『今宵だけはせめて』
帰路、会話は無かった。父は何か言おうとしている風ではあったが、しかしそれを不可能にしているものが彼にはやはり依然としてあるようで、ずっとひづりの隣を無言でややうつむき気味に歩いていた。
ひづりは駅前で突きつけられた衝撃的な真実の数々と、そして同時に父と天井花イナリに対し抱いてしまったそのどうしようもない不信感によって疲れ果て、もうただ歩くだけでいっぱいいっぱいだった。自ら何かを話す気にはなれなかった。
そして家に着いても駅前での一件に関するやり取りは行われなかった。
「……ご飯、父さんが作るよ」
「お風呂、父さんが先に入って。私は後で良い」
いつもの会話。普段の何気ないやり取り。けれど今それはあまりにも淡白で、二人の間にはひどく遠い距離があった。
一般的な父親と高校生の娘の会話であれば、こんなものかもしれない。しかしひづりと幸辰は違うのだ。父はひづりをとても愛していて、ひづりも父を尊敬し、愛している。周りから見れば少しばかり行き過ぎなくらい、二人は仲の良い親子だった。
それが今日を以って、あの《グラシャ・ラボラス》という《悪魔》の登場によって壊れようとしていた。その可能性を二人共が感じ取っていた。
官舎万里子の死。それについて語ってくれない父。娘に語れない父。これまで水面下でぼかされ続けてきた、どうせなら分からないままでもよかったその問題が、今日一気に水底から引き上げられて二人の眼前に晒し上げられていた。
そしてまだ明確な答えは得られていないが、その真実をひづりが知った時、二人のこれまでの生活はきっと大きく形を変えてしまう。崩れてしまう。そんな恐ろしい予感が互いの中にはっきりと在った。だから二人とも就寝の時間までついぞ一度も眼を合わせる事が出来なかった。
「……おやすみ」
一言だけ父に告げるとひづりは逃げるように自室に入り扉を閉め、電気を消してベッドに倒れこんだ。
ラウラが母さんを殺した。彼女の正体は《悪魔》の《グラシャ・ラボラス》だった。そして今度は百合川の魂まで奪おうとしている。
そして百合川もまた、その命を捨てる覚悟で、自分に対し何かを成し遂げようという意思を……《願望》を持っているという。加えて、その原因は官舎ひづり、あなたにある、とラウラは言っていた。
天井花イナリは、ラウラが《グラシャ・ラボラス》であることを知っていたと言う。そして母が――官舎万里子が《グラシャ・ラボラス》とどのような《契約》を交わし、死んだのかも知っていて、それを父と一緒に秘密にしていた。
天井花さんは賢い《
ひづりはベッドの上で一人うずくまって頭を抱え込んだ。
分からない。何がどうして、どうしてこんなことになってしまったんだ。自分は何を間違えた? 何が……。
私は……。
「――――!?」
その時不意にリビングの方で父の声がした。誰かと話すような声だった。内容までは聞き取れなかったが、けれどひづりの部屋まで聞こえてくるほどの声量だった。
何だ? ひづりは体を起こしてベッドから降りようとした。
しかしそれとほぼ同時だった。にわかに扉のドアノブがガチャリと音を立てて勢い良く開かれ、廊下の明かりが室内に差し込んだ。
ひづりは呆気にとられた。部屋の前に立っていたのは寝巻き姿の天井花イナリであった。
「天井花……さん……?」
戸惑うひづりに、しかし彼女は無言でずかずかと部屋の中へ入って来た。
そしてひづりの手を掴んで立たせるなり、言った。
「店へ行く。来い」
淡々としたいつもの口調。だがそこには微かにだが緊張の色が見られた。
彼女はひづりのベッドに転がっていたスマートフォンと枕を掴むと、足元に《転移魔術》の《魔方陣》を描いた。
「え、何、待っ――」
言いきる間も無く《魔方陣》は強く発光し、ひづりは視界を奪われた。
「…………」
《転移魔術》の着地点。そこは《和菓子屋たぬきつね》の三階、天井花イナリと和鼓たぬこの寝室だった。出し抜けに『店へ行く』と言われ、それゆえ『今から店の畳部屋や休憩室で話し合いが行われるのだろうか』と覚悟しかけていたひづりは、また呆然とした。
ベッドには和鼓たぬこが同じく寝巻き姿で座っていて、ひづりたちの到着に気づくなりその腰を上げて近づいて来た。
「ひづり。許せとは言わん。万里子のやつのことで、幸辰と共にお主に対し秘密を持っておったこと……それは事実じゃ。しかしそこには理由もある。おそらく人の親なれば、同じ立場に立てば誰もが同じ行動を選択するであろう、秘密じゃ。お主を困惑させ、苦悩させた一因ではあるとしても、それでもわしは謝らぬ。幸辰もお主に謝る必要などないとわしは考える。それでも、ああ、お主は……」
そこまで言ったところで天井花イナリはひづりを振り返り、その小さな手でそっと頬に触れて来た。
「幸辰と共にわしが万里子のこと、そして《グラシャ・ラボラス》のことを黙っておったが故に、お主はわしへの不信を募らせたのじゃろう。それは理解しておる。わしはお主に《期待せよ》と言うた。また、望めばいつでも呼べとも言うた。しかし信じられぬというのであれば、仕方があるまい。償いはする。……たぬこ」
呼ばれると和鼓たぬこは数歩近づいてひづりの手をそっと握ってきた。
「今回、たぬこはこの件に関して何も知らぬ。何も教えておらぬ。そもそもわしのような《未来と現在と過去が見える力》のような《能力》もない上、《人間の大人恐怖症》のために、幸辰とはこれまでほとんど会話もしておらん。じゃから今はたぬこだけは信じてやってくれ。たぬこは、お主が一人で泣く事を喜ばぬ。故に、特別に三階の寝室で二人眠ることを許す。わしは一階の畳部屋に居るでの。たぬこに寝かしつけて貰え、ひづり。そして明日お主が眼を覚ましたならば、その時に全てを話す。お主が求めておるその答えの、わしの知っておる限り、全てをな。……じゃから今宵はたぬこに甘えよ。その疲れを少しでも落とせ。よいな」
そう言って天井花イナリは踵を返し、部屋を出て階段を下りていった。
そうして二人きり三階の寝室に取り残されたひづりは、おそるおそる隣の和鼓たぬこを振り返った。彼女もひづりに視線を向けて来た。
和鼓たぬこは戸惑いと不安の混じった顔で、ひづりと、そして天井花イナリが去っていった扉の方をちらちらと見比べていた。天井花イナリの言葉通り、彼女は今日のことを何も知らない様子だった。
けれど神妙な面持ちの天井花イナリと、そしてひづりのその酷い顔色を見て確かに今日何か良くない事があった、という事だけは察したようで、口角を上げると「もう、大丈夫ですよ」と柔らかく微笑んだ後、おもむろに手を伸ばして抱きしめて来た。
一体何が大丈夫なのか分からないが、けれどそうして柔らかな腕の中に抱かれているとひづりは一度に眼と鼻が熱くなっていくのを抑えられなくなった。滲み出した涙で視界がぼやける。
……しかし、『慰めよう、励まそう』としている一方で、その自身の感情は抑えきれていないらしく、彼女のたぬきの尻尾はふよふよと左右に、そこそこ激しく揺れ動いていた。前回、お盆明けに宿泊した時の事をひづりは思い出した。ひづりが泊まると聞いて、あの時彼女はとても喜んでくれていた。
ハグの安心感と共にそれは張り詰めていたひづりの心をまた少し解きほぐし、正常な眠気を取り戻すことに一役買っていた。
和鼓たぬこに抱きしめられたままゆっくりとベッドに腰を下ろし横たわるとひづりはとても安らいだ気持ちになって頭もすっと軽くなり、すぐに穏やかな眠りへと落ちて行った。
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