第13話 『二十五年前の祝福の代わりに』





「して。この懇談も既に中程を過ぎたという所であろうが……さすがに少々黙り飽きた。それに、時間切れになって肝心なところを分からず仕舞い、というのもつまらぬでの。わしにも幾つか問いをさせよ」


 千登勢たちが呼び寄せられる前から宣言通りずっとひづりのそばでラウラに対しその手の剣を向けて待機してくれていた天井花イナリが出し抜けによく通る声を張った。しかしその声音にこれといって焦れている様子は無く、ひづりは不思議に思いつつも視線をラウラに移して反応を窺った。


「何ですか。あなたに限って堪え性が無いという事もないでしょうに。それに時間切れなんて、私がそんな無様を晒すとよもや本気で思っている訳じゃないでしょう? ……まぁ、構いませんよ《ボティス》。あなたが黙り飽きた様に、私も少々語り疲れたという事にしておきましょう。どうぞ、あなたに数分くれてやる程度の時間は確保しています」


 彼女は眉間に皺を寄せて不機嫌そうにしながらも組んだ腕から片手をゆるりと伸ばすとそれを天井花イナリの方へ向けた。


「他人の都合は無視しながらも、己が決めたスケジュールにだけは神経質なお主の性分、忘れようと思うても忘れられはせぬし、疑ってもおらん。しかし……。……まぁよい。では簡潔に問おう」


 懐かしげな微笑みを浮かべたのも束の間、天井花イナリは少し顎を引いて眼を細めた。


「万里子がイギリスへ渡ったのはあやつの意思か、それとも《グラシャ・ラボラス》、お主の入れ知恵か。どちらじゃ」


 彼女の低く威圧的な声音もそうだったが、それを無言で受け止めたラウラの面持ちにも引く気の無い緊張があり、ひづりは思わず肩を強張らせた。


 母がイギリスへ渡った理由。それはつまり、結果的に《ボティス王》が官舎万里子に騙されて《天井花イナリ》という存在にされ、二年間ほどこき使われるに至った大元の原因だ。


 気にしているのでは、と何となく察してはいた。彼女は今尚、自身を今の様な姿にし、長女のちよこと一緒になっておよそ聞くに堪えないような、そして王様に対しあまりにも不敬が過ぎる扱いをしてきた事に対し依然激怒しているらしいのだ。そんな官舎万里子が《悪魔》と深く関わり合いになろうと思ったきっかけがこの《グラシャ・ラボラス》であるなら、召喚者本人が亡くなっている今、天井花イナリの怒りが彼女に向けられるのは当然と思えた。


 ただ今の今になって、それもこんなタイミングで繰り出すほど天井花イナリがその問いを重要視していないのも確かではあるようだったが、それでも二柱の《悪魔》が睨み合う姿はやはり緊迫した空気を生み出すだけの凄味があり、ひづりは掛ける言葉も無く彼女達の横顔を眺めた。


 しかしすぐ、ふ、とラウラが何とは無い調子で口角を上げた。


「残念ですが、万里子の意思ですよ。その後のアドバイスなどはしましたが、イギリスへ渡り《魔術》の研究に打ち込もうと決めたのは他の誰でもない、あの子です。……ただ」


 ラウラは徐にその視線をひづりへ向けると微笑むような、けれど確かに憂いを感じさせる表情を浮かべて言った。


「そうですね。これから語ろうと思っていた事とも大いに関係がありますので、まずはそこから話しましょうか」








 研究室を国内外各地に敷設し、本拠地をロンドンに構える《魔術伝承開発協会》。そこでは名前の通り、神代に始まりそして最新のものに至るまで様々な分野の《魔術》が記録されており、加えてそこで学び習得した《魔術》を元に新たな《魔術》を開発する事も重要な目的とされていた。


 官舎万里子はそのケンブリッジの支部を中心に、《グラシャ・ラボラス》と《契約》してからの約二十三年間、来る日も来る日も《魔術師》としての修行に明け暮れていた。


「先も話したように、万里子は《魔術師》としての才能に満ち溢れていました。加えて……あの様な環境で得たものでこそありましたが、学習能力に至っても申し分なく、所属から十九年で《魔術伝承開発協会》に記録されている《五つの魔術分野》――《新元素魔術》、《東西人体秘術》、《召喚魔術》、《錬金術》、《時空観測術》、そのほとんどを自身の《魔術式》に書き込む事に成功していました。まぁ、難しい難しいと泣きついてきた箇所はちょっぴり教えてあげたりもしましたがね、それでも大体は万里子自身の努力によるものでした」


 半年以上前に見た生きている母、それより少しばかり若く見える彼女の姿が、《グラシャ・ラボラス》の《能力》によって再びひづり達の眼前でまるでリアルタイムの出来事の様に投影されていた。


 母があっちでどんな風に暮らしていたのか、今年の夏前までは知る由も無かったし、またこれと言って知ろうとも思わなかった。そもそも自ら関わろうと思わなかった。ただ、適当に怪しげな仕事でもして暮らしているのだろうと、そんな風に思っていた。


 けれど。


「……ラウラ」


 思わずひづりは声を掛けていた。上映に伴い稼動していたラウラの傍らの時計が徐に停止し、彼女の顔がこちらを向く。


 自分が今とても明るいとは言えない顔をしている事を自覚した上で、ひづりは訊ねた。


「母さんは……いつもこうだったの? この時まで、この後も、こうだったの……?」


 明瞭さに欠いた問いだったが、それでも彼女には伝わったらしかった。


「……ええ。こうでしたよ。あの子はずっと、こうでした」


 《過去》の記録の映像であるその停止した官舎万里子の横顔にラウラはそっと手を伸ばした。


 もっと、笑っているのだろうと思っていた。自分達を旅行に連れて行く時の様なあんな頭の悪い笑顔で……さすがに仕事中などは多少真面目ではあろうが、それでも。


 楽しんで生きているのだろう、と、そう思っていた。


「ひづりの感じた通りですよ。あの子は、融通の利かない性格をしていました。ずっとずっと、そればかりは、どうしようもないほど変わりませんでした」


 万里子を見つめたままその眼差しに陰りを落とし、ラウラは静かに言った。


 周りに居るのが同僚か学友かは知らない。しかしそのおそらくはケンブリッジにあったという研究室で、見たことも無い実験器具が所狭しと敷き詰められた机を前に、官舎万里子は穴でも開けるつもりなのかという形相でその手に広げた分厚い本の中を睨みつけ、背中を老婆の様に丸めたまま常に一人、険しい表情でぶつぶつと何か独り言を零していた。


 その姿を一言で表すなら、『追い詰められた人間』と言う他なかった。


「何で……?」


 ずっと一緒に居た訳ではないとは言え、それでも十七年間一応は親子であったひづりをして、しかしその母の顔は今まで一度も見た事のないものだった。


 だから不思議で仕方がなかった。映像の中の母を前に、ひづりは戸惑う事しか出来なかった。


「好きでやってたんじゃないの……? 楽をしたくて……《悪魔》を好き勝手に使えるようになりたくて……あんたは……」


 いい加減で、自分勝手で、何をするにしても子供じみていて。《悪魔》を従えようとしたのだって、きっとそんな人生をより怠惰に過ごすためだろうと思っていたのに。


 何で、そんな苦悶の表情で《魔術》の研究をしているんだ。それもラウラ曰く、イギリスへ来た時からずっとこうだと言う。


「万里子が好きだったのは、幸辰、千登勢、温泉、猫……そしてちよことひづり、あなた達くらいでした。……幸辰。万里子の部屋を片付ける時、《魔術》に関する本、一冊も見つからなかったでしょう。あれは別に《魔術》の形跡を隠そうとしていた訳ではなく、元々置いていなかったのですよ。あの子は、そう、はっきりと口にした事こそありませんでしたが、きっと《魔術》というものが大嫌いでした」


 ラウラは悲しげな眼を幸辰に向け、言った。


「あの子は《魔術伝承開発協会》でどんな成果を出しても笑った事がありませんでした。けれどそれでもあの子が選んだのは他でもない、《魔術》による決着でした。だから、あの子は死ぬまでイギリスに居ました。死ぬまで《魔術》の研究をしていました。それが自分に出来る唯一の事だと信じていたからです」


 眼を伏せてうつむき、彼女は唇を一文字に結んだ。腰から生えている両翼がまるでその身を包むかの様に僅かに縮んだ。


 やがて震える深呼吸と共に顔を上げ、ラウラは言った。


「ひづり。あなたは、万里子が死の際までイギリスに居た理由を、ちよこや《ボティス》から聞いた話をもとに、『自分に都合の良い契約内容で悪魔を手中に収めるための研究をしていた』と捉えていたでしょう? けれど今……万里子のイギリスでの姿を見て、その考えにあなたは疑念を抱いたでしょう。その通りなのです。それは、ほんの少しの思い違いだったのです」


 ひづりを見つめる彼女の黄色い瞳は今、微かに濡れているかの如く儚く揺らいでいた。


「ちよこや《ボティス》が嘘を吐いていた、という訳ではありません。万里子がケンブリッジでやっていた事、それ自体は合っていますから。ただ、万里子はそれを悟られたくないと思っていました。幸辰も、ずっと知られる事を恐れていました。秘密にしていてくれと彼に頼まれこそしましたが、《ボティス》も本当のところは理解していなかったはずです」


 ラウラの視線に促されひづりは隣の天井花イナリを見た。確かに彼女も今のひづりと同じく眉根を寄せ、ラウラを睨むようにしていた。


「今日のここまでの話でヒントはあったはずですが……ひょっとしたら、『理解したくない』、そういう気持ちが働いているのかもしれません。それについては、私もやはり到底楽しい気分とは言えません」


 そう続けた彼女は再びその長い睫毛を伏せ、肩を竦めた。


 理解したくない……? どういうことだろう、とひづりが考えたところで、徐に両肩をそっと掴む手があった。


 父の幸辰だった。


「構わないよ、《グラシャ・ラボラス》。いや、ラウラ・グラーシャ。私の娘たちは、自分の母親がしたことの顛末を知る覚悟を、既に済ませている。……話してあげて欲しい」


「父さん……?」


 父の様子がおかしい事に気付いたが、けれど彼の言葉を聞いたラウラの方こそ反応は大きく、ひづりは彼女に視線を戻した。


 ラウラはにわかに瞼を上げ、けれどそれからまた表情を押し殺すように顎を引くとその眼を細めた。


「……そうですか。幸辰、あなたが改めてそう言うのであれば、私も心置きなくこの話の終わりを語る事が出来ます」


 ラウラ・グラーシャの真摯な声音。そこでひづりは気づき、再度父の顔を振り返った。


 苦しげで、今にも泣き出してしまいそうな、そんな父の面持ち。ひづりの記憶の中、三ヶ月前に妻が亡くなったと知らせを受けてから数週間塞いでいた彼の姿が、そこに重なった。


「そうです、ひづり。あなたが何となく気づいていた、そして幸辰が何としてもあなた達に隠しておきたいと思った、官舎万里子の秘密。……これから語るのは、その根幹部分なのです」


 影を落とした彼女のその表情にひづりは思わず胸が締めつけられた。


 これから悲しい話が始まろうとしている。父にとっても、自分達にとっても、何よりラウラ自身にとってもつらい《過去》の出来事が、その口から語られようとしている。


「ちよこを産み、私との《契約》が果たされた万里子が、何故イギリスへ《魔術》を学びに渡ったのか? 余生を幸辰や娘と過ごす道もあったでしょうに、何故そうまでして《契約で縛り上げた、自分に都合の良い悪魔》というものを得ようとしたのか……?」


 ラウラの眼差しがひづりの眼を真っ直ぐに捉えていた。


「ちよこ、そしてひづり。それらは全て、あなた達のためだったのですよ」






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