『許せるわけがない』




 その可能性について今までただの一度も考えなかった訳ではなかった。そもそも、よもやと思い真に受けてこそいなかったが、それでも最初の時点で思い浮かんだ事であった。


 ひづりが《和菓子屋たぬきつね》で働き始める前の、あの面接の日。初めて天井花イナリと出会った日。


 食器洗いの傍ら、姉はこんなことを言っていた。




『あの人嘘が下手だったから。悲しそうな顔をしてた。近いうちに自分の身に何かが起こる事を分かってたみたいだった』




 姉が天井花イナリと和鼓たぬこを受け取ったのは、母が亡くなる一ヶ月前だった。


 あまりに出来すぎている。それは姉と同様、ひづりも感じていた。しかし自身の寿命など分かるはずがない……と当時は思っていたが、それも今となってはその限りではなくなってしまった。


 ただ、真に受けたくなかった。


 まさか母がイギリスに居たのはそういう理由だったのでは、などと考えること自体を、ほとんど無意識にひづりは「絶対にありえない事だ」と切り捨てていた。


 その可能性を、可能性として受け入れたくなかった。


 ……だって、そんな理由であったと言うのなら……。


 ひづりは眩暈がして意識が遠退いていくようだったが、それでも吐き気のする胸を押さえてラウラに問うた。


「それは……母さんは……自分が天井花さんを手に入れるためじゃなく……わ……私達に天井花さんを遺すために……イギリスで何年も、独りで、ずっと研究をしていたって……そういうこと…………?」


 彼女は頷いて天井花イナリを見た。


「そうです。《自分の死後、確実に家族の幸福を守ってくれる善性の悪魔を手に入れる》……それはおそらく魔術史でも人類史でも初の試みでした。けれどあの子は必ず成功させると言って聞きませんでした。そして実際、愛する夫と妹の許を離れ、二十年に亘る《魔術伝承開発協会》での研究と修行、そして《ヒガンバナ》や《フラウロス》といった《悪魔》の召喚実験を経たあの子はついにその形を見つけ出すに至りました。《ソロモン王の七二柱の悪魔》の一柱、危険予測が可能な《未来と現在と過去が見える力》を持ち、また《人の争いを調停する力》という稀有な権能を持つ《ボティス王》。それを《神性》と《魔性》が曖昧に判別される日本という国で召喚し、《契約》によって白狐の姿に変化させる事で、元々強い善性を持つ《ボティス》は《人々を幸福にする》とされる《ウカノミタマの使い》としてその存在が固定され、同時に体内の《魔性》も《神性》へと置換される。《悪魔》から《神の使い》となった《ボティス》は人の魂を必要としなくなり、また《契約》の履行が不完全である限り《魔界》に戻る事も出来なくなる。官舎万里子の死後、《契約印》は娘のちよこへ渡り、与えられた《天井花イナリ》という《完全なる幸福の存在》によって一族の生活は守られる。……これが二十三年前、万里子の決めた余生の使い方でした。ちよこ、ひづり、あなた達が知る官舎万里子という女の行動、その全ての根幹にあったものです」


 一つ息を吐いてラウラはその話を一区切りにした。しかしひづりは彼女に対し、返す言葉が見つからなかった。


 今の話でひづりもその目的だけは理解出来た。何故《七二柱》の中から《ボティス王》が母に眼をつけられたのか、その理由も明確な道理として受け止められるに至った。


 ――だが。


 ひづりは震える息を吐きながら父の顔を見上げた。


「父さんは……今のを全部、知っていて……?」


 天井花さんを召喚した、その訳は分かった。母がやりたかった事も。


 けれどひづりにはそれはあまりにも見当違いな行いだとしか思えなかった。


 そしてそれを、父は許したというのか。こんな馬鹿げた行いで、せっかく《グラシャ・ラボラス》から与えられた余命を母が浪費することを、父は許したのか。


 確かに天井花さんは素敵な《悪魔ひと》だ。自分は、彼女と出会えた事をこの上ない幸いだと感じている。けれどそれとこれとは別の話だ。


 誰が、そうまでして、世話を焼いてくれる《悪魔》が欲しいなんて言ったんだ。普通に生きていく上で《悪魔》の力なんて必要ない。それを、そんなことのために、父と千登勢さんに寂しい想いをさせても構わないなんて、誰が言った? 誰が頼んだ?


 母が自分勝手なのは知っていた。しかしここまでとは思わなかった。


 父が母に甘いことも分かっていた。けれどこんな大事なことまで譲っていい訳が無い。


 夫婦揃って、ここまで大馬鹿野郎だとは思わなかった。


「幸辰を責めないでください、ひづり」


 無言の父を睨みつけていたひづりに、ラウラは引き止めるように言った。


 しかし。


「納得いくわけない……!」


 ひづりはつい叫ぶようにその気持ちを言葉にしていた。


「一緒に居ればよかったでしょ!? 父さんと千登勢さんのこと大好きだったなら、ずっと東京に居ればよかったんだ! それを……私達のため……? ふざけるのも……馬鹿言うのも大概にしろ!! 父さんがどれだけ寂しかったと思ってるんだ!! 官舎の親戚連中に父さんがどんな酷いこと言われたと思ってるんだ!! 何で……何で人の気持ちが分からないんだ!! そばに居てあげるだけのことが、たったそれだけのことが、なんで、なんであんたには……!!」


 自身の頭を両手で押さえ、ひづりはどこへ向けるでもなく吼えた。その怒鳴りつけてやりたい馬鹿で馬鹿でどうしようもない大馬鹿女はもうどこにも居ない。


 あまりに悔し過ぎて爆発した感情を抑えきれず、両頬をぼろぼろと涙が伝った。


「ひづり……」


 ちよこがそばへ来て、左手でそっとひづりの頭を抱き寄せた。溢れた涙が姉の右腕を吊るす三角巾に染みを落とした。


「ひづりのその怒りは正しいです。母親としても、妻としても……万里子のあの判断は決して良いものではなかったと、《悪魔》の私でもそれは分かっていました……」


 ゆったりとした調子でラウラは言った。


「けれど……幸辰に愛され、千登勢に愛され、ちよこの母となっても……それでも、万里子は扇家に生まれた人間でした。エドガーを歪ませ、市郎に長女を捨てさせた、間違いだらけの家の中であの子は生きて来ました。暴力という手段を最たる愛情として十八年を過ごした、どこまでも哀れな少女でした……」


 姉の腕の中、顔を上げてひづりはラウラを見た。語る彼女も今、ひづりと同じように憤怒の色をその顔に滲ませていた。


「幼少期から暴力を受けて育った人間は一生その《呪い》を抱え、死ぬまで《暴力こそが愛情である》という幻想にとり憑かれ続けます。仮に人生の転機が訪れ、良き人間と出逢い、正しい教養を得たとしても、その《呪い》はいつまでもいつまでもその体の中を消えない《毒》として流れ続ける……。例えになど出したくもありませんが、兆や億恵がそうであったように、特に親子間の負の連鎖とはそうやって、どうしようもなく受け継がれていくものなのです。……万里子もやはり、それを振り切ることが出来ませんでした」


 彼女は乞うような瞳でひづりを見た。


「ひづり。万里子のこと、許してあげて欲しいとは言いません。ただ、分かってあげて欲しいのです。扇の家で生まれ育ったあの子には正しい母親としての道を選ぶ事が出来ませんでした。母や祖母と同じく、自分もいつか娘を虐待するのではないかという恐怖に怯え続け、それでも、あの子は自分が娘のために出来る事は何か、普通じゃなくても良いから、母親として出来る事はないかと考え悩んでいました。そうして選んだのが、目指したのが、何より自分の幼少期に足りなかったもの……『誰より幸せそうな母親の姿』でした。それを実現するために万里子は幸辰と話し合って育児の全てを彼に任せ、ストレスとなる親類との交流も近所付き合いもせず、そうして自身の体調と精神状態が万全の時のみ日本に帰省して、いつも機嫌が良く夫と仲良しで、最高に人生を楽しんでいる母親、官舎万里子のそんな姿を、幼いあなた達に見せ続けようと決めたのです。ですから《天井花イナリという悪魔》を遺すための《魔術》の研究は主目的ではなく、言ってしまえばその本来の目的の口実に過ぎないものでした。ただそれでも、あの子はその間にやれる事を、と、《魔術》の研鑽に励み続けました。自分が人より出来るのは《魔術》に関する事だけだから、と……」


 万里子が居た研究所の映像が消え去り、世界はもうすっかり夜に沈んだ広場をひづり達の眼に映した。


「ひづり、これが全てです。あなたがこれまで見て来た官舎万里子の、あなたの母親のやってきた事、全てです」


 ラウラは言い終わるとひどく重い肩の荷を下ろしたような、けれど少しの開放感も無い寂しげな眼差しで何処ともない虚空を見つめた。万里子の事を思い出しているのか、それともその片棒を担いだ過去をひづりに咎められる事を覚悟しているのか、あるいはそのどちらでもある様だった。


 ふと、横目にこちらへ向けられている天井花イナリの視線に気づいてひづりは彼女を見た。《過去》の映像を自由に見る事が出来ながら、しかしその音声情報である会話等だけは知覚出来ない彼女にとっても、やはりこの話は初耳だったのだろう。その眼差しにはひづりを気遣う優しい色があった。


 ひづりは再び姉の首元に顔を埋めると深く深く息を吐いて、それからゆっくりと顔を上げた。


「……姉さん、ありがとう」


 姉の腕を離れ自分一人の身で立つと、父を見て、天井花イナリを見て、そしてラウラを見てから、一つ大きな深呼吸をして、答えた。


「分かったよ。あの人がとんでもない大馬鹿なのは、……ずっとずっと昔から嫌ってくらいに分かってた。だから、今更だ。いいよ。構わない。私がまるで望んですらなかったものなんかのために父さんと千登勢さんを寂しがらせたり悲しませたことは絶対に許さないけど……。でも、それでも、父と仲の良い母で居てくれたこと、天井花さんや和鼓さん達と出会わせてくれたことには、私はやっぱり感謝してるから。気に食わないけど、結果論だけど、それでも」


 すん、と鼻をすすり、ひづりは改めてラウラに伝えた。


「教えてくれてありがとう、ラウラ。今の話は、あなたが想ってくれた様に、私のこれからの人生に、天井花さん達と生きていく私の人生に、きっと必要なものなんだと思う。今の私は、天井花イナリさんと和鼓たぬこさんの《契約者》だ。二人がこの《人間界》でたくさん楽しんで暮らしていけるようにするって決めたのは、それは全部、私の意思だから」


 天井花イナリの傍に立ち、ひづりは胸を張った。


「向き合っていくよ。母さんの気持ちも、父さんの気持ちも、それを見ていてくれたラウラの気持ちも、全部憶えて持って行く」


 ひづりは目元を拭い、上手く出来たか分からないが、強がりに少し笑って見せた。


 ラウラは仄かに眉を上げたが、ちゃんと伝わったらしく、安心した様に儚げな笑みを湛えると小さく頷いてくれた。


「…………そんな話があるか」


 と、不意に震えた声が近くで落ちた。


「聞き捨てならない……。分かる訳ない。納得もいかない……」


 ひづり達の視線が声の出所、広場に立つ一人の女性へと向けられた。


 両の拳を白むほどにぎゅうと握り締め、うつむき、まるで臓腑の底から搾り出す様に声を発する彼女の顔には今、痛々しいほどの憤激が露になっていた。


 そのぐらぐらと燃える炉の様な瞳がひづりを見た。彼女にそんな眼を向けられたのはこの十七年の人生をして初めての事で、ひづりは思わず足が竦んだ。


「……嫌いなままで良い、って……この間あたしに言ってくれたよね、ひづりちゃん……。でも……あたしはやっぱりダメだ。今の話を聞いて、そんな事実を知って……あたしには、前は向けない……」


 楓屋紅葉はその憤怒に染まった眼差しをラウラ・グラーシャへと移すと、吐息混じりの声を投げた。


「悪魔とか魔術とか、分からないよ。でも、それが存在するってのは、もうよく分かった。それと、あんたが何しに来たのか、何のためにあたしたちをここへ呼んだのかも、その目的は理解した。……けどね」


 肩を震わせながら深く息を吸った彼女は改めてラウラを睨みつけ、揺らぐ声で叫んだ。


「あんたが、あの人を殺したんだろ。寿命の猶予だとか言ってたけど、そもそもあの人が四十五歳で死ぬようにしたのは、あんただろ……」


「紅葉、それは……」


「うるさい!!」


 諌める声を掛けた幸辰に、紅葉はいきなり大声で怒鳴りつけた。


 数秒、世界が止まった様だった。それどころか、自分は夢の中にでも居るのではないか、とひづりは錯覚した程だった。


 楓屋紅葉という父方の叔母は、いつだってひづりの父、彼女にとっては実兄である官舎幸辰にべったりだった。犬猿の仲である長女の甘夏と喧嘩をしていても、幸辰が間に入れば大体すぐに収まるのが常だった。


 彼女が幸辰に怒鳴る姿など、ひづりは一度として見た事がなかった。幸辰も普段と明らかに異なる妹の様子に戸惑っており、続く言葉を失っていた。


「……兄貴も、他のみんなも、ちょっと黙っててよ……。今あたし、気が立ってるなんて、そんな程度じゃないんだ……」


 眉根に深い皺を刻んだまま、紅葉はうわごとの様に呟いた。


「グラシャ・ラボラス、だっけ……? 続けなよ。あたしなんだろ……? この集まりの、最後の話は。あんたは最初に償えって言った。分かってるよ。身に覚えがないなんて、言ってやるもんか」


 そして彼女はそんな事を言った。ひづりには紅葉の言葉の意味が分からなかったが、ラウラはそうではない様だった。


 頷き、彼女は背筋を伸ばして紅葉に向き直った。


「ええ。万里子がイギリスへ行った理由を全て聞いたあなたが、そうして怒りの感情を抑えられなくなるであろう事は分かっていました。ですから、私はこの話を最後に持って来ました。察しの通りです、楓屋紅葉。この会合最後の話、私の最後の願い、それはあなたと万里子の間にある確執への処決です」


 景色が暗転し、ラウラの時計が三十年前を示した。





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