『命名の物語』





 十四時半。三班が再び岩国駅へ集合する時刻だった。ひづりたちが待ち合わせ場所に到着すると、一番に戻っていたらしい吉備夫婦がベンチでイチャついていた。ひづりは若干イラッとした。この真夏に、日陰とは言え、駅前で、よくもまぁ。


「お邪魔して悪いですね。第二班、戻りましてございますよ」


 ベンチの横に立って声を落としてやるとそこでようやく気づいたらしく、ちよこはぱっとサトオから離れてひづりにくっついてきた。


「おかえり~! 待ってた~!」


 ひづりの両手を握り、彼女はニコニコと笑顔になった。……なんだもう、恥ずかしい。ひづりはにわかに少し顔が熱くなった。










「そうか。凍原坂どもは後から来るか」


 お土産の買い物を済ませた一行はこの日、最後に一箇所だけ、この岩国で一番重要な観光名所に立ち寄ってから宿に戻る予定となっていた。


 そこは岩国白蛇神社。岩国に昔から多く生息するという白蛇を祀った神社らしく、いわく金運上昇、商売繁盛のご利益などがあるとかで、ちよこは「必ず寄ろう。絶対寄ろう」と、打ち合わせの時から推していたのだ。


 人に幸せをもたらす《ウカノミタマの使い》をすでに店で働かせておきながらまだ欲するか、とひづりは少々呆れつつも、確かに天井花イナリと和鼓たぬこに正当な給料が支払われるようになった現在の《和菓子屋たぬきつね》は多少これまでより経営が苦しくなっているのは間違いないことだった。贅沢をもうちょっと我慢出来れば解決する話ではあるのだが、この夫婦には難しいだろう。


 ただ、金があって困る事が無いのも事実である。まぁ、かといってそのご利益とやらをひづりは真面目に信じている訳ではないが、日本人としては観光地に来たならやはり神社を回っておこうという気持ちにはなる。


「はい。どうも、《フラウ》ちゃんと《火庫》ちゃんが……あはは」


 白蛇神社を目指し岩国駅を出発した一行に第三班、凍原坂家の姿は無かった。先ほど電話があったのだ。


『ああっ、ひづりさん! すみません、《フラウ》と《火庫》が、どうにもドクターフィッシュのお店に二人揃って興味を奪われてしまって話を聞いてくれなくて……今ようやく店を出られたんですが……。ああ……皆さんもう揃ってますよね!? でしたら先に皆さんでもう神社へ向かってらしてください! 今、私たちの居るところからだと、たぶん同じくらいの時間に神社で合流できると思いますので!』


 そう言うなり凍原坂は電話を切ってしまった。凍原坂家の第三班は岩国駅から西の方角に出向いていた。凍原坂がどの辺りに居るのかは分からないが、神社は岩国駅から西南西の方角のため、彼の言う通り、岩国駅で合流を待つより、ひづりたちはもう神社へ向かって、そして彼らもそのまま神社へ向かったほうが時間の短縮にはなりそうだった。


 しかし……ドクターフィッシュに気を取られて、凍原坂さんの話を聞いてくれない《フラウ》ちゃんと《火庫》ちゃん……。想像してひづりは微笑ましくなってしまった。


「……ひづりよ。少し良いか」


 駅から神社までは徒歩で二十分ということは事前に調べて分かっていた。それほどの距離ではないのでタクシーは使わなかったが、道中ほとんど日陰になる場所が無く、そのため最初「金運上昇! 商売繁盛!!」と元気だったちよこは十分も経つ頃には暑さにやられたか「……暑い疲れためんどうくさいタクシータクシータクシー……」などとぼやき始めていた。自販機で買った飲み物もあるし帽子も被っているので熱中症にだけはならないだろうが、非常に鬱陶しかった。


 そんな姉の丸まった背中を眺めていた時、おもむろに隣の天井花イナリが言った。


「どうしました?」


 天井花イナリの視線は、最前列の吉備夫婦の三歩後ろを並んで歩く、和鼓たぬこと花札千登勢に向けられていた。昼ごはんの時に居酒屋で一緒にお酒を飲んでいた時からその感じはあったが、彼女達は今日の土産物選びでずいぶんと打ち解け合ったようだった。要因の一つに、千登勢の顔の作りがひづりと若干似ていることもあったかもしれない。どちらかと言うと和鼓たぬこの方から、よく千登勢に話しかけていた。しかしこれも今回だけのこと……旅行が終わってしまえば彼女の《人間の大人恐怖症》に対して現在掛けられているそのちよこによる強力な《認識阻害魔術》は解除され、再び花札千登勢は和鼓たぬこにとって《人間の大人》になってしまうのだ。それを思うとひづりはひどく寂しいと感じた。


「……今日は、問答の日としよう」


「問答、ですか?」


「ああ。城ではお主から質問を受け、それに返した。では、わしからもいくつか訊ねさせ、お主も答えよ」


 和鼓たぬこがひづりと親しい人間とどうにか仲良くしようとしている。それが嬉しいからか、天井花イナリは二人がああして話をしながら歩くのを先ほどからずっと見守る姿勢で居た。だからこうしてひづりの隣を歩いている。


「はい。どうぞ、何なりと」


 そんな王様の暇つぶしに、ひづりは丁寧な言葉で返した。


「……《火庫かこ》、とは何か意味がある名なのか? 文字を見た時、《火車ひぐるま》を少し変えたようには見受けられたが」


 意外な質問の選択にひづりは一瞬面食らったようだった。《火庫》。常に凍原坂の左側を死守している、白髪に、いつも大体白い衣装を着ている、《フラウ》の片割れの《猫》だ。


「意味……ですか。ううん……」


 その件に関して凍原坂から詳しくは聞いていなかったが、漢字自体は天井花イナリと同じく教えて貰っていた。なので、ひづりは「推測になりますが」と前置きして答えた。


「《庫》っていう字には、何かをしまっておく場所、とか、収めておく場所、みたいな意味があるんです。だからきっと、最初暴走していた《火車》を、無事に収めた、って意味で、《庫》をつけたんじゃないでしょうか。名前としても結構日本人っぽいですよ、「かこ」って。少なくとも「ひぐるま」や「かしゃ」よりは」


「ははぁ……。なるほどのう。そうか。そういう意味か。《フラウ》はそのまま略しただけじゃろうから気にもせんかったが……。……名前か。《ヒガンバナ》も、そういえば良き名であるな。ふふ、わしと揃いとは、偶然にもほどがあったがのう」


 今、ひづりやちよこ達の手に購入したお土産の袋は提げられていなかった。無論、捨てた訳ではない。それらの荷を全て《ヒガンバナ》がその《魔方陣》の向こうに隠れて持ってくれているのだ。


 最初にこれを事前の打ち合わせでちよこが言い出した際、ひづりは当然反対したのだが、《ヒガンバナ》本人が「いいえ、お役に立てるなら」と快諾してしまったのだ。どうしても役に立ちたいから、と言って。


 千登勢も「きっと天井花さんのお役に立ちたいんですのよ」と言うし、天井花イナリは「気が利くのう」と褒めるものだから、ひづりは何も言う立場ではなくなってしまい、結局彼の厚意に甘えることとなったのだった。まぁそれで《ヒガンバナ》さんが喜ぶならいいか、と。


 今もおそらく彼は和鼓たぬこと話す千登勢をそばでそっと見守っているのだろう。


「天井花さん、どうかされたんですか?」


 少し気になり、ひづりは声を掛けてみた。


 先ほどから天井花イナリはやけに名前の話をしていた。それに何となく、彼女の雰囲気というのか、口調だろうか、それらが普段と少し違うようにひづりには感じられていた。


 おもむろに首を傾けて視線をひづりに向けると、彼女はまた前を向いた。


「む……。いや、やはり三千年を経ても、実に良き文化じゃな、と、不意に思うての……」


 文化? しかし首を傾げた隣のひづりの事など忘れてしまったかのように彼女は彼方を見て独り言のように続けた。


「――わしら《悪魔》には、かつて名前が無かった」


 太陽がほぼ真上にあった。風は少なく、蝉時雨ばかりが降る中、天井花イナリの唇から放たれる美しい響きの呟きだけがひづりの耳に届いていた。








 天井花イナリが語ったのは《命名の物語》だった。今から三千年前に行われた、とある人間の王が、《七十二柱の悪魔の王たち》に名前をつけた、その一部始終についての話だった。


 それはつまり《ソロモン王の七二柱の悪魔》には皆元々名前が無かったという史実には残されていない話で、またその《フラウロス》などの名前をつけた人物こそがまさかの《ソロモン王》であった、という話だった。


「……驚きました……」


 他に返す言葉が思い浮かばなかった。《悪魔》を使役した、とは聞いていた。《ソロモン王》がとても賢い王様であった、ということも。


 だがそればかりは意外過ぎた。王様とは言え、《ソロモン》も人間だったはずなのだ。それが、《悪魔》の王様、七十二柱全員に名前を与えた? とても動揺せずにはいられなかった。


 何せ今日、ひづりは人と《悪魔》の《垣根》について考えていたばかりだったからだ。


 命名した? そんなもの人間同士でだって、親と子の関係でなければ普通は成立しない。


 それを、人間と《悪魔》が……?


「《ソロモン》が持っておった《十の智慧の指輪》は、《天使》の《ミハエル》から渡された《天界》からの賄賂じゃった。『これをくれてやるから、《天界》の味方になれ』というな。故に、当然《悪魔》の王である当時のわしらは《ソロモン》に敵意しか持たんかった。……じゃが、あやつは何ともつかみどころの無い男での……。勝手にわしらに《名前》をつけて、用事があれば呼び出し、用が済めば『帰っていいよ~』などと抜かしおって……」


 眉間に皺を寄せ、天井花イナリは当時を思い出している様子で悪態をついた。


「じゃが、城で話したように、そうしているうちにわしらはあやつに興味を持ち始めた。人間の文化、言葉や名前といったものにの。そうして共に過ごすうち、中には深く《ソロモン》を愛した《悪魔》も居った。当然その逆で殺意を抱き続けた《悪魔》も居った。わしは……まぁ、その中間辺りかの。あやつは面白かったからのう。冗談が下手じゃったから、何度もからかって遊んでやった。王のくせに、子供の様なやつじゃった」


 ……紀元前イスラエルの偉大なる王、として記録されている《ソロモン王》に対するイメージが、少しずつひづりの中で予想外の方向で形になっていっていた。《天使》や《悪魔》と関わった王様というからどんないかめしい人だったのかと思っていたのだが……どうもこの天井花イナリの話しぶりから察するに、《悪魔》の王様たちが気に入るほど、愉快な人だったらしい。


「……おそらく《人間界》にあやつが《わしら》に名を付けた事が残されておらぬのは、あやつがそれについて書き記さなかったことと、ただ、あやつが使役した《わしら》の姿と、あやつがそのようにつけた《名》で《わしら》を呼んだことだけが伝わった故であろう。……つまらぬことをしおって」


 天井花イナリは最後の一言だけ、少しだけ嬉しそうな声音で呟いた。


「……でも、どうしてなんでしょう……。あぁ、いえ、《天使》より天井花さんたちの方が魅力的だった、と思えば当然の結果かもしれませんが……。でも、《ソロモン王》は《天界》からその……賄賂として《指輪》を貰ったんですよね? だったら――」


「《悪魔》と仲良くするのはおかしい、か? ……ああ、まさにその通りじゃ」


 天井花イナリは頷いた。


 そうなのだ。そうした贈り物を受けたのなら、是非も無く《彼》は《天使》の側につくべきだった。しかし彼は《七十二の悪魔の王》に名前を与え、そして関わりを持った。


 確かに便宜上、名前は重要である。しかしそれを七十二もつけるとなれば一仕事だろう。自由に使役出来るというなら、ナンバーで呼ぶ事だって出来たはずなのだ。


 けれど《ソロモン王》はそうしなかった。《名前》という贈りものをし、互いに対等な《王》として接する事を選んだ。


 《彼》がそうした理由を、天井花イナリは静かに語り始めた。 


「じゃが、あやつはやはり《智慧の王》であった。仮に《天界》の側についても、そうしたところで、《人間界》はよくならないであろうと、《天界》は《人間界》のために何もしないであろうことを、予見しておったのじゃ。それゆえにあやつはどこまでも中立を保ち続けておった。《天界》が擦り寄ってくるなら、自分は《魔界》とも仲良くする、そんな具合にの」


 天井花イナリは苦笑しつつ、けれど懐かしむような声で続けた。


「……《友達》、と、あやつはわしらを呼んだのじゃ」


「……友達、ですか?」


「ああ。当時の《魔界》には無い、他者との関係の形態であった。それをあやつはわしらに教えた。最初は便宜の上、その《名》は半ば強引につけられて、あやつが勝手に呼んでおっただけじゃった。しかし、《友達》というものをわしらはあやつから教わった。皆が皆それを理解し受け入れたとは言わん。しかし、わしはそれを――」


 わずかな沈黙の後、おもむろに天井花イナリは振り返ってひづりの眼を見つめた。


「じゃが、三千年前に《ソロモン》と親しかった前のわしに何があったにせよ、今の《人間界》でのわしの名は《天井花イナリ》じゃ。ひづり。これ以上は聞くな。訊ねておいて悪いが、これは……話す気分ではない」


 怒っている訳でも、悲しんでいる訳でもなく、ただ淡々と天井花イナリはそう言って再び視線を彼方に向けた。


「……はい……」


 察していたが、やはり気安く踏み込んでいい部分ではなかったらしい。ひづりはすぐに身を引いた。


 《ソロモン王》。先ほどの話を聞いて、より分からなくなってしまった。歴史の本では、内政や周辺国との外交に力を入れた王様で、《天使》から十の智慧の指輪を授かり、それを以って《悪魔》や《天使》を使役した、と記されていた。


 けれど天井花イナリが言うには、彼を愛した《悪魔》も、憎んだ《悪魔》も居て、それでも多くの《悪魔》が彼から受けた影響で変化を得て、今でも《悪魔》の王たちはその与えられた《名》を用いているという。


 それは間違いなく王の器によって成り立った現象なのだろう。その人柄や振る舞いが成し得たことなのだろう。


 だからひづりは気になった。知りたいと思った。


 《命名する》、なんて偉業を成した《その人》を。


 人と《悪魔》の垣根をおそらく人類で初めて越えた、その《ソロモン王》のことを。


 ……ああ、でも……。


 少しずつなのだろう、と、ひづりはそう思った。今、天井花イナリが話してくれたように、ほんの少しずつ。この《悪魔ひと》がこんな表情をするだけの人だったというその《ソロモン王》の話は、これからも少しずつ時間を掛けて、《彼女》の口から聞いていきたい。


 いずれまた天井花さんが語りたいと思ったときに、いつか私の事をもっと認めてくれた時に。


 和鼓さんが作ってくれたお菓子の並んだテーブルを三人で囲んで、そんないつかの日に――。





  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る