『間の良い渡瀬』 3/8
「いや、本当に美味しい。少し前に千登勢が買って帰ったものを頂いていたから美味しいことは分かっていたが、やはり作りたては格別だ」
ひづりが運んで来た和菓子に如何にも有り難そうに手をつけた市郎は、彼も彼でやはりこれまで付き合いの無かった孫娘との会話に緊張しているのか、少々過度に明るい調子で礼賛した。
「嬉しいです。私も、和鼓さんの和菓子はとっても美味しいと思います。和鼓さん、今日の話を聞いてとても張り切ってくれていたんですよ」
そんな市郎の様子にひづりもつい、いつかの天井花イナリのようにニコニコしてしまった。
店のお昼休憩とひづりの退勤まであと二十五分ほど。日曜日とあって午後から他の用事があるのだろう少し前から店を後にする客が多く、店内はもう三席ほどしか埋まっていなかった。市郎に出来上がった和菓子を持っていこうとしたひづりは天井花イナリに裾を引かれ『片付けはわしらがやっておくゆえ、お主はあれの相手をしておれ』と、こうして市郎の席に宛がわれていた。
「……しかし、老舗の和菓子屋と聞いていたけど……なんとも新しい趣なんだねぇ……?」
すると切り分けた練り切りを口に運んでいた手をふと止め、市郎はそろそろ話題にしたものだろうかという控えめな視線でおずおずと店内を見やった。派手なポスターと、やけに明るい照明と、明らかに配置し過ぎな造花のプランターで彩られた現在の《和菓子屋たぬきつね》の店内をだ。表には天井花イナリと《火庫》と夜不寝リコの顔写真まで飾ってある。市郎は当然あれらも見た事だろう。来店時には、店を間違えただろうか、と思ったかもしれない。
「割と最近まで、ちゃんと老舗の和菓子屋って感じだったんですけどね……。この間、姉さんが何を思ったのかこんな有様にしてしまって……」
改めて恥ずかしさを覚え、ひづりは肩を竦めて首を引っ込めた。
「けれどお客さんは多いようだ。経営が上手くいっているのは、良いことだね。……ところでひづりちゃんは、ああした可愛らしい給仕ドレスは着ないのかい?」
市郎は一度天井花イナリや《火庫》の方を見てからひづりに訊ねた。それは面白がっている様子ではなくて、何やら心配そうな声音だった。
そこでひづりは、ひょっとして自分が職場で仲間はずれにされているのではと気がかりに思ったのだろうか、と気づいた。
ひづりは否定した。
「いえ、天井花さんや《火庫》ちゃんのメイド服は姉さんの趣味で……私もどうやら最初ああいう格好で働かされる可能性があったそうなんですが、姉さん的には、私は学生服にエプロンが良いとか、なんとか……なんだかよく分かりません。でもとりあえず仲間はずれにされてるとか、お店の中で困ってる事とかは無いですよ。姉さんはともかく、皆さんとても良くしてくれますし。心の底から私はメイド服着たくありませんし」
最初から決めていた事だが、ひづりは今回姉が企んでいるらしい何かについて、市郎には一切秘密にしておくつもりだった。孫娘二人が対立しているなんて話、祖父の立場なら聞きたくないだろうから。
すると市郎は少し目を丸くして、それから安心したように笑った。
「そうか、よかった。ちよこちゃんとも仲が良いんだね。あの山の広場では、お金に眼が眩んだ様子になんともどうしたものかと思えたが、そうか、二人はちゃんと仲が良かったんだね。本当に良かった」
「出来ればもうちょっとしっかりしてほしいとは思いますけどね。あは……」
ひづりは冗談を返しながら内心「ああほらもうお爺ちゃんやっぱり心配してたじゃん!」と不在の姉に毒づいた。
「──凍原坂さま! もういらっしゃったのですか!?」
すると戸口の方でやや大きめの《火庫》の声が上がって、ひづりも市郎も一旦口を閉じてそちらを見た。
凍原坂と夜不寝リコが、《火庫》の居る会計台の前に立って話をしていた。
ひづりは、おや、と思って壁の時計を見た。今は十三時三十八分である。確かに昨日凍原坂は電話で『明日、改めて火庫とリコちゃんの働きぶりを見たいので、日中お店へお邪魔致します』とひづりに連絡して来ていたのだが、しかしその来店予定時刻は十五時くらい……つまり店のお昼休憩が終わった後のはずだった。その頃には仕事をあがって市郎と共に墓掃除へ出向いているだろうから、たぶん今日は凍原坂とはすれ違いになるのだろうな、とひづりは思っていたし、その事は凍原坂にも電話で伝えていたはずだった。何か予定が変わったのだろうか?
「ちょっと用事が出来てしまってね、早めに家を出たんだ。リコちゃんとはさっき駅前でばったり会ったんだよ」
「火庫……恥ずかしいからあんまり大きい声出さないで……」
「ああ、ごめんなさい。でも……凍原坂さま、わっちは困ってしまいますよ。凍原坂さまがいらっしゃる時刻までまだ時間があると思って、仕事にばかり意識がいって、身なりに少しも気が回っていなかったのです。髪や服が乱れているのを見られるのは、わっちは恥ずかしいのですよ」
「ごめんよ《火庫》。でも大丈夫だよ。髪も服も、いつも通りとっても綺麗だよ」
凍原坂は脹れた娘をなだめすかしながら顔を上げて店内を見渡し、やがてひづりを見つけると会釈してこちらへ歩いて来た。夜不寝リコも彼に続いて面倒くさそうな顔でついてきた。
「こんにちは、ひづりさん。今日は…………あれ、こちらの方は……?」
彼はひづりの傍のテーブルに掛けている市郎に気づいて数回瞬きをした。
「こんにちは、凍原坂さん。紹介しますね。こちら私の母方の祖父の花札市郎さんです。市郎おじいちゃん、こちら例の、母さんのお知り合いの凍原坂さんで、こっちが凍原坂さんの義理の妹で私のクラスメイトの夜不寝さんです」
ひづりは間に立ってそれぞれを紹介した。
「ああ、やはりそうなのですね。雰囲気が万里子さんやひづりさんに似ていらっしゃったので、もしかしたらと。初めまして、凍原坂と申します」
「初めまして、花札です。あなたが凍原坂さん。伺っております。万里子がとんだ迷惑をお掛けしたと。申し訳ありません」
市郎は腰を上げて挨拶するなり深く頭を下げた。
「い、いえそんな! 万里子さんには私たちとても良くして頂きましたし、今はご令孫のちよこさんとひづりさんにも、一家揃ってお世話になり続けで……!」
凍原坂も慌てて頭を下げた。二人が会ったらきっとこういう感じになるのだろうな、とひづりも以前から想像はしていた。やはり上手く自分が取り持ってあげなくてはいけない。今は居ないが、姉さんにこの二人の事をあまり任せたくはない。
「こんにちは、どうも。準備あるんで、ウチは着替えて来ますね」
すると大人二人の会話を面倒に思ったのか、夜不寝リコは無愛想にそれだけ言って従業員室の方へてくてく歩いて行ってしまった。残された三人の空気が俄にぎこちなくなり、ひづりはまた「あの女……」とつい背中を睨んでしまった。
「……ああそれとひづりさん、すみません、今日は三時頃にとお電話させて頂いたのに、こんな時間に来てしまって……」
凍原坂は今度はひづりの方にも頭を下げた。
ひづりはハッとして彼に訊ねた。
「あ、いえ。でも、どうされたんですか? さっき用事が出来たと言ってましたけど、何かあったんですか?」
すると凍原坂は片手に提げていた紙袋を胸の前まで持ち上げて、また申し訳なさそうな顔をした。
「すみません、実はその……さっき、昼前に渡瀬がこれを持って来まして……。最近出来た吉祥寺の人気店の物だとかで、先日ひづりさんにご迷惑をお掛けしてしまったからそのお詫び……らしいんですが……ただこれが足の早い物のようでして……本当にあいつは考え無しで……。なのですみません、良かったらこれ、お昼にでも皆さんで召し上がってください」
彼からその紙袋を受け取ると、俄にふわりと揚げ物の良い香りがひづりの鼻を触った。紙袋には『メンチカツ専門店』との文字があり、中には狐色の丸い物体が何個も薄く透けた包み紙にくるまれた状態でぎゅうぎゅうに押し込んであった。
「あはは……渡瀬さんらしいですね。ありがとうございます。頂きます」
「渡瀬にはしっかり言っておきますので……。では私、一旦出て来ますね。十五時頃にまた戻って来ます」
「あれ、上がって行かれませんか? これから私たちもお昼ですし、まだなら一緒に食べていってくださいよ」
凍原坂が踵を返そうとしたのでひづりは咄嗟に引き止めた。良くも悪くも今日は姉さんが店に居ないし、《火庫》ちゃんや《フラウ》ちゃんだって凍原坂さんと一緒にお昼を食べたいはずだ。それにこのお土産だって、たぶん渡瀬さんは凍原坂さんにも食べて欲しいと思って押し付けて来たはずなのだ。彼の凍原坂に対する感情は、金曜日の時点でもう充分過ぎるほど理解させられていた。
「いえ、お邪魔になるでしょうから……」
凍原坂はちらと市郎の方を見た。彼はどうやらひづりと市郎の事を気遣っている様子だった。
すると市郎がひづりに加勢した。
「凍原坂さん。もしご迷惑でなければ、私からもお願いします。万里子の事、孫たちの事……お聞きしたいのですが」
店を出て行くつもりの体勢でいた凍原坂だったが、しかしひづりと市郎の押しに負けてくれたようで、肩をすくめて戻って来た。
「ええと、はい、私などでよければ……」
「良かった。どうぞ、どうぞお掛けになって下さい」
市郎は向かいの席に凍原坂を促して、自身も椅子へ腰を下ろした。
ちらりと横目に見ると、市郎はひづりを見上げて微笑んだ。……ありがとう、おじいちゃん。
「じゃあ、私は夜不寝さんに引き継ぎとかあるので、ちょっと裏へ行きます。凍原坂さん、市郎おじいちゃん、ゆっくりお話してて下さいね。注文もまだ大丈夫ですから、何かあったら呼んでください」
ひづりは受け取った紙袋を抱えたまま一礼し、またちょっと浮かれた気持ちのまま従業員室へ戻った。
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