『想定外と、失態と』




 商店街の喫茶店で時間を潰していた幸辰は、そろそろだろうかと狙いを定めると勘定を済ませ、通りにまだひづりが居ない事を確認しつつ、《和菓子屋たぬきつね》の向かいにある古本屋の奥に忍び込んだ。古本屋は文庫本などを主に扱う店のようで、入り口扉という物が無いおもむきのある佇まいをしており、また店内は薄暗く、棚の陰に隠れて明るい商店街の様子を眺めるのにはうってつけだった。


「――店主。一時間ほど、ここへ私が立っている事を誰にも言わず、また何も見なかった事にして欲しい」


 月曜の正午。閑散としていたその古本屋のレジに五冊の本と、その隣に二倍の金額を置いて幸辰は囁いた。


 老齢の店主は本とその二倍のお代と幸辰の真剣な顔を見るとやがて無言で頷き、会計を済ませると、紙袋に本を入れて渡し、それからはもうレジの椅子に腰掛けて新聞を開き、棚の陰に隠れて商店街の様子を窺う幸辰のことを放っておいてくれた。


 ひづりが現れたのは、それから四十分ほどしてからだった。彼女は隣に幼馴染の少女、味醂座アサカを連れており、二人はすぐに《和菓子屋たぬきつね》の出入り口の扉を開けて中へ入って行った。


 だが幸辰はすぐには動かなかった。店の様子がおかしい事に、実はここへ来た時から気づいていたのだ。


 そう、一応《和菓子屋たぬきつね》の店内からも、その窓から商店街の通りは見られるので、彼は細心の注意を払って隠れて待機する必要があり、そのため通りから横に分岐する脇の細い通路などにひそんで時間を潰すつもりだったのだが、丁度お向かいに良い具合の古本屋があったという訳だった。が、しかし始めにそうしていたところ、気づいてしまったのだ。幸辰は見てしまったのだ。


 『定休日』という看板が、《和菓子屋たぬきつね》の出入り口の扉に下げられていたことに。しかも日中の店外からなのでより確認しづらかったが、どうにも店内がやけに暗いように見えた。そう、言うなればまさに、照明が点いていないかのように。


 本当に定休日みたいに。


 え? うそでしょ? 定休日って木曜だけでしょ? と戸惑ったのは本音だった。しかし実際、店の出入り口まで来たひづりは鍵を取り出して解錠し、それから引き戸を開けていたように見えた。やはり今日、店の扉は閉ざされていたのだ。


 ただ、今日でこそ定休日の看板を下げてはいるが、普段は営業している曜日で、たまたま今日、店員の体調不良などが発生し、店を休みにせざるを得なくなったから定休日の札を下げている、といった可能性は充分にあった。


 けれど今朝、ひづりは洗濯した仕事用の空五倍子色のエプロンをトートバッグに入れて家を出ていた。学校と家とこの《和菓子屋たぬきつね》は地形的にちょうど三角形の角の配置にある。洗濯した自分用のエプロンを置きに行くためだけに定休日にわざわざ離れた店へ寄るなど、あまりに不自然なことだった。幸辰だったらお休みの日に会社になんて絶対に行きたくない。


 しかし実際、店は定休日の看板を出していながらも、ひづりは商店街へと現れ、店内に入っていった。それも幼馴染で同級生の味醂座アサカを連れて。


 これは一体どういう事だろう? 幸辰は素直に訳が分からず困惑した。


 だが「もしかすると時間は無いのかもしれない」と気づいて、幸辰は焦り始めた。


 本当にただひづりは今日、仕事用のエプロンを届けに来ただけで、このあとすぐアサカちゃんとこの近くの店へ買い物にでも行くのかもしれない。だとしたらもう接触のチャンスは無い。振替休日をとってまでここで待機した意味が無くなってしまう。


 ならば急がねばならない。幸辰は古本屋の店主に会釈をした後、四十分ぶりに商店街の明るみへと足を踏み出し、そして《和菓子屋たぬきつね》の入り口扉へと素早くへばりついた。










 扉にくっついて窓ガラスを覗き込んで見たところ、やはりいつもは灯っている店内の提灯がいずれも消灯しており、完全に店を閉じている状態になっていた。いや、扉に『定休日』と看板が出ているのだから、それは当然といえば当然なのだが。


 ……一応、と幸辰は『定休日』の札が下げてある出入り口の取っ手に指を掛けてみた。おそらくだが、開くわけはないだろう。ひづりが何か用事で店内に入ったとしても、そのあとすぐ鍵は掛けただろうから、開く訳がない。


 しかし。


 キキ、という音とともに扉は開いた。期待で言えば一パーセントも無かったものだから、逆に幸辰は驚いた。


 少々、これは無用心ではないか? と思いつつ、幸辰はしかしそのまま扉を開けて侵入した。


 こうなれば仕方がない。『ひづりが入っていくのが見えたからそのまま入っちゃった。え? 定休日の看板? 見落としちゃったかなー?』とかなんとか言い訳してしまえばいいだろう、と高を括った。


 音を立てず扉を閉めて忍び込んだ店内はやはり静かだった。当然客の姿も無い。随所にぶら下がっている、中に電球が仕込んである提灯は現在やはりいずれも消灯されていて店内は暗く、窓から差し込む明かりとレジ横の給湯室、それから入り口から丁度ななめ向かいの位置にある厨房や休憩室のある暖簾の奥から漏れる明かりのみで照らされていた。やはり、定休日なのは確からしい。


 ひづり達は奥の休憩室だろうか。そう思ってそっと一歩踏み出したところで、やけにギラリと光る物が喉もとににわかに差し出され、幸辰は体を硬直させてそれを視線だけで見下ろした。


 見覚えのある、おどろおどろしいデザインの、やたらに切れ味の良さそうな剣。その柄の方に視線を流すと、やはり見知った顔があった。


「何じゃ、こそ泥でも忍び込んだかと思うたが、幸辰ではないか。久しいの。それに店に来るとは珍しいのう? どうした?」


 その手の剣を無音で消滅させると、天井花イナリは問うた。幸辰は止まりそうになった心臓に手を当てて深呼吸した。


 彼女は妻が召喚した《悪魔》だった。現在《ウカノミタマの使い》の白狐に変貌しているその姿はなかなかに異様ではあるが、しかし彼女に掛けられているという《認識阻害魔術》によってご近所さんや客には彼女は至って普通の欧州人の少女にしか見えていないという話だった。幸辰はそれを打ち消す効果を万里子から生前受け取っていたので、現在の彼女のそのままの、《悪魔》と《ウカノミタマの使い》を組み合わせたような奇抜な姿ははっきりと見えていた。踵まである綺麗な白髪に、白く長い耳、瞳はルビーのように赤く、眉と耳の内側と、そして両頬を覆う角は朱色に染まっていた。


「天井花さん。お久しぶりです。娘がいつもお世話になっております。今日は、実はちょっとした込み入った秘密の事情がありまして……」


 幸辰がこそこそとその耳に口を近づけて相談すると、彼女は思いのほか軽く承諾してくれた。


「ふむ。構わぬ。上の娘は相変わらず気に食わぬ事この上ないが、ひづりの方は非常に良く働く、賢き娘よ。そうじゃ。次に会うことがあれば言おうと思うておったのじゃ幸辰、お主、次女の教育だけは見事であるぞ。そして相談と言うたな。それも良い。今日はわしは少々機嫌が良いのでな。一つ座敷に明かりをつけよう。茶を出す。話して聞かせよ」


 そう言って踵を返してから、ふと言い忘れた、という風に彼女は振り返った。


「ちなみにひづりはたぬこと共に奥の厨房に居るが、急ぎの用事ではないのだろう。くれぐれもことを急いて会いに行くではないぞ。《順序》は守れ。先に座って待っておれ」


 そう言って、彼女はレジの隣にある小さな給湯室に入るとパチン、と小さな音を鳴らし、最寄のお座敷席の提灯に明かりをつけた。


 給湯室に消える直前、彼女がその手に『外用』と黒い文字で書かれたちりとりと箒を持っていた事に幸辰はようやく気付いた。どうやら扉に鍵が掛かっていなかったのは、ひづりが店に入った時、丁度これから天井花イナリ氏が外の掃除をしようとしていたから鍵を掛けずにいたのだ、と気づいた。絶妙のタイミングで自分は店に忍び込んだようだった。


 しかし、機嫌が良い? 厨房? 順序? 幸辰は給湯室に消えてしまった天井花イナリの言いたい事の半分も分からなかったが、とりあえず逆らうつもりはなかった。彼女はかつて《悪魔》の王様の一柱だったそうだが、よほど失礼なことを言ったり、物言いに逆らったり、理不尽な事をしなければ決して怒らなかった。寛容で尊大で、人間より人間が出来た《悪魔》だったのだ。しかも経営者としてはその言動から学ぶ部分も多い。それに彼女は《未来と現在と過去を見る力》を持つという。彼女がそうしろというなら、従っておくのが得策だ。第一今日はひづりの店での働き様を知りに来たのだ。間違っても天井花イナリ氏の怒りを買いに来たのではない。


 しかしひづりが今日、フロアの仕事でもなく、店も閉まっているのに、厨房で何をしているのか、幸辰の脳で想像がつくのは、せいぜいのところ、ひづりがほとんどフロアの仕事を覚えてしまったので今度は和菓子作りの手伝いにも手を出し始めたのだろうか、というところなのだが、しかしどうであろうか。和菓子作りなんてものはそれこそ一介の女子高生に商品としてお出し出来るほどの物がそうすぐポンと作れるようになるものなのだろうか。あるいは、ひづりは長期的にこの和菓子屋で和菓子作りを学び、本当にこの店で和菓子を作っていきたいと思うほどにこの店を気に入って、楽しんで働いている、ということなのだろうか。だとしたら幸辰としても嬉しかった。娘が将来を見据えてくれているかもしれないという想像は、やはりいつしても楽しい。


「待たせたの」


 給湯室から白狐が出て来た。天井花イナリさんだ。やはりにわかに視界に入れると今でもビクリとする異質さと、そして美しさが彼女にはあった。加えて今は頭上の電球が一つしか点いていない薄暗い正午の店内。その丁寧な所作の一つ一つから、《妖怪》だとか《ウカノミタマの使い》だとか、そういう種類のものと言われたら誰もが本気で信じてしまいそうなほどに彼女のいでたちは幻想的で、また妖艶だった。


「して、今日は何じゃったかの?」


 机を挟んだ向かいに座ると、彼女は軽く首を傾げて「話してみせよ」という仕草をした。細く光る銀髪がさらりと流れ、その毛先が頬や肩を撫でる。


「はい、実は娘……ひづりが、こちらの職場でどのような具合か、是非お窺いしたく思いまして」


 姿勢を正し、幸辰は訊ねた。すると天井花イナリはほのかに眼を見開き、それから少し細めた。


「……ふむ? しかし、それにしても急じゃのう? 事前に連絡でも入れれば、一席、それなりに設ける余裕もあったやもしれぬ。それに知らずに来たようじゃが、今日は休日じゃ。本来なら、わしもたぬこも居らんかったやもしれぬし、ひづりもそうであったかもしれぬぞ? ちよこのやつは今日はサトオと共にどこかへ出ておるようであるしな」


 ずばり核心をつく物言いに幸辰は、ぐっ、と胸を押さえた。確かに事前に連絡をしてくるのが社会人の基本! しかし今日はひづりをどっきりさせたい気持ちの方が勝ってしまったのだ。羞恥心が胸に満ちる。


 しかし、ふと今の天井花イナリの発言の中におかしな部分を見つけ、幸辰は顔を上げた。


「お出かけ……ですか……? 天井花さんと和鼓さんが……?」


 そうなのだ。万里子も、そしてちよこも、ほぼ軟禁状態で彼女ら《悪魔》を働かせている、という話を幸辰は聞いていた。《悪魔》を街中に出すのは危険だから、というもっともらしい理由をつけていたが、ちよこの事だろう、三百六十五日使い潰すつもりで店に軟禁して働かせているに違いない、と幸辰はてっきりそう思っていたのだが……。


 すると天井花イナリはその大きな狐の耳をぴこりと動かして、視線を少し泳がせるようにしてからやがて微笑んだ。


「そうじゃの。その話からするのも、悪くはないのう」


 そうして彼女は、ここ数日で起こった、凍原坂という男の来訪に際して発生した一連の事件について、仔細、幸辰に語って聞かせた。


 幸辰は呆気に取られるようだった。ひづりが、まさかそのような。いや、おかしくはない。中学の頃にはまさにそのような感じだったのだから。だが、ああ、そうか、ひづりはまた、その優しさで行動して、怒って、そしてそれが、この天井花さんや和鼓さん、そしてその凍原坂という人の事も守ったのか。幸辰は思わず眼が熱く、視界が滲んでしまった。


「正しいぞ幸辰。誇りに思えよ。お主の次女は、まこと良き成長をしておる。妙に肝の据わった童と思うてはおったが、よもやわしにあのような商談を持ちかける度胸さえあったとは。愉快にして痛快……。思わず言う事を聞いてしもうたのじゃからのう」


 そう言って彼女は控えめな声で、くっくっくっ、と笑った。


「ありがとうございます、天井花さん……」


 目じりの涙を拭い、こちらも赤くなってしまっているであろう鼻を啜ると、幸辰は彼女をまっすぐ見つめ、それから頭を下げ、言った。


「今のお話で、充分にひづりがお店で良くして貰っている事、成長させて頂いていること、可愛がって頂いていること、もうまるで全てが分かったようでした」


 顔を上げ、幸辰は天井花イナリに感謝いっぱいの笑顔を向けた。


 彼のそれは涙と赤らんだ鼻で少々出来は悪くなってしまっていたであろうが、それでも天井花イナリは片眉を小さく持ち上げると、唇の端をほのかに吊り上げて見せた。


「そうか。ひづりも良き娘であるが、幸辰、お主も良き父であるな。長生きせよ。それはひづりも喜ぶ。いずれ困った事があればわしを頼って構わぬぞ。何せひづりはわしの《次期契約者》なのじゃからな」


 尊大な王。でありながら、彼女の言葉には深い愛情が満ちていた。


「……ありがとうございます。ひづりの最初の上司になって下さって、本当に……」


 幸辰は再び、今度は深く深く、頭を下げた。


「……む」


 と、にわかに天井花イナリが何かに気づいたような声を漏らした。幸辰が何かあったろうかと顔を上げると、同時に奥の厨房の方から声が響いて来た。近づいてくる、数人の声だった。


「……うむ。まぁ良いじゃろう。充分に幸辰、お主の知りたい事は得られたようじゃしの。後はお主のもう片方の目的よ。ふふ。さてどうなるやら……」


 そう愉快そうに言って、彼女は自分で入れたお茶を啜った。


 複数の話し声と足音がやがて柱の角を過ぎ、座敷が見える位置まで来ると、それらはにわかに立ち止まって、話し声もぴたりと止んだ。


「……は?」


 眼が合い、お互いに硬直した。


 先に口を開いたのは幸辰だった。


「ひづり!!」


「と、父さん!?」


 幸辰は慌てて革靴に足を突っ込むと座敷席を降り、呆然としていたひづりの元へと駆け寄った。彼女は三角巾に仕事用のエプロンをして、幼馴染である味醂座アサカと、そしてこの店の和菓子作り担当である和鼓たぬこの三人で並んで立っていた。


「ぴぃっ!」


 駆け寄ったそのままの勢いでひづりに抱きつこうとした瞬間、小鳥の甲高い鳴き声のようなものが聞こえ、幸辰の視線がそちらに向いた。


 和鼓たぬこ氏。彼女はその眼を真ん丸くして顔を真っ青にしていた。それから急に生気が抜けたように眼を伏せると、そのまま仰向けに体が傾いて――。


「和鼓さん!?」


 刹那、慌てて駆け出したひづりより、そばに居た味醂座アサカの方がいち早く異変に気がついたらしく、寸でのところで滑り込むようにして和鼓たぬこを抱きかかえた。剣道家少女の反射神経とでも言うのだろうか、とても間に合うと思わなかった和鼓たぬこ氏の突然の卒倒に、彼女は対応してみせた。


「あ、危なかった……」


 味醂座アサカはそう呟くと、少々重そうにしつつも、どうやら気を失ってしまったらしい和鼓たぬこを床に一度下ろし、なるだけ楽な姿勢を取らせるようにして抱き起こした。


 どうしたのか、と思ったところでひづりが勢い良く振り向いて幸辰を睨みつけて叫んだ。


「父さんの馬鹿! 和鼓さんが大人を怖がるの、知ってるでしょ!!」


 そう言われて幸辰はハッとなり思い出した。そうだった。忘れていた。万里子から聞いた、和鼓たぬこの特性の話。《人間の大人恐怖症》。人間の大人と三メートル以上近づくと恐怖のあまり失神してしまう、というその話を。


 幸辰のそれはあまりにうかつに過ぎる行動だった。


「すまない! ひづり、気絶している間は大丈夫なのか!?」


「ああ、大丈夫のはずじゃ」


 訊ねると、いつの間にかそばに来ていた天井花イナリが代わりに答えた。


「分かりました! アサカちゃん、代わるよ。畳部屋まで運ぼう」


 幸辰はアサカに代わって、おそらく体重七十キロはありそうな和鼓たぬこの体を担いで背負い、暖簾をくぐった。




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