『願望召喚』





「ひづり、気持ちは分かるがそろそろ《グラシャ・ラボラス》から離れよ。こやつらに聞くべきことはまだあるでの」


 背後から掛けられたその焦れた声にひづりは我に返った。


「何ですか邪魔しないでください《ボティス》。いいじゃないですかハグくらい。盗ったりしませんよ。それとも嫉妬ですか。嫌ですね、心のお庭が狭い王様は」


 振り返ろうとしたひづりをラウラはその長い両腕で抱きしめ直し、天井花イナリを挑発した。


「だ、だめ、ラウラ、駄目だよ喧嘩ふっかけるようなこと言ったら」


 背中にかなり色濃い殺気を感じたため、ひづりはラウラの顔を見上げてその紫色の両手を軽く叩きながら叱った。すると彼女はちょっと悲しそうな顔をしてからすぐにひづりの体を解放した。普段のラウラ・グラーシャの言動からは少々意外に思える素直な対応だったが、それももうお別れの時間が迫っているからなのだろうと思えばひづりもやはり寂しさが胸に広がった。


「はぁ。良いですよ。私の都合で今まで黙っていてもらったんです。答えられることであれば答えますよ」


 ひづりの背をそっと押して天井花イナリの傍まで送ると、ラウラはため息と共に両手と翼をばさりと広げて眉を八の字にした。


「殊勝な態度のお主など気味が悪い事この上ないが、よい、この際気にすまい。では早々に聞かせてもらおう。百合川。お主、どうやって《グラシャ・ラボラス》の《契約者》になった?」


 天井花イナリはひづりと共に抱いていたその最も根幹的な疑問の答えをまず求めた。


 百合川臨が《召喚魔術師》でない事は、《過去視》が行える天井花イナリにはほぼ確実な情報として得る事が出来ていた。百合川の部屋に《魔術》に関する本は無く、またその十七年の生涯で《魔術》を用いた瞬間は無かった。


 正確な知識と技術でしか《魔術》は成立し得えない。《魔術》の勉強を始めた現在、ひづりにもそれは実感として理解出来ていた。ひづりやちよこの様に《召喚魔術師》から《契約印》を譲られ《悪魔》との《契約》を受け継ぐ、という事はあり得ても、何の繋がりもない状態から《魔術》を知らない人間がいきなり《悪魔》を召喚して《契約》する、などという事は絶対に起こり得ないのだ。


 ではなぜ《魔術》と触れ合った事がないはずの百合川が《グラシャ・ラボラス》という上位の《悪魔》と接触し、《契約》を交わす事が出来たのか? 今回の最たる謎だった。


「今日まで懐疑しておったが、実際こうして会えば驚く事にお主の身にはやはり《グラシャ・ラボラス》の《契約印》がある。しかしお主は《召喚魔術師》ではなかろう。一体、如何にしてこやつと出会ったのじゃ?」


 天井花イナリは百合川のそばに立つ《グラシャ・ラボラス》をちらと見た。


 改まった様子で姿勢を正した百合川は、しかし困った様にラウラと視線を交わしつつ、答えづらそうに話し始めた。


「はじめまして、天井花イナリ様。それが……きっとすでに《過去視》でご覧になっているかと思うのですが、一ヶ月前のあの日、本当に突然、ラウラ……《グラシャ・ラボラス王》は俺の前に現れたんです」


「百合川は嘘を言っていませんよ」


 助け舟を出すようにラウラが口を挟んだ。


「彼は本当にただの普通の人間でしたし、今もそうです。私と《契約》しているという点以外は、まるっきりただの十七歳の少年です。なのでその疑問に関しては私の方から答えた方が早いでしょう」


 一歩前へ出て、それから彼女はにわかにひづりを見つめた。


「《願望契約者》。一昨日、私にそれを訊いてきましたね、ひづり」


 その微笑みはまるでこちらの胸の内を見透かした様で、ひづりはつい気後れした。


「先月、千登勢や幸辰、それからちっこくなった《フラウロス》達を連れて行った岩国の旅行、《過去視》で見させてもらいました。当然、《ベリアル》との事も知っています。その時にひづりが《願望契約者》という言葉を知ったことも、あの後見て確認しました。不安に思っていたようなので言っておきますよ、ひづり。あれはあなたの聞き間違いなどではありません。《ベリアル》は確かに《願望契約者》と言っていました。そして《ボティス》から聞いている通りです。藤山も百合川も《召喚魔術師》でないにも関わらず、私や《ベリアル》といった《ソロモン王の七二柱の悪魔》と《契約》を交わしました。となれば、答えは一つです。《ボティス》。これまで確信が持てず、ひづりにも話していなかったこと、言ってあげたらいいですよ。それ、たぶん正解ですから」


 彼女は掌を上にしてゆるりと天井花イナリを指差した。


 確信が持てなくて話していなかったこと……? ひづりも傍らの天井花イナリを振り返った。


 彼女は難しそうに眉根を寄せてから、少し低い声で言った。


「……藤山、百合川と《契約》させるために、《ベリアル》と《グラシャ・ラボラス》を《人間界》へ召喚した者が居る。しかし、《過去視》でどこをどう見ようと、《ベリアル》も《グラシャ・ラボラス》もいきなり二人の人間の前に召喚され姿を現しておった。その近くで《召喚魔術》の行われた形跡が無いにも関わらずな。これらを鑑みれば、自ずと答えは一つに絞られる」


 天井花イナリの朱色の瞳がひづりに向けられた。それはこれまで何度も見てきた、彼女が重大な何かを伝えようとしている時の眼差しだった。しかし今回はそこに微かながら初めて見る種類の不安が滲んでいる様に思え、ひづりはにわかに緊張した。


 一つ息を吸ってから、天井花イナリは《グラシャ・ラボラス》の方を向いて続けた。


「現在、《人間界》に居るわしらがどうあっても知覚出来ぬ別世界の事象……。つまりは《天界》と《魔界》。そのどちらかで《ベリアル》と《グラシャ・ラボラス》の召喚儀式は行われた。ただし、今《人間界側》には《隔絶の門》が在るゆえ、《魔界側》から《人間界》への意図的な干渉はこの三千年、ただの一度も成功しておらぬ。……となれば、此度裏で何かを企んでおる何者かは、ほぼ確実に《天界側の者》という事になる」


 語り終えた天井花イナリの話は十分に理解出来たが、それでもひづりは呆気に取られた。


「百合川は、《天界》の何かに巻き込まれてる……って、そういうことですか……?」


 ひづりは二月前に《悪魔》と知り合い、そして先月には《ベリアル》という《堕天使》とも不可抗力ながら顔合わせをする羽目になって、そして今は《魔術》の世界に足を踏み入れ始めもした。しかし未だ《天界》も《魔界》も見たことがないのだ。それらがどういった社会構造を持っているのか、どういった生態で成り立っているのかなどまるで分からないのだ。それにクラスメイトの男子である百合川が眼をつけられたなど、余計想像に至らない。実感が湧かない。


「ハァイ。二人とも正解です」


 すると出し抜けにラウラはやたら明るい声と共に頭の上で拍手を打った。


「え……? は? 何、待ってくれラウラ? それ何の話だ? 聞いてないぞ俺?」


 百合川が眼を見開いて隣のラウラに問い詰めた。意外な事に、彼もそれは知らなかったらしい。


「ええ、言ってませんでしたから当然ですよ。とはいえ、正解なんて言ってしまいましたが、別に私も《天界》で何があったのかを見て聞いた訳ではありません。たぶん《ベリアル》もでしょう。私はあの日いきなり召喚されて《人間界》に連れ出され、百合川の前に立たされました。なので、それらの状況と《過去の記録》から《ボティス》と同じ考えに至った、という事です」


「何じゃそれは。答えではないではないか」


 不満を漏らした天井花イナリに、しかし《グラシャ・ラボラス》は笑って返した。


「いいえ? 私がその推理に至ったならほぼ正解と言って間違いありません。何せ、私の頭が導き出したのです。《ボティス》はともかく、私の頭がです。《ソロモン》に並ぶと謳われた私の頭が――」


「あぁあぁ分かった。もうそういう事で良いわ。続きを話せ、続きを」


 ふんぞり返った《グラシャ・ラボラス》に、天井花イナリは相手をするのも面倒という顔で手を振った。


「《天界》側で新たに何らかの《抜け穴》が発見されたのでは、と私は見ています」


 ふざけた態度を取っ払い、にわかにラウラは真面目なトーンで語り始めた。


「二〇一七年現在、人間が《悪魔》と《契約》するためには、是非も無く、人間側が《悪魔》を《人間界》へと呼び出す必要があります。何故なら《隔絶の門》が依然として《人間界》には在り、《悪魔》は《人間界》に自力で干渉が出来ないからです。これがこの三千年間固定されている、人と《悪魔》の間にある《契約》のパターンです。ここまでは良いですか?」


 ラウラに訊ねられ、ひづりも百合川も頷きを返す。


「では、それ以前、《隔絶の門》が立てられる紀元前千年より前はどうだったのか? はい、《ボティス》、説明」


 また指を差され、天井花イナリは眉根を寄せて顎を上げた。


「……《魔族》は皆、《魔界》より《転移魔術》で以って《人間界》へと臨み、《契約》を結びやすそうな人間を探して徘徊しておった……と聞いておるが」


「その通りです。と言っても、《ソロモン》が生きていた時代にはすでに《召喚魔術》は現在のものとほとんど変わらないくらいその手順が確立していましたから、今と同じように人間側が《悪魔》を呼び出すこともありましたがね。ただ当時はやはり《悪魔》側が《契約》を取りに行く方が、圧倒的に多かったのですよ。名誉、愛、金。《召喚魔術師》ではない、しかし命を捨ててでも叶えたい欲望を持っている人間なんて、あの頃はそれこそたくさん居たはずですからね。さてここで問題です」


 ぱちん、と鳴らした指を彼女はそのまま天に向けた。


「とある死んででも叶えたい《願望》を持った人間が居るとします。その人物の《願望》を仮に《A》としましょう。そして同時期、《人間界》に何かしらの目的を持って《転移》してきた《悪魔》……その《悪魔》の目的も、ほぼ《A》とします。共通の《A》という願いを持つ人間と《悪魔》……二人が出会う確率とは、一体どれくらいでしょう?」


「そんなもの計算でも何でもないわ。まず出逢わん。そもそも《人間界》へ赴く《悪魔》の願いなど、往々にして魂の獲得以外に有り得ん」


 一瞬考えかけたひづりの横で天井花イナリがばっさりと即答した。


「むぅ。つまらない王様ですね《ボティス》は。国民からの人気、下がりますよ?」


「知らん。しかしお主が言いたいことは分かった。わしもそれは考えんではなかった故な」


 天井花イナリのその一言に今度はラウラが顎を上げた。


「……へぇ。じゃあ答えてもらいましょうか、《ボティス》?」


 腕を組み、さぁどうぞ、という具合に彼女は頷いて見せた。


 ちらとひづりを横目に見てから、天井花イナリはその口を開いた。


「店でわしらに恥を掻かされたと捉えた藤山倫代は、そこに命を懸けるまでの覚悟があったかは知らんが、《和菓子屋たぬきつね》の人間への報復を願っておった。そして《ベリアル》。あやつは日本の《神性》に縛られ変容しておったわしを本来の《悪魔》の姿に戻す事にこだわっておった。ああいう奴ゆえにやはり異端の行いを許せんのであろう。これらは一見何の関わりも無い様に見えるが、しかし実際、《ベリアル》はわしを《魔界》に帰したと判断した後、ひづりたちを殺そうとした。わしを誑かした罪人じゃとかなんとか言うてな。つまりあやつの目的は第一にわしを《悪魔》に戻すこと、そして第二にその後でわしを変容させた人間連中を抹殺すること。この二つであったのじゃ」


 あ、とひづりは気づいて百合川を見た。彼も感づいたらしく、視線が合った。


「百合川はひづりの周囲に発生する……その、《百合》じゃったか。それを見たいと願っておった。《グラシャ・ラボラス》の願いは、ひづりの周囲の親類、その人間関係に於けるわだかまりの解消であった。これも奇しくも、《グラシャ・ラボラス》が目的のために引き合わせたひづりと千登勢たちの会話が、そのまま百合川の願う《百合》の達成となっておった。……要は」


 《グラシャ・ラボラス》の眼を見つめ、天井花イナリははっきりと言った。


「同じ《願望》を抱く人間の許に、まるで宛がう様に《悪魔》が召喚されておる、ということであろう。それも気色が悪い、《天界側》の何者かが、その気の知れぬ企みで以って」


 ぱちぱちぱち、と三度ラウラは手を打った。


「大正解です。本来ならまず出逢うはずの無い、《魔族》としては異質な《願望》を持つ《悪魔》と、それに類似した《願望》を持つ《魔術師》ですらない人間が引き合わされている……。そんなもの、どう考えたってこの人間と《悪魔》の歴史に於いて異常事態以外の何ものでもありません。最初は、低い可能性ではありましたが、《隔絶の門》がうっかり開いてしまってこんな偶然が起こったのでは? とも考えましたが、確認してみると《門》は相変わらずイェルサレム神殿の隣にブッ刺さったままでした」


「であろうな。もし《門》が開くような事があればとっくにわしらの同胞がわんさと《人間界》へ登って来ておるはずじゃし、《天界》の連中も三千年ぶりに槍を持って《人間界》へと降りて来ておって然るべき。しかしそうなっておらん」


 補足するように話を繋げた天井花イナリに、しかしラウラは急にその顔を少し暗くした。


「万里子の魂を回収してからの二ヶ月、私はずっとこの日の事を願い続けていました。ひづりと会って、話をしてみたかった。早く早く、誰でもいいから私を召喚して《人間界》へと連れて行ってくれないか、と、焦っていました。そうしたら先月末です。《魔界》に何の事前告知もなく、私はいきなり召喚の《魔方陣》に呼ばれて《人間界》へと引き上げられました。百合川が《召喚魔術師》でないことは一目でわかりましたが、あの時の私はそんなことはこの際関係ない、場所もひづりのすぐ近くで、何より彼の望みがひづりに害を成さずに関わることであるというなら丁度いい、と即座に《契約》を結びました。一体誰が私を召喚したのか、とか、あまりに出来すぎた出会いではないか、といったことを考えられるようになるには少し時間が掛かりました。あの時は本当に、ひづりに会いにいけるとわかった事がうれしかったのです」


 恥ずかしそうに彼女はひづりに微笑んだ。


「共通の《願望》を持つ者同士を引き合わせる《召喚契約》……じゃから《願望契約》か。そして恐らくは《ベリアル》と藤山もお主らと同じであった、と。ただ《願望契約者》という単語を口にしておった以上、あるいはあやつらの方がまだ何か知っておる可能性もあるが……あいにく《ベリアル》の奴はこの間殺したばかりじゃからな。加えてあやつが《魔術師》でもない《契約者》に事情を逐一説明しておるとも思えぬ。分からぬことは依然多いままか。しかし此度の当事者であり……あまり褒めてやりたくはないが、他でもないお主がそう結論付けたのであれば間違いなかろう、《グラシャ・ラボラス》。一応礼を言う」


 腰に手を当ててふんと息を吐いた天井花イナリに、ラウラはにわかに眼を剥いた。


「一応ってなんですか。誰のおかげでその小さなおつむで練ったせいぜいの考えがこうしてちゃんとした確実性を持ったと思っていますか!」


「召喚されておきながら召喚した者が誰かも分からんなどと抜かす奴に頭の大きさを指摘される筋合いはないわ。加えて敵の正体も目的も分からんのであれば、何じゃ、結局わしらのやる事は変わらんではないか。それでどうして如何にも役に立った、というような面が出来るのか、説明できるならしてもらいたいところじゃがの」


 ごつん、と互いの額をぶつけて二柱の《悪魔の王》は至近距離で睨み、罵り合い始めた。またか、とひづりが呆れる傍ら、「……悪魔の女王様同士の口喧嘩……やっぱり悪くないな……」とでも言いたげな顔で百合川は口元に手を当てて二人の様子をじっと眺めていた。そうだよなお前はそういう反応だよな。


 喧嘩が激化するとまずいので止めるべきかとひづりは思ったが、しかしすぐに開きかけた口を閉じた。


 《ボティス》と《グラシャ・ラボラス》は、それこそ人間の自分には想像もつかないほど昔から親しい友人だった。だからだろう、普段大人っぽい天井花さんはラウラの前でだけこんな風に子供っぽい言い争いをする。


 この後ラウラは《魔界》に帰る。また、二人は会えなくなってしまう。もう一柱の知己、《フラウ》が凍原坂と一緒に《和菓子屋たぬきつね》に通うようになってからの天井花イナリを見てきたひづりとしては、やはりそれは寂しいことだと感じた。


「《ボティス》なんてそのまま一生神社の置物にでもなってたらいいんです!!」


「お主の様な騒々しいのが居ったのでは《人間界》のハゲワシ共が哀れに過ぎよう! さっさと《魔界》に帰れこの鳥頭!!」


 ……寂しい、のかな?









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