『突撃も虚しく』




「いらっしゃいませ」


 鍵を開けて店内に入るとすぐ正面に《火庫》が立っていて、眼が合うなり可愛らしいおじぎをしてくれた。


「どうじゃ。中々様に成ってきたであろう」


 それから天井花イナリが得意げな顔をレジ横の給湯室から覗かせた。どうもまた《未来視》でひづりが来るタイミングを見計らっていたらしい。


「おはようございます。はい、とても働き始めたのが昨日とは思えないですよ、《火庫》さん」


 うおおっ猫ちゃん従業員さん可愛いっ、という感想を喉の奥に呑み込みつつ、ひづりは日曜日よりいくらか姿勢と声の通りが良くなった《火庫》のその挨拶を褒めた。


「ありがとうございます。ひづりさんと白狐様のご指導のおかげです」


 《火庫》はまたひづりに小さくお辞儀をして、それから天井花イナリを振り返って、今度はしっかりとした深いお辞儀をした。彼女の角の先に燃える炎と、今は結わえられ纏められている髪の先端の緋色が揺らぎ、その葡萄色の着物を本来より明るい色に映えさせていた。


 《和菓子屋たぬきつね》は従業員の制服を必ずしも着物に規定してはいなかったが、ただ何分急な話だったため勤務開始までに《火庫》がそれらしい仕事向きの服を用意出来なかったという理由から、背格好の似ている天井花イナリの着物の予備が一時的に宛がわれるに至っていた。


 着物はあまり馴染みがないと《火庫》は言っていたが、しかし天井花イナリの言う通り襷掛けをしたその姿は二日目にしてすっかり様になっており、もっと前から店に居ただろうかと錯覚させる雰囲気さえそこにはあった。恐らく普段から身綺麗にして着る物にも気を配っている《火庫》だからこそ、こうした馴染みの無い衣装でもすぐ見栄えの良い立ち居振る舞いに仕上がるのだろう。


 それに偶然ではあるが、長く真っ直ぐな白髪、同じくらいの背丈、お揃いの着物、と揃えば、どちらも凛として落ち着いた佇まいが牡丹の様に美しい人柄ゆえ、天井花イナリと《火庫》はまるで姉妹の様にさえ映った。


 だが彼女が店に解け込んで見えるのはそうした風貌だけを由来としてる訳ではないのだ、という事は、今日《火庫》の教育担当を任せられた天井花イナリの顔を見ればすぐに分かった。


「《フラウロス》から知性のほとんどを受け取っただけの事はある。教えること教えること、どれも一度で覚えるとは、張り合いが無いくらいじゃ。朝方に凍原坂が連れて来てから、ものの二時間程で言うことが無くなってしもうた。まぁ、これでわしらの仕事も多少楽になろう。ふふ、実に良い拾い物をしたな」


 天井花イナリはいたく上機嫌な様子で会計台の柱にもたれかかりながらひづりに満足げな笑みを向けた。


 その褒め様に内心若干嫉妬しないでもなかったが、それよりもひづりは、天井花イナリと《火庫》、二人の仲が思っていた以上に恙無いものへと固まって来ている事に改めて安堵の念を抱いた。


 二人は七月に凍原坂と《フラウロス》のことを巡って出会い頭に確執が生まれていたはずだったが、しかしその後すぐに問題が落ち着くとそれからは特にいがみ合う事もなく……というより、互いにあまり興味が無いという具合で、しばらく店員と客の立場を貫いていた。


 だから《火庫》が《和菓子屋たぬきつね》で働き始めるとなっていくつか不安に思った事のうち、些細なものではあったが、その『天井花イナリと火庫は仲良く出来るのだろうか?』という疑惧は、やはりひづりの頭の中でそれなりの大きさを伴って浮かんだものだったし、凍原坂もおっかなびっくりしていたようだったが、しかしどうも話は思いの外そう難しいものでもなかったらしい、と、実は昨日の間に懸念としては大よそ晴れるに至っていた。


 以前天井花イナリが見抜いた通り、《火庫》の元となった《火車ひぐるま》はやはり《神性の妖怪》であった。そして以下の事が、《火庫》本人談を交えてではあるが、判明した。


 現在、日本の死生観で《あの世の王様》と言うと、恐らくほとんどの日本人が一人の王様の名を挙げるだろう。言わずと知れた、《閻魔大王》だ。


 死んだ罪人を恐ろしい《地獄》へ送り、嘘吐きの舌を引っこ抜く、仏教の王様。ひづりも子供の頃はよく「悪い事をしたらあの世の閻魔様に……」という文句を聞かされたものだった。


 そして日本の仏教では《閻魔大王》は《地蔵菩薩》と同一視がされていて、こちらも有名な《お地蔵様》……《子供達の安全を見守る善性の神様》として知られている。


 そんな《閻魔大王》の元に各地から死者を運ぶ《下っ端の妖怪》が、その《火車》なのだという。つまり《火庫》は元々《神様の部下》だったのだ。


 しかし、同じ《神性に属する存在》とは言え、そもそも知名度からして低い《下働きの妖怪・火車》と、日本中に社を置く《宇迦之御魂大神》に仕える《ウカノミタマの使い》とでは、その《神性の位》がまるで違うとの事で、だから《火庫》は──《元・火車》である彼女は、本来、高い《神性》を持つ《ウカノミタマの使い》である天井花イナリとの間に、『命じられれば傅かねばならない程はっきりとした上下関係がある』のだという。


 《悪魔》である《フラウロス》と融合させられた事で《火庫》は《純粋な神性》を失い、《火車》としての特性や役職から開放されてはいるが、それでも体の半分以上は《火車》のままなので、《白狐様》と崇められる天井花イナリの前ではこれまでも……果てしなく分かり難かったが、実はかなり萎縮していたらしい。


 出会った時は愛する凍原坂に剣を向けられた事で敵対こそして見せたが、しかしこうして落ち着いて向き合えば、どうしても《火車》としての《核》が天井花イナリに対して畏敬の念を抱かせ、つい背筋は伸び、言葉遣いはより丁寧なものになってしまうとの事で、これを聞かされた時はひづりも凍原坂も揃って胸を撫で下ろしたものだった。現在、《フラウ》が店で暴れても天井花イナリが片手間に押さえ込む事が出来ているのは、あくまでも《フラウ》しか闘う気が無く《火庫》はまるで関心が無いから《ベリアル》と戦った時のような同調現象も起きずその《フラウロス》としての力が大いに弱体してる事に由来していて、だからたとえ今後《火庫》が店で働き始めたとしても、彼女が天井花イナリに対しほぼ無意識に敬意を抱き、無用に敵意を抱かないのであれば、《和菓子屋たぬきつね》が《悪魔二柱の本気の決戦場》になる事はまず無いはずなのだった。


「では《火庫》、ひづりに見てもらったところで、そろそろ《フラウロス》を起こして来い。もう凍原坂も来る頃であろう」


「分かりました。行ってまいります。それでは」


 そうした訳で、天井花イナリが顎で店の奥を指すと《火庫》はまたうやうやしくお辞儀をしてから静かに、かつ足早に、言われるがまま恐らく《フラウ》が眠りこけているのであろう畳部屋の方へと暖簾をくぐって行った。


「何とも、頼もしいですね」


 そんな《火庫》の背中をぼんやりと見送りながらひづりは呟いた。


「……そのような顔には見えんが」


「え?」


 振り返ったひづりに天井花イナリはちらりと視線を寄越して、それからまた《火庫》の去って行った従業員室の方を見た。


「分かっておる。お主の懸念が、《火庫》がこの店で上手く働けるかどうか、でない事は」


 そう言って彼女はめんどくさそうに一つ雑なため息を吐いた。


「それは……」


 ぐうの音も出ないほど見透かされ、ひづりは言葉に詰まった。だがさほど驚きはしなかった。関係が《次期契約者》から《契約者》となった事で、官舎ひづりに対する天井花イナリのその以前から鋭かった観察眼はより一層鋭利さを増していた。


 なのでひづりはこの三日間自身が頭に巡らせた事のひとまずの着地点を、漠然とだが言葉にして彼女に伝えた。


「考えてみましたが、分かりませんでした。もしかしたら、直接《火庫》ちゃんから話してもらえない事には、私はずっと落ち着かないのかもしれません」


 そこに拭い難い違和感はあっても、しかし「何故そうなのか」と明確に断言出来るほど官舎ひづりは凍原坂家の事をまだよく知らなかった。


 凍原坂春路。彼にはかつて婚約者が居て、けれどその人が亡くなって、その後《火車》という《妖怪》につけまわされて……。そんな折にひづりの母・官舎万里子と出会い、彼女の《召喚魔術》によって《火車》の問題は解決するも、凍原坂は《フラウ》と《火庫》を押し付けられる形となった。


 十四年。多少度の過ぎた部分こそあれ、今の凍原坂と二匹の猫たちの関係は羨ましいくらいに仲の良い親子のそれだった。《契約者》であるが故に《悪魔》に掛けられた《認識阻害魔術》が効かず、《妖怪》や《悪魔》その本来の姿が常に瞳に映ってしまうひづりからしても、その感想は揺るがなかった。


 ただそれでも、やはり《フラウ》は人間ではないし、《火庫》も人間ではない。人間は凍原坂春路だけだった。


 自分がかつて天井花イナリや和鼓たぬこに抱いていたような《人と悪魔の垣根》だったり、今現在も抱く《期待》だったり、ラウラ・グラーシャとの《約束》だったり……。きっとそれらに類する感情が、彼ら彼女らにもあるはずなのだ。知らないだけで、話してもらえていないだけで、きっと。


「……人間で言えば、《他所の家の事》じゃ。今のお主の立場で言えば、《フラウロスの領地の話》でもある。《ボティス》や、その《契約者》であるお主が首を突っ込むべき事ではない。……しかし」


 低い声音できっぱりと体裁上の話をした後、天井花イナリはにわかにその声を少しばかり高めた。


「向こうから来るなら話は別じゃ。お主への朗報とするなら、昨日と今日、あやつを見ておって気づいた事がある」


 喜べ、という分かりやすい態度で彼女はひづりを見上げてきた。


「元からそうなのか、それとも《フラウロス》から譲り受けた故なのかは知りようがないが、とにかく、《火庫》は責任や立場というものを重んじるきらいがあるようじゃ。今のわしが、お主らの言うところの《白狐》である事とはまた別に、あやつは与えられた仕事に対する姿勢が実に真っ直ぐじゃ。故にひづり、お主がやる事はやはりこれまでとさして変わるまい。先輩従業員として示すべきを示しておれば、あれも自ずと口を滑らせるやもしれん。……励めよ、我がひづり」


 最後に、ふ、と大らかな笑みを浮かべつつ、彼女は優しい声で言った。


 《期待》という言葉を交わしたあの日と同じように胸の奥がじんわりと暖かい熱を持って、そしてそれは同時に、頭の中にあった重い霧をさっと晴らしてくれるようだった。引き締まった気持ちにひづりは思わず息を吸って背筋を伸ばした。


「はい!」


 自分でも驚くような良い返事が口から飛び出して、ひづりは天井花イナリと一緒にくすりと笑った。


 凍原坂たちの事は好きだ。人生で初めて母の事を尊敬しているという人間に出会い、けれどそれは思っていたより不愉快ではなかった。加えて、彼の連れている二匹の猫ちゃんたちはかなり個性的ながらとても可愛らしい。


 だがもしひづりが不安に想うようにこれから彼らの生活の先に避け難い困難や解決し難い問題が待っているとしても、従業員という関係になってどれだけ物理的な距離が近づこうとも、官舎ひづりは彼らの《内側》に入り込む事は出来ない。自身の領分を越えた事に、手も思考も出すべきではない。


 彼らと自分を取り巻く環境がどのように変わろうと、官舎ひづりは今まで通り胸を張って真っ直ぐ立っているべきなのだ。そうしていつか凍原坂や《火庫》の方から相談される様な事があれば、それにひづりは天井花イナリと一緒に応えれば良い。きっとそれだけなのだ。


「……しかし凍原坂のやつ、やけに遅いな。今日は大学の仕事が早く終わるとかなんとか言うておったから、てっきりひづりより先に来ると思うておったのじゃが」


 ふと天井花イナリは店内の時計を振り返って小首を傾げた。時刻は既に十四時四十分を過ぎようとしていた。ひづりも昨日、初勤務を終えた《火庫》たちを連れ帰る際に凍原坂が『明日は担当の講義が午前中のみですから、十四時前には迎えに行きます』と言っていたのを聞いていた。


「そういえばそうですね。あれ、凍原坂さんからお店に連絡来てないんですか?」


「来ておらん。ひづりの携帯にもか? ……ふむ」


 天井花イナリはそっと腕を組むと訝しげに商店街の通りの方へその顔を向けた。


 凍原坂春路は行くと言ったら必ず時間通りに来るし、もし時間に遅れそうなら逐一連絡を入れてくる、そういうしっかりした人間だとこれまでの付き合いで捉えていただけに、ひづりも頭上に疑問符を浮かべたままになった。


「……おお、《ボティスの契約者》。来ておったのだな、にゃはん」


 そうこうしていると従業員室の方から寝ぼけたような声が上がり、ひづりはどきりと胸が鳴った。


 格好は初めて会った時と同じかなり薄着の上下だったが、秋口に入ったとあってだろう、《フラウ》は生地の薄いパーカーを一枚羽織った格好で、《火庫》にその襟元などを直されながらフロアへ出て来た。


 わぁー……可愛いー……さっきまで寝てたんだろうな、まだ瞼が閉じっぱなしになってる……。《火庫》の勤務が決まるなり『わぁい! 招き猫だぁい!』とはしゃいでた姉ではないが、ひづりも「自分が働く店に猫が居る」という幸せをこうしてじっくりと噛み締めていた。


「こんにちは、《フラウ》さん。そのパーカーとっても素敵ですね」


 暖かな気持ちのままひづりが褒めると、《フラウ》はにわかに耳をぴんと立てて胸を張った。


「ふふん! そうであろう! とーげんざかと《火庫》が見繕って寄越したのだ! わっちは王だからな、たまにはこうしてそれらしい装いをしてやるのもまた王の務めというものだ」


 そう言って彼女はパーカーの裾を摘んで、ばさり、と大げさに広げて見せた。


 ……もしかして昔の王様が着るような裾の長いマントのつもりなのだろうか、と気づき、ひづりは思わず視線を逸らした。可愛すぎて直視出来なかった。


「それはマントではない。ひづりがパーカーと言うたであろうが」


 天井花イナリがやや苛立った様子でずばっと指摘した。


 しかし一方の《フラウ》は意にも介さない調子で腰に手をやった。


「知っておるわ! だが王に対する献上の品である事には変わらん! これを纏ったわっちを見た時の、とーげんざかと《火庫》の顔よ! 実に気分が良い! そうだ《ボティス》、とーげんざかが来たら今のをもう一度やってやろう!!」


「やらんでよいわ。あぁ、凍原坂め、さっさと連れ帰らせようと《火庫》に起こさせたというのに、まだあやつの方が遅いとは、なんというのだ」


 天井花イナリは大きな溜息を吐きながらその長い狐耳を倒れさせ毒づいた。


「あはは……。でも本当に遅いですね、凍原坂さん。いつもいらっしゃる時は時間に正確なのに……」


 ひづりは改めて腕時計を見ながら、またちらりと通りの方に視線を投げた。窓際席のカーテンが開けてあるので多少は人通りを窺う事が出来たが、しかしまだそこに見知った百八十センチ程の人影は映らなかった。


 すると《火庫》がその藍色の眼を珍しく瞬かせておもむろに首を傾げた。


「そう……でしょうか。確かにあまり遅くなる時などに限っては電話を入れて下さいますが……けれど普段からそこまで時間に正確にお帰りになることはほとんどありませんし……おやすみの日に一緒に出掛ける時などもよく三人でお昼まで寝過ごしたり……。……ええ、でも、お仕事から戻られる凍原坂さまを今か今かとお待ちするのも楽しいですし……おつかれでお休みになられている凍原坂さまのお顔を眺めるのもまたとても楽しいのですけれど……」


 彼女はそう打ち明けながら仄かに頬を赤らめた。


 飼い主の帰ってくる頃合になると玄関に座り込んで待つ犬や猫が居るという話は聞いた事があったし、そうした光景はきっと愛らしいものだろうと想像もしたが、けれど《火庫》が同じように玄関で座り込んで凍原坂を待つ姿を想像すると何故かひづりは急に背筋が冷えた。


 しかしそれはそれとして、今の《火庫》の証言は少々意外なものだった。てっきり凍原坂は時間に厳しい人なのだと思っていたが、どうやら別にいつでもそうであるという訳ではないらしい。


 余所行きの時は気を張ってしっかりしているが、実は家庭内では結構だらしない、という大人が世に少なくない事はひづりも知っていた。姉や、父方の叔母がまさにそういう人であったし。


 ひづりが凍原坂に対しそんな微笑ましい親近感を覚えたところで、にわかに《火庫》と《フラウ》の耳がぴくりと同時に動いてその視線が商店街の駅方向へと向けられた。どうやらようやく迎えに来た凍原坂の足音が彼女たちの聴覚範囲に入ったらしい。


 天井花イナリを見ると彼女は露骨に「やっとうるさいやつから開放される」という顔をしていた。これは凍原坂は到着するなり嫌味の一つでも言われそうだなとひづりは思った。


 しかし制服の襟やリボンが曲がっていないかとひづりが多少自身の身嗜みを気にしていると、ふと《火庫》と《フラウ》が立ち尽くしたまま黙り込んでいる事に気付いた。


「…………凍原坂さま……? ……と、これは…………」


 ひづりたちには聞こえないその凍原坂の足音がするのであろう方角を見つめたまま、《火庫》はぽつりと呟いた。


「どうしたんですか?」


 不思議に思ってひづりが《和菓子屋たぬきつね》の戸口の辺りで静止した彼女たちの視線を追うと、丁度木造の扉を叩く音が店内に響いた。


「──ごめんください」


 それからやや間を置いて声が掛けられた。それは耳に馴染みが無く、またずいぶんと若い女性のもので、凍原坂でもなければ、よくちよこと話をしようとやって来るご近所さんでもないように思われた。


 すり硝子越しにぼんやりと見えるその影は大きく、どうも来客は二人組みのようだった。


「定休日の札は出ていたはずですけど……誰でしょう」


 《火庫》ちゃんと《フラウ》ちゃんが二人同時に《父親》の足音を聴き間違えるなんてことがあるのだろうか、とは思ったが、けれどもし姉さんかサトオさんへの急ぎの用で来た客なら待たせるのも悪いし……と思い、ひづりはひとまず応対に向かった。


「はい、どちら様ですか?」


 返事をしながらひづりが鍵を外すと、突然戸は勢いよく開かれた。


 店の内と外を隔てていた物が出し抜けに無くなり、ひづりはその来客と至近距離で見つめ合う形になった。


「……え」


 戸口に立っていたのは、もうすっかりその顔が頭の中から消えかかっていた、あの夜不寝リコだった。あまりに突然の事であったのと相まって、ひづりはつい呆然としてしまった。


 何故、どうして彼女が店に……? しかしそんな疑問を抱く暇も無く、ひづりは続けざまに彼女のすぐ斜め後ろに落ち着かない様子で困った顔をして立つ凍原坂春路と、そんな彼の右手首をがっちりと捕まえた夜不寝リコの左手を見た。


 しかし一方の夜不寝リコの眼差しは戸を開いた直後からまっすぐひづりにだけ向けられていて、そこには朝方トイレで見たのと同じ種類のものが、朝方よりもずっと気迫の増した状態で浮かべられていた。


「すみま──」


「黙ってて」


 凍原坂が口を開いたか、と思うと、素早く夜不寝リコの圧の強い声がそれを遮った。


「……えと、これは、何です……? どういうこと──」


「このお店はさぁ。定休日でも従業員に働かせてるの?」


 ようやく喉が整って来たので凍原坂に訊ねようとしたところ、夜不寝リコは今度はひづりの声に被せて問いを投げて来た。彼女の視線は入り口の扉に掛けられている営業案内の札へこれ見よがしに向けられていた。


 かちん、と来てひづりもつい背筋を伸ばして息を吸い、朝と同じように夜不寝リコの顔を正面から睨み返した。一切この状況は分からないが、とにかく喧嘩を売られているという事だけは理解した。


「労働法に触れるようなことは何もしてないけど。それより夜不寝さんこそ、いきなり、定休日に、うちの店に一体何の用?」


 明確な喧嘩腰で応えたひづりに夜不寝リコは改めて視線を交えるとそこから一歩ばかり踏み込んでその化粧の濃い顔を近づけた。


 学校でもそうそう見ないような、心の底から不愉快だ、という憤怒の皺が今の彼女の眼元にはいくつも寄っていて、左目の下瞼などはぴくぴくと痙攣さえしていた。


「やはりリコではないか、どうしたのだ? とーげんざかも顔が青いぞ。なんだ?」


 すると、そんな一触即発な空気など気にもしないという《フラウ》の明るい声が、至近距離で睨み合うひづりと夜不寝リコの間に無理矢理割り込んできた。


 …………え?


「《フラウ》さん、夜不寝さんと知り合い、なの……?」


 驚いたと言ったらなく、ひづりはついまた詰まり気味の問いを転がしてしまった。


 《フラウ》は飼い猫がよくやるように凍原坂のお腹の辺りへ其の小さな頭を擦り付けながら、ぱっと太陽の様な笑顔で返した。


「そうだぞ! リコはとーげんざかの妹でな、わっちの家族だ!」


 ひづりは今度こそ声を失ってしまって、夜不寝リコと凍原坂の顔を交互に見比べてしまった。


 似ていない。いや、冷静に考えてそもそも兄妹という歳の差ではないはずだった。確か凍原坂は千登勢と同い年の四十三歳だったはずだから、ひづりと同級生の夜不寝リコが妹というのはやや無理がある。


「フラウはちょっと黙ってて」


 夜不寝リコは凍原坂にくっついた《フラウ》をそのまま自身の体の陰に隠すようにしながら、今度は店内の《火庫》を見て、それからもう一度ひづりの顔を睨んで、言った。


「……火庫とフラウ、今日でお仕事辞めるから。……火庫もほら、こっちに来て」


 そして彼女はまた《火庫》に視線をやって手招きをした。


「は……?」


 何を言っているんだ、こいつは。


「あの、凍原坂さま、どうなさったのですか……? リコさんも、いらっしゃって急に、そんな……」


 控えめに草履を鳴らしながらひづりの隣へ来ると《火庫》は首を傾げて不安そうな顔をした。


 凍原坂はそこでようやく決心がついたのか、自身の右腕を捕まえたままでいる傍らの女子高生に今度こそしっかりとした声で抗議した。


「ねぇ、リコちゃん、やっぱりこんなのは駄目だよ。ちゃんとひづりさん達に話をするべきだよ」


 すると夜不寝リコはにわかに、きっ、と怖い顔をして、隣の背の高い中年男性を見上げた。


「話し合いなんて必要ないって言ったでしょ!! 恩がどうこうって言うけど、十何年も前のこと今更気にしてどうなるっていうの!! そのために火庫やフラウをここで働かせるなんて、それこそどうかしてる!! 春兄さん、絶対何か騙されてる!!」


 商店街の端の方とは言え、夜不寝リコはそんな人聞きの悪いセリフを憚る気の無い声量で、それも最後はひづりの方を見ながら喚き散らした。


「──はい、どぉ~んっ!」


 その時だった。出し抜けに凍原坂がつんのめって、その彼の体に押された夜不寝リコはたたらを踏み、「えっ」という短い声を商店街の通りに残したまま《和菓子屋たぬきつね》の店内へと足を踏み入れた。


 直後にぴしゃんと扉は閉められ、鍵の掛かる音がやけに大きく鳴った。


 一瞬何事かと思ったが、しかし付き合いの長いひづりにはすぐ大体の見当がついてしまった。


「うふふふふ。店主、参上っ」


 そう言って、呆気にとられたままの夜不寝リコと凍原坂の背後から吉備ちよこは登場した。彼女の片手には四軒向こうの煎餅屋のロゴが入ったレジ袋が提げられており、案の定店の掃除をサボって抜け出してご近所さんの所へ遊びに行っていたらしい。どうも出て来ないなと思ったのだ。


 しかし今回ばかりは良いタイミングだった。


「はっ、な、何ですかあなた……」


 いきなり後ろから突き飛ばして来た犯人がその桃色の着物を身につけた糸目の女であると見定めると、夜不寝リコは警戒心を露骨に溢れさせながら引き気味に訊ねた。


「こんにちはっ、凍原坂さん。お伺いしていた通り、今日は大学のお仕事早く終えられたんですね。あら、顔色があまり優れないようですけれど、急いで来られたんですか? どうぞどうぞ畳部屋へ、クーラーもありますから~」


「あ、え? ちよこさん、え、え?」


 まだ魂が抜けたようになっている凍原坂にちよこはいつも通りにこにこと挨拶をするとそのまま有無を言わせぬ勢いで彼の手を引いて従業員室の方へと進んで行った。


「ちょっ、待ちなさいよ! 無視するな──」


 慌てて二人の後を追おうとした夜不寝リコだったが、しかし天井花イナリの草履に右足の太ももを押す様に蹴られると俄に腰が砕けた様になってがっくりその場に座り込んでしまった。


 今度こそ学生鞄を取り落としてぺたんと両手を床につけた夜不寝リコは一体何が起こったのか分からないという顔をしていたが、しかし天井花イナリは気にもしない様子で彼女の胸倉を掴み上げた。


「童よ。話は奥で聞こう。此度の詳細も、お主がし忘れた挨拶も、ゆっくりとして行けばよい」


 彼女は唇を薄く三日月に細めるとその白髪の一房をいつかもした様にするりと伸ばし、もがく夜不寝リコの口や手足を一度に縛り上げ、店内をずるずると引きずってちよこと凍原坂の後に続いた。


 ……まぁ、さすがに仕方ないよなこれは……と思いながらひづりも《火庫》と《フラウ》を連れて奥の畳部屋へと向かった。










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