『尽くすべきを尽くす』




 遥か昔。紀元前千年に《天界》と《人間界》の同盟軍が《魔界》を滅ぼそうとした大戦、それが起こるより更に前。


 将来的に人間と同盟を組み、《魔界》への侵攻を考えていた《天界》は、ある時その前準備として、強い肉体を持つ人間を何名か選出し、彼らに《神性》を授けた。


 《天界》の生命体である《天族》は《魔界》へ降りるとその《神性》が大幅に弱体化する、という現象については既に《天界》の誰もが知る事実で、《魔界侵攻計画》の大きな課題であった。


 そのため《天界》は《魔界》侵攻にあたって、《魔界にあっても魔族に対抗出来るだけの神性を維持できる生物兵器》を求めていた。その白羽の矢が立ったのが当時の人間たち……《神性の器》に成り得る、英雄と呼ばれた人々だった。


「《人間界》と《魔界》が交流する中で、《天族》と違って人間は《魔界》へ降り立ってもその体内に微かながら持つ《神性》を圧迫されることはない、と《天界》の連中は気付いた。じゃからあやつらは、本来なら《魔族》に対抗なぞ出来るはずがない人間共に対して、同盟を組まないか、などと申し出る事を考えた。自分達の代わりに《魔界》を侵略出来る生物兵器を生み出す、その実験材料を得るためにのぅ」


 当時すでに信仰という文化は人間達の中に深く根付いており、《天使》たちはその対象として収まるべく《人間界》での活動を意欲的に行っていた。神々からの指名とあれば喜んでその身を差し出す、という人間は少なくなかった。


「人体実験は上手くいっておったらしい。当時の人間達は《神性》を受容するだけの器を持つ者が多く、中には《上級天使》程の《神性》を受け入れられる者も居った。その一人が件の人間の英雄、《ヘラクレス》じゃ」


 《魔界侵攻計画》の要、《高い神性を授けられた人間の兵士》が一体どれだけ有用であるのか? その記念すべき最初の実験攻略対象に選ばれたのが《ケルベロス》――《冥界の門番》として君臨していた《悪魔の王》、《ナベリウス》であった。


「《ナベリウス》には国がない。国民が居らんから兵も居ない。城塞も無い。争いを起こしても、地続きとは言え《魔界》から遠く離れた《冥界》故に、他の《悪魔の王》からの横槍も入らない。そうした孤独な身の上ではあるが、それでも《悪魔の王》という高い《魔性》を持つ存在であることには代わらない。あの頃の《ナベリウス》は、《天使共》にとって恰好の実験材料だったのじゃ」


 初めて《冥界》に現れた、ありえないほどの《神性》を持たせられるだけ持たせられたその人間の英雄に、その日、《ナベリウス》は討ち取られた。


「《天界》の連中はさぞ喜んだであろうな。《神性を込めた人間》を投じれば《悪魔の王》でさえ討ち取る事が可能と判明した上に、《魔界》に攻め入る際のもう一つの課題であった《冥界最強の門番》、《ナベリウス》を最初の実験で見事排除するに至ったのじゃからな。《魔界侵攻計画》に光明が見えたどころか、計画決行の日程が大幅に短縮された、と、それはそれは沸いた事じゃろう。……しかし」


 すぐ、それが糠喜びであったと《天族》たちは知る事となった。


「これはその死で以って知られた事じゃがな。《冥界》の権限で《門番》として生み出された《ナベリウス》は、そもそも体の構造からしてわしら他の《悪魔の王》とは大きく異なる法則で作り出されておったらしくての。前も言うた通り、わしらは死ぬと、国内に居る最も《魔性》が強く、そして次の《王》に相応しい《悪魔》にその役割が受け継がれる。《能力》と《思い出》、《ソロモン》との邂逅の後はそこに《名》が加わったが……《ナベリウス》だけは違っておった。あやつは――」


 《神性》を注がれた《ヘラクレス》に討ち取られ死を迎えた《ナベリウス》は、しかしその日の内に、全く同じ《記憶》と《能力》を持った傷一つ無い身体で《冥界の門》の前に《再生》した。


「《記憶》を持った状態で復活するというだけなら《堕天使》の連中も受け継がれた《悪魔》の体にそのまま記憶が乗り移るゆえ似ておるが、しかし大きく異なるのは、《ナベリウス》は自身を殺した《神性》や《魔性》に対し、それを大きく上回る《魔性》を得た状態で復活する、という点であった」


 十の《神性》で殺せば百の《魔性》を持って復活し、百の《神性》で殺せば千の《魔性》を得た状態で復活する。……二十四番目の王、《ナベリウス》とは、《冥界の門》を護るためだけに世界の終焉まで存在し続ける、抗体の様な性質を持つ《悪魔》であった。


「《ヘラクレス》以降、《ナベリウス》を殺した英雄というのは聞かんであろう? そういうことよ。あの後も《天界》の連中は《ナベリウス》に半神半人の英雄を送り続けたが、それらは全て返り討ちにあった」


 《ヘラクレス》の時点で既に人間に組み込める《神性》の量は限界値だった。その《神性》を遥かに上回る《魔性》を得て復活した《ナベリウス》に対し、最早天界は人体実験を継続する意味を失ってしまっていた。何故なら、たとえ今後、《ヘラクレス》並の生物兵器を大量生産して首尾よく《魔界》を制圧出来たとしても、結局、《ナベリウス》が護る《冥界》を潰せないなら、今度はその強力な《冥界》が《天界》の敵になるだけだからだ。《冥界》が定める罪人とは、当然人間の法に基づいたものではない。世界の規律を乱す者、それを死ぬまで封じ込めるのが《冥界》ならば、《魔界》を滅ぼすという罪を犯した《天界》を見逃すはずがない。侵略するなら《魔界》も《冥界》も一度に滅ぼす事が出来なくてはならない。それが《天界側》の《魔界》侵攻に際する必須条件だった。


 だが《天界》の悲劇はここで終わらなかった。


「加えて、その話を聞いた当時の《フラウロス》が《ナベリウス》に喧嘩を売ったらしくての。一度目は《フラウロス》が勝ったらしいが、二度目は負けた。当然じゃな。《ナベリウス》は自身を負かした《魔性》に対し、それを超える《魔性》を獲得した状態で再発生する。一度負けたら二度は負けん。そうして、《魔界》でも随一の《魔性》と戦闘能力を誇っておった《フラウロス》……それを上回る《魔性》を得た《ナベリウス》が誕生してしもうた、という訳じゃ」


 更に《ヘラクレス》の実験によって人間を利用すれば《悪魔の王》でも打倒する事は可能、と判明こそしたが、しかし大戦の前後より人間の中の《神性適合率》は加速度的に減り続けていっており、かつて《ソロモン王》が《ボティス王》に語った仮説――《魔性》と《神性》を体内に持つ生物は、次第にその双方の力を失っていく、という現象が種族単位で人類に生じていたため、《天族》たちは《神性》を授けられる人材というものを年々失い続けていった。


 それでも大戦時、同盟軍には世界中から掻き集めた《ヘラクレス》と同等の《神性》を組み込まれた人間の兵士が多く参加していたが、しかし《ソロモン王》を殺されたと知った《悪魔の王》達の戦意は凄まじく、そもそも同盟軍は《魔界》まで進軍する事が叶わなかったという。


「侵攻のためにと手を出した人体実験のせいで《冥界》の護りは強化され、しかも人間の中の《神性適性》が弱まり続けた事で現代ではもはや《ヘラクレス》ほどの兵士も作れず、味方につけようと《指輪》を渡した《ソロモン》は《天界》になびかないどころか《悪魔の王》と親しくなって、大戦時、《魔界側》の戦意向上に一役買う結果となってしもうた……。何から何まで《天界》の思い通りにならんかった、という事よ」


 いつか岩国城で語った様に、天井花イナリは上機嫌な声音で話を締めくくった。


「して、やはり長話となったな。話をまとめるか」


 小学生の頃に天体の本を読んで学んだ英雄、《ヘラクレス》の、その思いもしなかった成り立ちに辟易しつつも、けれどひづりは再び背筋を伸ばして天井花イナリの話に身を入れた。


「《ナベリウス》は殺されても、その日のうちに殺される前より強化された状態で復活する。現状、恐らくあやつを上回る《魔性》や《神性》を持つ者は居らん。立場としては、《悪魔》である以上やや《魔界》寄りでこそはあるが、それでも根本的には中立の《冥界》に首輪を繋がれておる。故に、世界の秩序を乱す行いをする者を《冥王》の命のもとに《投獄》する権限を持つ。……その価値については話しておらん故分かりづらいかもしれんが、《天界》の連中がわしの持ち物に狙いを定め、大戦以来の悶着を《人間界》で起こそうと考えておるとなれば、それは数千年ぶりに《ナベリウス》が仕事に出向く案件である、ということなのじゃ。その《ナベリウス》が《人間界》に居って、そしてわしが事前にその情報をあやつに伝え、《冥界》に睨みを利かせる事が叶うなら、《天界》も今後の行動を改めるかもしれん……という事じゃ」


「な、なるほど……」


 《人間界》で《ナベリウス王》と出会い、話し合う事が出来れば、その単純な《魔性》の強さによる援護だけでなく、《冥界》の後ろ盾も得られる、という事らしい。ひづりは《ナベリウス王》も《冥界》も見たことがないため実感は湧かないが、それでも、恐らくただ《悪魔の王》が味方をしてくれるだけよりずっと頼もしい事だ、というのだけは分かった。


 しかし同時に、彼の《ナベリウス王》のことで分からない事も生じていた。


「ですが天井花さん。ラウラの言った通り、本当にその《ナベリウス王》が《人間界》に居るのなら、《冥界の門》は今、どうなってるんでしょう?」


 問うと、天井花イナリはやはり初めの難しい顔になった。彼女が気がかりに思っていたのは最初からこれのことだったらしい、とひづりは腑に落ちた。


「それなのじゃ。もしそうなら、《冥界》からの脱走者が数千年ぶりに発生して、大なり小なり《魔界》で騒ぎになっておるはず……。しかしそれだけにあやつが《門番》の仕事を放棄するとは考えられん。あやつを強制的に召喚出来る《十の智慧の指輪》は、その形を変えて今も《隔絶の門》としてイスラエルに在る。……あれから三千年じゃ。人間の数は増え、繰り返した戦争の数だけその科学技術は進歩した。かつての《天界》や《魔界》に匹敵する程の力を今の人類は得ておる。今や《天界》にとって人間は無力で無知な、好き放題に利用出来る存在ではなくなった。《天界》への通り道を知られる、といった下手でもすれば、逆に滅ぼされるという事を自覚しておるはず。そもそも今の人間たちは《冥界》の恐ろしさを知らん。接触によって《天界》の技術に価値を見出し、そして互いの間に充分な火さえ起きれば、平気で《天界》と戦争くらいするじゃろう。それが《罪》として《冥界》に睨まれる事も知らずな。その危うさを《天界》の連中は理解しておるはず。故に、《天界》の世論としては今後も《人間界》とは不干渉を望む声の方が多いはず。まして《ソロモン》で失敗した《十の指輪計画》を再び再始動させる様な馬鹿はせんじゃろう。自発的に《ナベリウス》へ喧嘩を売るにしても同じ事よ。……むう。実に面倒くさい謎を残していきおったな《グラシャ・ラボラス》め」


 憎まれ口を叩きながら天井花イナリは頬杖をついて、ふん、と息を吐いた。


「……でも、きっと意味があるんですよね。これはラウラが、天井花さんや私の事を憂いて遺していってくれた、貴重な情報な訳ですし……」


 ひづりは天井花イナリの朱色の角を見つめて言った。彼女の視線が上がり、ひづりと眼が合う。


 《悪魔の王の角》。あの時ラウラ・グラーシャがくれた薄金色の《角の欠片》は今、ひづりの机の引き出しの中に大事にしまい込んであった。


 いつか会おう、と約束した。いつか立派な《召喚魔術師》になって、一緒にあの夕陽をまた見よう、と。


 彼女も期待してくれているのだ。ひづりがそれまで生き延びて、そして再会を果たすと信じてくれている。


 なら、ラウラ・グラーシャが、《グラシャ・ラボラス》がひづりと天井花イナリに遺したその『ナベリウスが近くに居る』という情報は、必ず今後の二人の手助けになる何かであるはずなのだ。


 それをやはり信じていたい。


「……わしに対してどうかは知らぬが、まぁ、少なくともお主のためではあろうな」


 視線を逸らした物ぐさな言い方だったが、それが天井花イナリの照れ隠しの顔だというのはもうひづりにも分かっていた。


 彼女も信じているのだろう。だから、「どう考えても人間界に来るはずがないナベリウスという悪魔の王がこの人間界に居る」という《グラシャ・ラボラス》の話を戯言と切り捨てず、こうして話してくれて、一緒に真面目に考えてくれている。


「しかし、こうなると《フラウロス》にも訊かねばならんか」


 にわかに面倒くさそうな声音になって天井花イナリは眉根を寄せた。


「そうですね。店が営業再開したら凍原坂さん達もきっとまた来てくれると思いますし、その時に訊いてみましょう」


「あやつらな~……もし《ナベリウス》とこちらで会っておるとして、《フラウロス》のやつ、会ったことを憶えておるのかのぅ……?」


 天井花イナリはソファにごろんと寝転がって、これまた呆れた様な顔をした。


「それは…………うーん……」


 こればかりは何とも言えない。母、万里子との《契約》によって《火庫》と融合させられ、その理性と記憶力のほとんどを《火庫》側に奪われてしまったのが今の《フラウ》なのだ。下手をしたら一ヵ月半会っていないひづりの顔など、もう忘れてしまっている可能性だってある。


「……まぁ、もし仮に会っておって、あやつがそれを憶えておるとしても、それはそれで、それなりの問題はあるのじゃがな」


 空になったコップにお茶を注ごうと席を立ったひづりの背で、天井花イナリはぽつりと零した。


「問題、ですか……?」


 振り返りひづりが首を傾げると、天井花イナリはどうにも言い難そうに視線を泳がしてから、言った。


「《グラシャ・ラボラス》の時にも言うたが、わしらは《王》じゃ。《召喚魔術》に頼らねば《魔界》を出る事も叶わず、また軍勢を連れ出すことも出来ん、とは言え、その立場が変わるものではない。形式上現在、《和菓子屋たぬきつね》はわしの、《ボティス》の領地と言える。そこへ《フラウロス》を客人として迎える事に問題はない。じゃが、仮にあやつが《ナベリウス》の居場所を知っておるとして、その情報を引き出すには、対等な王である以上、わしはあやつに相応の対価となるものを出さねばならん。そして、《フラウロス》がわしに求めるものなぞ、分かりきっておろう」


 ……ああ、そうか……。納得してひづりは返す言葉を失ってしまった。


 かつて好敵手として《魔界》にあった二柱の《悪魔の王》、《ボティス》と《フラウロス》。


 《ボティス王》に《フラウロス王》が何か求める事があるとするなら、それはきっと一つしかない。


「かつては日常的に競っておった。故にここが《人間界》であれ、互いにこのような身であれ、今もあやつと戦う事に抵抗はない。いつも通り片手間に転がしてやるだけのことじゃ。しかし、あやつが《ナベリウス》の居場所を話す対価として、わしに『全力で戦え』と提案してきたなら、最低でも瀕死の状態くらいにはしてやらねばならん」


 体を起こし、天井花イナリは立ち尽くすひづりの眼を真っ直ぐに見つめた。


「ひづり。お主は猫が好きであろう。お主が《フラウロス》の事を気に入っておる事は、わしも分かっておる。それによって、……不思議なことじゃが、現在その家族として暮らす凍原坂を苦しめる事にも、やはり抵抗があるのであろう」


 音自体は低いものだったが、そう語る彼女の声はとても優しかった。


 『償いはする』と、あの夜彼女はひづりに言った。《契約者》の期待を裏切った事への報いは必ずする、と。


 ……けれど。ひづりは今までも、天井花イナリには職場の先輩としてだけでなく日常面でも精神面でもたくさん良くしてもらって来た。たくさん助けられて来た。


 だから思うのだ。彼女には、天井花さんには、いつもの天井花さんのままで居て欲しい、と。


「……正直に言うと、そうです。《フラウ》さんが傷つく姿も、凍原坂さんが悲しむ姿も、私はもう見たくありません」


 ひづりは天井花イナリのそばまで戻り、傍らに正座をした。


 そしてその美しい朱の宝石がはまった、今は儚げな輝きを宿す両目を見返して、続けた。


「ですが、ラウラとの約束も大事だと思っています。《ナベリウス王》と接触する事で私や天井花さんが助かる可能性が高くなるなら、旅行の時みたいに凍原坂さんや千登勢さんが巻き込まれないで済むなら、《天界》への堅い対抗策になるなら、私はそっちを選びます」


 天井花イナリはひづりの眼差しを受け止めたまま黙って聞いてくれた。


「《フラウ》さんに質問してみましょう。《ナベリウス王》の居場所を知りませんか、って。それでもし知っているなら、そしてその情報の対価に天井花さんとの決闘を彼女が望むなら、やってください。天井花さんも、《フラウロス王》も、お互いに《治癒魔術》は使えるんですよね。命のやりとりでないなら、どこまで有効かは分かりませんが、一応恩人の娘である私からの頼みです、凍原坂さんも聞いてくれるかもしれません」


 言い終わり口を一文字に結んだひづりに、やがて天井花イナリは瞼を伏せると息を一つ吐いてそれからゆっくりとソファから腰を上げた。


 そして少しばかり腰を屈め、ひづりの頬にそっと触れた。


「……承知した。覚悟はそのまま受け止めよう。これからも変わらずわしはお主の《悪魔》として、尽くすべきを尽くす。……共に歩むとしよう、我が《契約者ひづり》よ」


















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