『残骸』            7/7




 帰宅して家の鍵を掛けると、まず眠っている《フラウ》を背中から下ろしてリビングのソファに放り、それから帰路で買った日用品をエコバッグから取り出しててきぱきと戸棚にしまい込んだ。


「……ふぅ」


 さて一段落、と《火庫》は少し伸びをしてから息を吐いた。今日は昼過ぎまでの仕事であったから疲れらしいものはあまり感じていなかったが、とはいえ先輩従業員である天井花イナリと官舎ひづりと和鼓たぬこの三人が友人と犬の散歩に行くとかで今日店に居らず、代わりに経営者の吉備ちよこと吉備サトオの二人が珍しく店に揃っていたため、普段とは少々毛色の違う緊張感を抱く事にはなり、そこそこ気疲れだけはしたようだった。


 土曜日であったが家に凍原坂は居らず、今日も大学へ行っていた。《火庫》はこういう日、『大学のお仕事がお休みであれば、店での仕事が昼あがりの日でも凍原坂さまは《和菓子屋たぬきつね》までわっちらを迎えに来てくれるのに……』と残念に思っていたが、ただ最近ではリコが代わりに途中まで送ってくれるようになったため、以前ほど寂しい気持ちは抱かなくなっていた。姉妹として意識するとやはり愛おしさというものが日に日に増していくらしく、今日もリコと──多少デザインこそ違うが──同じメイド服を来て二人で《和菓子屋たぬきつね》のフロアの仕事をする時間はとても楽しいものだったし、帰りにハンバーガーショップで一緒に昼食を食べたのもなんだか姉妹っぽくて、《火庫》はすっかり気持ちが舞い上がってしまっていた。


「……あっ、そうです土曜日っ、今日はプラスチックごみの日……!」


 さて夕飯の用意まで何をしていようかしら、と意識をしゃっきりさせたところで、《火庫》はふとプラごみの袋を今朝うっかり出し忘れていたのを思い出してバッと台所の壁掛け時計を見上げた。十四時七分。土曜のプラごみの日、集積所が遠いのかゴミ収集車が凍原坂家のあるマンションの前へ来るのは大体いつも今ぐらいの時間になるので、急いで下まで持っていけばまだぎりぎり間に合うかもしれなかった。


 マンションの前のゴミ置き場、もう持って行った後だったかしら、さっきよく見ておけばおかった、まだ間に合うかしら、と《火庫》はゴミ収集車の音が聞こえて来ないかと耳を欹てながら台所のプラごみを一つの袋に急いで纏め、その口を括ろうとした。


 その時だった。


「あっ……」


 俄に頭の中を知らない映像が走った。それは先月から始まった、凍原坂火庫の前世……西檀越雪乃の《記憶》が蘇る前兆だった。《火庫》はすぐさま作業の手を止め、身動きもせずそのまま記憶の修復と再生が始まるのを待った。


 先週、自身の本当の生い立ちを凍原坂に受け入れてもらえた事で《火庫》はこの《前世の記憶》を今ではもうまるごと肯定的に捉えるに至っていた。《記憶》が修復され再生され始めた途端いきなりその《記憶》が今の自分の意識にぴったり重なって同化していくこの《前世の記憶》の再生は今まで味わった何とも異なる不思議で慣れない感覚であったし、また残念ながら今のところまだ《記憶》の中に凍原坂その人がちゃんと登場したものは確認出来ていなかったが、それでも一度は失われてしまっていた愛する人との大切な《記憶》がまだこの頭の中に鍵を掛けられた宝箱として星屑程にも存在していて、そしてそれがこれからも待ちわびた春の開花の様に開かれ続けるのだと思うと《火庫》は本当に毎日が幸せでたまらなかった。


 もっと思い出したい。わっちが雪乃だった頃の《記憶》を知りたい。わっちが忘れてしまっている凍原坂様の全てを知りたい……。《火庫》は台所のフローリングに座り込んで祈るように両目を閉じた。






 ──ガサッ。ガサガサッ。






 今回の《記憶》はまず音が明確になっていった。続いて映像が輪郭を得始め、雪乃が何やらナイロン袋らしきもの扱っている場面を映し出すようになった。《火庫》が明治大学へ訪れた際に《雪乃が大学生だった時の記憶》が蘇り、《火庫》が商店街へ買い物に赴いた際に《雪乃が商店街を歩いていた時の記憶》を取り戻したように、今回は《火庫》がゴミ袋を触った音を聞いたことで《雪乃がナイロン袋か何かに触れていた時の記憶》が修復されたようだった。


 しばらくして《記憶の映像》は細部までよく確認出来るくらい鮮明になったが、しかしやけに明るさが足りず、視界の端の方に映っている景色を見るにどうやら場所は屋外で、また夕方というよりまだ日の昇っていない真っ暗な早朝、という様子だった。傍らには光の弱い懐中電灯が置いてあり、雪乃の体や周囲の茂みなどを薄ぼんやりと照らしていた。


「どこなんでしょう、ここ……?」


 《火庫》はもう一度注意深く周囲を眺めたが、少なくとも今の《火庫》として生きてきた自分が知っている場所ではないように思えた。何をしているところなのかも分からなかった。ひとまず分かるのは、雪乃は陰になっている建物の外壁近くにしゃがみこんでおり、そしてゴミか何かが詰まった一抱えほどもあるナイロン袋の中に両腕を突っ込んでいる、という事だけだった。






 ──はぁ……はぁ……。






 直前に何か運動でもしていたのか雪乃の息遣いは荒かった。そして時折視線を上げては周囲を見渡し、またナイロン袋に視線を落として手を動かし始める。ナイロン袋に関する《記憶》のようだから凍原坂さまと一緒に買い物へ出かけた時の《記憶》かもしれない、などと期待していたがどうやら今回の《記憶》もそういった趣旨のものではない様で、《火庫》はがっかりしながらいつもの様に「一瞬だけでも凍原坂さまが出てこないかな……」とぼんやり眺める事にした。


 ナイロン袋は大きいものと小さいものが置かれていた。雪乃は大きいナイロン袋の中から紙くずや丸められたティッシュを取り出しては、それらをてきぱきと小さい袋の方へと移し替えていた。ゴミの分別だろうか、しかし何故こんな暗い時間に外でしているのだろう、と《火庫》は首を傾げた。


 やがて小さいナイロン袋がいっぱいになったところで雪乃は袋の口をぎゅっと結び、地面に置いていた懐中電灯と一緒に鞄の中へと押し込んだ。そこで《火庫》は雪乃が学生の制服を着ている事に気が付いた。鞄もどうやら学校指定の物のようで、左手には腕時計があるから、恐らく高校生だと思われた。


 学校の清掃活動……? でもまだ夜明けでもないこんな時間に……? 《火庫》が不思議に思う間に《記憶》の中の雪乃は大きい方のナイロン袋の口も手早く結び、それを鞄と一緒に脇に抱えて走り出した。


 数メートル茂みを走るとすぐに視界が開け、民家の立ち並ぶやや狭い道路へと出た。時間が時間だからだろう付近にまだ人の気配は無く、静まり返った住宅街が暗闇の先まで続いていた。


 雪乃は道路を右に走った。うつむいている時にローファーを履いているのを見たが、しかしアスファルトを駆ける雪乃の足音はやけに静かで、林の方から聞こえてくる鳥や虫の鳴き声の方がよほど響いて思えた。


 やがて前方に小さな街灯が燈っているのを見つけ、《火庫》は「あれ?」と驚いた。


 そこは知っている道だった。というより、懐かしい道だった。今の神保町に越してくる前に凍原坂たちと住んでいた吉祥寺の外れにあるアパートの、そのすぐ近くにある通りだった。


 憶えている。十四年前の冬、この通りをもう少し行って曲がった先の交差点で、《火車》になった《火庫》は初めて凍原坂と出会ったのだ。


 ただ懐かしむと同時に、《火庫》はまた首を傾げた。何故雪乃はこんな時間に、以前凍原坂さまが住んでいたアパートの近くを、それもゴミ袋なんて抱えて走っているのだろう? 凍原坂と交際を始め、それから吉祥寺のアパートで同棲をするようになるまで、雪乃はずっと立川の西檀越家に住んでいたという話だった。立川から吉祥寺まで直線でも十五キロはある。先ほどゴミ袋を漁っている時にちらりと見た雪乃の腕時計は四時前を指していたため、おそらく始発もまだ動いてはいない。


 疑問を抱く《火庫》をよそに、雪乃は迷い無くその暗い道路を走り続けていた。はぁっ、はぁっ、と荒くなっていく彼女の吐息ばかりが耳に届く。


「…………あれ? どうして……?」


 《火庫》は思わず呟いていた。


 一つの街灯の下で雪乃の足が止まった。ふうう、ふうう、と息を整える彼女の視線が持ち上げられ、その目が一棟の建物を正面に捉えた。


 弱々しい月明かりの中、かつて雪乃と凍原坂が同棲し、そしてのちに《火庫》と凍原坂と《フラウ》の三人が暮らしたその小さなアパートがひっそりと闇夜に輪郭を浮かび上がらせていた。


「何故……この頃の雪乃が、ここに……?」


 《火庫》は記憶力には自信があった。これまでの自分達の、特に凍原坂に関わる記憶で忘れたものは無いつもりだった。


 だからおかしい。雪乃と凍原坂が出会ったのは一九九八年の夏だという話だった。それはつまり、一九七九年生まれの雪乃が大学一年生の時だ。しかしこの《記憶》の中の雪乃は高校生の格好をしている。


 高校生の雪乃が、何故十五キロも離れた、それも時期的にまだ出会ってもいないはずの凍原坂のアパートの前に居るのだろう……?


 雪乃は呼吸を整え終えると、脇に抱えていた大きなナイロン袋を両手に持ち直し、音を立てないよう静かに動いて、それをアパートの足元にあるゴミ置き場にそっと下ろした。


 それから顔を上げて周囲をまたきょろきょろと見渡して数歩下がると彼女はもう一度アパートを見上げた。その眼差しはやはり間違いなく凍原坂が暮らしていたアパートの窓ガラスを見つめていた。






『……愛してます、愛してます、春路さん……』






 遠くで鳴った風鈴の音色の様にか細い雪乃の声が《火庫》の鼓膜を震わせた。


 それから何分、何十分だろう、雪乃は動かなかった。《記憶の映像》が止まったのかと思ったが、しかし周囲の木々の枝葉は時折風に吹かれて揺れており、鳥の鳴き声や遠くで車の行き交う音なども聞こえて来たため、間違いなく《記憶》は再生を続けていた。


 やがて《記憶の映像》は滲んでぼやけ、音声も聞こえなくなり、《火庫》の視界は元に戻って現在の神保町にある凍原坂家のマンションの台所を映すのみとなった。いつの間にか来ていたらしいゴミ収集車の去っていくエンジン音が家の中に低く響いてすぐに消えた。


 両手で掴んだままにしていたプラごみのナイロン袋を《火庫》はそっと手放した。両手が微かに震えていた。


「……い……今のは……?」


 一体何の《記憶》だったのだろう。いや、雪乃の《記憶》には間違いないのだろうが、しかし……。


「そんなはず……そんなはずは……」


 《火庫》は必死に否定しようとした。だが、何かひどく重大な見落としをしていた事に気付いてしまったような、そんな焦燥感が胸の中に在った。


 凍原坂に本当の自分を受け入れてもらえた。前世の実の妹と改めて姉妹として過ごせる様になった。そんな幸いの日常が根底から覆されるような、《何か》……。


 先ほど見た《記憶》を見返す勇気など無く、《火庫》は台所の一角にうずくまってしばらく震えていた。どこかで自分をあざ笑う声が上がった……そんな幻聴さえ聞こえた気がした。












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