第10話 『死ぬほど気に入らない女』 1/6
10話 『死ぬほど気に入らない女』
月曜日。東京は朝からひどく雨が降っていた。凍原坂の務める明治大学へお邪魔した時以来の雨であったからひづりは少し早めに着いた教室でその時の事を一人ぼんやりと思い出しつつ夜不寝リコの転校についても改めて様々考えを巡らせていた。
「雨すごいね」
「髪まとまらないし最悪」
ひづりの席の丁度反対側、廊下の壁に面した席の辺りに夜不寝リコといつも一緒に居る女子生徒ら三人が集まって話をしていた。ひづりは彼女らが来てからしばらく耳を欹てていたが、しかし夜不寝リコの転校に関する話題は一切聞こえて来なかった。それは他のクラスメイトらも同様で、恐らく夜不寝リコは転校について本当に綾里高校の生徒には一切誰にも打ち明けていないようだった。
タイミングが悪かったのだろうな、とひづりはちょっと申し訳なさを感じていた。夜不寝リコの養母である夜不寝一恵の胃癌が発覚したのは先月の頭で、そして新潟の夜不寝医院へ入るのは今週末だという話だった。であれば、夜不寝リコが新潟への引っ越しを決めたのも、きっと《和菓子屋たぬきつね》で働くと言い出したあの日の前後くらいだったのではないか。養父母のために新潟への引っ越しを決意し、そしてそれを学友らにそろそろ打ち明けねば、という頃合になって、彼女は《和菓子屋たぬきつね》が凍原坂家に何かよからぬ事をしているのでは、という考えを見出してしまった。
もし転校の事を友人らに明かせば、彼女らは夜不寝リコの転校に向けて何かしら見送りの準備をするための会話を教室で行っていただろう。そうなればひづりの耳にだって自然とその情報は入って来る。だから夜不寝リコは転校についての一切を隠し、周囲の大人にもそれを頼み込むしかなかったのだろう。夜不寝リコと彼女の友人らがどれ程別れ難い間柄なのかは想像するしかないが、そのつもりがなかったとしても彼女らの大事な別れの時間を奪ってしまった事についてはひづりもそこそこな罪悪感を抱いていた。
けれどそれも今日までである。転校と引っ越しについては昨日一恵からひづり達に伝わり、そして夜不寝リコ自身の口で説明をしたのだ。であれば、もう再来週に決まっているらしい転校について、夜不寝リコはきっと今日にでも友人達に打ち明けるのだろうから。
ひづりは教室の時計を見た。あと五分ほどで朝のホームルームだった。生徒らはもうほとんど登校していて、アサカも今日は雨のためアインの散歩はやめたらしくひづりと同じくらいに教室へ入って来ていた。
一ヶ月前には想像もつかなかったが、ひづりは今、夜不寝リコが教室に顔を覗かせてくれるのをどうにも落ち着かない気持ちで待っていた。それは決して彼女があと二週間ほどで綾里高校から居なくなるのが寂しいからとかではなく、彼女が登校して来てそして自分たち《和菓子屋たぬきつね》のせいで隠し続けるしかなかった新潟への引っ越しについてをホームルームのタイミングにでもクラスメイトらに打ち明けてくれたらきっとこの胸のもやもやも晴れるのではないか、と思ったからだった。
だが、《火庫》ちゃんも寂しがるだろうし店でお別れ会とかやった方が良いんだろうなぁ、でも私が仕切ってやるのもなぁ、姉さんやってくれないかなぁ、とひづりがついでにそんな事を考えていると、徐に担任の須賀野が教室に現れた。え? と思ってひづりはまた壁の時計を見て、そこで同時にチャイムが鳴るのを聞いた。生徒らがすっかり着席した教室の中、未だに夜不寝リコの席は空のままだった。
「おや? 夜不寝さん来ていませんか? おかしいですね、お休みの連絡は入ってないんですが」
須賀野は首を傾げ、誰か知りませんか、と訊ねたが、しかし二年C組の生徒らは皆近くの者と軽く顔を見合わせるだけだった。夜不寝リコが普段つるんでいる女子生徒らも「誰にも連絡来てないの?」と各々首を傾げていた。百合川の方を見ると彼も無言で首を横に振った。
どうしたのだろう、とひづりは不思議に思った。夜不寝リコは、性格はややアレだが、それでも学校生活に於いては教師らからの評価を大事にするという姿勢を一貫しており、彼女が無断欠席をした、といった場面をひづりは少なくともこの半年間一度も見た事がなかった。また、これまで夜不寝一恵に会って話をしたのは二回きりだったが、それでもその二回で十分に「夜不寝リコの養母はしっかりした保護者である」という印象をひづりは受け取っていたので、もし夜不寝リコが体調を崩したとかそういう話であるなら、一恵が担任の須賀野へ今日の欠席の連絡を入れていないのは妙に思えた。
ううん? と須賀野はしばらく持って来た出席簿やスマートフォンの画面を睨んでいたが結局分からなかったようで「……まぁそのうちお家の人から連絡が来るでしょう」と諦めて改めて出欠を取り始めた。普段学校をサボらないはずの夜不寝リコの無断欠席に邪推する声がそこらでこそこそと上がった。
「ホームルーム中、失礼します」
するとノックの音が鳴ってすぐに教室の扉が開き音楽教師の空野がつかつかと入って来てそのまま教卓の須賀野に近寄り何やら耳打ちをした。
「え」
須賀野の口から短く困惑の声が漏れ、その眉根が珍しく険しい形に歪んだ。
それから少し考え込んだ後、須賀野は目の前に座っているクラス委員の有坂に出席簿を渡した。
「有坂さん、すみませんが後の出欠確認、先生の代わりにお願い出来ますか。今日のホームルームはこれで終わりです。先生はちょっと職員室に用事が出来ました」
そしてそう言い残し、足早に空野と一緒に教室を出て行った。
「何だおい、見たかよ須賀野の顔」
「ああ、間違いなく何かあった顔だぜあれは」
「もしかして夜不寝さん何かやったのかな」
教師二人が居なくなるなり二年C組の教室は一気に沸いた。無理もなかった。普段から「私は朝のホームルームが一日で一番の楽しみです」と公言している須賀野がこんな風に途中で朝のホームルームを切り上げる事は滅多に無く、また夜不寝リコの無断欠席も同じとあれば、生徒らの好奇心が掻き立てられてしまうのも仕方のない事と思えた。
「うおっ?」
私のところにも夜不寝さんからの連絡って来てないよな……? と通学鞄からスマートフォンを取り出してみると丁度その時着信を報せるランプがぴかぴかと明滅し、ひづりはちょっとだけ驚いた。
もしかしたら夜不寝さんかもしれない、と一瞬想像したが、画面には《和菓子屋たぬきつね》とあった。すぐに通話ボタンを押し、スマートフォンを耳に当てた。
「もしもし、ひづりです」
『わしじゃ』
「あぁ天井花さん。おはようございます、どうしたんですか?」
彼女がこんな時間に電話を掛けて来るのも珍しく、今日は本当に朝から何だか普段起きない事ばかりだな、とひづりは思った。
『ひづり、良いか、落ち着いて聞け。今朝なのじゃがな…………』
「…………え?」
教室の喧騒も窓の外で景色を白く霞ませる雨の音も一度に全て聞こえなくなったようだった。
夜不寝リコと《火庫》が家出をしたらしい、と電話の向こうの天井花イナリはそう言った。
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