『ナベリウス』




「そうですか、そんな事が……」


 天井花イナリや《フラウ》と同じ《ソロモン王の七二柱の悪魔》である《グラシャ・ラボラス》が、一ヶ月もの間ラウラ・グラーシャという名でひづりの学校に通っていた事。


 《天界》が関与していると思しき《願望召喚》なるものによって、《ベリアル》もその《グラシャ・ラボラス》も今回、《人間界》に召喚されたらしい、という事。


 そして、《天界》の狙いは現在天井花イナリが所持している、ひづりもその詳細は把握していない、三千年前に《ソロモン王》から受け取った《とある品》である可能性が高い、という事。


 予定通り店の休憩時間に招いた和室で、ひづりと天井花イナリは凍原坂にそれらの説明を行った。


 元々、《魔術師》でもなんでもなく、また《契約》しているのが《悪魔の王》としての理性や記憶が曖昧になっている《フラウ》で、そして何より《レメゲトン》を持たない凍原坂にとって、それらはそうそう理解に追いつく話ではないと分かっていた。なので天井花イナリに補足を入れてもらいながら、ひづりは丁寧に言葉を選んで伝えた。


 そうして八月の間に起こった出来事を伝え終えた所で、しかし天井花イナリは続けざまに質問を一つ、《フラウ》に対して投げかけた。


「長々と話しはしたが、結局これはわしらの問題であり、お主ら三人は巻き込まれた側じゃ。正直に答える必要などは無いが……それでもわしらは今、情報が欲しい。故に問うぞ。……《フラウロス》、お主、《人間界》で一度でも《ナベリウス》を見たか?」


 ……そう。彼らを今回店へ呼び出したのはこちらからの報告だけが目的ではなかった。


 八月二十九日、去り際に《和菓子屋たぬきつね》へ現れたラウラは、一つ、思わせぶりな情報を天井花イナリに遺していた。










「あやつが言うにはこの近く……どの程度の範囲を指しての事かは分からんが……とにかくわしらの生活圏内にどうも《もう一柱》、居るらしい」


 ラウラとの別れの翌日、官舎家へ《転移》してきた天井花イナリはリビングのソファに腰掛け、机を挟んだひづりに対してそう口火を切った。


「名を《ナベリウス》という。わしらと同じく、《ソロモン王の七二柱の悪魔》に数えられておる《悪魔の王》じゃ」


 その名前の《悪魔》についてはひづりも《レメゲトン》から多少情報を得ていた。


 二十四番目の悪魔の王、《ナベリウス》。《冥界の門》を古より護り続けている、人文科学や修辞学に秀でた賢者。その身体は巨大で、三つの首を持つ犬の姿を以って現れるという。一説には、神話に登場する地獄の番犬、《ケルベロス》と同一の存在でもあるとか、ないとか。


「強力な《悪魔》ではあるが、《ベリアル》や《フラウロス》の様に攻撃的な奴ではない。それほど親しいとは言えんが、わしの代でも一応顔を合わせ、口を利いた事がある。行動も思想も危険な奴ではない。《グラシャ・ラボラス》と不仲という話も聞いてはおらん。それ故にあやつは『ナベリウスが近くに居る』などというふざけた言い回しだけして行ったのであろうが……」


 そう続けた天井花イナリの表情は《グラシャ・ラボラス》に対する苛立ちが目立ったが、同時にはっきりとした戸惑いの色も混ざっていた。


 彼女は一つ息を吸うと身を屈め、テーブルに両肘をついて口元を覆った。その眉間には深く皺が寄っていた。


「……初め、この話を《グラシャ・ラボラス》から聞いた時、わしは耳を疑った。その理由については少々長くなるが……こうなった以上お主にはやはり話しておかねばならん」


 視線が上がり、朱の眼差しがひづりを真っ直ぐに捉えた。背筋を伸ばし、ひづりも改めて話に身を入れた。


「あやつは、《ナベリウス》は、《冥界の門番》という役割を与えられた珍しい《悪魔》でな。その《悪魔の王》としてのありようも、生態も、わしらとは大きく異なっておる。言い伝えをそのまま語るなら、あやつは生まれながらに《異質な悪魔》であった」


 彼女は眉根を寄せたまま、思い出すようにそっと視線をテーブルのどこともない場所に定めて語った。


「あやつには王国が無い。民も居らん。城さえ無い。人の魂を摂取する必要さえ無い。ただただ、何万年も昔から《冥界の門》を護るためだけに存在しておる、そういう《悪魔》なのじゃ」


 王様なのに国も国民もお城も無くて、その上、《悪魔》なのに魂が必要ない……? 首を傾げたひづりに応える様に天井花イナリは言葉を続けた。


「《魔界》が誕生した時、同じくして《冥界》も作られたと聞いておる。互いに地続きに存在しており、故に《魔界》と同じく《隔絶の門》の建造によって《人間界》との行き来は途絶えて久しい。……ただ《冥界》は、《魔界》や《人間界》といった、生物共の生活の場というよりは……そうさな、お主らの言葉で形容するなら、《牢獄》と言うのが相応しいか」


「牢獄……」


 ひづりの出したお茶を一口啜り、天井花イナリは頷いた。


「太古より、《天使》であろうと《悪魔》であろうと、《冥界》に落とされた者はその刑期が果たされるまで決して出る事は叶わぬ、とされて来た。その者が生きていようが死んでいようが関係無くな。お主らの文字で《冥》という字が当てられたのも納得がいく。あそこへ落ちるのはよほどの罪人だけじゃ。人間の寿命ではまずその任期を生きて果たすのは不可能。死が確定した牢獄、それが《冥界》という場所なのじゃ。その《門番》として《ナベリウス》は選ばれた」


 天井花イナリはおもむろに手を伸ばし、自分とひづりの分のコップを掴むと、それをそっと左右に並べた。


「《魔界》と《冥界》……基本的にわしや《フラウロス》、《グラシャ・ラボラス》と言った《悪魔》は皆、《魔界の預かり》じゃ。国自体も《魔界》にあり、死んだ《悪魔》が復活するのも《魔界》。《人間界》へ赴き《契約》を果たしたのち戻って来る場所もやはり《魔界》の己の国となる」


 自身のコップのふちを摘んでそれを少し揺らしながら語ると、続いてひづりのコップに彼女は視線を移した。


「そして《ナベリウス》のみが、《悪魔》で唯一、《冥界の預かり》となっておる。あやつだけが《冥界》を歩き、《冥界側》から魂に代わる栄養を受け取る事を許されておる。しかしその分、あやつは《悪魔》でありながら《魔界》に居場所がない。《冥界の門番》であり続けねばならん以上、執政を求められぬ。国民が割り振られぬ。城を持つ意味がそもそも無い。ただひたすらに《門番》としての機能だけを期待されておる、そういう《悪魔》なのじゃ。故に《ナベリウス》はまず《人間界》からの召喚には応えん。《冥界の門》から離れる訳にはいかんからの。《ゴエティア》に情報があるのは、おそらく三千年前に一度だけ《ソロモン》の《指輪》に引っ張られて無理やり《人間界》へと連れ出された時の物であろう。じゃから信じられんかった。あやつが《ソロモン》も居らんこの現代で、よもや日本に召喚されておるなど……」


 最後に再び顔色を難しくして天井花イナリは頬杖をついた。


 説明から推し量るしかなかったが、確かに彼女の話を聞く限り、その《ナベリウス》という《悪魔》が人間からの召喚に応える理由は無いように思えた。《冥界》から常に魂に代わる栄養を得られるゆえに自身は飢える心配がなく、また養わなくてはいけない国民も居ない。


 何より《冥界の門》を護り続ける事が自身の唯一の存在意義であるというなら、どこを拾っても、《ナベリウス》が《人間界》へ訪れなくてはいけない要素が見当たらない。それこそ先ほど彼女が語った様に、《ソロモン王》に《指輪》の力で以って呼び出されでもしなければ。


 けれど、ラウラはその場所こそはぐらかしたが、『ナベリウスは今、人間界に居る』と、確かにそう言ったのだという。


「……しかしじゃ。《グラシャ・ラボラス》の狂言でなく本当に《ナベリウス》がこの《人間界》に召喚されておって、それもわしらの近くに居ると言うなら、それ以上に頼もしい話は無い。敵が《天使共》と分かった今、現状のわしらは圧倒的に不利じゃ。同じ《王》としてあまりこういった事を口にしたくはないが……《ナベリウス》の奴が協力してくれるのならば、万に一つどころか、億に一つもわしらの敗北は無い」


 言いにくそうにしつつもそうはっきりと確言した彼女の口ぶりにひづりは驚かされた。


「《ナベリウス王》って、そんなにお強い方なんですか……?」


「うむ。万全の状態の《フラウロス》でも、先日岩国で《神性》が強化されておった時のわしでも、軍勢を引き連れた《グラシャ・ラボラス》でも、あやつには勝てん。恐らく《天界》にも《魔界》にも、今の《ナベリウス》を倒す手段は存在せん」


 コップの位置を戻しながら天井花イナリは淡々とそう答えた。


「そんなに……」


 《悪魔》や《天使》の強さの基準についてはまだよく分かっていなかったが、それでも現状ひづりが最も強い存在だと実感出来たのは、今彼女が挙げた、岩国の白蛇神社でその《白蛇の神性》を受けて強化されていた天井花イナリだった。


 《ベリアル》の羽の弾丸を髪の一房で防ぎきり、ねじ伏せ、八つ裂きにして殺して見せた《白蛇の神》としての彼女。


 それを、件の《ナベリウス》という《悪魔》はあれよりも更に上である、と、以前「単体での戦力としてはかなり上の方だ」と自負していた天井花イナリのその口にこうもはっきり言わせるほどらしいというのは、もう人間の身のひづりには想像がつかない事だった。


「ギリシャ神話の……確か《ヘラクレス》と言うたか。天体に明るいお主なら聞き覚えがあろう」


 不意に天井花イナリはコップに口をつけながらそう切り出した。魂が抜けかけていたひづりは我に返り、頷いた。


 《ヘラクレス》。ネメアーの獅子の討伐やアマゾンの女王との戦いといった十二の功業を称えられ死後ゼウスによって神々の国へと召し上げられた、日本人でもその名前だけなら聞いた事がある人も多い、著名な夏の星座の一つとして語られているギリシャ神話の大英雄。


「はい、知ってます、けど…………あ」


 と、そこでひづりは気づいた。


「《ケルベロス》……」


 《ナベリウス》と同一視されている、ギリシャ神話の地獄の番犬。


 天井花イナリは薄く微笑むと続けた。


「そう、《神》より祝福を受けた半神半人の英雄、《ヘラクレス》。《ナベリウス》はあの者の物語の一つに《ケルベロス》という名で登場するが……まさにあれが、あやつが《最強の悪魔》に成るに至った経緯であるのじゃ」


 そして彼女は一つの昔話をひづりに語った。




















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