『緑色の上着』




「……しかしひづり。気づいてしもうたとは言え、あまりじろじろ見てやるでないぞ。本人たちはまだ互いに気づいておらんようじゃが、知ればそれなりに気にしようからの」


 商店街の一角。漬物屋の店頭で名産品であるという蓮根の漬物など眺めていると、お隣の酒屋をじっと見つめる和鼓たぬこからそっと離れた天井花イナリがひづりのそばへ来て静かに耳打ちするように言った。


「……何がですか?」


 首を傾げると、天井花イナリは顔を上げてひづりの眼を見た。


「たぬこと千登勢の体の話じゃ」


 はっきりとそう言われて、ひづりは思わずドキリとした。


 真っ直ぐにこちらへ向けられたその真っ赤な瞳には、ひづりが昨日と今日でほぼ九十パーセント確信していた事に、残りの十パーセントを足すような色が込められていた。


 ひづりは肩をすくめて少々屈み、確認するように小声で訊ねた。


「……やっぱり、アレって、そうなんですか……?」


 店の奥で品物を眺めている千登勢に、ひづりの視線がちらりと向かう。


「ああ。間違いなかろう。本人が死んでおるから確認は取れぬがな。確実ではあろうな」


 そして天井花イナリとひづりは同時にちらり、と今度は和鼓たぬこに視線を送った。彼女はまだぼーっと地酒屋の方を見つめて立っていた。


 ふわんふわんとした、腰まである長髪。百七十センチに届こうかという長身。和服の上からでも分かるグラマラスなその体格――。


 花札千登勢とそっくりなその身体的特徴。それゆえ、昨晩の入浴中、彼女達の破壊的なまでの女体美に眼が眩みそうになりながらも、ひづりの頭の中では一つの仮説が浮かんでいたのだ。


「お主の察しの通りじゃ。おそらくたぬこは」


「千登勢さんを《モデル》にして、あの姿になった……ですか?」


 二年前。ひづりの母、官舎万里子は天井花イナリを召喚した。まさかそこに一人の《サキュバス》がおまけでついてくるなんて思いもせずに。


 以前、姉のちよこからいかがわしい口調で説明された後、ひづりはインターネットなどで《サキュバス》について改めて調べてみて、そこである項目を眼に入れていた。




『《サキュバス》は召喚された時、あるいは魂を奪おうと人の前に姿を現す時、必ずその人間が最も性愛衝動を抱く者の姿に化けるのである』




 というものだ。


 《ソロモン王の七二柱の悪魔》の一柱である天井花イナリを召喚しようと心構えをしていた母は、突然一緒に現れた《サキュバス》に動揺しただろう。完全にそちらへの意識の準備は出来ていなかったはずだ。


 だから《サキュバス》である和鼓たぬこは、官舎万里子が《最も性愛衝動を抱く者の姿》に嘘偽りなく変化したはずなのだ。


 そしてその《モデル》があろうことか自身の妹、花札千登勢だった。母はさぞ動揺したことだろう。取り乱しただろう。


 しかし、そうなるとそこには大きな疑問が生まれる。


「……けど、母さん、たぶんだけど、ヘテロでしたよ? 父さんにべったりで、私が見て来た限り、別に女漁りなんてしてなかったし……」


 そうなのだ。そこがひっかかったから、ひづりは確信が持てなかったのだ。


 《召喚した者が最も性愛衝動を抱く者の姿に化けた》のなら、それは官舎万里子が妹に対し、そのような視線を向けていた、ということになる。だが万里子の性愛感情は全て幸辰に、それはもう子供の頃から嫌と言うほど見せ付けられてきた故に、ひづりは疑う事が出来なかった。


「いや、今回に至っては別のケースであろうな、それは」


 するとさらりと天井花イナリは答えた。


「別のケース、ですか?」


 訊ねると、天井花イナリはひづりの胸をじっと見つめ、それからまた顔を上げて眼を細めた。


「万里子のやつは、胸が無かったじゃろう。ほぼ平面であったろう」


 それは、人間の女に於いてその部分は大小どちらであっても悩ましく、一生涯付きまとう繊細な問題であることを知っている、という、悪意と意地悪が混合した声音であった。


「間違いなく、万里子はヘテロセクシュアルじゃったろう。そしてあやつの理想的な異性とは夫の幸辰そのものであった……つまり、すでに《異性》に関して満ち足りておったのじゃ、万里子は。じゃから本来なら男の姿に化けるはずだったたぬこは、女の姿となった。では何故それが妹の千登勢なのか? それは――」


「劣等感や、憧れ……」


 ぽつり、と呟いたひづりに、然り、と天井花イナリは頷いた。


 なるほど、と思った。それならひづりも納得がいくようだった。


 母は千登勢を、妹を溺愛していた。けれどやはり同じ女同士なのだ。ほぼ寸胴だった万里子と、同じ血を分けた姉妹とは思えないグラマラスな千登勢。それが他人であらば嫉妬したかもしれないが、しかし千登勢は愛する妹だった。万里子にとってはきっと、千登勢のその魅力的な肉体は《誇り》であったのだ。


 成長期に肉体的、また精神的にひどいストレスを長期的に受け続けると、女性の体の成長というのは著しく阻害されてしまい、特にそういった場合胸の成長の抑制は顕著である、ということを、ひづりは以前本で読んだことがあった。


 母は十七歳までひどい生活環境にあった。ストレスを感じなかった日などなかっただろう。けれど一方の千登勢はそれなりに普通の少女として育った。多少、元々の遺伝の振り分けはあったかもしれないが、それでも結果としてここまでの肉体の差が姉妹で出るに至った。


 万里子は、自分より良い境遇で育った妹を、それでも憎んだり嫉妬をしなかったのだろう。嫌わなかった。それが、今の千登勢のあの笑顔なのだ。あの葬儀の日の涙なのだ。


 母は憧れていたのだろう。真っ当に生きてくれた妹を愛して、姉妹の片割れだけでも実父がしっかりと育ててくれた事を、誇りに思っていたのだろう。


 だから、その時すでに異性の理想の配偶者を得ていた官舎万里子の中での《理想の性愛対象》は、他でもない、自慢の妹の姿、となってしまったのだ。


「……今はまだ教えない方がきっといいですね……。ええ、私もそう思います」


 聞いたら千登勢はきっとまたわんわん泣いてしまいそうだから、教えるのは今じゃなくて良い。けれど、いつか千登勢がひどく落ち込んだ時に、そう、その事実が彼女の心の支えになる効果がありそうなタイミングで話してあげるべきだろう、とひづりは思った。


「たぬこもじゃ。知れば戸惑いを持つじゃろう。あやつはお主に懐いておる。そしてお主が千登勢と仲が良い事も知っておるゆえ、困惑するじゃろう。じゃから千登勢に秘密にするかどうかはともかく、たぬこには可能な限り、黙っておいてやってはくれぬか」


「ええ、それは、はい」


 ひづりの返事に天井花イナリは「すまぬな」と返したが、けれどにわかに眼を細めると意地悪そうな顔をした。


「しかし、ふふ。《次期契約者》として賢いことは頼もしいが、観察眼が良すぎるというのも、多少考えものよの?」


 褒めているようでそうでない、そんな少しばかり皮肉の入った言葉を続けた。


 ははは。ひづりは視線を背けつつ半笑いで指を組んだ。


「……ですけど、私が千登勢さんと和鼓さんの体を見て気づいていたの、本当によく気づきましたね。……やっぱり私、嘘、下手ですか?」


 すると天井花イナリは事も無げに返した。


「嘘が下手かどうかはともかく、これはしごく当然であろう、ひづり。お主とわしは《次期契約》の関係にあるのじゃぞ。お主の視線や仕草、考えておるであろうことを、わしが気にせぬ訳があるか。それにお主は《人間界》に於いて、今一番のわしのお気に入りよ。お主のことを考えぬ日など無い」


 淡々としたいつもの調子で、彼女はそんな口説き文句をさらりと並べた。


「……惚れちゃいますよ?」


 精一杯、冗談めかして返す。いや、今でも割ともう本気で充分尊敬しているんですけども。


 すると彼女は機嫌が良さそうに笑った後、またひづりに視線を戻して続けた。


「何を言う。《次期契約者》も惚れさせず何が《悪魔の王》か。先も言うたように、お主はわしのお気に入りじゃ」


 にわかに天井花イナリはひづりの腕を掴んでそのままぐいと引っ張ると、互いの顔と顔をもう触れるほどにまで近づけ、囁いた。


「――お主が願うなら、その身も、心も、過去も未来も、全てわしに委ねて構わぬのだぞ、ひづりよ……」


 至近距離で放たれた、甘く、低く、脳を揺らすような美しい声音。これが噂に聞く《悪魔の囁き》というやつなのだろうか。すごい効果だ、とひづりは真っ白になった頭で思った。胸がめちゃくちゃドキドキ言ってる。めっちゃドキドキ言ってる。


 幻想のように美しい白髪から覗く日本人離れしたその整った顔立ちはまるで汚れ一つ無い新品のシーツのように白く肌理細やかで、またそこへはめ込まれた二つのルビーの輝きはいま真っ直ぐにただひづりの瞳へだけ向けられており、長い睫毛を並べたその瞼も、可愛らしいその小さな口元も、やはり今はただただひづりのためだけに仄かな微笑みを浮かべているのだった。


 誘惑されている。はっきりとそれが分かった。確かにハナや父方の叔母がやたらにセックスアピールを雑にぶつけてくることは今までにもあったが、あれらはただの冗談だ。しかし今、天井花イナリがしていることは本当の本気の、人を手篭めにするための仕草と囁きだった。尊敬している相手にそんなことをされて心臓が高鳴らないはずがない。


 ……しかし。


「……すみません。和鼓さんに嫉妬されちゃうと私、悲しいので。今回は辞退させて頂きたく思います」


 天井花イナリがどれくらい本気なのかは知らない。だがひづりは正直に、本当の気持ちで返した。


 すると妖艶な微笑みを浮かべていた天井花イナリの顔はにわかに上機嫌な明るい笑顔となり、快活な笑い声を上げた。


「ふはははは。……ああ、すまぬ。享楽に試した事を許せ、ひづり。侘びとしてお主の願いを一つ、《契約》とは関係なく何か叶えよう。好きに言うてみよ」


 あれ? また何かすごいこと言われた? お、王様ってわからない……。


「……で、でしたら、えーと……いずれ! はい、いずれ、何かあった時に。その時にお願いします。とっておきます」


 答えると、天井花イナリはまたニマリとその眼を細めて見せた。


「咄嗟に欲が出ぬか。ふふ、そういうところもまたお主の愛いところよ……。ああ、構わぬぞ。これはお主の賢明な振る舞いと心構えが得たものじゃ。今やこの様な身なれど、数えられし《悪魔の王》として約束は決して違えぬ。その《いずれ好きな時に》求めよ、我がひづり」


 そう言ってまた甚く上機嫌な声音でしめると、彼女はいつもの美しい足取りで和鼓たぬこのそばへと戻って行った。


 ……『我がひづり』……。うつむき、照れて真っ赤になってしまった顔を片手で隠したまま、ひづりは買う事に決めた蓮根の漬物を手に、千登勢の元へ行こうと店内に足を踏み入れた。


 ふと、その時だった。


 視界の端に見覚えのある《緑色》を捉え、ひづりは反射的に振り返って立ち止まった。


 人垣の中に一瞬だけ見えたそれは、しかし、雑多な商店街の大通りの流れに紛れてすぐに見えなくなってしまった。


 そんな訳があるか。……ああ、きっと思い違いだ。そう思うことにしてひづりは再び店内に歩を進めた。


 ……ひづりの勤務初日、和鼓たぬこの菓子を侮辱し、天井花イナリに舌を切り落とされそうになって商店街を無様に走って逃げて行った、そして以来二度と店に来なくなった、あの緑の上着を着た中年女……。


 一ヶ月前のぼんやりとした記憶だが、その髪型や上着の緑色、また背丈などが、ひづりは先ほど人垣の中にちらりと一瞬だけ見えた人物とひどく似ているような気がしたのだ。


 しかしここは山口県である。東京都からは本土半分以上の距離なのだ。休日で旅行客が溢れているとはいえ、よもや会うような事などある訳がない。


 ある訳が、ないのだが……。





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