『汚れ続け、憎み続けた』





 一九八八年、十一月二十四日、十六時十五分。扇万里子が保護される一年前の日付。


 場所はどうやらどこかの図書館、その駐車場の出入り口付近だった。敷地はあまり広くないが、全体をぐるりと覆う背の低い石垣の上には管理の行き届いている花壇があり、そこへ等間隔に植えられた木々が葉を脱いだ姿で静かに佇んでいた。建物の向かいの生垣側には質素なデザインのモニュメント時計が立っており、設備時計なのだろう、示す時刻はラウラの傍らに浮かぶ表示盤とぴったり合っていた。


 ふと、駐車場を挟んだ向かいの道路を赤いランドセルを背負った小学生集団が歩いているのが見えた。季節が季節だからだろう、彼女達は皆暖かそうな上着やマフラーを身につけていた。


 千歳烏山に住んでいた頃は自分もアサカとあんな感じに一緒に下校していたな、とひづりが考えていると、彼女達はにわかにその進行方向をこちらへ向け、車のほとんど停まっていないその駐車場を横断し始めた。真っ直ぐ、ひづりたちの方へと近づいて来る。


 やがて脇を通り抜けようというところで、出し抜けに少女らの動きが止まった。ラウラが時計を止めたようだった。


「ひづり、そこに居る子供……ええ、黒髪のツインテールにしている子です。それ、誰だか分かりますか」


 問われ、ひづりは一団の中からその特徴の少女を注視した。五人の中では比較的背が高く、顔は少々勝気な相をしている。


「あ」


 気づき、ひづりは思わず声を零した。それから彼女の胸元に安全ピンでぶらげられていた名札を見て、改めて確信した。


 『官舎もみじ』。母親に書いてもらったのか、上手な字で少女の名がそこに記されていた。


 ひづりは顔を上げ、もう一度よく図書館を見た。どこかの図書館、ではない。思い出した。ひづりは過去に数回、確かにここを利用したことがあった。


 あきる野市東部図書館。小学生の頃、夏休みに官舎本家へ父と姉とで帰省していた際、宿題の参考に図鑑が欲しくて、甘夏に教えてもらって訪れた事があったのだ。


 どうやらここは官舎本家の近くであり、三十年近く前に紅葉が利用していた通学路の一角のようだった。


 あまりに幼い紅葉の姿にひづりは戸惑ったが、言われてみれば確かにそうなのだ。物心ついた頃からひづりにとって父も紅葉も甘夏も似たような歳の大人に思えていたが、実際のところ彼女は父より七つも下で、だからこの時父が高校二年生であれば、彼女は小学四年生なのだ。


 髪は染めていないし、ピアス穴も開けていない。すでに今と同じ、同性にモテそうなかっこよさが佇まいから仄かに漂っていたが、不良っぽい雰囲気というものはまだまるで纏っていなかった。それどころかあどけなささえ感じられる笑みを彼女はその顔に浮かべていた。


「気づいた通り、それが小学四年生、十一月頭に十歳になった官舎紅葉の姿です。周りの女子生徒は、当時よく一緒に下校していた友人達ですね。この日は特別寒い日で、彼女達は暖房のよく利いているそこの図書館へ寄ってから帰ろうと話し合っていました。近くを通学路にしている学生らも同じ目的でよく足を運んでいたようです。ただ紅葉たちにはこのすぐ近くにもう一つ、寄り道をする場所がありました。後ろを見てください。その道路を左に行った所に小さな煙草屋があるでしょう。あれは紅葉の斜め前を歩いている能見美佳という生徒の祖母が経営している煙草屋です。彼女達は放課後図書館に寄る傍らそこへ立ち寄っては、美佳の祖母がくれるお菓子を食べたり、店で飼っている黒猫を撫でたりしていました」


 振り返り見ると確かにひづり達の背後に伸びている人通りの無い一方通行の狭い道路の先には一軒、本当に小さな煙草屋がひっそりと佇んでいた。


 改めて五人の少女達の顔を眺める。赤くなった鼻や白んだ吐息を見るにかなり寒そうだが、これから会いに行くのであろう黒猫を想ってか、はたまた煙草屋の中で暖房にあたるのを今や今やと急いているのか、皆一様に高揚した顔をしていた。


「……そうだ、この日だ。彰子が手と膝に絆創膏してる……。六限目の体育で転んで……それで少しだけ、いつもより皆帰る時間が遅くなって……」


 楓屋紅葉が思い出すように、しかし映像の中の幼い姿とは対照的に酷く暗い顔で呟いた。


 徐にその視線が上がり、閑散とした道路の先を見据えた。


「……ここで会ったんだ、あの人に……」


 ラウラの時計が動き出し、道路へ出た少女達の駆け足がそのまま煙草屋へと向かった。


 その時、ぬらりと黒い何かが煙草屋の角から現れた。


「あ……」


 距離があったが、それでもひづりはそれが何なのか、誰なのか、一目で分かってしまった。


 清潔感のないぼさぼさの黒髪。学生服にはあまりに似つかわしくないまるで老婆の様な猫背。駐車場の花壇に並ぶ木々の方がまだ丈夫そうに思える、スカートから覗いたその細い両足。


 扇万里子。曰く、官舎幸辰とまだ出会う前の高校二年生の彼女。それが、ふらふらと所在無げに体を揺らしながら道路をこちらへ歩いて来ていた。


 少女達とすれ違う格好であったが、しかし彼女はそのなかなかに騒がしいはずの小学生の一団には一瞥もくれず、虚ろな眼差しを二メートル先の地面に固定したまま痛めているらしい右足を引きずる様な歩き方で静かに通り過ぎて行った。


 一方の少女達は談笑しつつも皆万里子の事をちらりちらりと確認しており、彼女との距離が三軒先程になると徐に歩調を緩め、そのやけに細い女子高生の去っていく背中を見つめてひそひそと話し始めた。


『何あれ、こわい……』


 初めに誰かがそう口にすると、他の四人も同調の言葉を並べ始めた。ひづりも痛ましい想いで再び幼い母の背を見た。


 もうじき十二月になろうという季節。大人よりだいぶその体温が高いであろう小学生の紅葉たちが分厚いマフラーや手袋をしている中、通り過ぎて行った扇万里子は申し訳程度に冬物の学生服を身につけているのみで、一着のコートさえ羽織っていなかった。露出している顔や足には血の滲んだガーゼが雑に貼り付けられており、治って間もないらしい傷跡は冷え切った木枯らしに晒されて痛々しく赤くなっていた。


『あれ、たぶん扇の人だね』


 ひどい怪我だ、寒くないのかな、とひそひそ笑いながらそのもうだいぶ遠くなった女子高生の猫背から視線を外した一団が再び煙草屋へと歩き出したところで、美佳という少女がぽつりとあまり興味なさそうに言った。


 するとその一言を聞いてか、小学生の紅葉はにわかにもう一度背後の万里子を振り返って眉根を寄せた。


 ひづりたちの視界が閉じ、景色が変わった。ラウラの時計が示す日付は変わっていなかったが、時刻は先ほどから一時間ばかり経ったところらしく、また場所はどこかの民家の一室へと移動していた。


 紅葉が居た。ランドセルを背負ったまま、大きなアルバムを床に広げて眺めている。しかし壁に掛けられている衣類は男物で、またあまり物が無い簡素なその内装も小学生女児の部屋という感じではなかった。


『やっぱり同じ制服だ……』


 アルバムを見下ろしたまま紅葉が呟いた。そばへ寄って覗き込んでみると、彼女が今開いているのは高校の文化祭の写真が収められたページらしく、学生服の生徒たちの姿がそこには窺えた。


 そこでひづりは理解し、部屋の中を改めて見回した。


「父さんの部屋……?」


 紅葉にとっては七歳上の、高校二年生の兄の部屋。だが室内に彼の姿は無く、学生鞄らしいものも見当たらない。幸辰はまだ学校から戻っていないらしい。紅葉が先ほどからやけに扉の方の物音をちらちらと気にしていることから、どうやら彼女は勝手に兄の部屋へ忍び込んでアルバムを見ているようだった。


 その目的は今しがた彼女が零した独り言で把握出来た。


 同じ制服。紅葉は煙草屋の前で見た女子高生の制服に見覚えがあったのだろう。そして兄の部屋のアルバムを開き、それが同じ高校の物だと確信した。


「眼が……気に入らなかった」


 幼き日の自分を見下ろしたまま紅葉がぽつりと零した。


「鋭くて、大きな目……。でも暗くて、虚ろで……隣をあたし達が歩いているのだってまるで見えてないみたいな……そもそも、何も見ずに歩いているみたいな、あの不気味な眼……。子供のあたしは、きっと幽霊ってものが居るなら、あんな眼をしているんだろうな、って思った」


 彼女は誰とも視線を合わせず、当時の感情を口にした。


「すれ違った時から、あの光の射さない洞窟みたいな眼が頭の中に張り付いて、何日も何日も消えなかった。生きてる人間を見て『怖い』って思ったのはあれが初めてだった。……ただそれでも、今後あたしと関わり合いにならない人間だろうな、って思えば、数日もすれば恐怖心も薄れたし、忘れることも出来た。……でも」


 にわかに紅葉は熱の伴う声を発した。


「翌年だ。兄貴が……その扇万里子と付き合い始めた……! 信じられなかった! 子供だったあたしには、その時まだ難しい事は分からなかったけど……扇家と警察が何か問題を起こしたって話題は、テレビやニュースだけじゃなく、普段馬鹿な話ばっかりしてる学校の友達連中の間でも持ちきりになってた。そんな、その当事者の扇万里子と、兄貴が……? 信じたくなかった……受け入れられる訳なかった……!」


「『だって官舎紅葉は、お兄ちゃんの事が大好きだったから』。……そうでしょうね」


 にわかにラウラが口を挟んだ。その馬鹿にした様な物言いに紅葉は顔を上げ、彼女を睨み付けた。


「物心つく前からあなたは七歳年上の兄、幸辰の事が大好きでした。考える事はどれも稚拙で、感情のコントロールがそもそも出来ない、夢見がちな子供にはあまりに受け入れがたい現実だったでしょうね。だからあなたは――」


 紅葉と睨み合う中、ラウラの声が徐々に圧を持ち、その体の周囲に再び黒い靄が浮かび始めた。


「幸辰と万里子を別れさせるために、どうしようもないほど愚かで、卑劣で、救いようのない行動に出た……。どうぞ言ってください紅葉。自分が、この時、一体何をしたのか。……ひづりの前で言えるものなら」


 ラウラから視線は外さないながらも確かに紅葉の意識が一瞬こちらへ向けられたのをひづりは感じた。また、怒りの感情を湛えていた彼女の横顔から突然その勢いが消えた事も。


 一つため息を吐くとラウラは顎を上げ、その顔に微笑を浮かべた。


「言える訳がありませんよね。では代わりに私が言ってあげますよ。……ひづり。佐上、瀬尾、山吉。この名字、分かりますよね」


 不意に話を振られたがその戸惑いも一瞬のことで、ひづりはすぐ彼女に頷きを返した。


 佐上、瀬尾、山吉。それは関西や東北に住んでいる、父方の親戚の名前だった。二年前に祖父母が亡くなって以来ほとんど会っていないが、いずれもひづりにとってはあまり好ましくない思い出がある親類だった。


「それは……憶えてる……けど……」


 他でもない、親族の行事で顔を合わすたびにひづりの両親の悪口を言ったり、事ある毎に嫌味な物言いをして来ていたのが、彼らだった。官舎万里子の葬儀の際は山吉家だけ付き合いのつもりらしく出席していたが、そこの父親がまた不用意な言葉を口にしたため、ついには幸辰に殴られていた。


 しかし重要なのはそこではない。何故今ラウラがその名前を出したのか、ひづりは何となく《それ》に気づいてしまっていた。


 ただ、そう思いたくない感情がひづりの胸の鼓動を速くしていた。指先が冷え、震えるようだった。


 そうしたひづりの動揺を汲み取ってかラウラは微かに悲しげな色をその眼に差したが、すぐにまた視線を紅葉に戻すとはっきりとした声音で言った。


「ひづりは、あの父方の親戚たちが何故幸辰と万里子の結婚を反対したり陰口を叩く様になったのか、不思議に思ったことはありませんでしたか。佐上家は京都、瀬尾家は大阪、山吉家は青森に居を構えています。いくら親戚とは言え、官舎本家周辺を牛耳っている暴力団や地主の現在進行形な話題など、他県の一家がいちいち詳しく得られるものではありません。となれば答えは一つです。扇家や万里子に対して悪い印象を抱かせる言葉を用い、意図的にその評価を落とそうとわざわざ彼らに情報を伝えていた、当時あきる野市在住だった人間が居た、ということです」


 広場を照らす外灯の僅かな光でもその黄色の瞳をぎらぎらと輝かせるほどにラウラの眼は今はっきりと見開かれていた。そしてその高圧的な眼差しに射抜かれているのは、先ほどまでの怒気も言葉も失ってうつむいている楓屋紅葉。


 ……もはや説明は要らなかった。


「紅葉さんが……父さんや母さんの悪い評判を、親戚に流していたんですか……?」


 ひづりの問いに紅葉の肩がびくりと揺れた。流れた横髪で伏せた顔が隠れており、その表情は見えない。


「そうです。最初の頃は幸辰に『扇万里子と別れて』と直接言う様な可愛らしいものでしたが……しかし両親どころか自分と同じく幸辰を溺愛していた甘夏まで二人の交際を認めたとあって癪に障ったんでしょう。中学に上がるとすぐさま髪を染め、元々そこまで仲良くなかった両親や甘夏には露骨に噛み付いて、何かにつけて家族を困らせる次女を演じるようになりました。また同時に、『自分が不良になったのはお兄ちゃんが扇万里子と付き合い始めたからだ』と、まるで自分が被害者のような物言いで親戚連中に万里子の陰口を触れ回り始めました。それを真に受けたのが先ほど話した三つの親戚の家です。……ただ、幸辰は紅葉がどんな風になっても相変わらず甘かったので、空回り、度々毒気を抜かれたようでしたがね」


 見下すように鼻で笑いながらラウラは語った。


「交際から三年、幸辰と万里子の結婚が決まりました。猛反対していた紅葉ですが、それでも実力行使の妨害まではしませんでした。自分がどんなに悪い次女になっても変わらない愛情を注いでくれた兄に対し、そこまでの不誠実はしたくないと思ったようですね。しかしそれでも紅葉は依然子供でした。兄夫婦へ祝福の言葉を贈ろうという素直な気持ちを表に出すには十三歳の精神にはまだ荷が重かったのでしょう、紅葉は式への出席を拒否し、一日何をするでもなく友人の家で昼寝などしてだらだらと……」


 呆れるように言ったラウラに、紅葉はそっと自身の額に触れ、静かな吐息を漏らした。


「…………諦めは、ついてたんだ……」


 そして俯いたまま語り始めた。


「兄貴がどれだけあの人を愛してたのか……見ていて分かっていたから……。感情で受け入れられなくても、それが兄貴の幸いだって現実だけは……分かってた……」


「ええ。ですが、万里子はイギリスへ渡った」


 ラウラの一言に紅葉はまた肩を震わせた。


「それが官舎紅葉には許せなかった。先述した目的以前より万里子が官舎本家の正月やお盆といった行事にあまり顔を出していなかった事も積もり積もった不満だったようですが、幸辰と生まれたばかりのちよこを残して出て行ったという事実は、紅葉にとって人生最大の激憤を爆発させるのに充分な理由でした。ですが」


 ちらりとラウラは幸辰に視線を移した。


「両親と姉の制止の声はもはや少しも届かず、その足でイギリスへと赴いて義姉を問い詰め、そこで拒否するなら殴り倒してでも連れ戻す気だった紅葉を幸辰は止めました。それは、もう危ないことをしないでくれ、と注意してくれるいつもの優しい兄の声音ではなく、何が何でも妻の意向を支持する、誰にも邪魔はさせない、という、一人の男の意志が介在した態度でした。……あなたが本当の意味で兄を諦めたのは、その時でしょう、紅葉?」


 促す様にラウラは問うた。《グラシャ・ラボラス》の持つ《未来と過去を知る力》は、その気になれば人間の思考すら読み取れると言っていた。確信しかない彼女のその声音に、紅葉は伏せていた顔を徐に持ち上げた。


 どきり、とひづりの心臓が跳ねた。紅葉の今の顔は、その心から一切の体温を失ったかの如き蒼白さと陰りに埋め尽くされ、もはや眼差しは何も捉えてはいないようだった。


 こんな生気のない彼女の顔をひづりは今まで一度も見た事がなかった。いつだって明るく、酒にだらしなく、どうにも放っておけない父方の叔母。そんなひづりのよく知る楓屋紅葉という女の内側には、これほどにまでに疲れ果てた表情を浮かばせるほどの絶望があったらしい。


 紅葉の唇が開き、言葉を零した。


「……ちよこちゃんが生まれてから、二十三年……。二人目の娘が出来ても、あの女は相変わらずイギリスに居た。それが突然、何ら特別でもない日に、何の知らせもないままに、あいつは勝手にくたばった……」


 ほろり、と彼女の眼から涙が落ちた。


「少しも嬉しくなかった。子供の頃はずっと、あんな女死んでしまえと思っていたけど……でも兄貴の大事な人だから……それが分かっていたから……死んだら、きっと兄貴はすごく悲しむだろうって……。なのに……なのに……」


 紅葉の目元に深い皺が刻まれ、そしてにわかに赤らんだ。


「勝手に死にやがった……! 四十五なんて歳で……あたしから兄貴を奪ったくせに……! こんなに早く死ぬって知っていれば、言ってやったのに……。はっきり面と向かって、不幸になりたいなら勝手に一人でなればいい、あたし達を巻き込むなって……怒鳴りつけて……殴り飛ばしてやったのに……」


 ぐしゃりと自身の髪を両手で掴み、紅葉は苦しげに搾り出すような声で喚いた。その痛ましい感情の吐露に、ひづりは胸がぎゅうと締め上げられる様だった。


「あたしが最低なのは……卑怯なのは分かってる……。何をしたのかも、全部分かってるんだ。優しくしてくれた兄貴を苦しめて……ほんと最低だ……馬鹿でどうしようもないクソ女だ……。……それでも……あたしはやめられなかった……。母親としての役目を放棄したあいつが許せなかった……。今日の話を聞いて、今はそれがずっと増した。……逃げたんだ、あいつは。愛してくれてた妹さんからも、ちよこちゃんとひづりちゃんの母親になる事からも、ずっと兄貴から向けてもらってた愛情からも、自分を助けた官舎家からも、……生きていく事からさえ……!」


 一際大きく息を吸うと紅葉は顔を上げ、吼えた。


「逃げやがったんだ!! 逃げて、逃げて、周りの人間がどんな風に思うかってことからも眼を背けて、耳を塞いで……!! その上あいつは…………あんな女の子供でも、ひづりちゃんは兄貴に似てとっても良い子に育って…………なのに、あたしは……あの女の顔とそっくりなひづりちゃんの顔がいつまで経っても、いつまで経っても……受け入れられなくて……心の底から可愛いと思えなくて……。……ちくしょう、ちくしょう……! 何で、何であたしがこんなに人を憎んで生きなきゃいけないんだ。なんで、こんないやな奴にならなきゃいけなかったんだ……。くそ、くそ、くそぉ……!」


 膝を折ってしゃがみ込んだ紅葉は両手で何度も何度も地面を叩いた。やがて土に額を押し付けてうずくまると肩を震わせて泣き始めた。


 三十年近く積み重なったその悵恨の感情を吐き出す紅葉に、ひづりは掛けてあげられる言葉がまるで思い浮かばなかった。


 楓屋紅葉は、万里子という女を幼少期から嫌い、ずっと憎んで来た。父方の叔母が父をこの上なく愛しているという事をひづりはそれこそ物心つく前から見て、知っていた。だから彼女が抱く母への感情が決して綺麗でないことは分かっていた。ただ事実はこの通り、ひづりが想像していたよりはるかに深刻だった。


 少し考えれば分かる事だったが、しかしいつも明るく振舞う紅葉を見て育ったひづりは、そんなはずはない、と、無意識に思いたがった。思っていたかった。


 これはひづりにとっても向き合うべきことだった。ずっと考える事を放棄してきた。悪い可能性を、紅葉のその暗い部分を想像したくなかった。それを考えてしまって、受け止める事が怖かった。


 であれば。官舎ひづりは、ラウラ・グラーシャによってこの場を与えられた自分は、楓屋紅葉に対し、この放っておけない父方の叔母に対し、その責任を必ずや取らねばならない。


 官舎万里子の娘だから、というだけではない。紅葉に子供の頃からたくさん遊んでもらって、愛されてきた姪として。……それにも関わらず、彼女の苦しみから眼を背け続けて来た、卑怯で臆病な姪として。


 《悪魔》の友人を見る。こちらの視線にすぐ気づいて振り返りその黄色い瞳を少し丸くすると、彼女はひづりが思った通り薄く微笑んだ。分かっているのだ、彼女は。ひづりがこれから何をするかを、何を言うかを。


 きっとそのためにラウラは今日、ここへ紅葉と自分を呼んだ。


 なら官舎ひづりが楓屋紅葉へ伝えねばならない言葉は一つしかない。


 そう、たった一つしかない――。






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