅を見上げ、はしゃぐ男子たちとは同調こそしなかったが、けれどひづりもまたそれを「かっこいい」と思って眺めていた。あれから七年。高校二年生になって訪れた今もひづりは全く同じ感想をその胸に抱いていた。懐かしさと共に、子供っぽい自身の感性をくすりと笑った。これから全く大変な覚悟が必要だというのに。


 しかし同時に「これで良いのだろう」とひづりは思っていた。きっとこれから向き合うことは、変に気負わず、こんな風に自然体の心持ちで感じ取るべきことなのだろう、と、そんな気がしていたから。


「おはようございます、ひづり」


 入場門に在る巨大な象のモニュメントの足元にラウラ・グラーシャは居た。彼女はひづりが到着するとニッコリと微笑んで挨拶をした。まるで一昨日の夕刻の事など何かの嘘であったかのように、いつもの笑顔で。


「おはよう、ラウラ。晴れて良かったね。曇りの日だとたまに俄雨が降るって聞いていたから」


 しかし、やはり返すひづりもいつも通りだった。一昨日彼女から語られた事、天井花イナリから教わった事を全て受け止めた上で、ひづりは今日という日を迎える覚悟を決めていた。


「じゃあ、行きましょうか」


 入場券を買い、二人はゲートをくぐった。


 八月二十八日の午前十時。


 ひづりとラウラ。きっと最初で最後のデートが始まった。








「多摩動物公園…………むぅ……あまりに場所が悪いな…………」


 ラウラがメールで明日の会合場所に指定して来た場所。ひづりがすぐさまスマートフォンで検索し、その動物園の航空写真やホームページを表示して見せると、天井花イナリは予想以上に苦々しい反応を示した。


「場所が悪い……ですか? 私、前に一度だけ行った事がありましたけど、確かに山の中っていう珍しい動物園でしたが、それ以外には……」


「……いや、その山の中、というのがまずいのじゃ」


 ひづりが訊ねると天井花イナリは考え込むように触れていた自身の唇からその指を離しておもむろに振り返った。


「わしはこの場所自体行った事も無い故何も知らぬ。しかし『《グラシャ・ラボラス》と会うのが森の中である』、というその一点が実に非常にまずい」


 森の中だと、良くない……? ひづりは首を傾げた。


「……《グラシャ・ラボラス》は珍しい《悪魔》じゃ。その智慧や知識に関しては《ソロモン》に並ぶとまで言われておった、と言うたであろう。しかしその一方であやつは《子供》である、とも。わがままで、人見知りで、自分勝手で、甘えたがりで、嫉妬深い、やっかいな《子供》じゃ。その性格のありようは《悪魔の王》としてあまりに向いておらん。わしや《フラウロス》とは《王》という概念への考え方がまるで異なっておる。そもそもあやつは《王》の自覚すらないじゃろう。他者の上に立つ、という事へのこだわりや矜持というものがない。しかしじゃ。あやつは《王らしさ》は無いが、それでも《王》としての実力があり、十分な結果をもたらしておる。故にあやつは《王》足り得ておるのじゃ」


 王様、というもの自体、およそ二月前まで馴染みがなかったひづりには理解がなかなかに追いつかなかったが、大体彼女が言いたい事は分かった。


「……要するに、そこに王様らしさは無いけど、頭がとても良くて、結果も出してるから、だから王様として……《ソロモン王の七二柱の悪魔》の一柱として認められている、ってことですか……?」


 天井花イナリは再びひづりのスマートフォンの液晶画面に視線を落として頷いた。


「当然と言えば当然であるがな。《智慧の悪魔》と呼ばれるようになった《グラシャ・ラボラス》は軍勢を率いた戦争に於いて急速にその実力を上げ、他の追随を許さんようになった。人間の知識を学ぶということはその戦争の歴史も学ぶということじゃ。戦のいろはというものをあやつは《人間界》に召喚されるたびに学び、そして《魔界》に戻るとそれを己の王国の兵達に教えるようになった。故にあやつの軍勢はどこの国のそれより優秀なものとなっていった。……当時既に決められ始めていた遊びの戦争ではあるがな、先代の《ボティス》は先代の《グラシャ・ラボラス》と一度戦って、何と無様に惨敗した、と聞いておる。それほど《ソロモン》と出会ってからのあやつの成長は著しかった、とな」


 彼女は目を細めて視線を逸らし、自身の代のことではないとはいえその《思い出》がある故か、少し悔しそうな顔をした。


 ひづりも中々に衝撃的だった。その獰猛さで名を馳せたという《フラウロス王》と互角で、よく競い合っていたという《ボティス王》。そんな《ボティス王》を《グラシャ・ラボラス王》は前の代で一度負かしていた――。


 ラウラからは確かに普通の人間ではない雰囲気を感じたことはあったが、それでも天井花イナリが初めて会った時から纏い続けているその《王様っぽさ》と比べると、さすがにそこまでではないようにひづりは捉えていた。だから正直に驚いた。


 天井花さんは一度負けていた。ラウラに。


「……戦争はの、大体が王を殺せばそれで終わりであるが、まず軍勢同士での争いが初手となる。前線の状況は当然指揮する王の采配にかかっておるのじゃが……そこからもう《グラシャ・ラボラス》は違っておった。先も言うたように、あやつの軍勢は間違いなく《魔界》にあって最強格のものじゃ。何せその王があらゆる戦争の知識を持ち、日々学び続けておるのじゃからの。ただ、《グラシャ・ラボラス》自体はそこまで戦闘向きの《悪魔》ではないのじゃ。《魔性》は確かにわしや《フラウロス》ほどに高いが、けれど鋭利な剣や自在に伸びて捕縛などに使える頭髪も無ければ、その眼に映る範囲どこまでも火の海に出来るような力も無い。あやつの武器はその足の鉤爪と、飛翔して思い切り頭突きするくらいのものなのじゃが……しかしそれもまたあやつは上手に使うのじゃ。軍の指揮は執るが、しかしあやつの軍勢は基本的にあやつが居らずとももはや個々で判断して戦える域にまで達しておる。故に《グラシャ・ラボラス》は王であり指揮者でありながら、戦場よりその姿を幻の様に消すことが出来る。相手取った軍勢と王の死角をつぶさに見つけ出す眼と、そこへ素早く入り込む大胆さを持っておる。あやつは敵陣営の隙を見抜くと遮蔽物などにその身を隠して迂回し、そして手早く狙いを定めるなりにわかに羽ばたいて一気に加速、そうして砲弾のようになった自らを敵陣営に走らせる。強力な《魔性》を持つその《角》で頭突きをし、鉤爪で切り裂き、敵陣営が予想だにしていなかった部分を一直線に撃ち抜いて行く。前線の一部に穴を開けていく。……その穴が実に《痛い》のじゃ。あやつはそうやって、必ずこちらがその瞬間、一番取られたくない手駒を殺してくる……。一対一の対決ならばわしや《フラウロス》が有利であるが、しかし軍勢での戦いとなれば現在あやつに勝てる王国はおそらく《魔界》には存在せん」


 そんなに。そこまで言わせるほどのものなのか、ラウラ、《グラシャ・ラボラス》という《悪魔》は。ひづりは改めて彼女も《悪魔の王》であるということを再認識……いや、それ以上であったことを受け止めて息を呑み込んだ。


「ただ、今回だけは幸か不幸かの。三千年前《隔絶の門》が建てられた後もわしら《悪魔》は人間共の間に《召喚魔術》が残された事によって《人間界》に訪れる手段が残されたが、しかし軍勢を《人間界》に連れ出る事は出来んようになった。一度の《召喚魔術》で召喚される《悪魔》は原則として一体のみじゃからの。じゃからどの道、《グラシャ・ラボラス》と《人間界》で殺し合うなら一対一になる。ここまでならわしの方が有利ではあるが……先も言うたようにあやつは戦う相手の死角を読む眼を持っておる。故に森の中であやつと対峙するなど、常に背を向けて戦うようなものじゃ。あまりに不利が過ぎる。……今のわしらの読みが外れ、百合川の願いがもしひづり、お主を殺すことであった場合、森の中ではわし一人で守りきれるかどうか、怪しいぞ。……しかしあやつ、本当に何を考えておる……? 会合の場に森の中を選ぶなぞわしを警戒させるに決まっておろうに……。それとも明確に敵意を示したいのか? ……ひづり、前言撤回も止む無しかもしれぬぞ。あやつ、本当にただお主の感情につけ入って殺すつもりでおるだけやもしれんぞ」


 天井花イナリはいつも以上に真剣な眼差しと重い口調でそう警告した。


 まだ戦うことになるかどうかは分からないが、しかし《グラシャ・ラボラス》は確かに自身が優位である場所へと官舎ひづりを連れ出そうとしている……。それは動かない事実だと天井花イナリは言う。「ラウラと百合川を信じる」といった考えは取り消した方が良いかもしれない、と。


 けれど。


「……ごめんなさい、天井花さん。それでも私はラウラを信じたいです。百合川と話がしたいです。私に何か伝えたいことがあるなら、私のせいで何か苦しんでいることがあるなら、ちゃんと向き合ってあげたい。だから、すみません、お願いします」


 天井花イナリはひづりの眼を睨みつけるようにしていたが、やがてその視線を斜め上に投げると肩でため息を吐いた。


「頑固なことよ。……ああ、万里子もちよこもひづりも、まっこと親子であるな。敵わぬ」


 は、と笑って天井花イナリはその眉を八の字にした。


「良い。分かった。お主の期待に応えるがこの今のわしの務めなれば。承知した。それに不利とは言うたが、一応奥の手もある。……正直なところ使いたくはないのじゃがな。しかし他でもないお主の頼みならば良かろう、ひづり。……おそらくはその方が《ソロモン》も喜ぼうしの……」


 最後に彼女はそう零した。


「……《ソロモン王》? その奥の手って、《ソロモン王》と何か関係があるんですか……?」


 ひづりが首を傾げると彼女はふと我に返った様子でにわかにその顔を上げた。


「ん、あぁいや、すまぬ。口が滑った。それは訊くな。奥の手と言うたじゃろう。これは誰にも教えておらん、如何なる状況であろうと《グラシャ・ラボラス》に対し最も有効な一手と成り得るものではあるが、しかし一度用いれば無くなる物であり、そして知ればお主も《呪い》を貰うことになる。故に訊くな。そしてそのお主の固き決意で以って、わしがそれを使わずに済む道を辿ってみせよ。良いな?」


 天井花イナリが今しがた語ったその奥の手。どんなものなのかひづりには想像もつかないが、けれどそれほどに言うならきっと本当に大事な物なのだろう。


 彼女は今でも《ソロモン王》との《思い出》を大切にしている。その奥の手と言うのがそこから削り落とされるものであるなら、絶対に使わせたくない。


「わ、わかりました……!」


 だからひづりは改めて自身に戒めるように強く声に出して返事をした。


「ふふ。期待しておるぞ、ひづり」


「はい、頑張ります! ……でも、どうしても駄目だった時は……その、期待させてもらいます。その償いも覚悟しています」


 すると天井花イナリはにわかに目を丸くして、それから、ふは、と笑った。


「頑固は頑固でも母や姉と違ってやはりお主は可愛らしいことを言うてくれるのぅ。……気にしたか。それはすまぬ。じゃがお主のためならわしはこの奥の手を使うのも悪くは無いと思うておるのじゃ。じゃから教えた。ふふ。お主はわしの一番のお気に入りじゃからのぅ。故にひづり、お主はもう少し己を高く評価せよ。先も言うたが、奥の手のことは万里子にもちよこにも話してはおらん。使う気が無いなら初めから教えておらん。お主じゃから話したのじゃ。それをゆめ忘れてくれるな、我が《契約者ひづり》よ……」


 手を伸ばし、彼女はそっとひづりの頬を撫でた。


 少しばかり心配そうな色をその瞳に宿して。





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