『筑波山神社』       3/6




 《フラウ》を背負った凍原坂を休憩室に招き入れると天井花イナリはすぐさま足元に《転移魔術の魔方陣》を描いた。


「では行くぞ。準備は良いな」


 ひづりも凍原坂も背筋を伸ばして頷いた。《フラウ》は眠ったままだった。


「…………む?」


 あれ結構眩しいんだよな……と目を細めつつ《転移》発動時の濃い紫色の光に包まれる覚悟をしていたひづりは、不意に天井花イナリの口から漏れたその一言と、それきり動かない彼女の小さな背中を見て首を傾げた。


「天井花さん……? どうしたんですか?」


 訊ねると彼女はこちらを振り返らないままひづりと同じ様に首を傾げた。


「あやつら、いつの間にやら別行動をしておる。それも中々の距離じゃ。リコの方は変わらず筑波山神社に居るが、《火庫》は……これは何処じゃ? ずいぶん古びた小さな社の前に居るようじゃが……。む、看板があるな。この字は……ひづり、蚕に影と書いてなんと読むのじゃ?」


 蚕に、影? さん、えい……? ひづりは頭の中に字や読みを浮かべたが記憶に思い当たるものは無かった。


「もしかして、蚕影こかげ神社……ですか?」


 すると凍原坂がやや声を強めて言った。


「知っておるのか?」


「ええ。と言っても今字を聞いて思い出したんですが……。蚕影神社は筑波山神社から少し離れた所にあって、確か筑波山神社とも縁の深い神社だとかで、その、雪乃さんとの婚前旅行の際にそちらの社にもお参りに行ったんです」


「あ、じゃあやっぱり《火庫》さんはその時の《記憶》を頼りに行動してる、って事で合ってるみたいですね。でも、どうして夜不寝さんと別行動してるんでしょう?」


 天井花イナリの方を振り返ると彼女は難しそうな顔をしていた。


「分からぬな。わしの《未来と現在と過去が見える力》は会話が聞こえぬ。ただリコの奴、三十分ほど前に見た時と違ってずいぶん慌てておる様子じゃ。ひょっとすると《火庫》とは別行動をとったのではなく、不注意ではぐれたのやもしれん。《火庫》は確かスマホを持っておらんのであったな?」


「はい。持たせたかったんですが、機械はどうにも苦手だと言って……」


 凍原坂は心底参ったという風に眉を八の字にした。《火庫》が何故夜不寝リコとはぐれてその蚕影神社の方へ向かったのかは分からないが、とにかく現在彼女と夜不寝リコが連絡をとり合えないという少々まずい状況にある事だけは確かなようだった。


「凍原坂、リコの携帯にはまだ繋がらんのか?」


「はい。さっきも掛けてみたんですが……」


 天井花イナリは、はぁ、と溜め息を吐いた。


「手の掛かる童どもじゃ。では先にリコの方へ行くぞ。《火庫》はまだ蚕影神社から動く気配は無さそうであるしな。それにあやつもこの国で生まれた《妖怪》じゃ。野山を歩いた程度で死にはすまい。泣きべそを掻いておるリコにまず《火庫》の居場所は把握しておると伝え、安心させてやろう。事情を問い質すのもリコからの方がやり易かろうしな。では改めて《転移》じゃ。行くぞ」


 そう言って天井花イナリは《転移魔術の魔方陣》の光を強めた。ひづりは両目をぎゅっと瞑った。








 もう何回も体験してるけどやっぱりなかなか慣れないな、とひづりは《和菓子屋たぬきつね》の店内から一瞬で切り替わったその山腹からの物らしい光景に軽い眩暈を覚えた。天井花イナリの話通り雨空の東京と違って枝葉の間から見える筑波の空は綺麗な浅縹の好晴だった。周囲を確認するとどうやら場所は背の低い建物の裏手のようで、話し声らしきものはどこからか聞こえて来るが少なくとも見える範囲に人の姿は無かった。


「平日故かあまり参拝客は居らんようであったからの、《認識阻害》は使わずそのまま人気のない場所に《転移》した。向こうとの気圧の違いに体が慣れんかもしれんが、《火庫》を探して山道へでも行かれると面倒じゃ、急ぎリコと合流するぞ」


 天井花イナリはすぐに歩き出し、ひづり達に手招きした。ひづりと凍原坂は顔を見合わせて頷き、彼女に続いた。


 《転移》の着地地点は門前町の土産物屋の裏だったらしく、表へ出ると店の前や筑波山神社へ続く道にちらほらと観光客の姿が認められた。ぞろぞろと店の裏手から出て来てしまったし店員などに気付かれて見咎められたりしないだろうか、とひづりは内心ちょっとどきどきしていたが、しかし運よく店員らは丁度接客中でひづり達とは反対の方角を向いており、また天井花イナリや凍原坂共々そ知らぬ顔をして歩き出すと案外訝しげに見てくる観光客なども居なかった。


 鳥居を抜けて境内へ入るとそこそこ急な角度の石段が正面に現れた。天井花イナリ曰くここを百メートルほど登ると拝殿があり、夜不寝リコは現在そこに居る、との事だった。


 周囲の眼が少なかったのでひづり達はやや駆け足で石段を登った。やがて事前に画像検索で確認していた特徴的な形の拝殿の屋根が見えてくると更に歩調を速めた。


 筑波山神社の背後には男体山、女体山と名付けられた二つの大きな峰があり、それぞれの登山コースへは横に広がった境内の左右から入れるようになっているとの事で、到着した拝殿の前や手水舎にはやはりリュックを背負いハイキングウェアに身を包んだ観光客の姿が多く見られた。


 それ故、竹下通りでも散歩していそうな洒落た出で立ちをしたその場違いな少女はよく目立ち、拝殿前に到着するなりひづり達は探す間も無く彼女を発見出来た。


「見てませんか!? これくらいの背丈で、白い服を着てて……!!」


 夜不寝リコは二人組みの登山客を捕まえて、やはりはぐれてしまったらしい《火庫》について訊ねていた。


「リコちゃん!」


 凍原坂が声を掛けると夜不寝リコはハッとしたようにこちらを振り向いた。青ざめ、涙で化粧が落ちかけたその顔の酷い事と言ったら無かった。


「春兄さん……天井花さんも……なんで……」


 なんでじゃないだろ、と思ったがひづりはぐっと抑えた。


「天井花さんの《転移魔術》で連れて来てもらったんだよ。リコちゃん、《火庫》とはぐれたんだね? 大丈夫だよ、天井花さんは遠く離れた場所の景色も見る事が出来るから、《火庫》がどこに居るかももう分かってるんだ。だから心配要らない、大丈夫だよ」


 凍原坂がそう伝えると夜不寝リコは腰が砕けた様になってその場に座り込んだ。


「良かっ、良かったあ……。火庫と一緒にここまで来たんだけど、さっき急に居なくなっちゃって……。ぐすっ……。もしかして登山道の方へ行っちゃったのかも、とか……もし誘拐でもされてたら、って思ったら、ウチ……こんな知らないとこでどうしたらいいかわからなくて……」


 そしてそのままめそめそと泣き始めた。ひづりは眉根を寄せてそっぽを向き、泣くくらいなら家出なんて最初からするなよ、と思った。


「よい。事情は後で聴く。それより次は《火庫》じゃ。少々距離があるからの、あちらへも《転移》で行く。拝殿前でもこれだけ観光客が少ないなら人目のつかん場所はそこらに在ろう」


 そう言って天井花イナリは周囲に遠く視線を伸ばし、《転移》を使うのに隠れられそうな場所を探し始めた。


「ほら、リコちゃん立とう」


「あ……安心したらなんか、足、力入らなくて……」


 夜不寝リコはへたり込んだままそう言った。凍原坂が肩を借すとどうにか立ち上がって見せたが、それでもまだろくに歩けさえしない様子だった。


「……止むを得まい。ひづり、《フラウロス》を背負え。リコは凍原坂が背負え」


 舌打ちしてから天井花イナリはそう指示した。言われた通りひづりは凍原坂から寝ている《フラウ》を受け取り、凍原坂は夜不寝リコを背負った。さすがに何かあったと思われたらしい、先ほど夜不寝リコが声を掛けていた登山客だけでなく他の観光客らもちらちらとこちらを気にし始めていた。神社の人を呼ばれたら面倒になるかもしれない。退散するなら早めにした方が良さそうだった。


「…………あ?」


 すると続け様に天井花イナリは不機嫌そうな声を漏らした。その声の感じに覚えがあり、ひづりはまさかと嫌な予感がした。


「あああっ、くそ、また《千里眼》が使えんようになりおった……!」


 予感が的中した。彼女は眉根を寄せながら数回瞬きをしたり、集中する様にじっと目を伏せたりしたが、駄目らしかった。


「治って……無かったんですか」


 ひづりが訊くと天井花イナリは目を開けてばつが悪そうな顔をした。


「あれ以来何が原因か、たまにこうして見えんようになるのじゃ。……ぬぅ、仕方あるまい、バスを使うぞ。確かすぐ下の町まで通っておったはずじゃ。それで移動する。凍原坂、運行時間を調べよ」


 命じられ凍原坂は急いでスマートフォンを取り出した。


「《未来と現在と過去が見える力》が使えないと、《転移魔術》も使えなくなってしまうんですか……?」


 ひづりは気になったので訊ねてみた。質問などしている場合ではなさそうだったので「後にせよ」と言われるかも、とも思ったが、天井花イナリは答えてくれた。


「一度赴いた事のある場所や目で見える範囲に《転移》をするなら何も問題はない。しかし今回のように遠く離れた場所で、その上わしが一度も行った事の無い場所となると、《転移》の着地地点を大きく見誤る危険がある。《転移》は、描いた《魔方陣》の内側の空間をそのまま着地地点に移す術じゃ。着地予定地点の上空に出てしまうならまだ良いが、もし予定地点の地下にでも出てしもうた場合、お主ら人間は土の中で圧死するかもしれん。加えて、思うた通りの正常な縦軸で着地地点に出られたとしても、もしそこに他の生き物や……今回であれば《火庫》が居った場合、思いもよらぬ大怪我をさせかねん。ああ、まこと何故この様な時に……!」


「天井花さん! バス、ありました! バス亭、さっきの土産物屋さんのすぐ近くみたいです! でも次の便までもう時間が……!」


 運行情報を確認出来たらしい凍原坂が声を上げた。ひづりは天井花イナリと顔を見合わせた。


 考えを巡らせた後、ひづりは決断した。


「凍原坂さん、夜不寝さんを下ろしてください。夜不寝さんには私が肩を貸します。それで《フラウ》さんを背負って、天井花さんと一緒に先に《火庫》さんのところへ行ってください」


 ひづりは背負ったばかりの《フラウ》を……名残惜しかったが……一旦背中から下ろして立たせ、凍原坂に返した。


「え、ですが……」


 戸惑う様子の彼にひづりは早口で続けた。


「バスの発車まで時間が無いんですよね。土日祝日ならともかく、今日みたいな平日の月曜だときっと次の便はもっと後になってしまうと思います。だったら今の便に乗るべきです。それに、《フラウ》さんならある程度近づけば《交信》で《火庫》さんと連絡を取り合えるんですよね? 天井花さんの《千里眼》が無い今、もし《火庫》さんが蚕影神社から移動していたりしたら、もう《フラウ》さんの《交信》だけが頼りです。ですからそうしてください。夜不寝さんは歩けるようになるまで私がここで見ておきますから」


 咄嗟の思い付きだったが頭の中で反芻してみてもやはりこれが最善であるように思えた。


「それで良かろう。凍原坂、ひづりの言う通りにせよ」


 提案に天井花イナリも同意してくれた。凍原坂は一瞬逡巡した様子を見せた後、ひづりに「すみません、お願いします……!」と言いながら背中の夜不寝リコを下ろした。


「そ、それならウチだけ置いて行ってよ。ウチは後で行くし……」


 凍原坂からひづりに受け渡しされた夜不寝リコはそんな事を言った。ひづりはムッとした。


「夜不寝さん、この辺に来た事ないんでしょ? そんな知らない土地で腰を抜かした夜不寝さんをほったらかしになんてしたら、私が後で《火庫》さんに怒られるじゃん」


 夜不寝リコはまだ何か言いたそうにしていたが結局口を閉じてうつむき、抵抗せずひづりに肩を支えられた。


「ではひづり、わしは凍原坂と《フラウロス》とで先に《火庫》の元へ向かっておく。リコがどうにか走れるまでになったら凍原坂に連絡を入れよ。すぐにお主らを《転移魔術》で呼び寄せる。それまでここを動くなよ」


「分かりました」


「凍原坂。ひづりの横に立て」


「? は、はい。ここで大丈夫ですか?」


 凍原坂は天井花イナリに言われるままひづりのすぐ隣へ来た。何だろう、とひづりが思っていると天井花イナリはひづりと夜不寝リコの足元に《認識阻害魔術の魔方陣》を描いた。そこでようやく、「あ、後々の《転移》の時に面倒が起きないよう今の内に《認識阻害》を掛けてくれたのか」と、それから「《認識阻害》を使う瞬間を他の観光客に見られないよう、背の高い凍原坂さんの体で隠したのか」とひづりは理解した。……元からだけど天井花さん、凍原坂さんの扱いがなんかこう、相変わらずアレだな……と思ったが、タイミングがタイミングなので今は指摘しないでおくことにした。


「これで良い。では行くぞ凍原坂。……ひづり、ほどほどにな」


 ひづりと夜不寝リコに《認識阻害の魔方陣》を描き終えた天井花イナリはそれだけ言い残すとすぐさま踵を返して石段を駆け降りて行った。《フラウ》を背負った凍原坂は慌てて彼女の後を追った。


「お、お気をつけて!」


 ほどほどに、って何がですか? と訊ねる時間を与えられなかったその疑問を胸に抱いたままひづりは片手で彼女達の背中に手を振った。夜不寝リコは顔を背けるようにうつむいて黙り込んでいた。







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