『グリフォン』





 《ソロモン王の七二柱の悪魔》が代変わりする際に引き継がれるもののひとつ、《思い出》というのは、人間が持つそれとおよそ大差無いものらしい。


 ただ、《ボティス》たちにもちゃんと今を生きる《記憶》がある。故に、代変わりの際、死の間際にある《ボティス》から、次代の《ボティス》へと、その経験が言葉や文字で語られるのだという。


 天井花イナリは《ボティス》だ。しかし、生まれたのは今から千数年ほど前で、紀元前千年の《ソロモン王》とは生きた時代が違う。彼と直接の面識は無いのだ。


 《ソロモン王》と出会った《ボティス》は、《ボティス》というその名を初めて与えられた《ボティス》は、天井花イナリより一代前の《ボティス》なのである。


 故に、天井花イナリも通例として先代の《ボティス》からその《記憶》を語って聞かされた。特に《ソロモン王》の話が大半を占めていたという。そして先代の《ボティス》が死に、《名》と《能力》、そして《思い出》が天井花イナリに引き継がれると、その《記憶》の情報と相まって、『さも自分もいつだったか本当に《ソロモン王》と会って話をした』ように錯覚するようになった。


 話した言葉、交わした議論という《記憶》。そして彼を想うと胸に浮かぶ様々な感情という《思い出》……。それらがある故に、今も大体が代変わりをした《悪魔》たちも未だに《ソロモン王》の事を慕い、また憎んでいる。


 天井花イナリ自身は一度も会ったことがないはずなのに、けれど語り継がれた濃密な量の《記憶》とその《思い出》がある故に、まるで実際の知人であるかのように、思い出話の際には《彼》に対して悪態をつく。憎まれ口を叩く。人間には少々理解出来ないことだが、《ソロモン王の七二柱の悪魔》の間ではこういった事が普通なのだという。


 そして《ソロモン王》に対するそれと同じく、《ボティス》は先代、そしてそれ以前から、長きに亘って《フラウロス》とは競い合い、《グラシャ・ラボラス》とは親しい間柄にあった。その《記憶》を先代から聞かされ、自身の中には《思い出》もある。《フラウロス》たちも同じくそうで、だから互いの関係というものは代変わりしても大体変わらないのだそうだ。


「……訳あって、わしの代の《思い出》にはほとんど無いのじゃがな。しかし先代やそれより前の代の《ボティス》の《思い出》を見るに、やけに《グラシャ・ラボラス》のやつはあの無邪気な笑顔をわしに向けて来ておって……。そしてそれをそばで眺めるわしは……どうも、嬉しい、という感情を抱いておるようなのじゃ」


 平常心を保とうとしているのは分かるが、しかし天井花イナリのその口ぶりは少し寂しげであるようにひづりには感じられた。


 訳あって、と彼女は言った。何代も続く《悪魔》の《思い出》。《グラシャ・ラボラス》との親しい《思い出》。それが天井花さんの代では無い。途絶えている。


 一体何があったのか。二人は先代か今の代で仲違いをしてしまった、ということなのだろうか。


「ああ、じゃが、ちなみにではあるが、わしと《グラシャ・ラボラス》の仲が今少々悪いことと、ひづり、お主の現在の問題とはまず関係が無い。それは断言しよう。信じてよい。あれは変わり者じゃが、じゃからこそ《記憶》と《思い出》であやつの事をよぅ知っておるわしには、もしあやつがわしに、たとえばこの間の《ベリアル》のように敵意を抱いて謀を練ろうとも、決してひづり、お主にだけは害を成すことは無い。それが分かるのじゃ。《未来視》も何も関係ない。これはあやつの性分というものを知っておるゆえに確信出来ることじゃ」


 口ぶりは物静かながら、天井花イナリははっきりと断言した。


「性分、ですか」


 ひづりが訊ねると彼女は再び少し身を乗り出して語った。


「以前、お主は言っておったな? ラウラ・グラーシャには、稀によくわからないタイミングで《嘘》をつく癖がある、と」


 眼を細め、こちらにその人差し指を突き出して訊ねて来た天井花イナリにひづりは思わず息を呑んだ。


 不可抗力だったが、しかしラウラ、《グラシャ・ラボラス》のことをひづりはかつて嘘吐き呼ばわりしてしまっていた。見咎められるのでは、という気持ちが当然湧く。


「は、はい。確かに、言いました……」


 覚悟を決めてひづりがそう返すと、天井花イナリは口角を少し上げて続けた。


「わしはラウラ・グラーシャが《グラシャ・ラボラス》であるとすぐに気づいておった。故にその原因について考え、そして答えも出しておった。聞くか?」


 むしろ聞け、という感じで彼女は笑った。ひづりも千登勢も無言で頷いた。


「《グラシャ・ラボラス》はな、あやつは《王》という性格ではないのじゃ」


 彼女はまずそう前置きした。


「わしが蛇、《フラウロス》が猫であるように、あやつは《グリフォン》、鳥の《悪魔》じゃ。《フラウ》の奴を見れば分かり易かろう。モデルとなった動物の特徴をかなり引き継いでおる。ひづりは、あまり馴染みが無い故に分からぬやもしれぬが……千登勢、お主は昔インコを飼っておったな? 言うてみよ。鳥とは、どのような性格をしておるか?」


 急に白羽の矢が刺さり千登勢は眼を丸くしたが、しかしちらりと隣のひづりを振り返るともう一度天井花イナリに向き直って、それから思い出すように度々視線を右下に落としつつ、おずおずと語った。


「……大体いつも構って欲しがりで……人の掌の中とかに入り込みたがって……それと、あ……嫉妬深かった、ですわね。わたくしが人を家に呼ぶと、決まって友達やお客さんにひどく鳴いたり……酷いと、つっついたりしていましたわね。とても賢いんですけど、その分、愛情深過ぎて、度が過ぎてる、と言うのでしょうか……」


 ……へぇ、インコってそういう感じなのか。ひづりは基本的に猫にしか興味が無いのでそれは新鮮な情報だった。もちろん個体で性格の差はあるのだろうが。


 しかしその直後ひづりはにわかに腑に落ちた部分があって、思わず眼を見開いて天井花イナリの顔を振り返った。


「ふふ、ひづり、気づいたようじゃな」


 天井花イナリは愉快そうな声を零した。


「然様。《グラシャ・ラボラス》……。あやつは、構って欲しがりで、懐いた相手にやたらとくっつきたがって、愛情深く嫉妬深く、そしてやたらに頭が良い」


 ひづりは虚を衝かれる思いだった。先ほど語ってくれた千登勢のインコの話、それはまさにほぼラウラ・グラーシャの性格と一致するのだ。


「つまるところやはり《鳥》なのじゃ、あやつは。他者への評価というのはおよそ二つしかない。相手に鬱陶しがられるくらい、人目も気にせずその《好き》という態度を前面に出して来るか、逆にいきなり攻撃を加えるほどに《嫌う》か、その二択なのじゃ。ふはは、分かり易かろう?」


 そう笑った後、しかし天井花イナリは急にその表情を静めると人差し指を再びひづりに向けて問いかけた。


「では何故、そんな両極端な《グラシャ・ラボラス》が人間の学校などという面倒極まりない場所で人間のフリをして、これまで真っ当な生活など出来たのか……?」


 あ。ひづりは眼を丸くした。


 確かにそうだ。感情が《好き》か《嫌い》かしかない……人間の視点で言えばだが、そのような子供っぽい物の考えでしか他者と関われない者が、社会生活、学校生活など器用に出来ようはずがない。


 では何故? 《グラシャ・ラボラス》……ラウラは実際、《ソンクラーン》の一件以外ではほとんど問題らしい問題を起こしていなかった。


 それはやはり矛盾に思える。


「わしはの、ひづり。そこにこそ、百合川と交わしたという《契約》が関わっておるのではないかと考えておる」


 天井花イナリは淡々と、しかし鋭い真剣な声音でそう語った。


「百合川との、《契約》……」


 《ボティス》は官舎万里子の『白いお狐様の姿になって』という願いによってその姿の変化を要求され、天井花イナリとなった。


 つまり《契約》には、その肉体そのものを変えるほどの力がある。


 であれば。


「じゃ、じゃあ、《グラシャ・ラボラス》の性格を改変して、『人当たりの良い人間に化けさせる』、ということも不可能じゃない、ってことですか?」


 ひづりの問いに、天井花イナリは微かに目を細めた。


「可能であろうな。ただ、あやつも《悪魔の王》故に、生来のそれを無理矢理捻じ曲げられたとなれば、多少綻びも出るというもの。それがお主らの眼には《嘘》という形で見ることが出来たのではないか、とわしは考えておる。ふはは。要するにその《嘘》をついている時、《グラシャ・ラボラス》めは相当なストレスを感じ、毎日『殺してやろうか』という気持ちで過ごしていたに違いないわけじゃ。ふはは。面倒な《契約》を交わしたことよな《グラシャ・ラボラス》め。ふはははは!!」


 そう言って天井花イナリは再び良い笑い声をその口唇から弾き飛ばした。


「間違いなくあやつは《契約》によってその性格の改竄が行われておる。自身にどんな目的があろうと、気に食わん奴の頭はカチ割る。そういう奴じゃからの、あやつは。それを、ふふはは、知ってか知らずか、その《契約》を交わした百合川という童はずいぶんと運が良いらしいの。その性格改竄の《契約》なくば、おそらくはひづりと百合川とアサカ、その三人以外の綾里高の人間は皆あやつに一言でも話しかけようものなら即座に首を跳ね飛ばされておったやもしれんのじゃからな」


 妖しく笑う天井花イナリにひづりは背筋が思わず冷えた。


 しかしそれと同時にハッと気づいてひづりは体が固まった。


「……分かるん、ですか? 《グラシャ・ラボラス》が、誰を好いて、誰を嫌っているのか、天井花さんには……?」


 そうだ。それは非常に重要な問題だ。


 今、天井花イナリは『ひづりと百合川とアサカ以外は今頃殺されていた』と言った。つまり、《グラシャ・ラボラス》にとってひづりと百合川臨と味醂座アサカだけは、その理由こそ分からないが、とにかく《好き》の対象である、ということだった。


「ひづりよ、それは分かりきった問いじゃぞ。その内容が一体どんなものなのかは知らぬが、《契約》によって無理矢理その性格を捻じ曲げられた何代も昔からの知己の振る舞いなぞ、見ていて逆に分からぬ方がおかしいであろう?」


 《悪魔》の《思い出》の引き継ぎがどんなものかなどその実感は湧かないが、しかし彼女が言った事は、要は「付き合いの長い友人の変化はどんな小さなものでもすぐに分かるだろう」という、ごく当たり前のことだった。他のクラスメイトの事には疎くても、アサカの変化にはひづりもよく気がつくし、アサカもひづりの変化には敏感だった。得心が行き、ひづりは返す言葉もなかった。


 ただ天井花イナリにそれが分かるなら、それは重要な問題になってくる。ラウラ・グラーシャが《グラシャ・ラボラス》としての本性を現した今、その《好き》と《嫌い》が分かるなら、彼女の前に、今名前が出されなかった奈三野ハナを連れ出すことはもう出来ない。危険すぎる。


 ただ疑問はまだあった。ひづりは改めて訊ねた。


「でも、どうして、自分とアサカなんですか……? 百合川は《契約者》だから分かりますけど……何でハナはそこに含まれてないんでしょう……?」


 すると天井花イナリはさも興味がなさそうな顔をした。


「知らん。あやつの好みなぞな。ただ、あやつは万里子を好いておった。まるで気が知れぬがの。それは事実であった。《過去視》で見た万里子と《グラシャ・ラボラス》はそれはもう、ずいぶんと親しそうであった。ひづり、お主は万里子に似ておる。性格はともかく、顔や体格などがそっくりであろう? それ故なのではないか? アサカは知らぬ。《グラシャ・ラボラス》の琴線に何か触れることでもあったのではないか? 心当たりはないのか?」


 逆に問われ、ひづりは口に手を添えて仄かに首を傾げた。ラウラが、アサカを気に入った理由……? 確かに今になって言われてみれば、どちらかというとラウラはハナよりもアサカの方によく話しかけていたように思う。けれどアサカがラウラ……《グラシャ・ラボラス》にとっての《好き》になった瞬間というものにひづりは心当たりがなかった。そもそも二十四時間ずっと居た訳ではない。ラウラとアサカ二人きりで何か話したことがあって、それで親しくなった可能性もあるだろう。


「……分からないです。本当に、どうしてだか……」


「ふむ……そうか。まぁ些事ではある。これから話す事に比べればの」


 天井花イナリは机に片肘を乗せて身を乗り出すとにわかにその眼をぎらりと鈍く光らせてひづりを睨みつけた。どきり、として思わずひづりも千登勢も背筋が伸びた。


「《グラシャ・ラボラス》……あやつはな、《順序》というものを大事にするのじゃ」


「順序……ですか?」


「そうじゃ。あやつは己が《グラシャ・ラボラス》であることをこれまで黙っておったであろう? 最初にお主と出会った時点ではなく、今になって、それを告白してきた。お主と夏祭へ行き、紅葉に写真を撮られ、それが幸辰の手に渡るその《未来》を知っておった……いや、狙っておったと言うべきか。理由は分からぬが、それがあやつの求めておる《順序》だったのじゃ。しかもさかしい事に《グラシャ・ラボラス》は、あやつもまたわしと知己であるが故にであろう、《グラシャ・ラボラス》がひづり、お主に対して嘘偽りなく《好き》の態度で接しておることをわしが気づき、そしてそれを静観するという処置をすることまで、全て織り込み済みだったのじゃ。もしわしが、ラウラ・グラーシャは《グラシャ・ラボラス》であると気づいた後ですぐにそれをひづり、お主に話せば、それはあやつにとって《順序》を破られることになる。あやつはそれに対してひどく不快感を示す。何をしでかすか分からぬ。故にわしは今回、あやつが再び《人間界》へ来て、ひづりに近づいた事を気づいていながら、黙っておった。いや、黙っておるしかなかった、というべきか。先ほども言うたが、あやつは過去、わしと仲が良かった。……今は少々面倒くさいことになってこそおるが、それでも未だにあやつのわしに対する感情は、ふは、可愛らしいことに《好き》のままなのじゃ。そしてひづり、お主のことも《好いておる》。しかしの、そのあやつの《順序》にわしが少しでも介入した場合、それは一気に変化する。言うてみればお主は冷戦下の人質であったわけじゃ、ひづり。『《グラシャ・ラボラス》は《順序》を大事にする。それを《ボティス》は知っている。だからうかつな行動はしてこないはず、違うか?』という睨みを、あやつはわしに利かせて来ておったのじゃ」


 む、難しい話だ。ひづりは理解が少し追いつかず、確認をするように口に出した。


「つ、つまり、《グラシャ・ラボラス》は、少なくとも現時点、私達に攻撃してくる意思はまるで無くて、私も天井花さんも、彼女から《好かれている》んですね……?」


「うむ」


 体を起こし、背筋を伸ばして着物の袖を組みながら天井花イナリは頷いた。


「……それで、《グラシャ・ラボラス》には何か目的があって……たぶん、その《契約内容》のために、私に近づいた……。それを《未来と現在と過去が見える力》を持っている天井花さんに悟られる事は最初から分かっていたけど、天井花さんも《グラシャ・ラボラス》の性格をよく知っている……だから、天井花さんは《グラシャ・ラボラス》が大事にする《順序》に口出しするようなことはしてこない……。それを理解した上で、私を人質にしていた、ってことですか……?」


「合っておる。まぁ人質とは言うても、わしがあやつの《順序》に介入せぬことはあやつも理解しておったじゃろうから、お主が人質として扱われる未来はまずありえんかった。現にこうしてわしが静観した結果、お主は何もされず、無傷でわしの前に居る。《ベリアル》の時の様な流血沙汰には少なくとも現時点ではなっておらん。悩みこそすれ、生きて無事にこの《和菓子屋たぬきつね》にるであろう?」


 頬杖をついて、彼女はまた抑揚の無い声音でそう答えた。


 何とも危うい綱渡りだったのではないか、とひづりには思えたが、しかし天井花イナリの顔には動揺も後ろめたさのようなものも一切窺えなかった。本当に、何の悪気も無い顔をしていた。


 ……ということは、おそらくだがこれもまた人間の常識で考えてはいけないのだろう。


 これはきっと、彼女達にとって《普通なこと》なのだ。似た《能力》を持ち、そして親しい《ボティス》と《グラシャ・ラボラス》にとって、こういったことは特別珍しくもない、日常的な出来事なのだ。


 であれば、先ほどひづりが『《フラウロス》の話をする時と似ている』と感じ受け止めたこと、それは少しばかり異なってくる。


 官舎ひづりが死ねば《契約印》が消滅して、天井花イナリと和鼓たぬこは《魔界》に戻されてしまう。それは天井花イナリも避けたいことのはずなのだ。しかし、そんな自身の《契約者》のそばに、その母親である官舎万里子の魂を奪った《悪魔》が来て尚静観出来た、その精神状態。それは天井花イナリが、《ボティス》が、《グラシャ・ラボラス》という《悪魔》をどこまでも信用してなくては出来ないことで。


 だからひづりは確信した。


 もっとなのだ。《ボティス》は、《フラウロス》よりも《グラシャ・ラボラス》というあの《悪魔》とこそ厚い信頼関係にある。


 それこそ、自分とアサカのような……。


「加えて、……そうさな、物のついでとしよう。この間の《ベリアル》の事もあったしの。今更なところではあるが、改めて話しておくべきであろう。これを知っておるとおらんとでは、やはりお主らのストレスの感じ方も大きく差が出ようからの」


 ひづりと千登勢がちらりと眼を合わせて首を傾げると、天井花イナリは自身の白髪をさらりと退屈そうに指で梳いた。


現在いまの《魔界》がどういう状況にあるのか、それを語ろう」




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