第11話 『悪意の空』       1/6



 11話 『悪意の空』








 東京は朝からずっと小雨が続いていた。新宿で遊ぼうと集まった学校の友人らとは二十分ほど前に中野駅で別れ、雪乃は一人立川へ向かう電車に乗っていた。


 雨と時間帯のせいだろう夕刻前の中央線は混み合っていた。雨の日特有の臭いが車内には立ち込めており、また電車が揺れる度に乗客らと壁の間で繰り返しぎゅうと体を押し潰されるため、雪乃は「これだから雨の日の電車は……」と何度も静かな溜め息を吐いていた。窓の外ではもうじき沈みそうな夕焼けが雨雲の中でぼんやりと綺麗に光っていて、それだけが唯一車内の煩わしさを薄れさせてくれていた。


 買ったばかりの本が詰まった厚手のトートバッグを担ぎ直しながら腕時計を見る。もう十八時を過ぎていた。どうにか間に合うとは思うが一分でも門限を過ぎると父が酷く怒るので電車を降りたらすぐ走って帰れるよう出来れば立川では雨足が弱まっていて欲しいなと思った。


「…………?」


 その時、ふと尻の辺りに何か硬い物が押し当てられている事に気付いた。えっ、と驚いて、壁と乗客の質量に潰されたままどうにかうつむく様にして見てみると、それは会社員が持っている様な黒い手提げ鞄で、雪乃の背後に立っているグレーの背広を着た男性の持ち物であると分かった。そして同時に、雪乃の真後ろにはこの男性しか居らず、先ほどから雪乃に体を押し付けて来ているのもこの男性であったと判明した。


 雪乃は心臓が跳ね上るのと同時に急速に全身の体温が下がっていくのを感じた。何かの間違いではないか、と思い身じろぎをすると、背広の男性は電車が揺れたでもないのにまたぐっと体を寄り掛からせて密着してきた。生ぬるい吐息が耳元に触れ、男性の足が強引にスカートの間に押し込まれた。


 どくんどくんどくんと心臓の鼓動の間隔が短くなっていった。手足は震え、声は出ず、代わりに歯がかちかちと小さな音を鳴らし始めていた。


 なんで……誰なんだこの人、気持ちが悪い、いやだ、逃げないと……。頭の中で考えが溢れ返るがしかし押さえつけてくる男性の力は一切の抵抗を許してくれそうにないほど強く、また周囲の乗客も雪乃達には気付いていない様子だった。


 助けて、誰か、誰か……。トートバッグと雨傘の取っ手部分をぎゅうと握り締めながら雪乃は涙で滲んだ視界で必死に祈った。






 ──ビビビビッ! ビビビビッ! ビビビビッ!






 突然、けたたましい警報のようなものが車内を鳴り渡った。乗客らが少しざわつき、背後の男性は驚いた様にぱっと雪乃から体を離した。


「うわぁ。えーと、ええと……あぁ、止まった。すみません、どうもまだ操作に慣れないもので……はは……」


 乗客らが迷惑そうに視線を集めた場所には眼鏡を掛けた背の高い青年が申し訳なさそうな顔をして立っていた。彼は携帯電話を左手に持ち、右手には何かの資料だろうか何冊もの本が詰まった重そうな紙袋を抱え、肘には長い雨傘を引っ掛けていた。電車が揺れるたびにつり革がこつんと彼の頬に当たっており、手を伸ばせば易々と天井に触れそうな長身具合であったが、けれど困ったように笑うその顔はどこか気弱そうな人懐っこさがあって、雪乃は強張った体から緩やかに力が抜けていくのを感じた。気付くと喧騒に乗じてかグレーの背広の男性はいつの間にか居なくなっていた。


 車内に吉祥寺駅到着のアナウンスが流れ、眼鏡の青年が立っている近くの扉が開いた。


 一瞬、青年と眼が合った。それからすぐに彼はその重そうな荷物を抱え直して足早に電車を降りて行った。扉が閉まり、再び電車は動き出した。


 トートバッグと雨傘を掴んだ格好のまま雪乃は硬直していた。心臓もどきんどきんと鳴っていた。しかしそのどちらも、先ほど背広姿の男性に体を押し付けられていた際に抱いた恐怖によるものとは様子が異なっていた。


 雪乃は思った。車内の誰より背が高かったあの眼鏡の青年には、見知らぬ男性に寄り掛かられ震えていた自分の姿が見えていたのではないか。けれどこの車内の満員状況と大荷物で身動きが取れないから、携帯電話のアラームなど鳴らしてあの背広の男性を驚かせようとしたのではないか。実際あの背広の男は直後に雪乃から離れてどこかへ姿を消していた。こんなに大勢の人が居る電車内であんな大きな音を鳴らして注目を集めるのだって、きっと勇気が必要だっただろうに。


 あの青年の眼差しを何度も何度も頭の中で思い返した。それは瞬きほどの僅かな時間ではあったが、けれどもあの時交錯した彼の視線には『力になれなくてごめんなさい』と言っているような、確かにそんな人の良さそうな色があった。優しく、そして悲しげな眼差しだった。


 三鷹を過ぎ武蔵境を過ぎても雪乃は青年が立ち去った扉を見つめていた。胸の内側で発した心地良い熱が冷えた体をじんわりと温めてくれていた。


 ハッと我に返り、雪乃は急いで鞄からボールペンを取り出してそのまま手首に文字を走り書いた。眼鏡の彼が抱えていた紙袋の端の方に小さく印刷してあった『明治大学 駿河台キャンパス』のロゴ。彼はきっとそこに通う大学生なのだ。


 窓の外を見ると沈む間際の夕陽が淀んだ雲間で眩い程に赤く燃えていた。








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