第11話 『落ちて尚、牡丹の香りは鶴が為』
「『万里子さんを……殺した』……? ……ラウラちゃんさ、言って良い事と悪い事があるでしょ。それにその格好は何? 姉貴たちも居るし……。何これ、どういうこと?」
やはり最初に啖呵を切ったのは紅葉だった。仕方ないことだが《悪魔》の事を知らない彼女は《グラシャ・ラボラス》のその姿を化粧か何かだと思っている様子だった。
「お祭の日以来、お久しぶりですね、紅葉。ですがこれは冗談ではありませんよ。信じられないなら、兄か、姪に訊いて下さい」
「はぁ……?」
紅葉は戸惑った様子で隣の兄とちよこ、そしてひづりを振り返った。
しかし幸辰は一度ひづりの方を振り返ったばかりでそれからはじっと《グラシャ・ラボラス》を見つめて硬直していた。
「やめてくれ、《グラシャ・ラボラス》……!」
そしておもむろに一歩踏み出して彼女に訴えた。
「何でだ……? どうしてこんなことをする……? 君に何の利益があるんだ? 誰が喜ぶんだ? 万里ちゃんと君は親しかったはずだ。そして君は賢い《悪魔》だ。私達を……紅葉やひづりを集めて、《それ》を全員に話して、一体何になるって言うんだ。そんなことを万里ちゃんは望んでない。そんな事は君にだって分かっているはずだ。それを何故、今になって……!」
「あ、兄貴……? 何言ってるの……? あれはラウラちゃん――」
「いいえ、驚きはしないわ」
紅葉の言葉に被せるように甘夏が少し声を張った。
「姉さん……?」
「姉貴……?」
弟と妹だけでなく広場全員の視線が甘夏に集まった。
甘夏さんも《グラシャ・ラボラス》のことを知っている……? 予想もしていなかったためひづりも戸惑い、伯母の背中を見つめた。
「万里子ちゃんが《悪魔》関連のことでイギリスに行っている事は分かっていました。本気にはしていなかったけど……。でも、さっきのは《魔方陣》ね……? 私達に瞬間移動……みたいなものを使ったの? それにあなたの姿……《悪魔》……万里子ちゃんの突然死……。……ええ、やっぱり驚かないわ。むしろやっと答えが見つかったという感じ。でも、信じたくはなかったわ」
「ちょっと待ってったら! 何言ってんの姉貴まで!? 酔っ払ってんじゃないでしょ!」
紅葉が甘夏に掴みかかって怒鳴りつけた。
「手を離しなさい紅葉」
甘夏は紅葉の手をひねり上げてこかした。土埃の中に倒れこんだ紅葉はすぐさま立ち上がって姉に再度掴みかかろうとしたが、それより気に食わないとあってだろう、途中で止まり、《グラシャ・ラボラス》の方にその顔を向けた。
「信じないわよ。何が《悪魔》だ! 姉貴と揃って悪趣味な悪戯しやがって!!」
紅葉はずんずんと歩み寄ると見上げる高さにある《グラシャ・ラボラス》の頬に思い切りビンタした。
「…………ッ!」
しかし《グラシャ・ラボラス》は少しも動じず、一方紅葉はビンタした自身の右手を押さえて前かがみになった。
「紅葉!! 駄目だ、痛かったろう!? 見せてごらん、さあ!!」
幸辰がすぐさま駆け寄り、うずくまるようにした紅葉の手を案じた。
するとふわんとにわかに直径二十センチほどの《治癒魔術》の《魔方陣》が《グラシャ・ラボラス》の手のひらに現れ、そのまま紅葉の右手へと放り投げられた。右腕を貫くなり《魔方陣》が放つ紫色の光は強まり、紅葉は戸惑いの表情を浮かべた。
「痛みが引いたでしょう。実体験して、理解出来ましたか?」
《グラシャ・ラボラス》が淡々と述べると紅葉は再び彼女を睨みつけた。
「紅葉。あなたがそう来るだろうことは予想していました。この中で一番、この真実を受け入れられないのはあなただろう、と。ですが、後ろを見てください。ひづりはあなたがこれ以上怪我するのを望んでいません。私もなるべくですがひづりの大切な親族を傷つけたくはありません」
紅葉はぴくりと肩を揺らしてそれからゆっくりとひづりの方を振り返った。
「本当なんです、紅葉さん」
「ひづりちゃんまで……!」
頷いて見せたひづりに紅葉は悲鳴に近い声を上げた。
「はぁ。どうも私一人では信憑性に欠けるようですね。……ちよこ、面倒です。《ボティス》に掛けている《認識阻害魔術》、解除してもらえますか」
白羽の矢が立ち、広場の視線もちよこに集まった。
「え、は? ちよこちゃん?」
冗談でしょ? と引き攣った笑顔で紅葉はちよこに問うた。
「……しなかったら、どうなるのかしら」
しかしちよこは紅葉に視線すら返さず、表情の無い声音で探るように《グラシャ・ラボラス》に訊ねた。
《グラシャ・ラボラス》は眼を細めて軽く顎を上げた。
「利き腕の右肩は療養中。《ボティス》との《契約印》が切れたことであなたの《魔力》は無尽蔵ではなくなった。《魔術》のいろはは一応その頭の中にある様ですが、あなたは《魔術師》としての才能と修練があまりに足りていません。何より、ひづりは私の意向に同意しています。そして争いになることをひづりは望んでいません。……しないという判断、あなたには出来ないと思いますが?」
攻撃的な声音で脅すように返した彼女にちよこはしばらく無言だったが、やがてひづりを振り返るとその隣に居る天井花イナリの方へその左の掌を向けた。
天井花イナリの足元に《認識阻害魔術》の《魔方陣》が現れ、それはゆっくりと上へスライドし、彼女を薄桃色の光で包んだ。
「イ、イナリちゃん!?」
紅葉が声をうわずらせた。頭から生えた狐の耳。顎を覆う、後頭部から生えた巨大な《角》。髪はブロンドではなく絹の様な白髪で、瞳は青でなく宝石の様な朱色。ひづりやちよこに普段見えている彼女の本当の姿が、《認識阻害魔術》が解除されたことで紅葉たちの眼にも正しく見えるようになったようだった。
天井花イナリの着物を仕立てたのは紅葉だ。その全身の寸法を紅葉自身で計測した。だからこそその衝撃は一番大きかったらしい。
「天井花イナリは偽名です。彼女の本当の名前は《ボティス》。私と同じ《ソロモン王の七二柱の悪魔》の一柱で、今はひづりと《契約》の関係にある《悪魔》です。ただ安心してください。契約時に万里子が細工を施したおかげで今の《ボティス》は純然たる《悪魔》ではなくなっています。端的に言うと、人間の魂を奪えない状態になっています。ですからひづりが彼女に殺される危険は無いです。加えてひづりも最近は万里子やちよこと同じく《魔術》の勉強を熱心にしています。ちよこはあまり魔術師に向いていませんでしたが、ひづりには才能があります。おそらく万里子に似たのでしょうね」
《グラシャ・ラボラス》は淡々と補足を入れた。
「待って、待って待ってったら!!」
紅葉はしゃがみこんで頭を抑えた。
「訳わかんないよ……何言ってんのみんなで……やめて……」
「紅葉さん……」
困惑に泣き声を漏らした紅葉にひづりはそばに寄ってその肩に触れた。
「ひづりちゃん……。嘘……嘘だよね……?」
顔を上げるとひづりの眼を見つめて紅葉は迫った。ひづりは紅葉の手を握って、なるだけ優しい声を心がけつつ説明した。
「紅葉さん。本当です。でも、本当に大丈夫なんです。少なくとも天井花さんは私達の味方です。母さんが遺してくれた、とっても強くて素敵な人なんです。だから怖がらないであげてください。それと、今まで黙っていてすみませんでした、紅葉さん、甘夏さん。私の母は《召喚魔術師》でした。《悪魔》を召喚して利益を得る、その研究に打ち込むためにイギリスに居た、と、私も最近知りました」
「そういうことじゃ。万里子、そしてちよこに《契約》で縛られておった時は実に不愉快な思いをさせられておったがの、《契約者》がひづりとなった今、わしらはずいぶんと良い環境で働けておる。ひづりはまこと賢き娘じゃ。お主もそう思っておるのじゃろう? であらば立て。《グラシャ・ラボラス》の前で無様を晒すな。ひづりに恥をかかせるでない」
天井花イナリは尻餅をついている紅葉の腕を自身の肩に回すと彼女のベルトを掴んでそのままぐいと持ち上げ無理矢理立たせた。その怪力に驚いたらしく、紅葉は無言で眼を丸くしていた。
「やっぱりそうなのね……」
黙ってしまった紅葉のそばで、甘夏が再び言葉を零した。その眼は天井花イナリの朱色の《角》を見つめていた。
「甘夏さん、さっきも言ってましたけど、天井花さんのこと、気づいていたんですか?」
ひづりが問うと甘夏は困ったように微笑んで否定した。
「いいえ、気づいていた訳じゃないの。天井花さんとは今日が初対面だし、ひづりちゃんからもちよこちゃんからも《悪魔》の気配なんて、それこそ分からなかったわ。ただ、さっきも言ったように万里子さんが《魔術》関連でイギリスに居た事だけはぼんやりとだけど分かっていたの。ゆーくんにも言ってなくて、ごめんね。私、見ていたの」
甘夏は視線を《グラシャ・ラボラス》の方に向けて言った。
「もう二十年以上も前なのね。万里子ちゃんは扇の家を出る時、蔵から五冊の本を持ち出して、どうやらイギリスに渡る時もそれを持って行ってた。本の表題は《レメゲトン》。《召喚魔術》に関係する、本物の《魔術の本》だった。最初はもちろん信じてなかったけど……。でも数年後、私、友達とイギリスへ旅行に行く機会があってね。その時内緒で万里子ちゃんの住所を調べて、ちょっと後をつけてみたの」
甘夏が万里子の住所を探っていた、というのは幸辰も初耳だったらしく、姉の告白に彼は驚いていた。
「万里子ちゃんが通ってたケンブリッジの建物。おおっぴらには、歴史的に《魔術》に関する、いわゆる博物館とかお土産屋さんみたいな外観なんだけど、でも万里子ちゃん、その建物の奥に入るとそのまま一日中出てこない、ってことが普通みたいでね。と言っても私は初めて行った場所だったし、身の安全も確保出来ないから夜間は見張れなかったんだけど。ただ、彼女が普通の仕事のためにイギリスへ移住しているんじゃないことだけはその時点で分かってた。こっちも探偵のプロじゃないから、調べるのはもうそれでやめにしたんだけど……まさか今になって本当の事を知ることになるとは思っていなかったわ」
甘夏はひづりの隣に立つ天井花イナリを改めてまじまじと見つめ、悲しそうな顔をした。
「はい。その通りです。ちなみに紅葉、まだ信じられないようなら、そこの花札千登勢……万里子の妹が《下級悪魔》を従えているので、そっちも見せて貰うといいです。どちらかというと千登勢の《悪魔》の方が《ボティス》より《悪魔》っぽいので、受け止め易いかと思います」
少し嫌味っぽい口調で《グラシャ・ラボラス》はゆるりと花札の親子の方を指差した。
千登勢は《転移魔術》で呼び寄せられた事に依然戸惑っているようで、全員の視線が集まった途端びくりとその肩を震わせた。
「千登勢さん、すみません。皆に《ヒガンバナ》さんを見せてあげてもらえますか?」
ひづりがお願いすると千登勢はこちらに視線を向け、それからごくりとその喉を動かして頷いて見せた。
「《ヒガンバナ》、おいでなさい」
千登勢が静かに呼ぶとその隣に二メートルほどの大きな紫色の《魔方陣》が浮かび上がり、そこから白い狐面を被った図体の大きな《悪魔》が姿を現した。普段掛けている《認識阻害魔術》ももう解除した状態らしい、《ヒガンバナ》が《魔方陣》から出てくるなり紅葉は「うわっ!?」と露骨に驚いた様子でひづりの腕を掴んだ。
「大丈夫ですよ、紅葉さん。《ヒガンバナ》さんは《魔界》に居た頃から天井花さんの国で兵隊をしていた《悪魔》なんです。とても優しい方ですよ」
「お初にお目にかかります、楓屋紅葉さま。官舎甘夏さま。ひづりさまから説明頂いた通り、私は天井花イナリ様がお治めになっている王国にて、しがない一兵士として働いておりました。現在は万里子さまとの《契約》にて、こちらの花札千登勢さまの身を守ると共に、及ばずながら天井花イナリ様の荷物持ちなどさせて頂いております。どうぞよろしくお願い申し上げます」
《ヒガンバナ》は自己紹介の後に深々と頭を下げた。
「あ、兄貴は、知ってたの……?」
最早下がる場所が無くなったと判断したらしい、紅葉は兄、幸辰を振り返った。甘夏も弟を見る。
「ああ、知っていた。《ヒガンバナ》さんの事も、天井花さんの事も……《グラシャ・ラボラス》の事も……」
眉根に皺を寄せて幸辰は答えた。
「けど、紅葉にも、姉さんにも、ちよこにも、ひづりにも、教えたくはなかった。特に、《グラシャ・ラボラス》の事だけは」
彼は再び《グラシャ・ラボラス》を睨むように振り返った。
「彼女はさっき、ひづりがその意向に同意したと言った。……本当なのかい、ひづり?」
背中を向けたまま訊ねる父にひづりは思わず少し肩がすくんだ。けれどもう引くつもりはなかった。
「うん。私は《グラシャ・ラボラス》を、ラウラのことを信じたい。天井花さんも《グラシャ・ラボラス》を信用出来るって言った。父さんが母さんのことで、私達にラウラの事を秘密にしてたのは分かってる。それを私が聞いたら、きっと私が傷つくと父さんは思ってる……それも分かってる。でも、私はラウラと天井花さんのことを信じたいんだ。ごめん、父さん。私に私のこと、信じさせて欲しい」
ひづりの懇願に父はしばらく黙っていたが、おもむろに天井花イナリに視線を向けると控えめに質問を投げた。
「天井花さん、私のお願いは、聞いてもらえないのですか」
幸辰の問いに天井花イナリはほとんど反応を示さず、返事だけを転がした。
「断る。確定事項とは言えぬが、お主らが拒絶するなら恐らく《グラシャ・ラボラス》とわしは戦う事になろう。そうなった場合、ここに集められたひづりの血縁者たち……お主を含め全員を守りきるのはわしにはまず無理じゃ。ひづりだけを守る、というなら話は別じゃがな。しかしこの場の誰一人としてひづりは死ぬ事も、また《グラシャ・ラボラス》が人を殺すことも望んではおらん。紅葉も甘夏も、それは慮ってやれ。お主らの下の姪は優しき娘であろう」
叱る様に天井花イナリは甘夏と紅葉の顔を睨み付けた。その迫力に圧されたらしく、二人とも口を噤んで少し身を引いた。
「幸辰。あなたの気持ちも分かっています。あなたがひづりをどれだけ愛しているか、私はそこの《ボティス》より精密に《過去の情報》を得られますからね。見て、聞いて、理解しています。ですが、だからこそです。あなたの言う通り私は万里子がどういう子だったかを知っています。ただ、あの子は最期、あなたに死ぬ日を教えませんでした。人生の一番最期に重大なやり残しをしてしまいました。あの子がそんな失態を演じざるを得なかったこと……私はそれが気に食いません。何とも比べられないほどに悔しいのです。だから私は教えなくてはいけません。ひづりに、あなた達に、万里子が何をしたのか、何を願って死んでいったのか。私はそれらを遺さなくてはいけません。その確信が一月前、私を再びこの《人間界》へと連れ戻しました」
ばさりとその巨大な翼を少し羽ばたかせて《グラシャ・ラボラス》は厳かに言い切った。
《悪魔》二人にはもう何を言っても無駄だと判断したらしい、幸辰はひづりに向き直ると片膝をつき、その肩をそっと、けれど力強く掴んで真っ直ぐに眼を見つめて来た。
「ひづり。これまで万里ちゃんのことを話さなかった事は謝る。後でちゃんと説明もする。ただこれは……この《悪魔》が話そうとしているのは、きっと万里ちゃんがひづりにだけは知られたくなかったことのはずなんだ」
じろりと傍らの《グラシャ・ラボラス》を睨んでから、父は再び優しい声音になって言った。
「ひづりは優しい子だ。天井花さんのことも、《グラシャ・ラボラス》のことも信じたいその気持ち、父さんも応援したい。けれど優しいことは壊れやすい。ひづりは何だって知ろうとする優しさがある。でもそれで傷つくことだってある。人生は長い。知ってしまったせいで、これから続くひづりの人生が、万里ちゃんが願ったひづりの未来が、酷く苦しいものへと変わってしまうかもしれない。私はそんな事になって欲しくない。だからひづり、お願いだ。この《悪魔》の話を聞かないでくれ。父さんと万里ちゃんが願ったことを、無かったことにしないでおくれ」
すがる様に父はひづりの手を握り締めて来た。ひづりはずきりと胸が痛んだ。自分は、これまで自分と姉をずっと男手一つで育ててくれた父に、こんなにも悲しげで苦しそうな顔をさせてしまっている。
父の言う通りなのだろう。母は、父は、これまで何かをひたすらに隠してきた。それが娘にとって《毒》になると恐れていたから、親としてそうしてきた。それは他でもない、ひづりやちよこを想っての事だ。疑いようも無い愛情がそこにある事はひづりにも分かっている。
けれど。
先月、凍原坂や千登勢との出会いによってひづりの中にあった母への《後悔》はずっと薄らいでいた。母が自分達を旅行に誘っていたその理由も、先月末の岩国への旅行で身を以って実感し、共感することが出来た。
長年その度し難い奇行で満ちていた母のことを、ひづりは今、《悪魔》や母の知己と関わった事で少しだけ理解出来ていた。
だから。
「――きっと、父さんが正しい」
ぽつりと零したひづりに、父は顔をゆっくりと上げた。
「いつも海外に居て育児放棄してきた母さんの代わりに、今日までずっと私と姉さんを育ててくれた父さんがここまで反対するなら、私は父さんの言う事を聞きたい。聞くべきだと思う。それが正しいんだと思う。ほんの数週間前に出会った《悪魔》の言う事の方を聞く……その方がおかしい。それはきっと悪いことだ」
でも、と、ひづりは父の眼を見つめ返して声を強めた。
「ごめんなさい。それでも私は友達を信じたい。私、ラウラが嘘吐きだって分かってるんだ。本当の部分をずっとひた隠しにして、今ようやく、ラウラにとって何の意味があるのか分からない、その過去の告白をしようとしてる。それを聞くことで父さんが望んでない結果に……私や姉さんが苦しむことになるとしても、それでも私は聞いておきたいって思うんだ。天井花さんや和鼓さん、千登勢さんや甘夏さんがそこに関係してるなら、尚更」
母と親しかったというラウラが私に伝えたい、遺さなくてはいけないことがある、と言うのなら、それを無下にはしたくない。
官舎ひづりは官舎万里子の娘だから。天井花イナリと和鼓たぬこを遺された人間だから。
「ごめんなさい。こんな娘で、良い子じゃなくて、心配ばかりかけて……。私みたいな手のつけられない娘、大変だったでしょ。それでも父さんは今日まで大事に育ててくれた。愛してくれてるのも分かってる。母さんがどうかは知らないけど、父さんは私のことずっと見てきてくれた。それだけはちゃんと分かってる。ありがとう、父さん、大好きだよ。……もう今日で最後にするから、私のわがままを許して欲しい。それから」
ひづりは涙の滲んだ顔に精一杯の微笑みを浮かべて見せた。
「これでもし私が苦しむことになったら、また慰めて欲しい。都合よく甘えさせて欲しい。ラウラから受け取った気持ちを私が抱え切れなかったら、その時は父さん、私と一緒に受け止めて欲しい。お願いしても、いい……?」
手を握るひづりの手を、父もまた握り返して来た。強く、優しく、それを胸の前まで寄せて、とても大切そうに。
「ひづりは、父さんがこれだけ言っても言う事を聞いてはくれないんだね」
苦悶に満ちた表情から零される父のその言葉に、ひづりは逃げる様に視線を落とした。
「……ごめんなさい」
「ひづりは悪い子だ」
「…………」
何も返す事が出来ず、ひづりは頷くしか出来なかった。
「……ああ、でも、それでいいよ」
幸辰はにわかに優しい声音で言うと立ち上がり、その大きな両手でひづりの両頬をそっと包んだ。
「知っているとも。ひづりがそういう娘だってこと、父さんは誰よりよく知ってる。ひづりが傷つくのを見たくないと思った。でも、きっと選ぶのはひづりで、そうして選んだ答えをやっぱり父さんはどうにも出来ないってことも、本当は分かってた」
幸辰はひづりを抱きしめ、娘の顔を自身の胸に押し当てるようにした。
「分かりきってたことだった。だって、ひづりは父さんと万里ちゃんの娘なんだから」
遺伝した少し跳ね気味の次女の髪を、彼は愛おしそうに撫でた。
「分かったよ。ひづりが悲しい想いをしたら慰める。これまで通りずっとそばに居て、何度だって慰めるよ。私はひづりのパパだからね。それと、ごめんね。ひづりは悪い子なんかじゃない。父さんはこれからも、いつだってひづりの味方だよ。信じているし、愛してる。だから最後なんて言わないでおくれ」
父はもう一度だけ優しくひづりの頭を撫でてから、そっと体を離した。
「ひづりは私の自慢の、賢くて、優しくて、とっても可愛い、最高の娘だ。ひづりがそうしたいと思うなら、今まで通り、そうしたらいい。それでどんな事態になるとしても、それでもパパはひづりのパパだから」
ひづりは堪えきれなくなって今度は自分から父の体を強く抱きしめた。
少しだけ泣いて、それからゆっくりと離れると、伝えた。
「ありがとう、父さん。大好きだよ。見ててね」
父は涙に濡れた目元に暖かな笑みを浮かべて頷いてくれた。
「ああ、見ているとも。父さんに任せておくれ。……天井花さん、《グラシャ・ラボラス》に何か不穏な動きがあったら、その時はどうかお願いします」
父は天井花イナリに深く頭を下げた。彼女は《グラシャ・ラボラス》を睨んだまま小さく鼻で笑うといつもの淡々とした調子で答えた。
「誰に向かってそのような事を抜かしておるのか。じゃが、まぁそうさな。興に乗ってひづりの言葉を借りるとしようかの。幸辰よ、お主の伴侶が人生の最期に召喚し、そして今はその次女と《契約》の関係にある《悪魔》を信じよ。何があろうとひづりの身の安全だけは確実にこのわしが保障しよう。《心》の守りの方はお主が担うのであろう? ならばずいぶんと楽なことよ。そちらの役目はお主に任せたぞ」
天井花イナリは《グラシャ・ラボラス》を信頼できる知己だと言っていたが、やはり互いに《悪魔の王》だからか、また《契約者》であるひづり絡みのことだからか、基本的にいつも余裕すら見せるその顔に今は一分の油断の色も差してはいなかった。手に握った剣の切っ先は《転移》してからずっと《グラシャ・ラボラス》へと向けられていた。
父は天井花イナリのその小さな背に改めて深々と頭を下げた。
「よろしくお願いします」
「よい。お主はあとでひづりを慰めるための言葉を考えることにだけ集中しておれ」
尊大な王はそうして親子に誓いを立ててくれた。
「話はまとまりましたか《ボティス》? まぁ、待ちはしましたけど私は語る気満々なんですけどね」
《グラシャ・ラボラス》は少し挑発するように言ったが、けれど天井花イナリは依然落ち着いた口ぶりで返した。
「待たせてすまぬな。しかし《グラシャ・ラボラス》、ひづりはわしの大事な《契約者》ではあるが、同時にこの齢ながらに十分な賢人である。故に《人間界》の話であらばその事の是非を決めるはわしではない。お主の問いや告白にはひづりが答えよう。そしてお主の敵意にはわしが応える。それだけじゃ。しかし此度、お主の一番の目的は前者であろう。ならば今ここにわしは居らぬものと思い、好きに話をせよ。無論お主に攻撃の意思が見られぬ限り、じゃがな」
天井花イナリは警戒の姿勢を一片も崩さず、同時に今後すべての判断をひづりに委ねる意向を示した。ひづりは彼女の背から視線を外して《グラシャ・ラボラス》に向き直ると改めて背筋を伸ばした。
「ふん。気に食わないくらい信頼されているのですね、《ボティス》。いいでしょう。確かにあなたの言う通り、私の目的はあなたと争う事ではありません。あなたが口を挟まないと言うなら私もやりやすいです」
するとしばらく黙っていた甘夏が出し抜けに一歩前へ出て、言った。
「ちょっと待ってくれるかしら。《グラシャ・ラボラス》さん、でいいのかしら。あなた、万里子さんの話をすると言っていましたけど、それは一体、どこからどこまで話すつもりなのかしら?」
その声音はひどく冷たく、ひづりはぞくりとした。心持ちが落ち着いて来たらしくその顔には彼女本来の気の強さが取り戻されている様子だったが、けれどそこに含まれているものはあまりにも刺々しく、ひづりだけでなく紅葉も幸辰も思わず息を呑んで実姉の横顔を見つめていた。
《グラシャ・ラボラス》は動じた様子も無く静かな調子で返した。
「もちろん全てですよ、甘夏。あなたがあの時した事も、全てです」
……甘夏さんがあの時、した事? ひづりは伯母の横顔を窺ったが彼女は《グラシャ・ラボラス》を睨みつけたままだった。
「それは困るわね。すごく困るわ。ひづりちゃん、そこの《悪魔》のご友人にお願いして、あの《悪魔》の口を縫い付けてもらえないかしら」
その物言いに傍らの天井花イナリがぴくりと眉を揺らした。あ、まずい、とひづりはすぐに気づいて背筋が冷えた。
「おい甘夏よ。何故わしがお主の都合で剣を振るわねばならんのか? 戯言も大概にせよ」
ぎらぎらと輝く朱色の瞳を甘夏に向け、天井花イナリはその体から黒い気配を滲み出させ始めた。
「ま、待ってください甘夏さん、天井花さんも! ……どうしたんですか甘夏さん……?」
仲介に入ったひづりに、しかし甘夏は無言で、視線すら返しては来なかった。ひづりは彼女が普段の官舎甘夏ではなくなっている事を理解した。彼女がひづりを無視した事など今まで一度も無かったからだ。
すると《グラシャ・ラボラス》がため息と共に言葉を転がした。
「甘夏。あなたが心配していることはわかっています。ですが悲しいですね。そばに居る姪の顔をよく見れば、あなたならそんな簡単なこと、分かるはずなのですが。ひづりはあなたの《過去》を知ってもあなたの事を嫌ったりはしませんよ」
物ぐさに言い切った彼女に、甘夏はそこでようやく傍らのひづりに視線を向けた。それは悲しげで、何かに怯えている眼だった。
父さんだけじゃないのか……? 母の《過去》の中を明らかにされた時、甘夏さんも苦しむことになるのか? ひづりは予想もしていなかった事態に困惑した。
すると天井花イナリがはっきりとした声で叱る様に言った。
「甘夏。お主、幼い頃よりひづりの世話をしておったのじゃろう。ひづりのお主への懐き様はわしも聞いてよう知っておる。お主が《過去》に何をしたのかなぞは知らんが、あやつが語るのならひづりが傷つく結果にだけはまずならん。それだけははっきりしておる事じゃ。故に、己を見失うでない。それにひづりはちよこと違って血の通った人間じゃ。お主がどのような罪を背負っていようが、ひづりは許すじゃろう。人の心が分からぬちよこと一緒にするな」
「イナリちゃん? なんだか辛辣な言葉が聞こえるんだけど」
「姉さんはちょっと黙ってて」
口を挟んだちよこを諌め、ひづりは伯母の正面に立った。そこで甘夏もようやくひづりの顔をちゃんと真っ直ぐに捉えてくれた。
「ひづりちゃん……」
「甘夏さん。私は甘夏さんのこと大好きですよ。過去に何をしていたとしても、きっとそれは変わらないです。私のこと、信じてくれませんか」
ひづりのお願いに今度は父も賛同してくれた。
「姉さん、俺からも頼む。天井花さんは信頼できる《
姪と弟の頼み。甘夏はしばらく厳しい表情を解かなかったが、けれどやがて小さなため息をつくと困ったように微笑んで見せた。
「分かりました。二人がそうまで言うなら、私も信じます。そちらの天井花さんの言う事を。ゆーくんとひづりちゃんの言うこと、信じるわ」
依然としてその顔は悲しげであったが、彼女はひづりに控えめにハグをするとそれからはもう口を閉じて下がった。
「では良いですね。夜もあまり長くはありませんし、本題に入らせて貰います」
顎を上げると《グラシャ・ラボラス》はその夕暮れの森の中ぎらりと光る黄色の瞳でひづりたち一同の顔を見渡した。広場に立ち込める空気が一度に変わったのを感じ、ひづりの背筋の汗がにわかに冷えた。
「官舎幸辰。官舎甘夏。楓屋紅葉。花札千登勢。花札市郎……。あなたたち五人には共通していることがあります。何だか分かりますか? もちろんですが、親戚、なんて当たり前の話をしている訳ではないので、失望させないでくださいね」
ひづりは今名前が挙がった身内の顔を見比べた。血縁以外の共通点? 兄妹。義妹。親子。住んでいる場所も、苗字も違う。ひづりには分からなかった。五人も困惑した様子で顔を見合わせ首を傾げていた。
しかしやがてその問いに答える声があった。
「……『ひづりのことを愛している』……」
全員の視線がそこへ集った。
「ははぁ。さすがは万里子の長女ですか。気づくのはあなたが最初……いいえ、正直言って、あなたしか気づかないと思っていましたよ、ちよこ」
抑揚の無い声で語る《グラシャ・ラボラス》と、その一言を零したきり黙り込んだ吉備ちよこはそのまま見つめ合っていた。ちよこの表情には微かだが不快感のようなものが混じっているようにひづりには見えた。
「姉さん……? ラウラ、どういうこと?」
訊ねると《グラシャ・ラボラス》は少し声を高めて言った。
「ちよこの言ったことは事実でしょう。否定出来るのなら言ってください。幸辰、甘夏、紅葉、千登勢、市郎。あなたたちのその人生が今幸福の中にあるのは、他でもない、官舎ひづりという娘が、姪が、孫が居るからでしょう。違いますか?」
彼女は自身の感情を抑えようとしている様子だったが、しかし漏れ出る激情はその声音を強め、攻撃的な色すら滲ませていた。
「ひづりは万里子の娘です。官舎万里子が産んだ子供です。あなた達がどう思おうと、それは決して揺るがない事実です。万里子の成したことが、あの子の行った事が、決意が、願いが、あの子が夢見た《いつかの日》が、ひづりという奇跡を生みました。あなたたちがそれを、ひづりを大切にするのは実に良い事です。今まで通りこれからも大事にしてください。しかし――」
蛍光灯一つばかりが光る黄昏過ぎの森の中、《グラシャ・ラボラス》のその濃い黄色の瞳とクリーム色の《角》が仄かに輝きを帯びていた。
「紅葉、市郎。あなた達二人です。ひづりのことを愛しながら、あなた達二人はひづりを産んだ万里子が成そうとしたことを無かったことにしようとした。ひづりという結果だけを愛そうとした。そのような行いを、あの子の《悪魔》として、私は許す訳にはいきません」
《グラシャ・ラボラス》の体からは《悪魔》がその感情を昂らせた際に溢れる暗闇がふつふつと浮かび上がっていた。顔は濃い怒りの色で満ち、ラウラの時には一度も見せたことの無かった激憤の皺をその眉根や目元に刻み込んでいた。
「償って貰いますよ。すべてを知り、すべてを知られ、そうして《過去》と向き合う責任があなた達にはあるのですから」
《未来と過去を知る力》を持つ故に《人間界》の遍く事象を知る事が出来る彼女の口唇が、やがて一人の女の生涯を語り始めた。
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