『僕は愛され生きてきた』 6/6



 どうすればいいのか、凍原坂には分からなかった。目の前の現実があの悪夢の様だった七月暮れの光景と重なって見えていた。


 《ベリアル》に襲撃されたあの日。拝殿の下に押し込められている人達を犠牲にしないで欲しい、などと自分が我儘を言ったせいで、《フラウ》と《火庫》は力を抑えなくてはいけなくなって、結果酷い傷を負う事になった。天井花さんとひづりさんに助けてもらえていなければ、二人は自分のせいで命を落としていたかもしれなかったのだ。


 だからあれ以来、もう二度とあんな風に二人の足を引っ張ってはいけない、と己に強く戒めた。次にまた彼女達に《悪魔》や《天使》との戦いをお願いする時は、必ず二人が全力を出せるよう、自分は何も言わず引っ込んでいよう、と、そう決めていた。……なのに、自分はあの時と何も変わらない、彼女たちの命を危険に晒す無様な足手まといのままだった。


 《火庫》は昔から雪乃さんとの思い出に理解を示してくれていた。それが《雪乃さんであった頃の記憶》を取り戻した事で悩みに変わり、苦しみ……今は《フラウ》と同調が出来なくなってしまった己を責めている。


 《フラウ》はそんな《火庫》をさせるべきでない選択から逃がすため、自身の傷を治す事も本来の力で戦う事も出来ないのに、殺される覚悟で《天使》たちに立ち向かっている。


 今再び彼女達を苦しめ、絶望の淵に立たせてしまっているのは、他でも無い凍原坂春路の不甲斐なさだった。こんな恥があるだろうか。自分は彼女達の父親なのに、そうあろうとこれまで生きて来たのに、この期に及んでも彼女達を護るどころかほんの僅かな手助けさえしてあげられない。


 私はどうしたらいいのだ。悪意の刃を向けられた娘たちのために私は何をしてあげられる? 《火庫》に、《フラウ》に、私は何と声を掛けてあげたらいい……? 《魔術》で傷を治してあげる事さえ出来なくなった私に、何が……。








「──凍原坂ッ!!」








 その時、《天使》たちの剣戟さえ霞ませる様な怒号が空気を割り凍原坂の鼓膜を殴った。


「て……天井花……さん……?」


 うずくまる《火庫》に手を添えたまま顔を上げ振り返ると、彼女は着物の袖を組んだ格好でこちらをじっと睨んでいた。彼女の怖い顔は今まで何度も見て来たつもりだったが、今回のそれは過去のどれとも比べ物にならない程凄まじい形相をしていた。


「お主の《娘》らは何じゃ!!」


 彼女は引き続き大声で凍原坂にそう問うて来た。《フラウ》を囲む《主天使》たちの手は止まっており、《副指揮》と呼ばれた《天使》も、そして《指揮》でさえ彼女の声に心を奪われている様子だった。


 天井花イナリは言った。


「明かしておくが!! わしには、ひづりだけなら此処から出して地上の安全圏まで連れて行ってやる確実な方法が一つだけある!! 降伏ではなく、こやつらを敗北させる形の解決方法じゃ!!」


「…………はぁ?」


 《指揮》が小さく、顔を歪めながらそう呟いたのが聞こえた。その天井花イナリの言葉は《天使》たちにとっても意外なものだったらしい。


「その解決方法ならわしとひづりは生還する!! じゃが!! わしの手の届かぬ位置におるお主らは助からぬ!! お主もリコも、《フラウロス》も《火庫》も、助けてはやれぬ!!」


 隣の官舎ひづりが、「て、天井花さん……? 何を……?」と困惑しながら訊ねていた。


 《主天使》も、ひづりさんも知らない、この状況を打開する解決手段……? そんなものが……? 凍原坂にはそれが真実なのか彼女のブラフなのか見分ける事が出来なかった。


「しかし!!」


 《天使》たちがざわつく中、天井花イナリはひときわ大きな声で叫んだ。


「それは最後の手段じゃ!! この場の全員を誰一人損なわず地上へ連れ帰る《最善の一手》はまだある!! そしてそれは凍原坂!! お主の選択でしか果たせぬ!!」


「え……?」


 私の……選択……? 人も《悪魔》も《天使》も問わず、その場の全員の視線が凍原坂に向けられていた。何の心当たりも無い凍原坂に。


「待って下さい、何の事だか──」


「お主の《娘》らは何じゃ!!」


 訊ねようとした凍原坂の言葉を天井花イナリは先ほどと同じ問いで潰した。


 ぐっ、と息を呑み、《天使》たちの中心で傷ついた《フラウ》と、それから腕の中の小さな《火庫》を見下ろした。


 彼女たちが、何であるか……?


 そんなのは決まっている。十四年前から、あの日から。


「二人は──」


 そう答えようとしたところで、はっ、と凍原坂は気付き、息を止めた。






『──娘だ。……と言うんだろう?』






 《火庫》の前世について明かした際、《火庫》はどんな事があっても私の娘だ、と答えようとした凍原坂に《指揮》が被せた言葉。


 天井花さんはどうして今、この質問を私にしたんだ……?


 彼女はあえてこの質問をしたのではないのか?


 違う、と、私に気づかせるために。


 答えはそうではない、と気付かせるために。


 じゃあ、何が答えだと言うんだ……? 《最善の一手》が、それに繋がっていると?


「……出任せだ。おいお前ら!! 手を止めるな!! 怠けてねぇでテメェらの仕事をやれ!!」


 《指揮》は大きく腕を振り回して部下の《天使》たちに命じた。《フラウ》に再び槍が向けられ、《副指揮》が前進の指示を再開した。


「天井花さん!? 解決策があるなら凍原坂さんに教えてあげて下さいよ!? そんな試すような事今しなくても……!!」


「ひづりは黙っておれ。こればかりはあやつが自分で気付き、選ばねばならん。あやつにはその責任がある」


 離れた《檻》の中で珍しく二人が口論をしていた。天井花イナリは官舎ひづりがどれだけ言ってもそれ以降一文字に結んだ口を開く気配は無く、そしてその眼差しは絶えずこちらへ向けられ続けていた。


 口元に手を当て、凍原坂は焦った。


 答え。答え!! 答え!? 私が自分で気づくべき事!?


 《フラウ》が殺される!! 時間が無い、早くその天井花さんの言う答えに気付かなくては……!!


「ぐおおッ!!」


 接近する《槍盾兵》たちに対し《フラウ》がまた大きな炎を吹き上げて牽制した。


 一瞬、彼女と眼が合った。その眼はいつもと変わらない、無邪気に「勇者よ!」と慕ってくれる、熱い信頼が込められた眼差しだった。


 凍原坂の両目から涙が溢れた。


 《フラウ》、一体私のどこが《勇者》なんだ……? 何もしてやれない、何も出来ない私の一体何が君にそう信じさせるんだ……? あの日からずっと、今日まで……《天使》たちに斬りつけられて尚、君はどうして……。


 ぎゅう、と左手で自身の右肩、彼女との《契約印》がある場所を握り締めた。もっと相応しい《契約者》が君達には居たんじゃないのか、と場違いにこんな所へ来てしまった己を呪った。


 その時だった。


「…………?」


 凍原坂は右肩から左手を離し、その掌をそっと顔の前に持って来た。


「《契約印》……?」


 ふと、《和菓子屋たぬきつね》の畳部屋で天井花イナリから《契約印》についての講義を受けた、あの日の事を思い出した。


 それから突然、全身の体温が死神に引きずり出されたかのような悪寒が走り、凍原坂は眩暈がした。


「あ…………」


 分かった気がした。理解した気がした。


 天井花イナリが言った、《最善の一手》。その《答え》を。


「は、はぁ……はぁ……はっ、……は……!」


 たった一つしか思い当たらなかったその《答え》が呼吸を乱していた。もしこれが正解ではなかったら? 実行に移して、それが間違いだったら? その可能性が両膝を震わせていた。


 けれど。


 恩人の顔が頭に浮かんだ。そして顔を上げ、見た。


 《檻》の中で未だ天井花イナリに説得を続けてくれている、官舎ひづりの姿を。






『──決めるのはひづりさんで、そして決めなければならない時は必ず来ます』






「……そうだ、言ったんじゃないか、自分で……」


 拳を握り締め、かちかちと鳴る歯の根をなんとか合わせながら、凍原坂は自分に言い聞かせる様に無理矢理口角を上げた。


 それから深呼吸をして、言った。


「《火庫》……聞いて欲しい話があるんだ。顔を見せて欲しい。僕の顔を、見て欲しい」


 うずくまっていた彼女の耳が微かにこちらを向いた。それから繊細な白髪が揺れ、髪の間から綺麗な藍色の瞳がおずおずと覗いて、控えめにこちらを見た。


「よく、見て欲しい」


 彼女の正面に移動し、その小さな両手を握る。白と紫の肌が縫い合わせられた彼女の顔が凍原坂と向き合う。


 《フラウロス》の金色の左目と、《火車》の藍色の瞳。それを眼に焼き付けるように凍原坂はじっと見つめた。


 口を開く。


「《火庫》。君の目の前に居るのは、十四年前に恋人を失った二十九歳の僕じゃない。十四年間君達に愛され、支えられ生きて来た、四十三歳の僕なんだ。君が誰でも、前世で何があっても、僕はこれからもずっと君と《フラウ》の凍原坂春路だ。だから《火庫》、《フラウ》。僕を……僕がこれからする事を信じて欲しい」


 彼女の眼窩に輝く二色の瞳にそう伝えた。


「凍原坂……さま……?」


 立ち上がり、《火庫》の手を離した。


「ッ!? 《指揮》!! 凍原坂が!!」


 近くに居た《弓弩兵》の一人が叫んだ。思ったより早い反応だった。


 だが凍原坂は構わず走り続けた。天井花イナリと官舎ひづりの居る《封聖の鳥篭》へ向かって。


「取り押さえろ!! 足を狙え!!」


 背後で《指揮》の怒号が聞こえた直後、風を切る音が体の近くでいくつも鳴った。そしてその内の一つが体内に鈍い音を響かせ、急に右足に力が入らなくなった。


「ぐっ! うっ!」


 倒れ、体中を地面にぶつけながら転がった。《神のてのひら》と呼ばれたこの足場、霞か綿毛が敷き詰められた様に見えていたが、その下は意外と硬いらしかった。


 いや、それより。


「く、そ……!」


 見ると右足太腿の裏側に矢が一本突き刺さっていた。恐らくさっきまで自分達を囲んでいた四人の《弓弩兵》の誰かが《指揮》の指示で放った矢だった。膝から下がびくびくと痙攣しており、それからようやく鋭い痛みがやってきた。転んだ拍子に眼鏡を落としたため傷の具合の確認は難しかった。


 だが。


「ふっ、ふっ……!」


 まだ体は起こせた。地面を這うようにしてどうにか立ち上がり、右足以外の手足を使って進んでいく。


「二人は撃ち続けろ!! いいか絶対に頭と胴体は狙うなよ!! 残り二人は捕まえに行け!!」


 《指揮》の追加指示。振り返って見るとその通り二人の《弓弩兵》がこちらへ飛んで来ていた。


 前を見る。自分ではかなり走ったつもりだったが無自覚に足が震えていたらしい、《封聖の鳥篭》までまだ倍の距離があった。


「もう少し……もう少しなんだ……!」


 すぐ背後で《天使》たちの翼の羽ばたく音が聞こえた。


「くそ……!」


 まだ捕まる訳には──!


「うお!?」


「なっ!?」


 《天使》たちが悲鳴を上げた。見ると無数の緋色の炎が断続的に宙を駆けていた。


 《火庫》の炎だった。凍原坂に矢を射て捕まえようとする《弓弩兵》たちに向けて彼女は攻撃を行っていた。


「《火庫》……お前……ッ!!」


 《指揮》が苛立った声を上げ、自身の護衛につけていた《槍盾兵》たちに《火庫》の拘束へ向かうように指示を出した。


「ありがとう、《火庫》……」


 彼女たちの聴力ならきっと聞こえると信じてお礼を呟きながら凍原坂は手足を動かし続けた。


 あと、あと少し……! 《封聖の鳥篭》はもう目の前だった。


「ぐっ!」


 脳が揺れる程の強烈な質量に体を押し飛ばされ、そのまま倒れ込んだ。続けて同じ重みが二回、三回、と続いて体に覆い被さり、完全に起き上がれなくされてしまった。


「……ふぅ。間に合ったか。何をするつもりだったか知らないが」


 溜め息交じりに安堵する《指揮》の声が聞こえた。凍原坂の体は四人の《弓弩兵》によってがっちりと押さえ込まれていた。《火庫》を見ると彼女は《指揮》の護衛についていた《槍盾兵》に取り囲まれていた。


「動くなと言っただろうが!!」


 《弓弩兵》の一人が矢の刺さった凍原坂の右足を握り締めた。激痛に思わず口から悲鳴が漏れ、意識が抜け掛けた。


「ぜぇ……ぜぇ……はぁ……はぁ……はぁ……」


 《檻》まで……あと三メートル……。


 霞に埋もれた視界の中、こちらを見下ろす天井花イナリと眼が合った。


 …………。


「うおおおおおおああああああ!!」


 最後の力を振り絞って背中の《弓弩兵》たちを持ち上げ、凍原坂はそのまま膝立ちの格好で全身を固定した。


 そして叫んだ。


「天井花さん!! お願いします!!」


 彼女は組んでいた腕を解き、右手に《剣》を取り出した。


「……ああ、その位置で十分じゃ」






 ──ひゅっ──。






「…………は?」


 しがみついていた《弓弩兵》たちが声を漏らした。何が起きたのか分からなかった、という声だった。


 凍原坂もはっきりとは見えなかったが、それでも何が起きたのかだけは分かっていた。


 そのために走ったのだから。


「げう、うぅおご、ぶ……」


 喉から自分のものとは思えない濁声が勝手に出た。それから大量の血液が口と鳩尾の辺りから一気に噴出し、ばしゃばしゃと散って、《檻》の辺りまでを真っ赤に染めた。


「凍原坂さんッ!?」


「────ッ!?」


 急に聞こえなくなり始めた両耳が恩人の娘の悲鳴と義妹の呻き声を拾った。


「……よく選んだ凍原坂。その《勇猛》、お主の《王》は無下にはすまい」


 天井花イナリが何か言っていたがそれはもうよく聞こえなかった。彼女の長い白髪の一房に握り締められて《檻》の外へと飛び出していた《剣》が彼女の元へとゆっくり戻っていくのだけが徐々に暗くなっていく視野で見えた。


「な……何やってんだてめぇらあああ!?」


 《指揮》が狂乱した様に叫んだ。《弓弩兵》たちが手を離し、凍原坂の体が前のめりに倒れこんだ。べしゃ、と自身の血溜まりに顔を沈めた。


「…………」


 体温が血と一緒に外へ流れ出ていくのが分かった。止まらない。たぶん、心臓に大きな穴が空いている。天井花さんはやってくれたのだ。


 私を殺して、くれた……。


 寒さを感じなくなり、すぐに痛みも光も無くなった。


 意識が途絶える最期の瞬間まで愛しい藍と金の瞳を思い出していた。













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