『最初の魔術』




 そうした事があって、ひづりは天井花イナリの言う通り、まず手始めにと《防衛魔方陣術式》を覚える事にしたのだった。


 《召喚魔術》に於いて《防衛魔方陣術式》が他の《治癒魔術》や《転移魔術》と比べて『初歩的で、最初に習得しなくてはならない』とされる理由。それは単純に《悪魔》を召喚した際に殺されないためである、というのも確かに事実であるらしいが、しかしもう一つ、その『初歩的』である理由が、《テウルギア・ゴエティア》には詳しく書いてあった。


 驚くべきことに、《防衛魔方陣術式》は『覚えるだけで良いもの』だというのだ。その《魔方陣》の形を、だ。それを《魔力》と《魔術》によって目の前の空間にただ精確に描き上げる、ただそれだけで、《防衛魔方陣術式》は堅牢な《盾》としてその機能を完璧に発揮するのだという。


 しかし、覚えるだけで良い、とは言ったが、その分、別の意味で難易度は高かった。


 そうなのだ。文字で言うならその『画数』とも言えるものが、《治癒魔術》や《転移魔術》の《魔方陣》よりも《防衛魔方陣術式》は圧倒的に多く、また複雑な模様をしていた。もはや絵だ、描画能力に依存するものだ、とひづりは思った。


 そのためひづりは《防衛魔方陣術式》習得のために、まず《テウルギア・ゴエティア》の資料を見ながらノートにその《魔方陣》を描いて、次に眼を瞑り、記憶を頼りにその隣に同じく《魔方陣》を描き、目を開けて再び資料を見ながらノートに描き、また眼を閉じて記憶頼りに描く、という作業を、それこそ何度も何度も何度も繰り返して、ひたすら頭の中にその形状、描き順を叩き込んでいったのだった。


 八月の九日、水曜日。今日で綾里高校は終業式だった。午前で授業が終わった今、午後からはもう夏休みと言っても良い。そして明日にはひづりと幸辰はお盆のために官舎本家へと一週間ほど帰省する。


 であるから、その前に最初のテストとして、ひづりの《防衛魔方陣術式》の完成度を天井花イナリに見てもらうことになっていたのだ。ちよこの手術やラウラの事もあったが、それでもひづりは《テウルギア・ゴエティア》を得て、天井花イナリに《魔術》に関する知識を語って聞かせて貰ってからのこの数日、ひたすらにその《魔方陣》を描き続けてきた。


 成績はいつも大体、中の上。不安は常に付きまとったが――。


「――中々に良い出来であった。この日数で仕上げたにしては相当に良い。期待以上であったぞ」


 休憩室の机を戻しながら天井花イナリは褒めてくれた。ひづりもそばに駆け寄ってそれを手伝う。


「ありがとうございます。《魔力》が通じて、《魔術》を使うって、あんな感じなんですね……」


 ひづりはまだ少し胸がドキドキしていた。この一週間、描き順を覚えることにだけ専念してきた。なので直接《魔力》を用いてちゃんと《魔方陣》として形にしたのは、今日、これが初めてだった。天井花イナリの体から溢れる何かが自身の体を貫いて、そして自分の意思で形となって溢れ出て行く、あの不思議な感覚……。他の何にも例えようがないものだった。きっと《魔術》に関わりを持った人しか体験出来ないものだろう、とひづりは先ほどのその貴重な体験を思い出し、噛み締めた。


「む。……ああそうか、あの時は怪我を負っておったから……」


 するとにわかに天井花イナリが独り言を漏らした。


 ひづりが首を傾げると、彼女は答えてくれた。


「お主とわしの《魔力》の回線が繋がったのは、先ほどが初めてではないぞ。お主がわしを白蛇神社で再召喚した際、あの時もお主の体には同じ感覚があったはずじゃ。でなければわしもたぬこも戻って来られておらん。ただまぁ、あの時はお主、痛みで何も感じ取れんかったのじゃろう」


 あ。とひづりは椅子を運びながら思い出して納得した。確かにあれは痛みで朦朧とした意識下でのことだった。体に得られる情報は痛覚ばかりで、それ故にひづりの脳はそれ以外の何かを判別する余裕が無かったのだろう。


「ふふ。……まぁ、しかしじゃ、ひづりよ。先ほどの《防衛魔方陣術式》じゃがの。人の記憶とは薄れてゆくものよ。故に、これからも常に覚え続け、そして今日以上に素早く瞬時に《描ける》ように成れ。引き続き研鑽せよ。今日は万全の状態を以っての成功じゃった。ただ確かな自信としてその胸にしかと抱いておけばよい。しかし、奇襲を掛けられた際に咄嗟に描けない、では意味が無い。でなければお主も白蛇神社でのちよこのように、あのような深手を負う事になる。わしはそれを望まん。じゃがまぁ、お主であればそう難しいことではあるまい。だらけ性のちよこにはずいぶんと酷であったようじゃが、生真面目なお主のこと、そしてわしらと向き合うと言うたお主の決意……。ならば三つや四つ程度の《魔方陣》を、毎日頭の中に瞬時に描き出す程度の訓練、こなし続けられるであろう?」


 机と椅子を戻し終えると、彼女は再びひづりの正面に立ってニンマリと笑顔を浮かべた。


「しょ、精進します……」


 官舎ひづりは学校の勉強の成績に関して少々自信が無い。しかし今日、ひづりは《防衛魔方陣術式》の発動に成功した。確かに天井花イナリの言った通り、万全の状態での成功ではある。実戦で出来なければ意味が無いのは事実だ。しかしそれでも成功は成功なのだ。彼女の言う通り、これを自信として受け入れ、次に励んでいくべきだ。ひづりは胸の前で拳を握り、気持ちを固めた。


「あぁ、そうであった。たぬこ。試験は終わった。無事成功じゃ。出て来て良いぞ」


 天井花イナリは「忘れておった」という顔で踵を返すと隣の畳部屋への襖を引き、そちらで待機していた和鼓たぬこに声を掛けた。


 《魔性》や《神性》を持つ者の攻撃を完全に防ぎ、直接触れると怪我さえするというその《防衛魔方陣術式》。ひづりにとっては初めての発動試験。天井花イナリは彼の《ソロモン王の七二柱の悪魔》であるが、こと《防衛魔方陣術式》に対しては全く手の打ち様が無いとのことで、……故に、何かあってはいけないから、と、彼女は和鼓たぬこを畳部屋の方に隠していた。ひづりも、和鼓さんが怪我する危険があるかもしれないなら、と天井花イナリの意見に同意していた。


 和鼓たぬこは畳部屋からひょっこり顔を出してひづりを見るとにわかに笑顔になって草履を履き駆け寄って「おめでとうございます」と祝福してくれた。


「ありがとうございます」


 天井花イナリに褒められるのとはまた違う嬉しさが胸に湧き、ひづりはつい顔が赤くなってしまった。


「さて試験も無事成功した。では参るとしようか、ひづり」


 もし《防衛魔方陣術式》が思わぬ挙動を見せた際のために……いや、《悪魔》のわしに何が出来るかは分からぬが……、と言いつつも、一応として掛けていたその襷を解きながら、天井花イナリはひづりに声を掛けて来た。ひづりは我に返って背筋を伸ばした。


「あ、は、はい!」


 立て続けで慌しくはあるが、この後すぐに三人は出掛ける予定だった。


 理由は他でもない、彼女達の食糧事情だった。


 岩国から戻って二日間は幸辰が用意してくれたものを、そしてその後サトオに頼まれて天井花イナリと和鼓たぬこの両名が《和菓子屋たぬきつね》の留守番を任されてからは、二日に一度、放課後に二日分の彼女らの食料を届けるため、また《レメゲトン》を読むために、ひづりは足しげく店へと通っていた。


 しかしひづりと幸辰は明日から一週間ほど帰省で家を空ける。官舎本家は都内のあきる野市なので近いといえば近いが、しかしそれでも《和菓子屋たぬきつね》からはかなり離れる。言ってしまえば東京の西と東なのだ。毎日気楽に通える距離ではない。


 なので、ひづりは稲荷寿司とお酒の定期配達を考えてみたのだ。商店街でいつもお世話になっているお寿司屋さんと酒屋さん。そこに依頼して、天井花さんと和鼓さんの食料一日分を《和菓子屋たぬきつね》へ毎日届けて貰うのだ。


 当然代金に加え配達費がプラスされるが、そこも計算したところ、さして問題は無いと判明していた。


 ひづりが父と暮らす南新宿のマンションと、綾里高校と、そして《和菓子屋たぬきつね》。地図で見ると三つはおよそ辺の長さが等しい三角形の頂点に位置していた。ひづりが《和菓子屋たぬきつね》に寄るたびに、その分の電車賃が発生していたのだ。それも店が営業している間は交通費として抑えることが出来たが、現在、《和菓子屋たぬきつね》は休業扱いになっている。


 ただ、この機に調べてみたところ寿司屋も酒屋も、定期配達にはお得な毎日購入コースというものがあり、計算してみるとこれがまたひづりがこれまで家から学校、店、そして家へと移動していたその三角形の電車賃に、意外にもあまり差がない、ということが判明したのだった。交通費は避けられない出費であると割り切っていたため、ひづりは迷わずこれを選ぶ事にした。


 ただもちろん、これから一週間だけのことである。官舎本家から戻れば、ひづりはまたちよこが復帰するまで二日に一度の頻度で《和菓子屋たぬきつね》へ通って食事を届け、そして《レメゲトン》を読む、その生活に戻る必要があるのだから。


 そうした訳で、とにかく今日はこれより明日からの一週間《和菓子屋たぬきつね》へ稲荷寿司とお酒を定期配達してもらうための手続きをしに、加えて、これから一週間会えなくなるこの日に、三人で一緒に少しお出かけしましょう、という話になっていたのだった。




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