『最後の朝』





「……てください。ひづり。朝ですよ。起きてくださーい」


 体を揺する振動と自身の名を呼ぶその声に、ひづりの意識は徐に覚醒した。


「あ、起きましたか? おはようございます。今日の天気は晴れですよ。気温は大体二十三度くらいで、雨は降らなさそうです。朝を過ぎればまた暑くなりますが、まだ四時半なので外に出るには上着が必要だと私は思いますね」


 ラウラが何か喋っている、が、寝起きのひづりの頭にはほとんど入ってこなかった。


 …………ラウラ?


 なんで、彼女が私の部屋に居るんだ……?


「何してるのラウラ……」


 ベッドに仰向けで横たわったままひづりは両手で顔を覆い、まだ上手に出ない声で訊ねた。


「いやですねぇ。昨晩、また朝方に会いに行くって言ったじゃないですか。ふふふ。寝ぼけたひづりは可愛いですね。お布団入っても良いですか?」


「だめ……」


 ひづりは昨夜の事を順々に思い出し始めた。


 昨日、ラウラを見送ったひづりは天井花イナリの《転移魔術》で一度《和菓子屋たぬきつね》へと戻り、和鼓たぬこと少し話をした後、三日ぶりに南新宿の自宅へと送り届けられた。当然と言えば当然だが、父が凄まじい勢いで抱きしめて来てしばらく離してくれなかった。


 ラウラがあの山中広場に張っていた《結界》。障壁としての効果は無かったらしいが、《ベリアル》の時と同じく電波障害が伴っていたらしい。ラウラに《転移魔術》で家へ送り届けられた幸辰はあの後ひづりの携帯に何度も連絡を入れたらしいが一切通じなかったという。確認すると甘夏や紅葉からもかつてない量のメールと留守電が届いていた。


 一人一人に電話をかけて安否の報告を終え、ひづりがようやくベッドに入れたのは十二時を過ぎてからだった。


 部屋の掛け時計を確認する。朝の四時半。まだかなり眠かったが、ひづりはどうにかもぞもぞと上体を起こして傍らのラウラを見上げた。


 今彼女は《グラシャ・ラボラス》ではなく、一月前に転校してきた時と同じ、今となっては本当かどうか分からないが、オーストラリアの高校の制服を纏ったラウラ・グラーシャの姿で立っていた。恐らく寝起きに《グラシャ・ラボラス》の姿を見て自分が驚かない様に、という配慮なのだろう。


 そこでひづりは一つ見慣れない物を見つけ、また少し目が覚めた。


「ラウラ? それ、何?」


 彼女の足元にはうっすらとだが直径一メートルほどの《魔方陣》が描かれていた。昨晩何度か確認した《グラシャ・ラボラス》固有のものかと思ったが、どうも模様が違うようだった。


 ラウラはその《魔方陣》をちらと見下ろしてから困ったように笑った。


「何のことはありません。『魔力は尽きて、結んだ契約も完遂したから、もうじき魔界へ戻るよ』という、目印のようなものです。不恰好なのであまり見ないでください」


 そうして照れくさそうにスカートを摘んでひらひらさせた。


 《魔界》に帰る。その一言を聞いてひづりは今度こそ本当に意識と記憶がはっきり繋がった。


「帰るん……だね。これから、もうすぐに? 天井花さんには会ってきた?」


 ベッドに腰掛けてひづりが問うと彼女はにっこりと笑った。


「ええ。さっきお店へ行って叩き起こして来ました。《門》に出向いて多少分かった事もあったので、ついでにそれも伝えておきました。後で彼女から聞いてくださいね」


 そう言いながら彼女は踵を返すとクローゼットを開け、何やら勝手に服を漁り始めた。


「さて、何を着て行きますか? あっちはたぶん日本より少し寒いので長袖を出した方が良いかもしれませんよ」


 取り出した服を次々にベッドの上へ並べ始めたラウラに、困惑しつつもひづりは制止の声を掛けた。


「待って、待ってラウラ。話が見えないんだけど」


 行く? 日本より寒い? その言い方だとなんだかまるでこれから自分は国外の何処かへ出掛けるみたいではないか。


「何を言っているんですか。イギリスに行くんですよ。聞いていませんでしたか?」


 一言も聞いてないですが。


「え、ちょっ、と、父さんは知ってるの?」


 発見した秋物のジャケットをひづりの体にあてがい具合を見つつ、ラウラは答えた。


「知りませんよ。《ボティス》には言ってありますがね。ただ気負う事はありませんよ。《転移魔術》でパッと行ってポッと戻って来るだけですから。あ、これで行きましょう! 大人っぽくて良い感じです。さ、脱いでください」


 衣装を決め終えるとそのまま彼女はひづりのパジャマのボタンに手を掛けた。


「だっ! 分かった出掛けるのね分かったよ! でも着替えは一人でやるから! 大丈夫だから!」


 飛び退くようにベッドへ転がったひづりを見てラウラは残念そうに眉を八の字にしたがそのまま肩を竦めて大人しく引き下がってくれた。


「じゃあ私は部屋を出てますね。終わったら呼んでください」


 扉を開け、彼女は廊下に出て行った。昨夜は同じくらいの時間に寝たはずなので父もたぶんまだ眠っているだろうが、もし起きて来たらちょっとした騒ぎになりそうだな、と思いひづりはなるべく早めに着替えを済ませた。


「じゃあ行きましょうか。数分ばかりのイギリス旅行、レッツゴーです」


 ひづりが身支度を終え最後に玄関で靴を履いたのを確認するとラウラは《認識阻害魔術》を掛けてから互いの足元に《転移魔術》の《魔方陣》を描いた。









  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る