『散策タイム』




「……やっぱり、綺麗な景色です」


 再び東の窓枠の前に立って和鼓たぬこは嬉しそうな声を零した。気に入ってくれたらしい、と思えば、やはりひづりも嬉しかった。


 けれど、どうしたのだろう。二人きりで、とは。そういえばこうして二人きりで話すのは、新宿で初めてデートした時以来ではないか。


 何か話したい事があるのだろう。そう察し、ひづりは彼女の隣で言葉を待った。


 思っていた通り、彼女はすぐに肩をすくめて語り始めた。


「……イナリちゃんが今日、いっぱいひづりさんとお話したかったのは、きっと、本当に機嫌がよかったからなんだと思います」


 振り返って言った彼女の顔に、ひづりはハッとした。


 見られていたのだ、と気づいた。先ほど自分の顔が少しばかり暗くなってしまっていたであろう、それを。


 人と《悪魔》の間にあるその《垣根》の存在を前に気持ちが揺らいでいた、そんな顔を。


「……このお城……きっと作りは全然違うと思うんです。でも、遠目に見たとき、思ったんです。『イナリちゃんのお城にちょっと似てるな』って。私は、王宮に入ったことなんて、無かったんですけど……。でも、イナリちゃんのお城は高い高い山の上にあって、その足元に、私たちの住んでいる街があって……。きっと、懐かしくなったんだと思います。嬉しかったんだと思います。ここに連れて来てくれたのが、ひづりさんだから」


 そう言って、彼女はその猫よりもずっと色素の薄い緑色の瞳を、真っ直ぐにひづりへと向けた。思わず、ごくり、とひづりの喉が嚥下した。


「……ひづりさん。私たちをここへ連れて来てくれて、本当にありがとうございます。……私たちに、《休暇》をくれて、ありがとうございます。あんな嬉しそうな顔でたくさん喋るイナリちゃん、本当に久しぶりに見ました……温泉もとても気持ち良さそうにして……そのあと涼み処で星空を見た時も……あんなに嬉しそうに……」


 思い出してか、和鼓たぬこはにわかに目と鼻を赤くし始めてしまった。ひづりは慌てて彼女の両手を正面から、きゅっ、と握って声を掛けた。


「な、泣かないでください和鼓さん! まだ朝ですよ! まだまだこれから、楽しいところ、いっぱい回るんですから! 天井花さんと一緒に! だから泣いちゃだめですよ!」


 和鼓たぬこは確かに怖がりだった。以前新宿に出かけた時も、そして昨日新幹線に乗った時も、終始ずっとびくびくと怯えていた。けれど、それでも強がって泣くまいとしていた、逃げまいとしていたのを、ひづりは分かっていた。


 この一ヶ月、彼女をずっと見てきてひづりは気づいていた。


 彼女は《強い》のだ。


 怖がりだけれど、天井花イナリの隣から離れたがらないけれど、すぐ天井花イナリの腕を掴んでしまうけど、決してその後ろに隠れることだけはしない。


 自分が弱い《悪魔》だと自覚していて尚、天井花イナリに守られるだけの存在でいてはいけないと、その幼い心ながらに確固とした決意を持っている。互いに力を合わせて、《和菓子屋たぬきつね》で働く天井花イナリと和鼓たぬこという従業員として暮らせる今を、懸命に守ろうとしている。


 だから彼女はとても立派なのだ。天井花イナリがいつも褒めちぎり、時に彼女を理由に激怒する理由が、今のひづりにはもう充分に分かっていた。


 だが、こういう時にはすぐ泣いてしまうのだ。天井花イナリが喜んでいる時、ひづりが優しくしてあげた時、彼女はすぐに泣いてしまう。


 嬉し涙だけは、どうにも我慢できないようなのだ。


「あ、あ、ごめんなさい、また……」


「あはは……。大丈夫、抑えて、抑えて、大丈夫ですからね~」


 ハンカチを渡し、少し背伸びをして、彼女の頭を撫でる。耳があるので最初の頃は少々撫でづらかったが、慣れてしまうとそうでもなく、むしろ撫でるついでにその狸の丸い耳をちょっと揉んでしまったりなんかしてしまうひづりがすでにそこに出来上がっていた。ぴこんぴこん、と跳ねる耳が、ふわんふわんの髪の毛が、柔らかくて心地良い。


 最初に《悪魔》に関わったのは母だ。そして姉、その繋がりで、自分。


 始まりは流されてのこととは言え、ひづりは彼女達を受け入れた。姉から守らねばと己を奮い立たせて。


 だが、もしかしたら、いずれ彼女らと、《悪魔》と関わった事を、《何者か》に責め立てられる日が来るかもしれない。《魔術》に関してまるで造詣の浅いひづりは、その《何者か》を知らない。居るのかどうかすら知らない。ちよこや、母がイギリスで親しくしていたという、《魔術》に関係する人たちは知っているのかもしれないが。


 それでもひづりは天井花イナリに、和鼓たぬこに、《フラウ》に、《火庫》に、《ヒガンバナ》に出会った事を《後悔》などするつもりはなかった。これから何が起こるにせよ、何かを失うにせよだ。


 特にこの和鼓たぬこと、今は階下に居るであろう天井花イナリに関しては、もう家族同然の感情が芽生えていた。手放したくない、これからもずっと彼女達の《今》を守りたい、そう強く感じている。


 ひづりは改めて決意した。先ほど胸に抱いた《人間と悪魔の垣根》をしっかりと心に留めながらも、それでも自分は《彼女ら》と共に働き、共に食べ、共に寝たこの一ヶ月を、何があっても決して否定したりはしない、と。誰に何と言われようともだ。


 官舎ひづりは何を間違っても《ソロモン王》ではない。日本で暮らす、ただの平凡な、まだまだ未熟な人間の一人だ。《悪魔》と《天使》を従えたという《指輪》なんて物も、見たことさえ無い。うぬぼれてなどいない。それは自覚している。


 けれどそれでも、今、《悪魔かのじょたち》と共に居るのは自分なのだ。官舎ひづりはこうして言葉を交わしている。関わっている。


 今はその奇跡を愛していたい。自分も、和鼓さんに負けないくらいの強い気持ちを持っていたい。


 もし目指すものが一つあるとすれば、自分には、官舎ひづりには、きっとそれを措いて他に無いと、そう思えた。










 岩国城を降りた一行は、しかしロープウェー麓にあるシロヘビの館や資料館などをまったく無視して一直線に錦帯橋へ戻り錦川を越えてバスに乗り込むと、昨日の道順を逆走する形で真っ直ぐ岩国駅へと向かった。これも事前に決まっていた、吉備夫婦の提案によるものであった。


 ちよこいわく、ではあるが、理由以下の通りだった。


 三泊四日の旅行では、二日目で張り切って名所を回りきってしまうと、三日目にお土産を買うのも歩き回るのも面倒になってしまう。まして土産選びの時間を四日目にまわしてしまうと、駅前で土産物を探す時間を確保するために朝から慌しく起床して新幹線の時間を気にして焦らなくてはいけなくなる。そんなものは旅行ではない。四日目だろうとのんびり過ごして、帰るべきだ、というのだ。


 だから、三泊四日の旅行の二日目というのは、観光半分、お土産漁り半分にするべきなのだ、という。そうすれば三日目のモチベーションが下がる事も、四日目の朝を慌てる必要もなくなる。それに何より……と、ここからちよことサトオはにわかに声を高めて言った。


『二日目の後半に、知り合いに渡す用の土産を買います。そしてその際にもう一品、自分達がその旅行中に宿で食べるつまみを買っておけば、その日の晩と、そして最後の晩に、プチ宴会が出来る!』


 と。


 彼女達、吉備夫婦はおそらく一行の中で一番旅行慣れしていた。……その資金が《どこから出ていたのか》にせよ、たしかにその提案は魅力的だ、とひづりも、他の面々も賛同した。


 ひづりは当然お酒は飲めないが、二日目の晩――つまり今晩と、三日目の晩に、皆で持ち寄った郷土土産を開けて机を囲み、談笑する。きっとそれは楽しいに違いないだろうと思えた。


 そういう訳で、午前を岩国城観光に費やした一行は吉備夫婦の提案通り、午後を岩国駅周辺での土産物散策に当てる事となったのであった。


 散策、というだけあってメンバーは分けられた。


 吉備サトオ、吉備ちよこの第一班。


 官舎ひづり、天井花イナリ、和鼓たぬこ、花札千登勢の第二班。


 凍原坂春路、《フラウ》、《火庫》の第三班。


 この三つに分けられた面々がその岩国駅周辺に集中しているらしい土産物屋をそれぞれ北と西と南に散って合計二、三時間ほど、昼食も交えて見て周り、そしてまた駅前で集合する、という手筈だった。修学旅行の班行動のようでひづりは実はちょっとわくわくしていた。


 時刻は十二時前だった。ひづり達の第二班はひとまず昼食にする事にした。なるべく名産の物が食べたいが、代表名物であるという岩国寿司は昨晩すでに宿で頂いたので、何か別のものを探す。


 ひづりたち第二班は岩国駅の南を担当していた。駅で手に取ったパンフレットを眺めながら少し歩いたところで、炭火焼鳥を頂きながら地酒も飲める居酒屋を見つけた。


 地酒と聞いて和鼓たぬこの眼がにわかにキラキラとしたが、しかし残念ながら稲荷寿司は無いようだった。


 しかし、


「ここでよい。朝から歩き疲れておろう。お主らで先に昼にせよ。わしはその後でよい」


 と言って天井花イナリは和鼓たぬこの手を引いて颯爽と店の中に入っていってしまった。……優しいなぁ。ひづりは千登勢とちらりと眼を合わせて微笑み、あとに続いた。


 炭火で焼いたねぎまや、山口産の長州どりのレバーなどがメインメニューの居酒屋だったが、海沿いの街ゆえに瀬戸内海産の刺身もあるらしく、好物だという千登勢はとても顔色を明るくしていた。……刺身を愛好していればこの体格に成長するのだろうか、とひづりも一皿注文した。和鼓たぬこも注がれた日本酒を舐めては蕩けたような顔になっており、それを横目に眺める天井花イナリも実に満足そうな顔をしていた。


 居酒屋を出ると、幸いやはり寿司が名産の地とあって、稲荷寿司の持ち帰りが出来る店もすぐに見つかった。近くのベンチに掛けると、しかし天井花イナリは普段と違いそれらをぺろりと飲むように食べてしまった。時間を気にしてくれたのだろう、とひづりは捉えた。


 更に南下すると商店街があった。人が多いのは日曜日だけが理由ではないだろう、駅からまだいくらも離れていない所なので、きっと観光客向けの商店街なのだ。つまりお土産が買えそうな店が集中しているはず。


 人垣というほど混雑はしていなかったが、それでもひづりははぐれないよう、天井花イナリたちと同じように千登勢と手を繋ぎ、雑多な商店街へと足を踏み入れた。




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