『本の街』



 翌日の金曜日。天気予報は午後からの雨に気をつけるよう言っていたが、放課後になっても少しばかり灰色の雲が浮いている程度で、新宿駅から都営新宿線に乗って神保町駅のホームへ降り立っても、まだ雨の匂いは鼻を掠めなかった。


 駅はとても静かだった。大学がすぐ近くに在るというので、綾里高校傍の中野駅と似た感じを想像していたのだが、思っていたより構内は清潔感があって、またそのためか人が居ない訳ではないのに不思議と落ち着いた雰囲気があった。


 向かいの線路に到着した車両の音を聞きながら出口を探していると、ふと窓ガラスに映った自分を見つけ、ひづりは一度立ち止まって思い出した様に背筋を伸ばした。


 神保町駅へ来る前、ひづりは学校を出た後一旦家へ戻り、昨日の内に用意した私服に着替えていた。さすがに高校の制服のまま大学構内を歩くのは浮いてしまうだろうと思って、なるべく大人っぽくて秋っぽい感じの物を選んでいた。しかし改めて窓ガラスに今の己の姿を認めてみると如何にも子供が背伸びをしたという出で立ちに思え、ひづりは今更落ち着かなくなってしまった。


 しかし、まぁ、別に服を見てもらいに行く訳ではないからな、とひづりは腹を決めると車の行き交う音が聞こえて来た三番出口の階段を駆ける様に登った。


「……おお」


 出口を抜けて歩道に出ると、靖国通りと書かれた目の前の広い十字路を挟んだ向かいの通りにいきなり三つの異なる書店の看板が掲げられているのが見え、思わず感嘆の息を漏らしてしまった。


 別名『本の街』と呼ばれているこの神保町に、ひづりも以前から興味はあった。しかし何分中学までは千歳烏山に住んでいたため中々に距離があったし、また高校に上がって新宿で暮らし始めてからはいくつも駅を越えなくてもすぐ歩いていける距離に十分な数の本屋があったので、これまで一度も『本の街』に足を運ぶ機会を見出せずにいたのだった。


 しかし今日その街並みを眺め、本物の空気に触れたひづりは考えを改めた。何故今まで来なかったのだろう、と大いに悔いた。景色の珍しさとしたって、駅を出ていきなり書店が三つ並んでいる所なんてそうは無い。またその書店の一つは通りに面した一箇所がガラス張りになっていて、どうやら中にゆとりある読書スペースが設けられていると分かる。その隣の店も本棚をそのまま通りに立てているせいで如何にも本がそのまま外壁になっているという体で、そしてそんな珍しいはずの風景の前を、まるで何もおかしな事はないという顔で学生風の人たちが行き交っていた。


 今日、この神保町へは凍原坂の治療のために訪れたのだ。ついでに天井花イナリと凍原坂の計らいで、ありがたいことに明治大学構内を見て回らせてもらえるという話にもなっている。


 断じて、神保町の本屋巡りに来た訳ではない。


 ……のだが、でもちょっとくらいなら、良いのではないだろうか? 遅れては悪いと思って結構早めに家を出たため、《火庫》たちとの待ち合わせにはまだずいぶん時間があった。それに学校で図書委員を務めているなら、こういう、良い本が揃っていそうなお店を見ておけば、次に文庫として仕入れる本の選考なんかにもきっと役立つ、と思う。それにあと、あれだ、一昨日姉さんが百合川に迷惑を掛けてしまったし、あいつに何か良さげな古い伝記小説の一冊でも買って行ってやった方がいいんじゃないかな。うん。そんな気がする。よし行こう。


 一人脳内で言い訳を済ませたひづりは十字路が青信号になるなりつかつかと横断歩道を足早に渡った。








 やっぱりまずは、とひづりの足は迷い無く一軒の古本屋へと向かった。《和菓子屋たぬきつね》の向かいにある古本屋もなかなかに趣のある店ではあるが、こちらの店はもっと古く、ずっと昔の本でも沢山置いていそうな貫禄があった。置き過ぎた本棚のせいで店内の通路が圧迫されているところにもまた良さがある。甘夏さんやラウラも好きそうな雰囲気だなと思った。


 文庫本がびっしり詰め込まれた数台のワゴンとそれらを前に何か話している客達の脇を抜け、ひづりはそそくさと店内に入った。


「…………」


「…………」


 開け放してある扉をくぐったところで立ち止まり、ひづりは数秒言葉が浮かばなかった。


 狭い通路の正面に、制服姿の夜不寝リコが立っていた。


「ここで何やってんの?」


 先に口を開いたのは向こうだった。この広い東京のしかも初めて来た場所で偶然出会うって、一体どういう確率だろう。というか最近学校外で毎日会っていないだろうか。


 無言でひづりがげんなりしていると、夜不寝リコは不意に何か気づいたように右手──明大通りの方を振り返って、それからはもう眉根をしっかりと寄せ、如何にも怪しい人を見るような眼でひづりを見た。


「……もしかして、春兄さんの大学に? 何の用?」


 図書委員が本の街に来てちゃおかしいのか、なんて言い逃れはあっという間に封じられてしまい、ひづりは諦める事にした。


「……一旦、外に出よう」


 店内で立ち止まっていては迷惑だろうと思い、ひづりは踵を返して来たばかりの通路を戻った。参考書か何か買ったのだろう分厚い紙袋を抱えたまま夜不寝リコは無言でついて来てくれた。








「…………」


 店を出てすぐの路地へ入ると、昨日と一昨日で纏まった凍原坂の体調不良の原因に関する推測や、それを踏まえて今日から行う予定である《滋養付与型治癒魔術》による施術についての話を、ひづりは一切包み隠さず夜不寝リコに伝えた。


 確かに、彼女にこの話をするべきかどうかというのは、一昨日の時点でそこそこ悩んだのだ。信じてもらえるかどうかもそうだが、そもそも凍原坂や《火庫》を《天界》だの《魔術》だのといった類のものから守るために彼女は《和菓子屋たぬきつね》で働き始めたのだから、であれば、凍原坂のためとは言え彼に《魔術》による治療をするなんて打ち明けたら一体どういう風に話がこじれるか分からない。


 しかしそれでも同級生で同じ職場になった以上隠し通せることでもないからこれはいずれ彼女にも話しておかなくてはならない事だ、ともひづりは捉えていた。それがまさか今日になるとは思ってもいなかったが。


「……ふぅん」


 しかし話を聞いた夜不寝リコは一言、小さくそう呟いただけだった。その声音には、「好きにしたら」という物ぐさながら協力的な響きがあった。


 意外に思ってひづりが呆気にとられていると、それに気づいたらしく彼女は顔を上げ、やや早口に付け加えた。


「言っておくけど、その……《滋養治癒》? っていうので本当に春兄さんが良くなっても、ウチは官舎さんに借りが出来たとか思わないし、お礼も言わないから。そもそもの原因、そっちにある訳だし」


 そしてまたそっぽを向いた。


「信じてくれるの? 私が言ってること、嘘とか、思わないの?」


 確認するように問うと、彼女は苛立った様子で肩でため息をついた。


「別に官舎さんの事は信じてないけど。でも、まぁそこそこ本当っぽいな、って思っただけ。それにウチ、これから春兄さんに進学のこととかで相談にいくつもりだったし、これから一緒に大学行って、直接春兄さんや《火庫》に会って今の話が本当かどうか確認すればいいだけだし。……不都合無いんでしょ?」


 そう言ってまたじろりとひづりを睨んだ。


 きっとこの後大学まで一緒に行く流れになるのだろうなぁ、というのは、凍原坂への施術についての話を始めた時点で諦めていたが、それでもひづりは気が滅入るようだった。


「無いよ、不都合なんて。っていうか、夜不寝さんは明治大学、行ったことあるんだね?」


 ひづりが訊ねると夜不寝リコは俄に得意げな顔をした。


「当然でしょ。大学生の知り合いくらい、もう作っておくべきだし?」


 うわぁ鼻につく。こういうところだ。


「……?」


 その時ふと、夜不寝リコが腋に抱えていた紙袋に眼が行った。資源削減のためだろうあまり厚みの無い物らしく、包んでいる本の表紙がうっすら透けて見えた。


 『新潟』、それから『大学』という文字がそこにはあった。


「それ、受験の本?」


 もしかして噂に聞く赤本というやつだろうか、高校二年生の今からもう手に取った方が良い物なのだろうか、と気になってひづりは指摘した。


 すると夜不寝リコはハッとした様子で紙袋を抱え直し、ひづりから隠すようにした。


「いや、これは友達が探してて……たまたまそこで見かけたから、買っておいてあげようと思って……」


 しどろもどろ、彼女は声を小さくした。


 ひづりはまた首を傾げた。何だ? 何でそんな、見られたら困る物だ、みたいな反応をするんだろう? 別に夜不寝さんが新潟の大学に進学したって、私にはどうでもいい事なんだけども。


「あら……? ひづりさん、リコさんとご一緒だったのですか……?」


 にわかに聞き慣れた涼やかな声が妙な空気になっていた二人の間に静かに割り込んだ。振り返ると、いつも通り可愛らしい白基調の洋服に身を包んだ《火庫》が、すでに道中眠ってしまったらしい《フラウ》をおんぶして路地の手前に立っていた。


 あ、と気づいてひづりは腕時計を見た。話し込んでしまったらしい、待ち合わせした時刻の五分前だった。


「駅の方へ向かっていましたら、こちらの通りにひづりさんのお姿が見えましたので……」


「あー、これはその……」


「火庫、ウチも春兄さんの大学、一緒に行くことになったから」


 ひづりが説明しようと口を開いたところで、被せるように夜不寝リコが前へ出て言った。ひづりはぐっと口を噤んだ。


「……そうですか。では、参りましょうか」


 少し気になっている風ではあったが、しかしこれから行われる凍原坂への施術の方こそ大事なのだろう、《火庫》は《フラウ》を背負ったまま踵を返し、慣れた足取りで明大通りの方へ歩き出した。ひづりと夜不寝リコは彼女の後ろを会話も無くついて行った。






  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る