『イモカタバミ』 5/8
からからと音の鳴るすり硝子の扉をそっと閉めると、ひづりと市郎は商店街を駅前へ向かって歩き始めた。
雨上がりの昨日は少々暑さを感じる程度の暖かさがあったが、しかし今日は一転して気温が低く、晴天でありながら羽織る物が無ければそこそこ肌寒さを感じていたであろう程度には冷たい風が吹いていた。最近では日が暮れるのも早くなり、本格的に秋の空気に替わりつつある東京をひづりは何となく寂しく感じていた。
「あれ? 駐車場の道、ここですよ?」
そんな事を考えていると八百屋の前の十字路を通り過ぎ、ひづりはハッとなって市郎に言った。市郎もそこで立ち止まってひづりが指差す脇道の方を見た。
前回、七月に足をくじいた千登勢の迎えへ来た際、市郎はこの脇道を少し歩いた所にある駐車場へ車を停めていた。この辺りで駐車場はそこだけだった。
すると市郎は首を横に振って何か恥ずかしそうに頭を掻いた。
「いや、ごめんね、そういえば言っていなかった。今日は電車で来たんだ」
「あ……そう、だったんですね」
「うん」
市郎はそれだけ言うと特に話を膨らませるでもなく引き続き駅前を目指して歩き始めた。
千登勢曰く、市郎は車が好きだという話だった。彼が乗っている薄べったくて四角いスカイラインという車も、今ではもうずいぶん珍しい車種だと聞いていた。今日は市郎おじいちゃんの運転する車に乗れるのかな、と期待していただけに少しがっかりしたが、しかし車をどこかにぶつけて壊してしまった、という話だったりしたらあまり言及するのも悪いだろうかと思い、ひづりもそれについては触れず黙って市郎の隣に並んだ。
霊園のある東秋留まではお盆の帰省同様に十分な距離があったが、しかし今日は祖父と二人での移動とあって電車に乗り込むなりひづりは何だか特別な旅をしているような気分になり、十七になったばかりの身も忘れて子供の様に市郎とたくさん話をした。目的地まで複数ある乗り換えも今日ばかりはまるで億劫に感じなかった。
東秋留駅へ到着したのは十六時を過ぎた頃だった。二人はそのままバスに乗ってまず官舎本家へ向かい、幸辰から預かっていた合鍵で物置の掃除道具を回収すると、また市内のバスに乗って霊園前を目指した。
「ねぇひづりちゃん、荷物、やっぱり重くはないかい? 無理をしないで。私が持つよ」
墓掃除と言っても先月のお盆に甘夏や紅葉たちと掃除に来てその際すっかり綺麗にしていたので今回は墓石を磨くのと草むしり程度を想定しており、そのため荷物も雑巾と軍手と水の入ったペットボトルくらいだったのだが、しかしそれらの入ったポリバケツをひづりが官舎本家を出てからずっと持っているのを気がかりに思ったようで、市郎は困った顔をしながらまたひづりの手元を指差した。
「いえ、本当に大丈夫ですよ。私、結構力持ちなんですから」
市郎の気持ちも分からないではなかったが、しかしひづりもひづりで元気な孫アピールがしたかったので、そこは譲れなかった。
目的地のバス停で降りると、同乗していた他の客と一緒にひづり達も一旦霊園とは逆の方向へ歩き始めた。バス停を挟んだ霊園の反対側には花屋があって、大抵皆そこでお墓に立てる花を買っていた。本来のお彼岸は昨日だったが、やはりひづり達と同じく日曜の今日に墓掃除を予定していた人は多かったようで、バスで一緒だった客も、また先に花屋に来ていた客も結構な数だった。
花を買い、二人は彼岸花がまばらに咲く通りを戻って、ようやく霊園前へと到着した。
「ありがとう」
勾配の関係で通りより少しだけ高い位置にある霊園へ入るには緩やかながら少々長い坂道を上らなくてはならず、ひづりは駅の階段などでもしたようにまたそっと市郎の片手を引いてあげた。
「いいえ」
中学二年生の時に父方の祖父母を亡くしたひづりにはこうした祖父孝行は久々で、いくらしてもまるで面倒には思わなかった。それにこれまで疎遠だった市郎とこんな風に祖父と孫らしい事が出来るのもやはり嬉しかった。
坂を上り終えると背が低くなった植え込みの向こうに広く連なった無数の墓石とそしてそれら先祖の墓を掃除に来たのであろう人達の姿があちこちに眺められるようになった。
「市郎おじいちゃん大丈夫? 具合、悪い?」
ふと見た祖父の顔色がどうも少し良くない気がしてひづりは一旦立ち止まって訊ねた。
市郎は首を横に振って笑って見せた。
「大丈夫だよ。行こう。あまり遅くなると日が暮れてしまう」
そう言って市郎は、花屋で購入した際に「こればかりは持たせておくれ」と両腕に抱えていた花束をもう一度しゃんと持ち直してから歩き始めた。
ひづりも歩き出し、彼の調子に合わせながら官舎家の墓がある一画を目指した。
つい一ヶ月前に掃除をしたとは言え一昨日には景気良く大雨が降ったため周囲のどの墓石も彫られた文字の隙間には跳ねた泥が溜まっており、また夏を過ぎて間もないので足元からはどっさりと雑草が伸びてしまっていた。墓前に着いたひづりは改めて市郎に体の調子を確認し、先ほどよりは大丈夫そうだと見ると、さてと腕まくりをした。
「花筒の水の交換と雑草取りは私がやりますね。おじいちゃんは墓石の拭き掃除と、水の交換が終わったらお花を入れてあげてください」
持って来たポリバケツを墓石の傍らに置いてそこまでつらつらと言ったところで、ひづりはハッと我に返って硬直した。しまった、仕事をしている時のような気持ちでつい指示を出してしまった、と。どうやら午前中のバイトの感覚がまだ頭から抜けきっていなかったようだった。
しかし、市郎はちょっとだけ呆気にとられた様子を見せたが、すぐに嬉しそうな顔になって「分かった、任されよう」とひとまず花束を脇に置いてポリバケツから雑巾を取り出した。
大丈夫だっただろうか、生意気な孫っぽくはなかっただろうか、とひづりは内心小さくなりながら、そのまま市郎と共に墓掃除を始めた。
「こんなところ……でしょうかね」
いつもは手馴れた父や甘夏と一緒に行っているため、市郎と二人きりの墓掃除はなんとも手間取る部分が多くなってしまったが、けれど雑巾も軍手もすっかり汚し、水を入れ替えて花を立てた頃には、官舎家の文字が彫られたその墓石は見違えるように綺麗になっていた。掃除モードのスイッチが入ったひづりとしてはもう少し細かい部分の清掃もしたい気持ちがあったが、しかし時計は既に十七時を過ぎていて、ひづりたちと同じ頃に墓掃除を始めた人たちはそのほとんどが霊園を後にしており、またうっすらとだが空も茜色を滲ませ始めていたので今日はもうこの辺りで引き下がる事にした。
掃除道具やゴミをポリバケツに纏めると、ひづりと市郎は墓前に背筋を伸ばして並び、そっと手を合わせて眼を閉じた。
「……今日、凍原坂さんに会ったよ、万里子」
黙祷からしばらくして、市郎がぽつりと墓石に声を掛けた。ひづりは顔を上げて市郎の横顔を見た。目じりがほんのりと赤らみ、瞳は濡れて揺らいでいた。
「お前の話を、たくさんしてくれたよ。お前に、一生掛けても返せないほどの大きな恩があるんだ、と……。娘たちの居る人生を与えてくれて感謝している、と……」
市郎はうつむき、嗚咽を漏らした。その体が頼りなげにぐらりと傾いて、ひづりは咄嗟に彼の体を支えた。彼は息を整えながら、ありがとうひづりちゃん、とどうにか持ち直した。
「万里子は、人のためになる事をしていたんだね……。えらい、えらかったね……」
ひづりの手に支えられながら、市郎は優しく穏やかな声でまた墓前に話しかけた。
千登勢曰く、日本へ帰省する度に万里子と市郎は顔を合わせていたが、しかし会話らしい会話というものはなくて、大抵花札家へ来ると万里子はすぐに千登勢を連れて買い物や遊園地に出掛けていたらしい。
姉が父を恨んでいた様子は無かったが、しかしそれでも見捨てた父と見捨てられた長女の拭い去れない気まずさが何十年経っても二人の間には消えず在って、そしてそれは最期まで変わる事が無かったみたいだった、と、今日のお彼岸を前に千登勢はひづりに電話でそう話してくれていた。
もしかしたら、こんな風に市郎が長女をちゃんと褒めてあげられた事は生前一度も無かったのかもしれない。ひづりは自身の内に未だ残る母への悔いを思い出して胸がしくりと痛むのを感じた。
市郎の細い肩をぎゅうと抱きしめ、ひづりもそのまま一緒になって少し泣いた。
「……そういえば、ひづりちゃん、イモカタバミが好きなのかい……?」
通りへ向かう緩やかな坂道を下る途中、おもむろに市郎が訊ねた。
まだどうにか人の顔の見分けこそつくがそれでも辺りはもうだいぶ暗くなっていて、霊園の外灯を頼りに足元に気をつけながら市郎の手を引いていたひづりはその唐突な質問につい反応が遅れた。
「え? え、ええ、そうですね。小さくて、かわいい花だなって思います。ああ、そうです。電車の中で話した、私が新しく覚えようとしてる《魔術》の練習に使っているのが、あのイモカタバミで。ちょっと愛着があるんですよ。それでさっきの花屋さんで見かけて……母さんや、父方の祖父母にも供えてあげたいなって思って……。……あ。ごめんなさい、もしかしてこういう時にはあまり相応しくない花だったんでしょうか……?」
供える花を選んだのは主に市郎だったが、その後イモカタバミを追加でレジに持って行ったのはひづりだった。お彼岸でどういう花が相応しいのかまでひづりは詳しくなく、今更になって「ひょっとして花屋で市郎に恥ずかしい思いをさせただろうか」と不安になった。
歩きながら市郎は首を横に振った。
「いいや、とても良い花だよ。ありふれた花だけれど……うん、私も綺麗で、可愛らしいと思う」
そう言って、彼は何か懐かしそうな顔で微笑んだ。まだ赤い眼をしていたが体の具合は悪くないようで、その声にも普段の落ち着きが戻って来ていた。
「市郎おじいちゃんは花に詳しいんですか?」
ヒマワリやバラの様な有名な花であればともかく、イモカタバミのようなあまり耳にしない花の名を、それも男性の市郎が知っているのは珍しい事に思え、ひづりは気になって訊ねてみた。紅葉の仕事場に置いている二つのイモカタバミも出来ればすぐに枯らすような事はしたくなかったので、彼が花の扱いに詳しいなら色々話を聞いておきたいと思った。
すると市郎は「いや、そういう訳じゃあないんだ」と断ってから、少しうつむき、真っ黒なアスファルトに視線を落としたまま言った。
「……さっき、墓前でひづりちゃんとあの花を見ていて、ふと昔の事を思い出したんだ。……万里子の事だ。十年くらい、前だろうか。イギリスから戻ってうちへ来た時、いつものように千登勢と一緒にふらりと出掛けたあの子は……まるで子供みたいにあの花を、どこで見つけたのか、大量に摘んで花束みたいにして持って帰ってきたんだ。綺麗な紫色で好きなんだ、と言って、うちにあった花瓶にどっさり挿してね……。三十も過ぎた頃だったが、それでも千登勢と姉妹らしいことが出来て、嬉しかったんだろうね。とても、とても幸せそうにしていた……」
呟く彼の眼差しはその遠い思い出の日を見つめているようだった。
ひづりは、偶然ってあるものなのだな、と不思議な気持ちになった。先日、《滋養付与型治癒魔術》を始めるにあたり「さぁ何で試そうか」となった際、単に値段が安いからという安易な理由で買ったのが、例のイモカタバミだった。まぁ、安い理由もどこにでも咲いているかららしいし、それに母子で花の好みが似ていたって何もおかしくはないのかもしれない。嬉しくはないが。
「……そうだ。『イモカタバミは私の先生なんだ』……。あの時、万里子はそんな事を言っていた。私にはよく分からなかった。千登勢も首を傾げていた。ひづりちゃんには、万里子の言ったこと、分かるかい……?」
霊園を出てバス停の明かりへ向かって歩き始めたところで、にわかに市郎がハッとしたように顔を上げてひづりに訊ねた。
「先生、ですか……? ううん……」
母と、花と、先生。数秒ほど記憶を探ってみたがひづりは何も思い当たる事が無かった。そもそも、先ほども不思議に思ったが、母が花を大事にしている姿というものをひづりは恐らくこれまで一度も見た事がなかった。
「…………あっ」
しかし物心がついた時分くらいまで人生の記憶を遡った頃、ひづりはハッとして顔を上げた。市郎が驚いた様に振り返って少し眼を丸くした。
「……あったかも、知れません。母と、花の話をしたこと……」
段々と思い出して来たそれをひづりはそのまま市郎に話した。
幼稚園の頃だった。ひづりとちよこと両親の四人で遊園地へ訪れていた。かなり大きな施設だったが来場客はあまり多く無かった。万里子はふらりと帰国してはひづりたちを誘拐して旅行へ出向いていたので、この日も平日だったのかもしれない。
園内でしばらく過ごした頃、父と姉がトイレへ行った。二人を待つ間、ひづりと万里子はトイレの横にあった花壇を見ていた。
母がひづりに言った。
『ひづり、花っていうのはね──』
「……花って、いうのは……」
そこまで呟いて、ひづりの口唇はぴたりと止まった。
「あれ……」
思い出せなかった。この後、母がやけに真面目そうな顔で何か語っていた気がするのだが、しかしひづりはその内容を思い出せなかった。いやそもそも記憶の中に音声が無かった。恐らく記憶が古過ぎて憶えていないのだ。思い出せたと思った母の言葉にしても、ひづり自身がそんな様な話をされた気がする、と思っただけで、会話そのものですら無かった。
「……ごめんなさい。思い出せないみたいです……」
ひづりが肩を竦めて謝ると、市郎は困った様に優しく微笑んだ。
「いや、良いんだよ。思い出そうとしてくれてありがとう。けれど……やっぱり万里子は、花に何か特別な思い入れがあったんだろうか……。墓前に立てる花、どんなものが良いか、聞いておいてやりたかったなぁ……」
前を向いて市郎は残念そうに呟いた。長女がいつ死ぬか知らされていなかった彼には、それはどうあっても叶えようのなかった願いだった。
ひづりたちがバス停に着くのと同じくらいに、明るいライトを伸ばしたバスが停車した。墓掃除に来ていた他の人達は前の便までにもう帰ってしまったらしく、バス停も車内も空いていた。
市郎と二人バスの振動に揺られながらひづりはまた母との記憶を掘り返してみたが、やはりあれ以上思い出せることは無かった。
官舎本家の倉庫へ戻って掃除道具をしまうと、二人は電車に乗って南新宿の官舎家へと向かった。当初の予定では、十八時には官舎家と花札家、それから吉備夫婦の全員が揃い、官舎家の食卓で夕飯にしよう、という手筈になっていたのだが、朝からちよこは行方不明になるし、千登勢は仕事で遅くなって、そのうえ自分達は墓掃除に手間取って三十分ほども遅刻してしまった。どうもうまく行かないものだ、とひづりは思ったが、しかしこれから始まる事の方が心配で落ち込むどころではなかった。
「市郎おじいちゃん、大丈夫?」
我が家の扉の前まで来た所でひづりは改めて市郎に訊ねた。あきる野市へ行って戻っての長旅による疲労もそうだが、これから長女の夫……幸辰とまた面と向かって話をするという今日の会食についてもひづりとしては気にかかるところだった。何も問題が起きていないなら、この扉の向こうでは諸々の準備のためすでに仕事を終えて帰宅した父が、墓掃除を終えたひづりたちを待ってくれているはずだった。
「……ああ、大丈夫だよ。ありがとう」
市郎は官舎家の扉を見上げたまま硬い表情をしていたが、徐に振り返るとひづりを安心させるかのように微笑んだ。
ひづりもいよいよ覚悟を決め、「じゃあ……」と断ってから鍵を開け、ドアノブを捻った。
「ただいまー……」
覗き込むようにして声を掛ける。やはり父が帰っているらしい、三和土には父の靴が揃えてあり、玄関と廊下、それからその向こうのリビングにも電気がついていた。
廊下とリビングを繋ぐ扉は開け放たれていて、台所に居たらしい幸辰がすぐにそこから顔を覗かせ、そのままひづりたちの元へと駆け寄って来た。
「おかえり、ひづり。……いらっしゃい、市郎さん。ひづりとのお墓掃除、ありがとうございました」
出迎えた幸辰に、市郎は帽子をとって深々と頭を下げた。
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