『娘の見ているもの』





「……なんで来たのかな」


 和鼓たぬこ氏を寝かせた畳部屋の横、休憩室で向かい合うように掛けたひづりがひどくイラついた様子でその場の誰より険悪な雰囲気をこれでもかと放ちながら、しかし視線を合わせてくれないまま、幸辰を責めるように言葉を吐いた。


「ごめん、ごめんよひづり。ただ、ひづりがどんな風に働いてるか知りたくて……。たぬこさんの事は本当に、本当に配慮が足りなかった。私の非だ。天井花さんも、あれだけお話していただいたのに、この様な事になってしまって……申し訳ありませんでした。アサカちゃん、和鼓さんを支えてくれて本当にありがとう。どっちも怪我が無かったのは、本当に良かった……」


 幸辰は方々に謝罪して、仕事でもこれほど下げた記憶はないくらい頭を下げ倒した。


「いえ、そんな。確かに怪我が無くて良かったですけど、私、ほら、剣道してますから、あれくらいの反応なら全然、余裕でしたから」


 味醂座アサカが気を使ってくれてる。良い子だ……と幸辰は本当に彼女がひづりの幼馴染でよかったと思った。


「そう怒ってやるな、ひづり。今日の出来事の享楽に期待して《見んかった》わしにも非がある。それにこやつはお主が職場で上手くやれておるか気になって、今日来たのじゃ。今までお主、来るな来るなとつっぱねておったと言うではないか。娘を持つ父親の心理、分かってやれとは言わぬが、そうも冷たくしてやるな。少なくともアサカとたぬこ以外の全員に、今回の非はあるとわしは思うておるぞ」


「…………分かってますよ」


 天井花イナリの言葉に、ひづりはおもむろに姿勢を正すとぽつりと答えた。どうもやはり、ひづりが天井花イナリ氏を尊敬しているのは確かなようだった。


「……父さんが心配してくれてるのも分かってた。ただ、気恥ずかしかったから、来て欲しくなかっただけ……。そのせいでずっと心配掛けてたってのも、分かってた……。だから、それは、……謝る。ごめんなさい」


 父に向き直ると、ひづりは歯切れを悪くしつつも、そう素直に謝った。幸辰は肩から少し力が下りるようだった。昔から『悪い事をしたら必ず謝る』というそれだけは、他人にも、そして何より自分にも徹底していたのが、このひづりという娘なのだった。


 ――けれど、と、ひづりはにわかに椅子を少々蹴るように立ち上がると声を張り上げた。


「でも、和鼓さんに怪我させそうになったのは絶対に駄目だから! それには思いっきり怒るから!! 反省してるって言うなら、父さん、誓って。今後、絶対にこんな事しないって。絶対にたぬこさんが《大人の人が怖い》ってことを忘れない、絶対に和鼓さんには近づかないって、誓って!!」


 強い、とても強い暖かさから来る激怒を、次女は幸辰に投げかけた。


 驚くべきなのだろう。人によっては逆に理不尽に怒鳴り返す父親も居るかもしれない。


 けれど幸辰は何より嬉しいと思ってしまっていた。仕事の同僚である和鼓たぬこ氏の事を、これほどまでに心配して、怪我させそうになったのがたとえ父親だとしても、これほど真剣に怒って叱ってくれる。


 それが父親である幸辰には何より嬉しかった。


 だから応え、真摯に誓った。


「はい。今後、絶対に和鼓たぬこさんにうかつに近づくような事はしません。彼女が大人を怖がるという事を、絶対に忘れません。店に来る時も、今日みたいなお休みの日なら尚更、事前に連絡を入れて、和鼓さんが驚いたり、怖がったりするような事をしないと、ここに誓います――」


 それからしばらく間があった。ひづりは睨みつけるようだった視線を外すと椅子の背もたれを掴んで位置を正して再び腰を掛け、それからぽつりと言った。


「……お酒、買って来て」


 ……へ? 予想外の言葉に幸辰は呆気に取られた。


「私が飲むんじゃないからな!! 和鼓さんがお酒好きなの! だから和鼓さんへのお詫びに、今のうちに早く何か買って来て! 私には分からないけど、とにかく美味しいやつ! この場でお酒が買える年齢なの、父さんだけでしょ!! 早く!!」


 それからまたにわかに立ち上がるとひづりは父の腕を掴んで椅子から立たせ、休憩室を追い出し暖簾をくぐらせそのまま店内の薄暗い廊下をずんずんと進んでやがて出入り口の鍵を開けるなりその背中をひっぱたいて商店街の通りへと追い出してしまった。


「駅前の方に行った左手に酒屋さんあるから! そこ!!」


 それだけ叫ぶとひづりはぴしゃん、と扉を閉め、それから戸に鍵を掛ける音が派手に鳴った。


 あっという間に一人ぼっちにされた幸辰は、言われたとおり駅前の方角にあるというその酒屋へと駆け足で向かい始めた。


 叱られてそのままぽいと放り出されてしまった訳だが、そのひづりの顔を思い出すと幸辰はまた胸がにわかに温かくなるようだった。


 和鼓たぬこ氏の事で激怒した時。二度とこういう事をするなと誓わせようと吼えた時。ああいう時のひづりの眼は、いつも燃え盛る炎の様な迫力を有している。それを幸辰はどうしても懐かしく、嬉しく感じてしまう。


 何故なら、妻があんな眼をしていたから。あんな風に力強く燃えるような眼を、本当にたまにであったが、彼女は幸辰に何度も見せてくれていた。


 どんな理不尽を前にしても、ただその胸に抱いた自身の願いのために立ち向かったあの少女だった頃の万里子の眼差しを、幸辰は今もはっきりと憶えていた。


 きっとひづりが万里子に似ている似ていると言われるのは、ただ外見だけの話ではないのだろう。それが悲しいくらいに、切ないくらいに嬉しくて、幸辰は駆け足に少々息を荒げながら、またちょっぴり涙ぐんでしまった。


 しかし同時にふと、休憩室で天井花イナリが言った『今日の享楽に期待して……』という言葉を思い出して、今日これから何か催しごとでもあったのだろうか、と思い、それがもしそうなら本当に悪い事をしてしまった、と幸辰は思わず涙が引っ込んで、その酒屋へ向かう足も速まるのだった。








「……起きたら、父さん反省してた、って、伝えるだけ伝えとく。……ありがと」


 行きも戻りも駆け足だったため、四十半ばの幸辰は自分でも思った以上に息を切らした状態で店に舞い戻った。


 商店街にあった酒屋はなかなか上等な日本酒を揃えており、うち一番高いのを一本、包んでもらった。


 酒瓶の入った袋を受け取るとひづりは一言お礼を言ったが、それを休憩室のテーブルに置くなり再び幸辰の背中を押して休憩室を追い出した。


「帰って、先にご飯作ってて」


 そうしてまた入り口の所まで追いやると、短くそう言って踵を返し、休憩室の方へと戻っていった。


 『ご飯』と聞いて、そこでふと幸辰は次女のそのエプロン姿を改めて認め、『何故定休日に店でアサカちゃんたちと一緒に調理の格好をしているのか』について聞きそびれてしまった事に気付いて、声を掛けて引き止めようとした。訊ねよう思った。


 が、にわかに足元に白いものが横切り、幸辰の足は止まった。


 天井花イナリだった。


「幸辰。言われた通りに、お主はもう帰れ。……確かに今日はただの休日よ。別に誰が都合の悪い訳でもない、お主の次女の成果で復活した、喜ばしき週ふたつ目の定休日よ。じゃが――」


 彼女は幸辰を見上げると首を傾げるようにして少しばかり眼を細め、言った。


「今日に限っては、お主が起こした問題はそれなりに大きい。また、お主がこの後も店に長く留まろうなどと考えるのは尚更に悪い。叱責が必要ならわしが受け持つが、少々気が立っておるが故な、先ほどのように穏便な茶会とはいかぬぞ」


 ほぼ窓から差し込む明かりだけのはずの薄暗い店内で、不思議なほどに彼女の角と宝石の様な朱色の瞳はギラリと輝いていた。幸辰は背筋が凍るような思いで見つめ返した。……和鼓たぬこが彼女にとって大切な存在であることを、幸辰は忘れていなかった。


「わ、分かりました。帰ります。すぐに。……あ、あの、でも、なるべく早く帰るように、ひづりにもアサカちゃんにも言って下さいね」


 後ずさりするように出入り口に向かいつつ、それでも幸辰は父親として言うべき事を言った。


 天井花イナリは「それでよい」という風にまた眼を細めて口角を微かに上げた。


 幸辰が鍵を開けて表に出て、一度お礼をしてから扉を閉めようとしたところで、にわかに天井花イナリが呼んだ。


「幸辰よ」


 戸を閉めようとした姿勢のまま、幸辰は顔を上げて彼女を見た。開かれている扉から差し込む光が反射して、彼女の赤みがかった葡萄色の和服が明るく照らされていた。


「お主、娘のことばかり見るのも良いが、娘が見ているものや好きなものについても、少しくらい興味を持っておった方が良いぞ」


 ひづりの見ているもの……好きなもの……? 戸を閉めかけた姿勢のまま思慮に体が固まってしまった幸辰を見て天井花イナリはまた、ふ、と笑った。


「承知した。ひづりは必ず暗くなる前に帰らせる。まぁ、せいぜいそれまでを考え、見つける時間とするがよい」


 そう言って、幸辰を追い出すように、しっしっ、と手を振った。幸辰は慌ててもう一度頭を下げると、静かに戸を閉めて商店街を歩き始めた。


 ――ひづりが見ているもの。好きなもの。にわかには、おそらく天井花イナリ氏の伝えようとしていることは理解出来なかったが、とにかく思いつく限りの事をしよう、と幸辰は駅への歩調を速めた。


 空はまだ明るかったが時刻は十六時を前にしており、考える時間も、成すべきを成す時間も、少々差し迫っていた。





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