『和裁技能士』




「わぁーすげぇ。久々に来たけど、やっぱり店構えが違うなぁ~」


 翌日、土曜日。《和菓子屋たぬきつね》の前で紅葉はその看板を見上げて感嘆の声を漏らした。


「……紅葉さん、改めて言いますけど、留守番をしてくれてる店員の二人に、変なことしないでくださいね?」


 ひづりは、じーっ、と叔母の横顔を睨むようにした。紅葉はその視線に圧されるようにたじろぐと眉を八の字にした。


「しないしない、しないってば~! 今日はまだ呑んでないし、ひづりちゃんとの約束は紅葉お姉さん、ちゃんと守るよ~!」


 酒飲みの「しない」は大抵当てにならないものだが、確かに今日はまだ飲酒していないようで、彼女はシラフの楓屋紅葉だった。


 事前に連絡していたが、ひづりは戸を数回ノックしてから天井花イナリの名前を呼んだ。


 かろかろ、という足音が店の奥から近づいて来るのが聞こえ、やがて解錠する音が鳴った。


「なんじゃひづり。鍵なら持っておろうに、勝手に入ればよかろう?」


 開口一番、天井花イナリは首を傾げて少々面倒くさそうな顔をした。


 ひづりは肩を竦めて答えた。


「いやぁ、だって今はお二人の家みたいなものですし。あ、それとこっちが父方の叔母の――」


「わぁ~! 可愛い! 最高! すごくない!? ちよこちゃんから聞いたイメージだけで仕立てたとは思えないほどぴったり見事に似合ってるぅ~! あぁほんと、あぁ……っていうかほんと、めちゃくちゃ可愛いね!? 何人さん!?」


 ……おい、連れて来てやったんだから最後まで言わせなさいよ。天井花イナリを見るなり騒いだ紅葉をまたじろりとひづりは睨んだ。


 ――昨晩、ひづりは彼女に二つの話をされていた。


 一つは、三ヶ月ほど前に吉備ちよこに依頼されて仕立てた三枚の和服についてだった。それらは現在、吉備ちよこ、天井花イナリ、和鼓たぬこが身につけて働いている訳だが――。


『あたしの仕立てた和服、着てくれてる子たちを見たくてさぁ~! 今まで忙しくて会う機会なかったんだよね。ちよこちゃんには会ったし着てるとこも見たんだけど。……だってさぁ~? 最近じゃ、採寸して、仕立てて、でも最後は依頼主に商品を郵送して、はいおしまい! 着付けはネットで調べます! とかが結構多くてさぁ~!! やっぱり自分の作品だと尚更、ちゃんと着る人が着たところ、見ておきたいじゃん~! あとひづりちゃんの職場見たい』


 そう駄々をこねたのだ。


 楓屋紅葉は和裁技能士わさいぎのうしという国家資格を持っている。簡単に言うと、売り物として和服を生地から切って縫って仕立てることを、正式に国から認められている技能士なのだ。彼女は二十歳そこそこでその資格を取り、呉服問屋の老舗であった楓屋の跡取り息子、楓屋佳代秋にその技術と美貌を見初められ、あっという間に呉服問屋の女将さんになってしまった、その道に関しては中々に名の知れた人なのだという。


 実際、普段はちよこのせいでメイドエプロンなど着させられて少々台無しにされてこそいるが、やはりそれを脱いだ時に見える天井花イナリと和鼓たぬこが身に纏っているその紅葉製の着物というのは、堪能でないひづりから見ても、彼女達の体というのか、雰囲気というのか、とにかくそれらにぴたりとはまっていて、本人と着物とが互いの魅力を引き立て合い、まさに一つの芸術作品のように感じさせる事があるのだ。


 互いの面識も無く……つまり紅葉はちよこから聞いた二人の体の寸法と雰囲気だけでこれらを仕立て上げたのだ。老舗の呉服問屋の女将を名乗るだけのことはやはりある。呑んだくれでブラコンで新宿駅に負けて泣く人だけども。


「……紅葉さん。紅葉さん。まず挨拶しましょう。ね」


 暴走気味の紅葉の肩をひづりが叱責する様に軽く叩くと、彼女はハッと我に返った様子で姿勢を正し、天井花イナリにかしずくようにした。


「初めまして、可愛らしい店員さん。あたし、ひづりちゃんの叔母の楓屋紅葉って言います。あなたやちよこさんの着物の仕立てをした者です」


「……ほぅ。昨夜電話で言うておったお主じゃな。幸辰の妹か。確かに少々、あやつと雰囲気が似ておるか? ひづりはよく働く娘じゃ。お主、まこと良き姪を持ったの。わしは天井花イナリと言う。今はひづりと共にフロアの仕事を任されておる。それと、この服、お主が繕ったと言うたかの? 初めは異国の妙な服と思うたが、しかし着慣れてみると実に良き反物と分かった。楓屋紅葉、褒めてつかわそう。どれ、遠慮は要らぬ、上がってゆくがよい。多少もてなしの用意もしておる。今はちよこも居らぬ。ひづりと共にゆっくりとしてゆけ」


 彼女はいつもより少し機嫌が良さそうな調子でそう締めくくると踵を返して給湯室の方へと消えて行った。


「……あっはぁ! やっば、めっちゃ可愛い! 声がすっごい可愛い! 洋ロリだ!! 何人さん!?」


 洋ナシみたいに言うな。


「……フィンランド人の、たしかクォーター……」


 だったよね? たしかそういう設定だったよね? 《認識阻害魔術》が働いているため、紅葉もアサカやハナと同じく、彼女の狐耳や《角》は見えておらず、また先ほどの天井花イナリの王様っぽい喋り方も普通の敬語に聞こえているのだ。


「フィンランド人かぁ~! こんな可愛いのかぁ~! いいなぁ一回行ってみたいなぁ……」


「めちゃくちゃ寒いらしいですよ」


「えっ、寒いの? どれくらい?」


「周辺国の人間が家の中で凍死するレベルの寒気が訪れた時、フィン人は外でバスケしてる、とかなんとか、そんな冗談を見かけましたけど」


「怖っ!? 雪の妖精か何かなの!?」


 紅葉は《和菓子屋たぬきつね》の戸口をくぐりながら両手で抱えるように肩をすくめた。


 ちなみに和裁士と言ったが、現在身につけている紅葉の衣装は和服ではない。というより、ひづりは彼女が和服を着ているところを、ただ一度幼い頃に父と共に楓屋家の店へ赴いた時にしか見た憶えがなかった。当人いわく「縫うのも着るのも仕事中だけで良いんだよ」との事で、また彼女はいつも鎖骨くらいまでのストレートヘアを金に染めており、ただ少々ずぼらな性格故か、よくプリンになっていて、今もまさにそうなっていた。ただそれすらも、綺麗な足のラインが出るジーンズにラフなTシャツとが合わさった本来の彼女らしさ……父いわく「今も名残があるから察しの通りだけど、紅葉は学生の頃は普通にヤンキーだった」というそんな彼女らしさが出ているようで、ひづりは嫌いではなかった。


 そう。母方の叔母、花札千登勢とは正反対のタイプだが、ひづりは紅葉の事が嫌いではなかった。実際叔母といえばごく最近までこの楓屋紅葉だけだったうえ、子供の頃からお盆や正月にはよく一緒に遊んでくれたし、何より彼女が来ると父が嬉しそうなのだ。だから大体いつ会っても酒臭くて酔っ払っていようが、ひづりは紅葉の事を嫌いになどなれなかったのだ。


 ちよこが入院したことで一ヶ月は休業となった《和菓子屋たぬきつね》だが、今日はその店舗フロアである一階に電気が全て点けられていた。適当に一番近いお座敷席に紅葉が靴を並べると、ひづりはその向かいに座った。


「それでそれで? もう一人の和鼓さんって人は?」


 落ち着かない様子で紅葉は店内に視線を伸ばした。


「たぬこは今厨房に居る。しばし待て。それと、あれは少し照れ屋でな。着こなしを見たいとの事じゃが、あまり近づいてじろじろと見てはやらんでくれんか、幸辰の妹よ。ひづりもたぬこにはよく懐いておるでの」


 氷の浮かぶ麦茶と和鼓たぬこ製の豆大福をそれぞれテーブルに持って来て天井花イナリが言った。


 見透かされたようなその最後の一言に紅葉は少々眼を丸くして、我知らずか、その背筋を伸ばして天井花イナリの横顔を見つめた。


「わ、分かりました。気をつけます……」


「人を見る眼と物分りの良さは寿命を延ばす。その心構え、大切にせよ」


 眼を細めて微笑むと、お盆を片手に彼女は和鼓たぬこが居るという厨房の方へと歩いて行ってしまった。


 ……あれ? 天井花さんの発言って、それっぽく敬語で聞こえてるんだよね? 《認識阻害魔術》、効いてるんだよね? 《悪魔の王様》としてのカリスマ、ちょっと漏れ出してない? ひづりは少し不安になった。


「……なんだか、雰囲気のある子だね? とってもしっかりしてるっていうか……今ちょっと何かゾクッとしたんだけど……」


「気のせいですよ。まぁでも実際しっかりしてる方ですよ」


 ひづりは視線を背けながら麦茶を頂いた。


「構わぬそうじゃ。良かったのぅ紅葉とやら。ひづりの前で、多少良いところを見せたいようじゃ」


 少しして天井花イナリはその様に言いながら戻って来た。その後を、全体的に緑色の和服美人が現れた。もちろん《認識阻害魔術》が効いている紅葉にはその緑の髪はブロンドに見えているが。


 するとおもむろに紅葉は無言で立ち上がって靴を履いた。ひづりは彼女の微かな異変に気づき、自身もすぐにお座敷を降りた。


「マジか……」


 天井花イナリを挟んだ店内の廊下で和鼓たぬこと向かい合った楓屋紅葉はまず第一声にそう漏らした。


「ちよこちゃんから依頼された時、信じられないような数値を言われて、でも指示通りちゃんと仕立てたけど……すっげぇ……帯におっぱいって乗るんだ……初めて見たかも……。……え? いいよねこれ? 私が仕立てた着物だもん。触って揉んで隙間に手とか入れても良いよね?」


「良いわけありますか。……もし和鼓さんの体をそういう目的で触るなら即刻店を追い出して父を呼びます」


「うお!? ごめんなさい。しません。絶対しない」


 興奮気味に痴漢の事前申請をした紅葉にひづりが低く冷たい声で返すと、彼女は両手を上げて一歩下がった。


 岩国への旅行に際し、ちよこによって和鼓たぬこに掛けられていた《大人の人間恐怖症》に対する《認識阻害魔術》は未だ健在であり、そのゆえ触れるほどにまで接近されなければ依然としてこうして数メートルの距離まで《人間の大人》である楓屋紅葉に近づいても問題はない。だが先ほど紅葉が言ったように、触れられるのは駄目なのだ。それとひづり個人の気持ちとして、いかがわしい手で和鼓たぬこが触られるのは、それが叔母であろうと腹に据えかねる案件だった。


「しかし……うん、うん……二人とも、ちゃんと《合う》ように仕立てられていたようで安心したよ。兄貴の娘さんたちの店の店員さんだもの。もし《合わない》出来になってるようなら、改めて今日採寸して作り直すつもりだった。けど必要なさそうだね」


 紅葉は約束通り近寄り過ぎない程度の距離で、かつ天井花イナリと和鼓たぬこの頭の先からつま先までを丁寧に注視して口角を上げた。その横顔はまさしく老舗の呉服問屋の女将、和裁技能士楓屋紅葉の横顔で、ひづりは思わずドキリとした。……ああ、この横顔でこの人は若い頃から周囲の色んな女の人の人生を狂わせて来たのだな、とそんな事を思った。


「ほつれたり、バリエーションが欲しくなったら、いつでも言ってください。いま身につけられているそれらと遜色ない……いえ、こうして今日、ご本人様の見目麗しいお姿をこの眼で拝見出来たのです。必ずやそれ以上の物を仕立ててみせますよ。どうか今後も楓屋を御贔屓に……」


 彼女は天井花イナリの前にかしずいて見せるとその手をとり、慣れた仕草で名刺取り出してそこへそっと置いた。……女たらし。


「ほう? 良かろう。都合はまだよぅ分からぬが、ことこの着物という物に関しては事あらば真っ先にお主を呼びつけるとしよう。それまでは決して失望させる事無きよう、引き続き研鑽に励むがよい、楓屋紅葉よ」


「ありがとうございます、お嬢様」


 天井花イナリが名刺を袖にしまうと紅葉は立ち上がり、彼女と握手した。思いの外二人は相性が良いのかもしれない、とひづりは胸を撫で下ろした。……酒が入った時の紅葉が同じかどうかはちょっと分からないが。


「どうじゃたぬこ? お主からも何か言う事はあるか? この際じゃ、何でも聞いてもらえ」


 にわかに柔らかい声音になって天井花イナリは背後の幼馴染に促した。


「あ、は、はじめまして。和鼓たぬこと申します……。えと、この服、とっても着心地が良くて、好きです。異国の服で最初は戸惑いましたけど、可愛くて、イナリちゃんとっても似合ってて、綺麗で、かっこよくて、素敵で。……楓屋さん、こんな良い服を作ってくれて、ありがとうございます」


 そう言って和鼓たぬこはぺこりと丁寧なおじぎをした。可愛い。


「その様に言って頂けるとは、一職人として光栄の至りです。天井花さん共々、今後もどうぞ御贔屓に」


 さっきの痴漢申請は何だったんだ、という真摯な態度で紅葉はまた形の綺麗なお辞儀をして見せた。


 その時、不意に、こんこん、と戸口をノックする音が響いて、ひづりはハッとなって店内の針時計を見た。


「紅葉さん、来たみたいです」


 告げると、ひづりは踵を返して玄関へ駆け寄った。


「ひぃちゃん! おはよう!」


「やっほーひづりん。調子どう?」


 扉を開けるなり二人の学友がひづりに、ぎゅう、と抱きついてきた。……いや、最近色んな人に抱きつかれ過ぎてかなり慣れたから、うん、別に良いんだけども……。


「やぁーアサカちゃん。久しぶり。また可愛くなったねぇ。うん? 隣のは、はじめましてのお友達かな?」


 紅葉はひづりの背後に来ると二人を見下ろしてにっこりと笑った。


「あれ? 紅葉さん? お久しぶりです」


 アサカがひづりに抱きついたまま首を傾げた。


「うお、またひづりんが綺麗なお姉さん侍らせてる!? 駄目ですよお姉さん、この女子高生、女たらしですよ。気をつけた方がいいですよ」


 ハナがひづりに抱きついたまま根も葉もない悪口をほざいた。


「うるせぇ! いい加減離れろ! 暑いわ!!」


 ひづりはアサカをやんわりと、そしてハナを雑に突き放した。


「えー……、こちら私の父方の叔母の楓屋紅葉さん。和服作ってる人。あとこっちは奈三野ハナ。いかがわしい女なので紅葉さん、あまり近づかないでください」


「言うじゃねぇかひづりん。でも冷たくされるの、あたし嫌いじゃないぜ。……という訳ではじめまして紅葉さん? ひづりさんとは学校で仲良くさせて、げへへ、仲良くさせてもらってます、奈三野ハナです。よろしくどうぞ」


 おいなんだ今の「げへへ」は。やめろ。


「やはは。驚いたね。ひづりちゃんにこんな賑やかなお友達が出来てるとは、紅葉お姉さんちょっと意外だったよ?」


「そうですかね。……そうですかね」


 ひづりはハナのほっぺたを摘んで上に引っ張りながら紅葉に返した。


「うん。ひづりちゃんどっちかっていうと物静かなタイプだし?」


「……いや、一昨日、もう一人、更にかなり騒がしいのが追加されたばかりなんですがね……」


「……さては苦労してるね?」


「割と」


 ただ、今はあの高性能過剰接触交換留学生のことはひとまず置いておいて、だ。


 今月いっぱい《和菓子屋たぬきつね》が休業であることはもちろんアサカとハナも知っている。


 つまるところ、紅葉のもう一つの話とは、これだった。


『紅葉お姉さんね、ひづりちゃんとそのお友達に、今年の分の浴衣、プレゼントしたくってさ~』


 昨夜、彼女は兄にさんざっぱら甘えて愚痴って酔いが覚めた頃、思い出したようにひづりにそれを語ったのだ。




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