『竪琴のペンダント』
「初めに言っておくけど、ラウラ、大人しくしていてね。勝手にその辺のもの触ったりしちゃ駄目だからね。将来、そこのお姉さんみたいになるよ」
部屋に入るなりこれまたテンションを上げてきょろきょろと辺りを見回し始めたラウラにひづりは釘を刺した。
「反面教師扱いだ!? これから着付けしてあげるのに!?」
ひづりが予めベッドに並べて用意しておいた浴衣の桐箱を開けながら、紅葉はにわかに振り返って被害者面をした。
「……百合川が居たからさっきはあえて細かく言いませんでしたけど、クローゼット開けただけでなく、姪の下着の棚を引っ張り出して、何か楽しかったですか? それでどうして反面教師に抜擢されないと思ったんですか?」
脱衣したラウラのポロシャツやホットパンツを受け取って畳みつつ、ひづりは冷たい声で父方の叔母に返した。
「……すみませんでした……。……っしゃ! じゃあ、さっさとやりますか~!!」
肩を竦めて小声で謝った後、紅葉は誤魔化すようにまた声を張った。『手伝いをする』という名目でひづりは着付けにこうして参加していたが、言うまでも無く紅葉はプロだ。着付け作業など彼女一人で十分であり、ひづりの手伝いなどまるで必要ない。が、実際はこうだ。酔っ払って姪の部屋に侵入して下着の棚を漁るような女と、クラスメイトを二人きりで同じ部屋に置いておけるだろうか。否である。駄目だぞラウラ、こんな大人になっては。
靴下も脱いでほぼ下着だけになったラウラのその依然として見惚れるほどに整った綺麗な体を見て、そこでひづりはふとその首元に金色のネックレスが輝いているのに気づき、少し眉を上げて思わず見つめた。
真鍮製だろうか、黄金色の竪琴をモチーフにした小さなペンダントトップが彼女の胸元には輝いていた。体育の時などの着替えの際には見かけなかった物だった。
「綺麗なペンダントだね。とても似合ってる」
ラウラや紅葉のようにスタイルの良い人なら何を着けても似合うのかもしれないが、しかし白みがかったブロンドの髪と少し焼けた肌をした彼女にその金色の首飾りはとても映えていた。
視線を胸元に落とすとラウラはその細長い指先で竪琴にそっと触れた。
「……嬉しいです。昔、友達に貰ったのです。これはとても大切な贈り物なのです。ですから、今日みたいな特別な日にだけ着けるんです」
そのペンダントを摘んで見つめたまま彼女は懐かしそうに、そして嬉しそうに語った。
けれどその横顔を眺めていたひづりは小さな違和感を覚えた。それはあの日、図書室で抱いたのと同じものだった。
嬉しい、という感情は本当であるように見えた。懐かしげである、それも。
しかしその横顔には微かではあるが一条の《悲しさ》が、確かに滲んで表れていた。
どうしたのだろう。ひづりはその竪琴のペンダントとラウラの横顔とを交互に見つめた。
もしかしたら、その首飾りを贈ってくれた友人がすでに亡くなっているとか、良くない仲違いをして別れた、という可能性もある。であれば、その気持ちを己の中で大切なものとして扱い、官舎ひづり達に対して隠そうとするかもしれない。そういう気持ちならひづりも理解出来る。
しかし、彼女は紅葉にはその声を明るくしてバレないようにしながら、しかしひづりの位置からは見えるその横顔に明確な《悲しさ》を表していた。
衣類のほころびのように。白い大きな壁を歩く一匹のテントウムシのように。他がきっちりしている分、その一粒の違和感だけがやけにはっきりと目立ってひづりの眼には映った。
ラウラはやはりこうしてたまによくわからない行動を見せる。けれど今回のは特に異質で、ひづりは一体どう受け止めれば良いのかまるで分からなかった。
ラウラは今、何を隠したがっているのか。それとも逆に、何かを自分にだけ伝えようとしているのだろうか。わざと隠し通せていないそんな嘘を用いて、一体何を。
しかし何も理解出来ず読み解けないまま、直後に紗綾型が描かれた象牙色の浴衣が彼女の体に被せられその黄金色の首飾りが隠れてしまうと、ひづりは思わずもう逃げるように視線を逸らしてしまった。
胸がざわついていた。何だろう。何がこんなに苦しい気持ちにさせるのだろう。
ラウラの事が分からないのがつらいのか? それとも他の何かが、自分で気づいていながら、自覚出来なくて苦しいのか? ひづりは本来安心出来るはずの自室に立ち尽くして途方に暮れた。
彼女の着付けが終わってくれるのをどうしてこんなにもつらい気持ちで待ち遠しく思って過ごさなくてはいけないのだろう。ひづりは極力顔に出さないようにしながらも、その不安にいつの間にか動悸を起こしていた自身の心臓を認めていた。
浴衣を着た人々が溢れる新宿駅の混雑模様は相当なものだったが、しかしいざ青梅行きの電車に乗ってしまうと車内はかなり空いていた。これも青梅の花火大会を選んだ理由の一つであった。
百合川が友人らと行く予定だったという隅田川の花火大会と同日で、あちらは前年の来場者数がおよそ百万人。一方、青梅の花火大会は一万人ほどだった。けれど打ち上げ花火の数は隅田川の四分の一ほどだ。現地の混雑具合として考えれば、決して悪い比率では無い。加えて多くの来場客が隅田川に向かう分、方角としては反対方向である青梅への便は必然的に空くので、履き慣れていない下駄のひづりたちは人の少ない車内でゆったりと座席に腰掛けて現地まで移動することが出来た。
ただ、此度の花火大会を選んだのにはこうした交通の利便や四人での予定合わせなども当然あったが、けれどひづりにはもう一つだけ、とても個人的な理由があった。
青梅市納涼花火大会の話をしてくれた際、父は母とそこへ数回だが一緒に行ったという、その思い出も語ってくれた。それはまだひづりもちよこも生まれていない頃の話だった。
まだ親でも夫婦でも無かった若き官舎幸辰と扇万里子が二人、手を繋いで訪れ、そして幾度かの夏に見上げた花火。
だから特に何がどうだという訳ではない……、つもりではあるが、けれどひづりは見たいと思った。父と母が、自分と同じくらいの歳に見たそれを。
普段通りうざったいくらいの勢いで当時の母との思い出話を父は語って来たが、それも今のひづりはあまり苦ではなくなっていたから。
自分もそれを見たいとそう思えるようになった今だからこそ、アサカ達と一緒にその花火を見てみたい。お祭を巡ってみたい。
そう思ったからだ。
『花火大会は永山公園グラウンドという場所で行われる』と聞いていて、何となく、広い、たとえば代々木公園の広場のようなものを想像していたのだが、いざ到着してみたひづりは「ああ、そういう感じなのか」となかなかに気後れした。
そこは永山という名前の通り、確かに山だった。麓には屋台が集中して並んでいるスペースがあり、そこから少し長い坂道を登った先にある頂上に件の公園グラウンドという広場が在って、紅葉いわくそこではもっとたくさんの屋台が並んでいて、そして時間になると音楽の演出と共に花火が高く打ち上がる様子が見えるのだと言う。
ただ問題は、山頂までの坂道が少々急なところがあるので履き慣れない下駄だと辛いだろうからゆっくり登りましょう、と説明する紅葉が、麓の屋台のスペースの前を通り掛かった時点ですでに半透明のプラカップに注がれたビールを片手に持っていたことだった。
……早くない?
「せっかくのお祭なんだからお姉さんも楽しむので~?」
その口ぶりからもうすでに酔いが回り始めていると分かる紅葉に、ひづりは弥が上にも深いため息が漏れた。誰か、保護者の定義についてこの人に教えてあげてください……。
「けどまぁ、山頂の広場までは近からず遠からずらしいし、ここで何か買って、食べながらのんびり登った方が良さそうだね」
あまりにも早い紅葉の酔っ払い具合にはさすがに苦笑していたが、ハナもとりあえず小腹を満たせる物をここの出店で買っていく提案をした。それにはひづりもアサカ達も同意した。時刻は十八時過ぎ。屋台に期待して、皆まだ夕飯を食べてなかったのだ。
「お腹空いた~。どれにしようかな~? あ、たこ焼き! 美味しそうな匂いする!」
みんなで麓の出店を眺めながら歩いているとハナはにわかに駆け足になって少し先に見えるたこ焼き屋へと向かった。
「ああ、動き回ってると本当に絵になるねぇ~ハナちゃん」
隣の酔っ払いがビールに口をつけながら満足げな顔で呟いた。ひづりも、列に並ぶハナの様子を眺めつつ改めて同意した。
ハナの浴衣は微かに黄色の入った白黒矢羽模様の生地に浅葱色のアヤメが描かれた物で、萌葱色の帯は彼女の染めた金髪と相まってとても眼を引く華やかさを演出していた。
加えて彼女は、去年ひづりに贈られて以来その左手首に巻いていた黒いスカーフを、去年の夏祭りでしていたのと同じように、ひづりが本来望んだ用途通りに、そのポニーテールにリボンのように巻いていた。白黒の配色に近い浴衣と金髪にそれはとてもよく似合っており、また彼女が歩くたびにふわふわと揺れる様は相変わらず水槽を泳ぐ黒い金魚の尾ひれのようでとても可愛らしい。左手首には去年その髪に括られていた赤いスカーフが代わりに巻いてあり、それがまたちらちらと袖から覗くたびに良いアクセントとなっていた。
「私もたこ焼き食べたい。ひぃちゃんはどうする?」
「あー……私は隣の焼きそばにしようかな。うん、でもたこ焼きも美味しそうだな。どうしよ」
「じゃあ、私のたこ焼き、後で少し分けてあげる。ひぃちゃんも後で焼きそば頂戴?」
そう微笑んでアサカはハナの後に並んだ。お言葉に甘えることにしてひづりは隣の焼きそば屋の列に並んだ。
「ひづりちゃん、アサカちゃんのこと、ちょっと見過ぎじゃなぁい?」
不意に紅葉が高いところからにやにやとした顔で言葉を落としてきた。ぎくり、としたがひづりは落ち着いて返答した。
「そりゃあ見ますよ。そもそも元が良いのに、紅葉さんが本気出すからでしょう?」
アサカの浴衣は花色と白色の市松模様にそれぞれ反転色で藤が描かれた落ち着いた雰囲気の物で、帯は清潔感のある象牙色をしていた。額には可愛らしい花柄が掘られた少しばかり幅広のヘアバンドが前髪を揃えるように添えられており、長めの後ろ髪は全て丸い球の髪飾りで一つに束ねられ、左肩から胸の方へと流してあった。それらの装飾品は紅葉が持って来てくれていた物で、やはりその審美眼に一切の曇りはないらしく、こと和装に於いてこれ以上無いであろうほどに味醂座アサカという少女の魅力を彼女は完璧に引き出していた。
着付けが終わった時も充分に可愛らしくて素敵だと思ったが、今こうして屋台の明かりの下に置かれるとその綺麗な立ち姿と相まってやはりその出で立ちは一分の文句もつけられないほど完成されたものとしてひづりの眼に映っていた。これは見惚れない方がどうかしている。
そのためひづりは隣の屋台の列に並んだものの、隣のたこ焼き屋に並ぶ二人の可愛らしさが気になってほぼずっとそちらを眺めてしまっていた。隣でニヤついている酔っ払いは無視した。
「見てくださいひづり! 綿飴買いました! 美味しいです!」
すると背後からラウラの元気な声が響いた。振り返り見ると、彼女は相変わらず百合川と腕を組んだまま元気にはしゃいでいた。
「ラウラ! あまり走り回ると後で足痛くなるから! もうちょっと抑えて! っていうか俺の脚がもうすでに痛い! 何でそんな動けんの嘘でしょ!?」
身長はほぼ同じながらも身体能力はラウラの方が圧倒的に高いからか逆に百合川の方が引きずり回されている様子で、ひづりは思わず苦笑が漏れた。
「ラウラ、ラウラ。百合川の言う事もちゃんと聞いてね? 下駄で靴擦れするとすっごく痛いんだぞぉ~」
ひづりは眉根を寄せて口角を上げ、さらにそこに意地悪な声音を添えて脅かして見せた。
ラウラは自身の足元を一旦見下ろすと、再び顔を上げてにっこりと笑った。
「分かりました! 気をつけます! ありがとうございますひづり! お礼に、綿飴食べさせてあげまーす!」
そう言ってラウラはそのもこもこした薄桃色の塊を一房千切るとひづりの口に押し込んで来た。……むぐむぐ。
「んっ、ぐふっ」
口に押し込まれたわたあめをひづりが咀嚼していると、百合川が不意に口元を押さえてむせた。
「どした?」
「んっ……ああ、悪い、ちょっと喉かわいててさ……。そこにさっき、官舎と同じく俺もラウラから綿飴、口に突っ込まれたもんでよ……」
ああ、なるほど。確かに乾いた喉に綿飴はキツいわな。
「ラウラ? 百合川を引っ張り回すのも良いけど、多少は労わっておやり? 喉乾いてるなら……とりあえずカキ氷とか?」
「相棒。そのお言葉はありがたいんですけど、『引っ張り回す』って部分も嗜めてやってくれないかな? 君の相棒の百合川くん、もうすでにだいぶグロッキーなんだけど」
「百合川。一介の図書委員でしかない私にそんな無茶を言うな。諦めろ」
「相棒ちょっと諦めが早くない? おぅえッ!?」
「百合川! カキ氷ってアレですね! 行きましょう!!」
珍妙な悲鳴を残し、百合川はまたラウラに引っ張られて今度はカキ氷の旗が揺れる屋台の方へと連れ去られて行った。
「おーなんだなんだ百合川くん! ラウラちゃんと食べさせ合いっこしてんのか~? いいねぇいいねぇ若いっていいねぇ~! どう? ほら、ちょっとビール飲んでみる~? へへへへぇ……」
更にひづりの血縁の酔っ払いがビール片手にラウラの反対側から百合川に絡みに行った。
「うおお、やめてください紅葉さ……って酒くさっ!? 何杯目ですか!?」
遠ざかっていく三人のやり取りを眺めつつ、百合川には申し訳ないが、ひづりはまたちょっと笑ってしまった。
美女と可愛い女の子に囲まれてるんだ。夏を楽しんでくれ、相棒。
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