『きっともう戻れない』




「さて、ずいぶん話し込んでしまいましたね。《ボティス》の話に付き合うのも骨が折れるというものです。百合川との《契約》が果たされた今、時間が無いのは変わっていませんし、そろそろ私も最後の仕事をして来なくてはいけません」


 背筋を伸ばし、ラウラは陽気な調子で口角を上げた。彼女がまともに口を利いてくれる様になるまでに要した時間は実に三十分あまり。天井花イナリのその白い狐耳は今、力無くしな垂れていた。


 意外なことに、駄々をこねるラウラに彼女は本当にずっと謝っていた。ただそれは罪悪感というより、彼女自身の性格が多分に関わっているように見えた。


 これまで見てきた和鼓たぬことの接し方から何となく想像はしていたが、どうやら天井花イナリは根っからの《お姉さん体質》らしく、子供、あるいは子供っぽい対応をされるとどうにも弱いらしいのだ。


 だから様々な理由こそあれ、彼女が自分の様な若造に優しいのも、子供になってしまった《フラウロス》を客として迎え入れたのも、本質的にはそういった部分が大きいのではないか、とひづりは改めて思うに至っていた。


「最後の仕事? そういえばラウラ、時間をずっと気にしてたけど……」


「《滞在権》の話じゃ」


 三十分にも及ぶでかい子供の相手で疲れているだろうに、しかし隣の天井花イナリは首を傾げたひづりに対し虚ろな瞳で説明してくれた。


「基本的に、《召喚魔術》で呼び出された《魔族》は《人間界》に滞在し続けるため、《契約相手》である《召喚魔術師》の《魔力》を消費し続ける。言うておらなんだが、本来《契約印》とはこのためにあっての。《契約》達成のために《魔族》がどれだけ《魔力》を消費したとしても、《召喚魔術師》から《契約印》を通して終始最低限の《魔力》を得られておれば確実に《人間界》に滞在し続ける事が出来、必ず最後にはその魂を取り立てられる。言わば保険のようなものじゃ。しかし百合川は《召喚魔術師》ではない。故にこやつは今回、初めから自力の《魔力》だけで《滞在権》を維持し続けておったのじゃ。またこうして《契約》さえ達成してしまえばわしら《七二柱の悪魔》でなくてもしばらくの間は《人間界》に存在し続けられるが……しかしこやつは今日、体内の《魔力》をほとんど使いきった。恐らくは長くて半日……いや、それ以下であろう。明日の朝には《魔界》へ強制送還、という事よ。じゃからもう早ぅ帰れ……」


「要らないことまでつらつらと解説どうもです《ボティス》。そういうことですひづり。百合川との《契約》、そして私が願った千登勢たちとの会合。その達成のためには今回あまりに時間が足りず、すごくすごく慌しくありました。《願望召喚》について調べる暇も無いほどに。ですがもう《契約》は片付きました。数時間ばかりですが、後は私の自由時間です。とりあえず《隔絶の門》へ赴いて、何か異常が無いか調べてみます。まぁ分かりやすい何かがあるとは思えませんが、あれくらいしか私達には当てがありませんからね。ついでに懐かしのイスラエル観光でもして来るとします。もし何か分かったら、《あっち》に帰る前に顔だけは出しに来ますよ」


 そよ風を受けたばかりのその両翼はそれだけで彼女の体をふわりと浮かせ、そしてただ一度の羽ばたきで数メートルも夜空へと舞い上がらせた。


「それではまた。たぶん明日の朝方にまた戻って来ますね。いってきます、ひづり」


 にっこりと笑顔を浮かべた彼女はひづりが手を振ったのを確認すると更に数度羽ばたき、その漆黒の体を星空へと溶け込ませてあっという間に見えなくなってしまった。


「……行っちゃいましたね」


 ラウラが飛び去った彼方を見上げたままひづりはぽつりと呟いた。


 一昨日の夜、初めて《グラシャ・ラボラス》としての姿を現したラウラ・グラーシャは今と同じように羽ばたいて代々木駅の夜空に消えて行った。一方的に猜疑心と寂しさをひづりの胸に残して。


 だが今は、もう何の痞えも無いただただ穏やかな心でひづりは彼女の飛翔を見送った。いつかあの翼に乗って、一緒に大空をゆく事を許してくれるだろうか、などと、そんな事を想うほどに――。


「……天井花さん?」


 空想にふけっていたひづりだったが、ふと天井花イナリの反応がない事に気付き、振り返った。


 彼女はもう空を仰いでおらず、その俯き気味の横顔は何かを思い詰めている様子だった。


 やがて徐にその朱色の瞳を上げると彼女はひづりに言った。


「わしは、お主にも頭を下げねばならん。期待せよと言うたそれを、わしはあの時無下にした……」


 気後れし、ひづりは咄嗟に言葉が出なかった。


 悲しみや物憂いではない、それはこの二ヶ月の付き合いで初めて見た、天井花イナリの自虐的な面持ちだった。


 いつも自信に溢れ、強気な態度が誰より似合う彼女の、そんな表情。


 何があったのかまるで分からず、ひづりは続けられた彼女の言葉をただ聴いた。


「……《契約》によって得た魂には、やはりわしらは敬意を払う。人の魂なぞ、頭でも心臓でも、肉体を物理的に壊せば奪えるものではあるが……しかしその際に得られる魂の質というのはあまりに粗末での。同じ人間から奪うにしても、ただ殺して奪うより、《契約》によって得た魂の方がその質は何十倍、時には何百倍と価値が跳ね上がる。……原理は知らぬが、昔から少しも変わらず、人の魂とはそういうものであった。故に…………ああ、言い方が他に見つからぬ以上、こう形容するしかないが……」


 天井花イナリは自身のその小さな白い掌を見下ろした。


「わしらにとって《契約》とはの、お主らや《天使》共の言う《信仰》のそれに近いのじゃ。特にわしら、得た魂が直接王国民の糧として分配される《悪魔の王》であれば、尚のこと……。国を、民を維持するに足る価値を持った魂、それを得るに至った《契約》は何より尊ぶべきものである、とな。まぁそこは《王》にもよるのじゃが……。……《グラシャ・ラボラス》は、あやつはどちらかと言うと、あまりそういった事を大切にせぬ性分であった」


 彼女はラウラが飛び去ったその空を見上げた。


「効率的で、興味の無いものにはまこと無関心で……民が飢える事よりも自分が楽しい事を優先するような、実に奔放な性格であった。……そんなあやつが、一度だけ人の魂を尊んだことがあった。他でもない、《ソロモン》よ。前に、あやつはわしら《七二柱》の中でも特に《ソロモン》に懐いておった、と言うたな。《天界》と《人間界》が徒党を組み、《魔界》との最終戦争を企て、そしてその戦端が間も無く開かれよう、という頃じゃった。《ソロモン》はある過失を咎められ、《天界》と《人間界》の同盟軍に責め立てられた。そして王としての立場を追われた後、処刑された」


 月明かりに光る彼女の朱の瞳が一瞬だけ悲しげに震えたのをひづりは見た。


「その時、やはり《天使》の連中は死んだ《ソロモン》の魂を《天界》へと持って行こうとした。そこへ《グラシャ・ラボラス》は介入した。人間だけでなく《上級天使》の兵も大勢居たその処刑場に単身で乗り込んだあやつは《ソロモン》の魂を奪い取る事に成功するも、瀕死の状態で《魔界》へと戻って来た。……あの時のあやつの顔はわしの《思い出》の中でも特に色濃く残っておる。童の様に泣きながら、これだけは誰にもくれてやるものか、と、千切れかけた腕で《ソロモン》の魂を抱きかかえておった。その《能力》ゆえに需要が高く人間共から頻繁に召喚されるあやつにとって、数多の《契約者》の魂なぞどれも同じで見るべき価値すらない。しかし、《ソロモン》や万里子のように気に入った者の魂はあやつにとって何よりも尊ぶべきものであり、恐らくは世界で他に代えることの出来ぬ一番の宝物なのであろう」


 振り返り、その眼差しが再びひづりを捉えた。


「あの時、わしが剣を下ろしたのはそういう理由からなのじゃ。万里子の魂を取り出して見せたあやつの顔が、……《ソロモン》の魂を抱きかかえて逃げて来た時と、わしにはどうにも似て見えた……。……お主にはわしを罵る資格がある。わしはあやつの泣き顔というものを、もう……見たくないのじゃ。じゃからわしはあやつに、信じるという姿勢を見せてしもうた。あやつがまだ、ひづり、お主に対し敵意を持っておらんとは言い切れん状況であったにも関わらずの……」


 うつむき、それきり彼女は黙り込んでしまった。


 紅葉の悩みを解決するため、ラウラはひづりの母、官舎万里子の魂を取り出した。人の魂というものを初めて見た、それも自身の母のものだというそれにひづりは当然戸惑ったが、あの時は剣を下げた天井花イナリの言葉に従うまま、ラウラから受け取ってその腕に抱きかかえた。


 天井花イナリはあの時、回収した魂を人間に見せるのは《悪魔》にとっては覚悟の証だと言った。魂に対し敬意を持つ《悪魔》は、その前では決して不逞を働かない、とも。


 しかし《グラシャ・ラボラス》に至ってはその思想は本来当てはまらない、と、彼女は今更になってそれを打ち明けた。


 百合川の思惑もまだあの時点では分かっていなかった。つまりまだ十分に過ぎるほど、死の危険がひづりには迫ったままだった。にも関わらず、天井花イナリはその護りを放棄した。知己、《グラシャ・ラボラス》の涙を見たくないという理由で、《契約者》を完全な無防備に晒した。


 ひづりに対し、期待せよ、と言ったにも関わらず。


 それを彼女は自責しているらしい。自身の言葉を偽った事を悔いて、こんな、今まで一度も見せた事の無かった痛々しい色をその眼差しに宿している。


 王様で、《悪魔》で、とても仕事の出来る職場の先輩。かつては彼の《ソロモン王》に最も頼られた一柱であり、そして凄まじい力を持っていたという《フラウロス王》に唯一認められた好敵手。


 ……けれど、そうなのだ。ひづりは先ほど確信した、彼女の性分とも言うべきそれを想った。


 彼女は優しいのだ。自分を慕う、子供というものに。


 天井花イナリにとって、官舎ひづりも《グラシャ・ラボラス》も、きっと同じように護るべき子供だったのだ。


 だから彼女はあの瞬間選んだ。一番傷ついて欲しくない友人の心を優先した。官舎ひづりの命、ひいてはその死によって失われる、自身と和鼓たぬこの《和菓子屋たぬきつね》での生活。それらよりも、彼女は《グラシャ・ラボラス》の心を優先した。ただ彼女に泣いて欲しくないから、という理由で。


 自分は怒るべきなのだろう。《王》としての立場を持ちながら、その「必ず護る」という言葉を偽った彼女に。


 ……しかし。


「天井花さん」


 一つ息を吸ってからひづりは声を掛けた。彼女は顔を上げ、あらゆる言葉を受け止めるという真っ直ぐな瞳をひづりに向けた。


「……天井花さんにとって、ラウラが、《グラシャ・ラボラス王》がどれくらい大切な友達なのかは、きっと人間の私にはこれからも分からないんだと思います。人間と《悪魔》、その違いを実感として得るには、私にはあまりに時間が足りません。……でも」


 ひづりは一人の幼馴染の顔を頭に浮かべ、それから彼女にゆっくりと伝えた。


「私にも、泣いて欲しくない友達はいます。笑っていて欲しい友達がいます。だから私には、今回の天井花さんの行動を責める気にはなりません。それに何より、昨日天井花さんが言ったんですよ。《グラシャ・ラボラス》を信じるなら覚悟が要る、って。そうしてラウラを信じたいって言った私と一緒に、天井花さんもラウラの事を信じてくれました。きっとその天井花さんの判断が、今日のこの結果への道のりを確かなものにしたんだと私は思っています。ラウラを信じる天井花さんだから、ラウラも天井花さんを信じてくれた……それが全部なんじゃないですか」


 ひづりの胸には彼女に対する怒りどころか失望の感情さえなかった。むしろ、こうして彼女の告白を聞いて嬉しいとさえ感じていた。


 当然その差はあれど、官舎ひづりにとってもラウラ・グラーシャは大切な友達だったから。


 《グラシャ・ラボラス》もきっと今日、《ボティス》に信じてもらえて嬉しかったはずだから。


 天井花イナリは眼を見開いて、それから徐に仄かな笑みを湛えるとそっと眼を伏せ、また月を見上げた。


「……ひづり。お主はきっと、まこと良き《魔術師》になるのであろう。わしら《悪魔》にとっても、人間にとっても……」


 彼女はひづりの手を優しく掴むと、その指先を自身の後頭部から伸びた朱色の《角》にそっと触れさせた。


「わしは必ずお主にこの償いをする。二度とお主の期待を裏切らぬ事をこの《魔性》に誓う。命ある限り、我が剣はお主の敵を屠り、我が肉体はお主の盾となろう。何があろうとお主だけは護ってみせる。誰が敵であろうと、この身に何が起きようと、必ず――」


 涼やかな初秋の夜風がまた広場の静けさに枝葉のこすれる音を残し、流れ去っていった。


 きっともう普通の人間には戻れない、官舎ひづりの体温を少しだけ攫って。











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