『親友へ』






『――子供の頃の精神状態に戻っている……その自覚があるの。今、すごく怖いわ。まるでこれまでの二十年が壊れていくみたい……。ラウラ、死ぬのって、こんなに怖いことなのね……』


 残り僅かな滞在時間、戻ってみると《フェリックストー》から見える空にはもう残滓となった陽光が西の水平線にちらつくばかりとなっていた。


 東の空はもう二等星が見え始めており、一足先に夜空へと上がった三つの一等星は間も無く《グラシャ・ラボラス》の頭上へその瞬きを届けようとしていた。


『――万里子。一つ、聞かせてくれますか。これまで何度も《未来視》で見て来ましたが、一度としてあなたが私を殺そうとする未来は見えませんでした。あなたは今やこの近代では恐らく十人と居ないほどの力を持つ《魔術師》となったはずです。私は《ソロモン王の七二柱の悪魔》には数えられていますが、単体の戦闘力はあまり高い方ではありません。私を殺せば二十三年前の《契約》は無かったことになり、万里子、あなたは本来の天寿を全う出来るのですよ。そんな事は最初から分かっていたはずでしょう。なのに何故あなたはそうしなかったのですか。……何故、私と――』


 三ヶ月前の夕暮れ、ここで官舎万里子に投げ掛けた、一つの問い。


 彼女は困った様に笑うと、まだ星もないその浅縹色の空を見上げて答えた。


『ラウラは私よりずっとずっと長く生きられる。私が死んだ後も、私の汚い部分を全部知っていて、ずっと憶えていてくれる人が居る……。長生きするより、私にはその方が何倍も魅力的に感じられるわ。それに、あなたはどうしようもなかった私を助けてくれた。私にちよこやひづりの成長を知る《今》をくれた。そんなあなたのこと、どうして私が殺そうと思うだなんて……。……ねぇラウラ。聞き飽きたかもしれないけど、私、あなたのこと好きよ。人として歪んでいる私の有り方を笑って受け入れてくれたあなたの言葉、ずっと憶えているもの』


 彼女は今にも零れそうな涙をぐっと堪えた不細工な顔でそう言った。


 気づけばずいぶんと丸くなった、と《グラシャ・ラボラス》は感じていた。


 二十三年前、初めての儀式で自分を呼び出した時のあの官舎万里子の眼。願いに一途で、どこまでも暖かで、そして滅多に人間の中では生まれない、光に満ちた狂気の眼差し。


 今でもその輝きはある。だが、彼女はずっと人間らしい成長をした。彼女の夫曰くの、普通の女性として歳をとった。


 《グラシャ・ラボラス》にとってそれは少々もったいなく、けれど同時に満足もしていた。


 今日、全てが終わった。この二十三年間見つめて来たもの、そしてこの一ヶ月で果たす事が叶った、《執着》の幕引き。どちらかと言うと、達成感より喪失感の方が大きいようだった。


 ただ、振り返れば両手から溢れるほどの思い出が官舎万里子と《グラシャ・ラボラス》の間にはあった。《契約》してからの二十三年半、彼女とは本当にたくさんの事を語らった。


 最初の頃はまだずっと他人行儀で、呼び出すのも《召喚魔術》に関してどうしようもなく行き詰った時だけだった。しかし次第に彼女は《グラシャ・ラボラス》に心を許すようになっていった。


 一年、二年と話すうち親しくなって、気づけば友となっていた。


 そして同じアパートで暮らす様になって三年目のある日、彼女が言った。


『ねぇ《グラシャ・ラボラス》。あだ名をつけても良い? 考えてみたの。《ラウラ》、って、どうかな。あなたのその姿、クロハゲワシの《グリフォン》でしょう? 今でこそ夏の大三角のベガは琴座になっているけど、以前はベガの星座はハゲワシを表していて、白鳥、タカ、ハゲワシの三羽で夏の大三角だった、って聞いたわ。それでね、《グラシャ・ラボラス》。竪琴って、ギリシャ発音で『リウラー』って言うらしいの。それを人名っぽくして、《ラウラ》。どうかな? 可愛いと思わない?』


 それが不思議と不愉快ではなかった事を、《グラシャ・ラボラス》は今でもはっきりと憶えていた。《ソロモン王》から貰った名以外で呼ばれる事を、きっと自分は受け入れられないと思っていたから。


 だからその時気づいた。自分はきっともう心の中で、《ソロモン》と同じ場所に彼女を置いているのだ、と。


 《グラシャ・ラボラス》は傍らに小さく《転移魔術》の《蔵》を出すとそこから一通の白い封筒を出現させ、丁寧な手つきで取り出した。


 最期の日、魂を差し出す直前にこの埠頭で万里子が押し付けて来た手紙。あれから三ヶ月と少し。《グラシャ・ラボラス》はそれを何度も読み返していた。


 ただそれも《魔界》でのみで、《人間界》で開く事はしなかった。こちら側では《過去視》で《ボティス》に見られてしまいそうで、それが嫌だった。


 そう、だから《ボティス》には言わなかった。今回自分が《願望召喚》されたのは恐らくこの手紙が一番の原因である、という事を。それに《ソロモン》との事もある。そうだ。昨日、《ボティス》は謝り倒して来たが、それでも依然あの一件を許してやろうという気にはなれなかった。


 手紙に視線を落とす。何度も読み返したせいで少し皺がついてしまったその封筒を、《グラシャ・ラボラス》は再び《魔方陣》の内側にしまいこんだ。今更開かなくても、中身はもう全てその頭蓋の内側に記憶していた。


 何代にも亘る長い長い人類との付き合いの中、この世を去るその時に――《グラシャ・ラボラス》の前から去るその最期の時に、手紙なんて物を寄越して来たのはたった二人きりだった。


 太陽はもうまるで見えなくなっていた。雄大な空は星々のものとなり、《グラシャ・ラボラス》の頭上へ来た琴座の一等星も今はその輝きを《フェリックストー》の海へきらりきらりと零していた。


 眼を閉じ、《グラシャ・ラボラス》またその拙い文面に想いを馳せた。










────────




今日も西日が海岸線そばの波間を茜色に煌めかせている。


休日だけれど、喧騒は背後に遠い。姿を見えなくする魔術に今日ほど感謝したことは無い。


左手の水平線はすこしだけ夜の黒を浮かべ始めている。波の音だけがとても心地良い。


沖に近い潮風が肌を撫でて行く。初夏の今、日暮れを前にするとまだやはり少しばかりの肌寒さを感じる。上着を羽織ってきて正解だったと思う。


ただ、これはお願いなんだが、埠頭で私の魂をとったあと、君にはマンションまで私の体を運んで貰いたいんだけど、その時上着を脱がせて、その辺のハンガーにでも掛けてクローゼットにしまっておいてほしいんだ。暖かい部屋の中で上着を着たまま死んでいたら、変だからね。それと着ていく上着なんだけどね、ゆーくんが前に、似合うね、って褒めてくれたやつだから、皺にしたり、私の死臭がついたりしてほしくないんだ。そうだよ、君も褒めてくれたスカーレットのやつだ。それを着て、最期に君に会うよ。この手紙を入れるためのポケットもついているしね。


グラシャ・ラボラス。君への感謝の言葉は、きっと最期に会ったその時に言うよ。どちらかというと喋る方が得意だからね、私は。文字を書くのが少し苦手なの、知ってるだろう?


ただそれでもやっぱり、君は文字を愛している。ひづりもどうやら本や文字が好きな子に育ったらしい。だから最期くらい仲間に入れて欲しくてね、こうして書いてみているんだ。ちなみに、手紙の書き方、って本を読んで参考にしてみたんだけど、いやぁ、役に立たなかったね。これは教授の背中に魔方陣を書く方がよほど楽ってものだ。二度と書かない。


ただ、悪くないものだね。難しくて何度も書き直しているし、かなり気恥ずかしいけど、けどどうも、書き始めてみると案外悪くないもんだと感じる。君が文字が好きだという気持ち、今になってだけど、少しだけ分かった気がする。だからこんな手紙でも、君はきっと大事にしてくれるんだろう。ありがとう、親友。




────────










 《悪魔》である自分が《契約》でその魂を回収するのは当然の事だ。王国民への食料分配の義務だとか責任だとかは別に今まで一度も感じた事は無かったが、それでも軍略を教え、育ててきた自分の兵団が餓死するのは面白くなかったから、《召喚魔術》で呼ばれればそれに応じたし、魂の回収と分配も暇つぶし程度の気持ちで続けてきた。それをして《ボティス》や《ベリアル》にはよく「王様らしくない」と言われたが、知ったことではなかった。


 ただそれでも、そういった振る舞いが自身の中でいつから普通になっていったのかは分からないが、次第に《悪魔の王としての矜持》のようなものを意識するようになっていた。《ソロモン》と出会う以前は無かった感覚なのでそれもまた彼の影響なのだと察せたし、であればやはり身の内で芽生えたその意識を否定する気にはなれなかった。


 以降、気ままにではあったが、自分の中で《悪魔の王としての決め事》を作っていった。たとえば、《天使》や人間の前では絶対に屈した姿を見せない、とか、王国民が飢えている様子を見せ始めていると気づいたなら次の《契約》ではなるべく早めに魂を回収するよういろいろ考えてみよう、といった具合に。


 《ソロモン王》が死んだ時には、人のために泣くのはこれを最後にしよう、と決めた。


 だから《人間界》で三千年ぶりに出来た二人目の友人の魂を奪う時も《グラシャ・ラボラス》は強くあれた。《悪魔の王として》涙を流すことも後悔を抱くこともなくその務めを果たせた。官舎万里子の魂を奪うのは自分だ、という決意が揺らぐ事はついに一度もなかった。


 ……けれど今、その胸には後悔があった。どうして呪わずにいられるだろうという悲惨な運命があった。


 《人間界》に滞在する権利を失いその存在を消されていく中、《グラシャ・ラボラス》の脳裏には懐かしき友人の愛しい声が鳴り響いていた。






『――ありがとう。これで扇の呪いは絶ち切られる。母も祖母も義父も死んで、そして最後に呪いが残された私が死ねば、ちよこはまっさらな状態で、幸辰くんの家族に守られて育つことが出来る……。ありがとう、《グラシャ・ラボラス》――』






『……そう、私はまだ死んではいけないのね……。……分かったわ。残された二十二年間を使って、私に出来る最後の事をする――』






『二人目の子供、ひづり、という名前にしたのよ。日本人っぽい名前だけど、意味は無いの。ええ。当てる漢字も考えてない。ただひらがなで、ひづり。ちよこには、千登勢みたいな優しくて素敵な女の子に育って欲しいって思って似た名前を付けたけど、結局全然性格が似るようなこともなかったしね。でも、込められた意味も、親からの期待みたいなものも無い分、あの子が将来、誰に振り回されるでもなく、自分の世界を生きていけたら良いな、って、そう思ったの』






『――ラウラ!! ひづりがゆーくんそっくりな性格に育っていってる!! とっても可愛い!!』






『……ラウラ。ひづりが、ゆーくんそっくりな真面目で優しくてかっこいい性格に育ってる。どうしよう。どう可愛がったらいいのか全然分からない……。でもめっちゃ可愛い……。一緒に服とか買いに行きたい……。でも接し方ぜんぜんわかんないよぉ……。ラウラどうしよぉおあぁんヤダそんな面倒くさそうな顔しないで私とラウラの仲じゃんかあああ……』






『――ようやく私が求めてきた《天井花イナリ》が完成する……。ありがとうラウラ。あなたが居てくれたからここまでやって来られた。……でも、今更だけど、本当に良いの? あなたは《ボティス》と……あ、痛い痛い! 髪ひっぱらないで怒らないで! 痛たた……。……もー、素直じゃないんだから……。じゃあ良いんだねー!? 《ボティス》召喚して、《天井花イナリ》にしちゃって良いんだねー!? するからねー!? もう呼んじゃうからねー!?』








『――今までありがとう。ラウラ――』












 自身の両肩を抱き、《グラシャ・ラボラス》は波止場のふちでしゃがみこんだ。


「万里子……ごめんなさい……。私は、あなたの娘を……」


 かつてないほどの自責と胸を裂くような後悔が、万里子を殺した時でさえ流さなかった涙をその眼に滲ませていた。


 官舎ひづり。彼女は、生前の万里子が果たせなかった普通の人間としての生き方を、望まれ、愛されるままに全うしようとしてくれている。過去の全てを知って、それでも、万里子がその命を賭して願った幸いを、子にとっては《呪い》とも言うべきそれを、悪態をつきながらも彼女は全部抱えて持っていくと言ってくれた。


 普通とは名ばかりの、狂って、歪んで、間違いだらけのそれを、あの子はその異常なまでの優しさで飲み干してしまった。《魔術》の世界から背を向けたとしても、それを責める者など誰も居ないというのに。


 果たして本当にこれで良かったのか。あの子に、万里子の愛したあの子に、私は償えたのだろうか。本当にあれが《グラシャ・ラボラス》が示してあげられる最善の道だったのだろうか。


 私は、この身を引き換えにしてでも《ボティス》を殺すべきではなかったのか。


 《悪魔》が関わる以上、官舎ひづりの未来は確定ではない。けれど《グラシャ・ラボラス》の《未来視》はこの先に待つ彼女の絶望的な受難の人生を映し出していた。《ボティス》と共にある限り、彼女はその未来をきっと避けては通れない。


 近く、彼女は親しい人間の血を浴び、人の絆が千切れる様を何度も何度もその眼に焼きつけて、果てはその手で実の姉を――。


 そんな悲運の明日を進もうとする彼女を自分はもう守ってあげられない。足元の《魔方陣》がついにその径を広げ、差し迫った《退去》のための術式を発動し始めていた。口惜しさばかりが胸を埋め尽くしていく。


 《願望召喚》を行っている《天界》の連中の狙い、それが現状考えられる中で最も可能性として濃厚である《ボティスが隠し持っているソロモンからの贈り物》であるのなら、奴らは必ずまたひづり達に襲い掛かって来るだろう。《ベリアル》の時の失敗を教訓にした対抗策を今度はちゃんと用意して。


 《グラシャ・ラボラス》は今日、ひづりに会う前にその事で《ボティス》に直接警告しに行ったのだが、しかし警告以上の効果がない事は互いに分かっていた。


 純然たる《悪魔》であった頃ならともかく、今の《ボティス》はその本質部分が《神性》に縛られてしまっている。《神性》の扱いに於いては《天界》側が圧倒的に上手な以上、現在《神性》を持つ《ボティス》はあまりに不利。加えて《召喚魔術》でしか《人間界》に来られない《魔族》と違い、《天使》たちは今でも任意のタイミングで、何より多人数で《人間界》へと訪れる事が出来る。勝ち筋が見当たらない。


 そして何より、そんな有利な状況で何故連中が《願望召喚》などという回りくどいやり方で接触してくるのか、それが不気味でならない。奴らの企む、この後に控えている大掛かりな何かの気配は今も《グラシャ・ラボラス》の背中に悪寒として貼り付き続けていた。


 果てしなく心配でたまらない。万里子の残した娘たちがそんな悪意の中に立たされているにも関わらず、自分はこれからまた隔絶された《魔界》へと連れ戻され、見守る事さえ出来ない。


 頼れるのは《神性》に縛られている《ボティス》と、弱体化させられている《フラウロス》、そして現在は鳴りを潜めている《ナベリウス》の三柱のみ。あまりにも心許無いが、それでもそれが現実的に官舎ひづりを護る事が出来る《人間界》に残された最大戦力だった。以降はもう彼女達が上手く立ちまわってくれる事を《グラシャ・ラボラス》は祈るしかなかった。


 特に《ボティス》には頑張って貰わなくては困るのだ。うっかりまた《魔界》に戻りかけるような事があったら、殺してでも《人間界》に送り返してやる。《ソロモン》から《アレ》を譲り受けた《悪魔》がそんな無様を晒すようなら永遠に《魔界》になんて戻って来なくて良い。こっちには《ボティス》を寂しがるやつなんて誰も居ないと言ってやる。


 立ち上がると最後に深呼吸をして、《グラシャ・ラボラス》はその懐かしい《人間界》の空気を肺の中へと取り込んだ。


「……何があっても、あなただけは最後までひづりの味方でいてあげてください。彼女に《期待》を押し付けた責任があなたにはある。その償いするまでは絶対に許してあげませんからね、《ボティス》――」


 《フェリックストー》の埠頭に一際大きな光が煌めいて、しかしそれはすぐに消えた。


 音も無く、一枚の羽も残さず、沖合いの波と潮風を受け止める無人の波止場だけがそこに佇んでいた。










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