『似た者母娘』




 二ヶ月前、一人の日本人女性がイギリスのケンブリッジで死亡した。名前は官舎万里子。ひづりとちよこの実母であった人だ。


 万里子はあまり、というよりほとんど日本には居らず、四十五年の生涯の実に半分をイギリスで過ごしていた。


 家族仲が悪かった、というような事は、しかし意外にもそれほどでもなかった。そして娘達に対してはともかく、夫である官舎幸辰に対しての母の愛情はと言うともうそれはそばで見せ付けられる娘らが毎度げんなりする程のもので、もはや異常なほどに、そして非現実的に思えるほどにその夫婦仲は良好なものであった。


 であるから、あまりに早い万里子の死は夫・幸辰にとってこの世に存在する己の最も大きな幸福の喪失に他ならなかった。


 だが残された娘達のためか、彼は二週間後には持ち直して会社へと復帰した。長女はすでに嫁に行ったが、二人暮らしであった次女であるひづりはまだ学生。悲しみに暮れたままの父親の姿をいつまでも見せる訳にはいかないと思ったのだろう。


 だからそんな父の姿にまたひづりも人生への心構えの変化、と言うほどではないが、ほとんど家に居なかった母の代わりに自分達をそばでしっかり育ててくれた父親に対して、自分も成長しているのだと、親に頼るばかりではないのだと分かってもらいたいと思い、そうして姉に相談した結果、ではうちで働いてみるのはどうか、となり、この現在という状況にあるのであった。


 ただ一つ、ここまで語ったばかりであればただそう珍しくもない家庭の事情で、特別何がどうだという事でもないのだが、重要なのはこの官舎万里子という女のことが大いに今、ひづりの目の前で爆発的な問題を起こしているのだ。


 官舎万里子は快楽主義が人の形を成したような人物で、少なくともひづりが知る母とは、四十を過ぎても父と処構わずべたべたイチャイチャし、急に帰国したかと思えばひづりとちよこを半ば誘拐して学校をサボらせ家族四人で無計画な温泉宿泊旅行に行ったり、部屋中に魔法にまつわる本や骸骨やトカゲの干物などなど怪しげな物を集めては純粋だった幼いひづりに「お前は魔法使いの才能があるぞぅ」などと吹き込んだりと、本当に、ただただ本当に好き勝手に振舞って死んだ女であった。


 そして一度、ただ一度だった。子供の頃にひづりが万里子に訊ねた事があった。まだ幼く、魔法使いを自称する母親を本当に魔法が使えると信じていたほど幼かったひづりが、


『お母さんは悪魔を呼べるの?』


 と訊ねた。


 それに万里子はこう応えた。


『悪魔の召喚? はっはは、余裕余裕! 実績もあるくらいさ!』


 と。


 《悪魔》。


「――《悪魔》だ、と。はぁ。母さんが、呼んだと。あの二人を。あれは姉さんが従業員にやらせている奇妙奇天烈なコスプレではなく、《悪魔》だからあんな姿なんだ、と。はぁ」


 なるほどなぁ?


「この期に及んでまだふざけてるのか」


「違いますぅー! 確かにイナリちゃんの和装メイドエプロンは私の趣味だけど《悪魔》なのは本当ですぅー!」


 ちよこが逆ギレした。彼女は今年の三月で二十三歳になった。


「疑っておるのか。まぁそれは構わぬ。信じられぬのもあまりに遠い国のこと、仕方あるまい」


 不意にかたわらで声がした。ひづりが驚いて振り返るといつの間にかイナリがすぐそばまで来ていた。


 イナリは近くで見ると本当に小さかった。日本人だと小学校の低学年くらいの身長だが、体つきは欧州人のため顔がとても小さく、鼻が高く、眼はぱっちりとしていて、まるで大きめに作られた美しい人形が、一人で勝手に動いて話しているかのようだった。


 ただそこに頭ひとつ分くらいの長さの、どうやら本物だという狐耳が生えていて、そして根元がどこなのかよく分からない、こちらも本物らしい、絵本や映画に出てくる竜の様な二本の角が両頬を覆うように顎先まで伸びていた。


 身長に対して驚くほど大人びた話し方と雰囲気、たたずまい、本物の動物さながらに動く耳と、角。先のほうで結んでこそいるが、踵まである美しい白髪。そしてとても美人。確かに《悪魔》だ、と言われたら、現れる場所によっては信じてしまいそうなほどの凄みがある。


 そしてそんなイナリのかたわらに同じく《悪魔》と説明されて立っているたぬこ氏もまたそうである。


 森の中に居たら見失ってしまいそうなほどに綺麗な深緑色のふわふわとした長髪に、腰から生えたふさふさの尻尾。同じく欧州人の顔立ちで、片目が前髪で隠れているが、イナリとはまた違った整った顔立ちをしている。ひづりの主観、どちらかと言うと「可愛い」という感じの顔だった。


 しかしそんな愛嬌のある眼差しの数センチ上には、筆箱に収まる三角定規くらいの大きさの三角の耳が控えめに左右生えており、そしてそのまた数センチ後方には手のひらサイズの石ころとでも表現したら良いのか、そんな具合に丸っこい、一応は先がほんのりと尖っている、こちらもイナリと比べれば控えめな角が左右から生えていた。


 メイドエプロンは着させられてはいないが同じく和服で、こちらは普通の腰エプロンを巻いている。イナリほど奇抜ではないが、それでも彼女の雰囲気もまた特別なものを孕んでいた。


「しかし、ひづりと言うたが、ちよこの妹とな。聞いておったが確かにあまり似ておらぬな。ちよこよりよほどしっかりしておるように見える」


「分かりますか。だめなんですよ、うちの姉」


 その重みのある物言いにひづりは思わず脊髄反射で賛同してしまった。


 不意のことだったが、その一回のやり取りだけで「この人とはうまくやっていけそうな気がする」とひづりは思った。


 あ、いや、《悪魔》なのだった、か。


「ほぉ。すると察するに、ひづり、お主も万里子の奴には苦労しておったクチかの」


 イナリが一歩踏み込んで問いかけて来た。万里子。母の名前。不意に他人から出されると動揺してしまう。


「え、ええ、まぁ、あの人ほとんど家に居なかったし――」


「ひづり、わしはな」


 ひづりが返すや否や、イナリはにわかに語りだした。


「あやつが死んだ時、ようやく《契約》が切れて、このようなふざけた姿から開放されるかと思っておったらの……あやつ……あやつめ……」


 わなわなとイナリの表情が険しくなっていく様子を見てひづりは「あ」と察した。


「あやつ!! 自分が死んだら《契約》を全て娘のちよこに移す手筈を整えておったのじゃ!!」


 ひづりは理解した。ああ、そういうことなのか、と。《悪魔》である彼女らは、物語などではよく《召喚した人間との契約》というのを大事にすると聞く。


 召喚された彼女らは――あの母である、一体どんなひどい内容で《契約》させられたのか知らないが、あろうことかその死後、同じくらいにひどい人物にその《契約》を移されたというのだ。


 《悪魔》に対しておかしいかもしれないが、ひづりは彼女達を哀れに思わずにいられなかった。


 二人は紛れも無く被害者だ。うちの母が、姉が、本当に申し訳ない。


「ちなみにもし私が死んじゃったら、次はひづりが《契約者》になるように、ちゃんと準備してあるからね」


 にわかに背後でちよこが言った。


「……は?」


 ほとんど同時にひづりとイナリの口から同じ言葉が漏れた。


「は……初耳……なんじゃが……」


 絶望的な声が隣のイナリの口から漏れたのを聞いた。


「え、何、それ、知らない……勝手に……やったの……?」


 ひづりの口からも零れた。しかしこちらは驚愕の後、ふつふつと怒りが湧いてきた。


「うん!!」


 元気よく返答したちよこの脳天に四発目の拳が落ちた。




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