『二つ目の願い』





「二つ目はあなたです、甘夏」


 《グラシャ・ラボラス》はひづりと花札千登勢に向けていたその視線を上げると甘夏へ向け、厳かに言い渡した。


 もはや疑いようがなかった。彼女によって見せ付けられた、官舎万里子に関するおぞましいくらいに生々しい《過去》の映像の数々。《グラシャ・ラボラス》と名乗る彼女が真に《悪魔》であるというこの話を、甘夏は現実として認める以外になかった。


 しかしそれは同時に、観念する、という事でもあった。過去を自由に閲覧出来、更に『償いをさせる』と宣言した彼女の言葉をそのまま受け取って処遇を待つなら、それはこの場で、官舎甘夏が二十七年前に犯したその罪の暴露を待つという事に他ならなかった。


 弟は己が次女に対し、《グラシャ・ラボラス》の話を聞かないでくれ、と先ほど懇願していた。どうやら彼が本当に恐れている部分は未だ語られていないと見えるが、それでも次女ひづりの説得で彼はすでにその覚悟を決めている様子で、何なら甘夏に対しひづりと揃って「信じて欲しい」とまで言って来た。《悪魔》たちを信じろ、と。甘夏はそれを受け入れたが、しかし自分達が人質にとられている事を理解していたからそうする以外に無かっただけだった。


 《グラシャ・ラボラス》は先ほど《ボティス》と紹介された、ひづりの同僚だというその狐耳と角を頭から生やした少女と言葉を交わし、争う気は無い、という旨を語っていたが、しかしそれも甘夏を含めた全員が彼女の話を聞く、という前提条件ありきの話だった。甘夏や誰かが抵抗した場合、どんな恐ろしい事になるのか、それこそ《悪魔》など初めて見た身には想像のしようもないが、それでも《ボティス》というこの小さい《悪魔》は堂々と胸を張って『ひづりだけは確実に守ってやる』と言った。彼女はひづりと《契約》しているらしい。だから守るのだろう。けれどそれ以外の、甘夏や幸辰らに向けるその眼はずいぶんと冷ややかだった。『抵抗して戦いになればお前らが傷つくことになる。そうなるとひづりが悲しむから、おとなしく言う事を聞け』、という意味の言葉も彼女は口にした。そこにはやはりひづりに対する感情だけがあったように甘夏は捉えていた。


 避けられない事態に自分達は置かれている。それを認めた上で、自分はどうすべきなのか。


 弟の幸辰と同様に……いや、おそらくはそれ以上に、甘夏には暴かれたくない過去があった。中でも、姪の官舎ひづりにだけは絶対に知られる訳にはいかない過去が。


 甘夏はひづりを、それこそ赤ん坊の頃から世話し、可愛がってきた。とても吸収力が高いのも実に教え甲斐のあるところではあったが、何より最愛の弟である幸辰にその優しい性格がどんどん似ていく様は、もはや自分の幸せなど要らないと思わせられるほどの感情を甘夏に抱かせていた。今や甘夏は、弟の幸辰よりもひづりの方をこそ愛していると言っても過言ではなかった。


 だから甘夏は恐ろしいのだ。子供の頃からとても懐いてくれた最愛の姪に、自分が二十一歳の年に行ったその所業を知られ、軽蔑される事が、恐れられる事が、口を利いてもらえなくなる事が、酷く恐ろしい。


 《ボティス》という《悪魔》は『たとえお前が過去に何をしていようとひづりはお前を嫌いになどならない』と言った。ひづりは確かに優しい娘だ。しかしどんな付き合いをしているのか知らないが、《ボティス》は甘夏がしたことを知らない様子だった。なら、嫌われない確証などないではないか。感情の想像だけで言われても納得など出来るはずがない。


 ひづりは幸辰に似て正義感も強い。甘夏が犯した罪は裁かれるべきものだ。到底許してもらえるとは思えない。


 そうなのだ。この暴露によって失われるのは他でもない、ひづりの、甘夏に対する信頼だ。


 しかし、かといって甘夏には《グラシャ・ラボラス》に対抗する術が何も無い。魔術などというオカルトに興味を抱く瞬間は今まで人生で一度も無かった。故に、どう頭を捻っても今は従うしか手が無かった。それに仮に抵抗して争いになった場合、《ボティス》はひづりを必ず守ると言ったが、それも絶対ではないだろう。もしひづりが怪我をしたり、最悪重症を負い、死ぬようなことになったら……。


 甘夏はそちらの方が恐ろしかった。結婚も親になる事も諦めた甘夏にとって、官舎ひづりという姪の存在は唯一の《未来》だった。


 だから。


「あなたは最初、『償いをさせる』と言った。ならきっと、それは私のことなのでしょう? 私は花札さんとは違うもの。それくらいは分かります」


 不安げな顔を向けて来たひづりに視線を返さず、甘夏は《グラシャ・ラボラス》を正面に見据えて言った。


「私には花札さんのような後悔はありません。犯した罪の意識を持ち続けただけですから」


 それから一つ大きく息を吸い、甘夏は胸を張った。


「あなたが暴露したいのは、それなんでしょう? 知っての通りです。私はかつて、多くの人を地獄に落としました。そしてその罪を隠匿し、この二十七年間、誰からも裁かれず逃れ続けて来た……。けれど、あなたはそれを知っているのですね、《グラシャ・ラボラス》さん。過去が見えるあなたは」


 今、官舎甘夏に出来るのはこの《グラシャ・ラボラス》という《悪魔》に従う事だけだった。争いにならないよう慎重に振る舞い、姪の命を可能な限り安全な状態に保つ事だけ。


 そのためなら、罪が暴露され、姪に軽蔑されたっていい。それで構わない。


 ひづりちゃんが生きていてくれるなら、それ以上の幸せなどこの世には無い。


「……ふむ?」


 徐に《グラシャ・ラボラス》は少し高めの声を漏らし、小首を傾げて見せた。その仕草と表情には不思議な可愛げがあり、甘夏は虚を衝かれた。


 彼女は腕を組むと楽な姿勢になって言った。


「誤解があるようなので始めに言っておきますが、甘夏、私はあなたにも感謝しているのですよ。幼い頃よりひづりが愛し、そして憧れ続けた大人の女性像……。あなたの英邁さと生き様は、ひづりの心を美しい形へと育てる重要な手本となっていました。それに私は人間の法律自体にそこそこの興味はありますが、それを基準とした断罪にはあまり興味がありません。また、確かにひづりは正しい行いを愛する人間ですが、あなたの罪は裁かれなければ裁かれないで、特に問題ないものでしょう。少なくとも私はそう思いますし、ひづりも、あなたが思うよりずっと人間ですよ。ね、ひづり」


 にわかに彼女はまるで友達の様な口調でひづりに話しかけた。ひづりも驚いた様子だったが、けれど喉を整えると何のことは無い態度で返した。


「甘夏さんの言う罪、っていうの……私は知らないけど……。でも、ラウラが話したいなら、それもやっぱり、必要なことなんでしょ……? 甘夏さんが抱えてるそれをこの場で公開する事に意味がある、ってラウラが思ってるなら、私はそれをもう怖いとは思ってないよ」


 そう言って彼女は腕の中の花札千登勢をもう一度愛おしそうに抱きしめると顔を上げて甘夏を振り返った。その顔は信じられないくらい穏やかで、甘夏には恐ろしいとさえ思えるほどだった。


 ひづりは《グラシャ・ラボラス》の事をこれまで何度もラウラと呼んでいた。あだ名なのだろうか、その響きはとても親しげである様に甘夏には聞こえていた。加えてずっとそばで《グラシャ・ラボラス》を警戒している彼の《ボティス》に向ける視線も、やはり濃い信頼の色が窺える。


 理解が及ばない。ひづりは普通の優しい子だった。ちょっと、いやかなり危なく感じた時期があったにはあったが、最近はずいぶんと落ち着いて、大人びた雰囲気すら纏うようになっていた。


 言葉も話せない頃から接してきた官舎ひづりの、甘夏も知らない、《悪魔》と接するその穏やかな顔。戸惑わないはずがなかった。


 けれどそんな甘夏の心を知らずか、それとも構わずか、《グラシャ・ラボラス》はまた低い威厳のある声に戻って言った。


「ということですから、甘夏。これからあなたに与えるのは罰ではなく、千登勢と同じ種類のものです。あなたが知っているつもりで知らない《過去》。それを開示し、あなたの恐怖を少しでも除くこと。私の二つ目の願いはそれです」


 《悪魔》のその宣言が広場を通り抜け、ゆるやかにさざめく夜風の中へ特に響きもせず消えていった。


 断罪ではない……? 私が知っているつもりで、知らない過去? 私の恐怖を……除く……? 自信に満ちた《グラシャ・ラボラス》の眼差しに疑問を投げかける余裕も失い、再度星空に落とされた視界で甘夏は呆然と立ち尽くした。




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