『殺人』
「彼の名前は半沢章吾と言います。万里子と千登勢が再会する五ヶ月前の冬から、億恵と不倫関係にあった若者です」
《グラシャ・ラボラス》のそばにまた当然のように現れた《宙に浮かぶ表示盤だけのデジタル時計》としか表現しようがない不思議な文字盤が、一九八九、十、十五、を表していた。日付としては、先ほどの映像、扇万里子が救い出された日から六日後の事だった。
時計は現在停止しており、映し出された景色の中に佇む一人の青年は一通の手紙を見下ろした格好で硬直していた。場所は和式アパートメントの一室らしいが、引き払う時どうするのか、というくらい物が散らかって床や壁が汚れていた。
彼の顔色は酷く青かった。しかし生来彼がそういった病的な顔をしている訳ではないことを甘夏は知っていた。
「この時彼は二十一歳。はい、幸辰と万里子が十八になる年なので、つまりは甘夏と同い年です。更に言えば甘夏と同じ高校を出た同級生で、甘夏の知人です」
制止した無音の《過去》の中、《グラシャ・ラボラス》は彼にまるで興味がなさそうな視線を向けたまま淡々と説明した。一方甘夏は半沢の顔をあまり見られず、視線を逸らしていた。
「さて、彼がバカ面下げて読んでいる手紙ですが、内容はこうです」
『――妙な噂が流れてしまっている。猿舞組も犬祭組も、あなたが扇家のお金を持って北国に逃げたと思い込んでる。殺されるかもしれない。だからあなたはこれから、封筒に入っているもう一枚の紙に記載した駅のロッカーへ行って。そこに用意させた服とお金があるから、あなたはそれを持って沖縄へ渡ったあと、船で九州のどこかへ移動して隠れて。この手紙は道中の、なるべく東京から離れた場所のゴミ箱へ捨てて。無事を祈ってる。安全になったら連絡する――』
その内容を甘夏は知っていた。知らないはずがない。……忘れるはずがない。
「手紙にも封筒にも差出人は書かれていませんが、半沢のこの青ざめた顔を見れば、当時交際していた、そしてこの数日前に逮捕された扇億恵からの物だ、と察したと分かりますね。しかし、これを書いたのは億恵ではありません」
意味有り気に《グラシャ・ラボラス》から眼差しを向けられ、甘夏は思わず顔を背けた。だが暴露はすでに始まっている。隠す事に……逃げる事にもう意味は無い。
面を上げて息を吸い、そして口を開いた。
「……ええ。その手紙は、私が書いて、彼に送ったものだわ」
甘夏のその告白に、親族の誰もが振り返って戸惑いの声を漏らした。特に弟、幸辰の顔には狼狽の色すら浮かんでいた。当然だった。この、扇万里子、扇家、警察、《猿舞組》の件に当時、甘夏は一切関わっていない……そういう事になっていたからだ。
この二十七年間、ずっと。
「ひづりやちよこは知らないでしょうから補足しておきます。《犬祭組》というのは、
《グラシャ・ラボラス》は再び甘夏をちらりと見て眼を細め、愉快そうにその口元を三日月に歪めた。
「――しかし、この手紙が半沢の元に届いた十月十五日、まだその噂は流れていませんでした」
ひづり達は一様に首を傾げ、《グラシャ・ラボラス》と甘夏を交互に見た。
「これが、甘夏がした事なのですよ」
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