『夜空へ消えていく』




 ひづりの母、官舎万里子はイギリスのケンブリッジで三ヶ月前、暮らしていたそのアパートのリビングで孤独死した。死因は心臓発作だった。誰かが押し入った形跡も無い事から事件性も無いとされていた。


 けれど心臓が弱いなどといった持病は母には無いはずだった。幼少期から十七歳まで虐待の過去こそあったが、心臓に関わるひどい大怪我をしたと言う話は聞いていなかった。


 そんな母の、急な心臓発作での死。急な心停止は決して絶対に起こりえないことではないと聞く。母はたまたま、運が悪く死神の眼についた、ただそれだけだったのだ、と、当時はそう説明された。


 けれど。今のひづりなら少し考えれば思いつくことであった。実際、何度かひづりは想像したことがあった。


 母は、《召喚魔術師》であった母は、三ヶ月前、《召喚魔術》による《悪魔》との《契約》によってその命を落としたのではないのか、と。


 それは《過去》だ。天井花イナリの《過去視》で確かめられることだ。だがひづりはそれを天井花イナリに依頼しなかった。母の死はどうあっても確定したもので、そして《召喚魔術師》として死んだのなら、そこにひづりが何かを思うことは何も無い。天井花イナリもそれについては一度も語って来なかった。


 けれど、それでもまさかこんな……こんなことだなんて……。


 ひづりは視界が狭く、暗くなっていくのを感じていた。眩暈がして体中から力が抜けていくようだった。


 ……ラウラ。ラウラ・グラーシャ。


 動悸が治まらないながらも、しかしようやく心にわずかばかり落ち着きを取り戻してきたひづりは父の体から身を乗り出して問い詰めた。


「ラウラ……。今のは、本当に……本当? 本当なの……?」


 ひづりのすがるような問いかけに、しかしラウラは依然として涼やかな表情のままただ視線だけを返して、言った。


「ひづり。全て真実です。一分の嘘もありません。何なら直接、《ボティス》に聞いてください。あの子は知っていますから」


 『知っている』。先ほどラウラは『《ボティス》は幸辰に懇願されて秘密にせざるを得なかった』と言った。つまり天井花さんは知っていたのだ。母の直接の死因を。


 そしてその殺した《悪魔》が《グラシャ・ラボラス》で、《グラシャ・ラボラス》がラウラ・グラーシャであることも。


 それを知っていて、八月の頭からそれに気づいていて、今までずっと黙っていた。


 どうして? 何故?


 母は《契約》の達成で《グラシャ・ラボラス》に魂を奪われた。それは良い。《召喚魔術師》というものがどういうものかは、天井花イナリから聞いてひづりは充分に理解していた。だからそれは良い。


 だが、三ヶ月前にその母との《契約》を終え、おそらくは《魔界》に帰ったはずの《グラシャ・ラボラス》が再び《人間界》に戻って来て、そして官舎万里子の娘である官舎ひづりの前に現れた。


 そこに何も理由が無いなどという訳があるのか。それを知っていた上で天井花さんは黙っていた……? 確かに母の死因を訊かなかったのは自分だ。しかしそれとこれとは話が違う。


「と……父さんは、今日、天井花さんに会いに行っていたの……?」


 我知らず震えた口唇でひづりはどうにか父に訊ねた。


「……ああ。相談しに行っていた。そして天井花さんには、《現在視》の力で、常にひづりたちの様子を見てもらっていた。昨夜の事を《グラシャ・ラボラス》は知覚出来る。私が気づいたことも、それを天井花さんに相談したことも、今日の時点ですでに感知することが出来ていた。それでも《グラシャ・ラボラス》は依然、ラウラ・グラーシャとしてひづりたちと今日の勉強会に参加していた。昨夜電話で相談した時、天井花さんは危惧をしていなかった。八月の頭から既に気づいていた、と。そして天井花さんが気づいている事を《グラシャ・ラボラス》も似た力を持つ故に、やはり感づいているはずだ、と。要するに、天井花さんも《グラシャ・ラボラス》も、お互いに最初からその存在に気づいていたんだ」


 やはりそうなのか。ラウラ――《グラシャ・ラボラス》と、天井花さん――《ボティス》は、お互いによく似た《未来視》と《過去視》を持つ《悪魔》だった。であれば、これほど近い位置関係に居てお互いの存在に気づかない訳が無い。


 だから父は昨夜、取り乱していたのか。父はその口ぶりからどうやら《グラシャ・ラボラス》とはそれなりに面識があり、またその《能力》もよく知っている風だった。だからラウラの写真を見た時、その顔を見た時、すぐに《グラシャ・ラボラス》だと気づいた。そして《ボティス》が《グラシャ・ラボラス》と似た力を持っていることを思い出し、それならば互いに知覚出来ているはずだ、と思い至り、彼は天井花イナリに連絡を入れた。一体これはどうなっているのか、と問い詰めたのだろう。


 しかし天井花イナリは危惧をしていなかった、という。それはつまり……。


「天井花さんは初めから、ラウラが、《グラシャ・ラボラス》が私に攻撃してこないことを知っていた……? どうして……?」


「それは明日、本人から聞いてください、ひづり。あなたは明日、《ボティス》に会いに行くつもりなのでしょう?」


 見透かされている。明日の、《未来》の行動を。


「いや。今、目的だけでも言ってくれないか、《グラシャ・ラボラス》。天井花さんは《未来と現在と過去が見える》が、会話や感情までは知覚出来ないと言っていた。君もそれを知っているんだろう。だから私達には、君の目的を知ることが出来ない。何なんだ。何をするつもりで、ひづりに近づいたんだ。それを話してくれ」


「なら幸辰は、ひづりに対し、万里子が私と一体どんな《契約》をしたのか、説明できるのですか?」


 ぎらり、とにわかにラウラの瞳が輝いた。ひづりは思わずその殺意の込められた眼力にびくり、と肩を震わせた。父も同じくたじろいでいた。


「……やはり言えないのでしょう。なら、私も今はまだ目的を語る気はありません。その段階ではありませんしね。変わってませんね、幸辰」


 薄く笑ったラウラに父は何も返せずにいた。


 しかしそこでひづりはにわかに気づいたことがあって、その思案に没頭した。


 《契約内容》……? そうだ。母さんはラウラと、《グラシャ・ラボラス》と一体どんな《契約》をしたんだ?


 ……それなのか? 父さんが私に、母さんの死因が《悪魔》との《契約》であることを話さなかった理由……。それが父さんを苦しめているもので、私に秘密にしたがっている事の根幹部分なのか?


 母さんは何を願ったんだ? 何を願って、そして死んだんだ? それを私が知ると、どうして父さんは困るんだ? どうしてこんなにも苦しげな顔をするんだ?


 知りたいとずっと思っていたのはほとんど好奇心からだった。しかし今日こうして父の苦しむ顔を見て、ひづりはもはや触れまいとさえ思い始めていた。しかしラウラは、《グラシャ・ラボラス》は『今はその段階じゃない』と言った。


 それはつまり、この後、何時間後なのか、何日後なのか、それは分からないが、彼女は父がこれまでひた隠しにして来たその真実を、私に打ち明けるつもりでいるということなのか。


「……それがラウラの目的なの……? ラウラと母さんが《契約》したその内容を私に教えることが、ラウラの目的なの……?」


 ひづりは訊ねた。手と足が震えていた。けれど、訊ねなくてはいけないと思った。


 ラウラは片眉を上げて見せた。


「鋭いですねひづり。そういうところ、大好きですよ。でも惜しいです。確かにそれも目的の一端ではあります。ですが私の目的はもう少しばかりスケールが大きめです。それだけは覚悟しておいて欲しいです」


 彼女は一瞬だけいつものラウラ・グラーシャの顔を見せたが、すぐに《グラシャ・ラボラス》として語った。


「そしてそれに気づいた事へのご褒美として、一つだけ教えてあげます。百合川臨。彼が私の《契約者》です」


「…………は?」


 彼女の口から出し抜けに語られたその名に、ひづりは頭の中が真っ白になった。


 彼女は《悪魔》だ。召喚されたのなら、必ずどこかに《契約》した人間、《召喚魔術師》が居る。それは分かりきっていた。


 しかし。


「ゆ……百合川……? あいつが……? あいつが今、ラウラと《契約》しているの……?」


 どうして? 何で? 百合川が、《召喚魔術師》? 百合川が《グラシャ・ラボラス》を召喚した?


「あいつは、な、何をラウラに願ったの?」


 死んでしまうんだぞ。《悪魔》と《契約》したら、その《契約内容》が達成された時、魂を奪われるんだぞ。《召喚魔術師》であるなら、それが分からない訳がないだろう。


 百合川、お前は。


「一体、何のために死ぬの……?」


 花火大会での彼の表情がひづりの脳裏に浮かんでいた。悲しげで切なげな顔。何かを諦めたような、そんな――。


「それもまだ話す訳にはいきません。まだその段階ではないのです、ひづり。ですがそれもいずれ、語るべき時が来た時に、あなたは知るのです。ただ」


 ラウラは冷たい眼差しで、まるで切り捨てるように言った。


「百合川の《願望》は、ひづり、あなたに大いに関係しています。だから私はあなたに接近したのです、その《契約内容》のために。これまでの自身の行いに対し、ひづり、胸に手を当てて考えてみてください。あなたは少し鈍いですが、それでも《ボティス》と話し合えば少しは分かるかもしれません」


 《願望》……? ひづりはその言葉の響きから一つ思い出すことがあった。


 《願望契約者》。《ベリアル》が口にした言葉。記憶違いかもしれないが、ひづりがあの《堕天使》から聞いた言葉。


 特別珍しい言葉ではないが、しかし《悪魔》である《グラシャ・ラボラス》が口にしたなら、決して聞き逃す事は出来なくなる。


「ラウラ!? 《願望契約者》って何か分かる!? 教えてくれる!?」


 ひづりが問い質すと、ぴくり、とラウラの眼差しが一瞬鋭くなった。


「……興味深いですね。ひづり、その話、是非とも語り合いたいところですが……ですがそれは最後にしましょう。すべてが終わった後に、じっくりと……」


 そう言って彼女ははぐらかした。


「では、今日の話し合いはこの辺りで終わりにしましょう」


 にわかにラウラの足元に《魔方陣》が現れ、それはそのまま真上にスライドし、彼女の全身を包むようにした。その《魔方陣》の模様は《認識阻害魔術》のものだった。


 直後、真っ黒な闇に包まれたかと思うとラウラの体は二メートルを超える長身へと化けた。肌の色は《フラウ》や《火庫》の体の一部のような紫色。背中の方へと広がったドレススカート状の鎧の末端には鳥の尾羽のような長い布がダラリと伸び、そして腰の辺りからはまるでハゲワシの様に大きな翼が生え、広げられていた。真っ黒なティアラをその頭に乗せ、頭髪の一部は鋭く頑丈そうな《悪魔の角》へと変貌していた。


「では、今日は楽しかったですよ、ひづり」


 幅十メートル以上はあろうかというその闇黒の巨翼は駅前に常に吹きぬけ続ける風を浴びて彼女の体をゆっくりと宙に浮かせ始めた。彼女が先ほど掛けた《認識阻害魔術》のせいだろう、周囲を行き交う人々はラウラの、そのおそらくは《グラシャ・ラボラス》本来の異質な巨躯に眼もくれず真下の歩道を通り過ぎていく。


「待って――」


 ひづりの制止の声も虚しく、彼女の黒翼はそのまま一気にはるか上空まで流されるように舞い上がると夜空に融けて見えなくなってしまった。


「……待ってよ、ラウラ……」


 この短時間であまりに大量の情報を突きつけられたひづりの脳は驚きの連続も相まって疲弊し、思考力はひどく低下していた。父の秘密も、母の《契約》も、天井花イナリと話し合わねばならないことも、百合川の事も、《願望契約者》のことも、何もかもこの時頭の中から消え去っていた。


「ラウラ……ラウラ……」


 ひづりの眼には涙が溢れていた。《グラシャ・ラボラス》が、ラウラが飛び去っていくその姿がどうしてもひづりには耐えられなかった。きっと既にもうどこか遠くの空へと流れ、代々木駅から見えるその狭過ぎる星空に彼女の姿は無くなっていると分かっていても、それでもひづりはしばらくその夜天を見上げて彼女の名前を呟き続けた。


 彼女が遠ざかっていく。それが悲しかった。








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