『気づいたこと』




 今回の旅行に際して、和鼓たぬこにはかなり強めの《認識阻害魔術》が施された。どれくらい強力かというと、少なくとも直接体が触れたりしなければ平気なくらいに、その《大人の人間恐怖症》は緩和されているという。隣の席に《大人の人間》が座っていても平気、という、ほぼ生活上問題ない具合にだ。


 姉はやはり目聡い、とひづりは今回の事でも感じていた。ひづりがこの一ヶ月でもう充分すぎるほどにあの二人の《悪魔》と打ち解けている事を、しっかりと理解しているようなのだ。あの日、凍原坂が来た日の一件でより確信したのだろう。妹がかなり《悪魔》たちに入れ込んでいるという事と、そして《悪魔》たちもひづりにとても友好的であるということを察したのだ。


 ちよこは情報を使うが、信用はしない。それは人にしても、《悪魔》にしても同じだった。しかし彼女は何故かひづりの周りの人間関係に関してだけは、ある一定の理解を示してくれる。今回のような具合に。


 はっきり言って、そういうところだけは妹としてひづりは嬉しく感じていた。卑怯で卑劣で、《悪魔》以上に《悪魔》らしい女だが、姉としての自覚までは捨てていない、というその部分だけは。


 そうした訳で、天井花イナリは和鼓たぬこ絡みになると例外だが、少なくとも和鼓たぬこに至ってはひづりの困るような事だけはしないだろう、という確信を得た、というのが、今回この強めの《認識阻害魔術》を《サキュバス》である和鼓たぬこに施す判断に繋がった要因なのだ。そうでなければ、和鼓たぬこだけお留守番になっていた可能性だってあった。千登勢も《ヒガンバナ》を隠す程度の《認識阻害魔術》は使えるが、しかし母の万里子から《魔術》の本を何冊も譲って貰い、そしてそれがほとんど頭に入っているというちよことは、《魔術》を扱う者として雲泥の差があるという。凍原坂も「いくつか簡単な《魔術》は使えるが、自分はきっと千登勢さんより更に下だろう」と自己分析していた。吉備ちよこでなければやはり和鼓たぬこの《大人の人間恐怖症》は緩和させられないようなのだ。


 そんなこんなで念願叶って九人での旅が始まった訳なのだが、しかしもう一つ問題があった。


 それは席だ。主に、新幹線の。


 結局どれだけ強めの《認識阻害魔術》を掛けていようと、《人間の大人恐怖症》とは関係なく、初めて乗るその新幹線という凄まじい速度の出る乗り物に和鼓たぬこが怖がるかもしれない、という懸念があったのだ。以前天井花イナリが話していたように、和鼓たぬこは元々怖がりな上に、《下級悪魔》だから精神年齢が人間でいう五歳ほどしかないのだ。しかも人間の五歳と違い、新幹線そのものを知らない。


 なので席の取り方にはずいぶん悩んだ。悩んで悩んで、以下の通りとなった。


 ひづりの席が三人席の通路側であり、その右に和鼓たぬこが座り、そして窓側席に天井花イナリが座る。


 こうすることで、和鼓たぬこはこの《人間界》で一番安心している存在であるところの天井花イナリと官舎ひづりに挟まれて、その新幹線への恐怖を緩和できる、という寸法だった。実際、新幹線が速度を出し始めるなり彼女は天井花イナリの腕にしがみついてふるふると震え始めてしまったので、ひづりも彼女の反対側の手を握り、天井花イナリと一緒になって「大丈夫ですよ」と何度も声を掛けることとなった。泣き出したり、失神して狸の姿に化けてしまったりする事態にはとりあえずならずに済んでいた。


 ただ、この席選びが事前に行われた際、やたら口を挟む者が居た。姉のちよこだった。


『やだー! 私もひづりの隣が良いー!』


 二十三歳の女が、ずっとそんなわがままを言うのだ。ひづりは頭が痛くなるようだった。だがひづりはやはり和鼓たぬこの事情を優先するつもりだったので、「じゃあ私と通路を挟んだ隣の席にすればいいだろう」と妥協案を提出した。渋々だったが、それで一応ちよこは納得した。


 次に凍原坂家だが、ひづりたちの座る右側は全て三人席な訳で、必然的にその後ろか前の席に彼らが来なければならなかった。凍原坂春路、《フラウ》、《火庫》の三人はやはりセットで座らせておかないといけなかった。寝かしつけておかねば《フラウ》は新幹線の中であろうと天井花イナリに宣戦布告して暴れだす可能性があったし、そして《火庫》は言わずもがな、愛する凍原坂の横を譲るつもりは一切ないであろうからだ。


 だから、前の席にひづり、和鼓たぬこ、天井花イナリが座り、その後ろに凍原坂家の三人が座り、で、通路を挟んだひづりの隣、通路側席にちよこを置き、その左の窓際にサトオが座り、そしてその後ろの席に花札千登勢が座る、という形で一旦話が決まりかけた。


 しかし、ひづりはそこで気づいて「いやそれでは駄目だ」と反対した。


 それだと花札千登勢は、ほとんど面識の無い凍原坂家と通路を挟んで隣にならざるを得ない。しかも位置的に、通路を挟んだ隣はあの《火庫》だ。普通に怖いだろう。


 それにその席ではひづりとも話がしづらい。現状、花札千登勢がこのメンバーの中にあって会話がしやすい相手と言えばひづりを措いて他に居ないのだ。なのでひづりは姉夫婦を後ろの席に追いやって、要するに二人席の前後を入れ替えて、花札千登勢を自分と通路を挟んだ隣の席に座らせる事にしたのだ。


 今回の旅に於いて、ひづりは彼女に新幹線の中であろうと寂しい思いをさせたくなかった。ちよこはこの案に最後までブー垂れていたが、ひづりに「旦那が横に居るんだからそれで満足しろバカップル」と言われるとこれまた渋々諦めた。


 そうした試行錯誤の結果、前列は左から、空席、千登勢、通路、ひづり、和鼓たぬこ、天井花イナリ。後列には左から吉備サトオ、吉備ちよこ、通路、《火庫》、凍原坂春路、《フラウ》、という席順に決定した。


 九時に東京駅を出た一行は、十五時には目的地である岩国の宿に着く予定だった。


 そういう訳で、ひづりは天井花イナリと共に和鼓たぬこのメンタルケアをしつつ、通路向かいの千登勢とも窓から見える景観を楽しんだりおやつを交換し合ったり、後ろの席で眠る《フラウ》をちらりと覗き見ては心を癒され、斜め後ろの姉を適当にあしらい、六時間の片道を存分に満ち足りた気持ちで過ごしたのだった。








 予定通り、十四時過ぎに岩国駅へと到着した。岩国駅から温泉宿までは市内の路面バスでの移動となったが、やがて市街を抜け、宿のすぐ前を流れていると聞いていたその大きな川沿いの道路に出ると、ひづりは思わず身を乗り出すようにして窓の外へと遥か視線を伸ばしてしまった。


 観光名所だという錦帯橋きんたいきょうが掛かった広く長い錦川と、その対岸に連なる濃い緑の山々。彼方は白んで、けれどそれらの頭の先にはどこまでも等しい浅縹色が快晴の空を染め上げていた。新幹線の中からもこういった景色は見られたが、新幹線とバスとではやはり距離感とも言うべきか、異なる感動が確かにそこにはあって、東京生まれ東京育ちのひづりが普段無意識に感じている息苦しさとも呼べる窮屈さが一気にほどけて溶けていく様な、そんな感覚を与えてくれるのだ。


 ただ、今日は、この時は何かが少しだけ違った。


 子供の頃から確かに母に連れられて温泉旅行などはそれこそ何度も来ていたため自然の景色などずいぶんと見慣れたものではあったし、この眼前の景色も特別珍しいものでもないはずだった。しかしひづりは今、何か違う感覚を捉えていた。


 景色への感動だけではない。これまでとは決定的に違う《何か》が、今ひづりの胸のうちにあった。だがそれを上手く言葉に出来ない。


 何なのだろうか、この感覚は。自身、まるで理解できないまま、その過ぎていく錦帯橋と遠くの山や空を見つめたまま、それでもただ「嬉しい」ということだけは理解していて、ひづりは少し浮かせていた腰をそっと席に下ろし、また考えに耽った。


「ひづりちゃん、どうかしましたの?」


 観光客向けにそういう作りになっているのであろう、ひづりと同じく錦帯橋の掛かる景観に思わず眼を奪われていた乗客は多く、隣の席の千登勢もそうだったが、ひづりの様子が普段と少し違うことに気づいたようで、訊ねて来た。


「……いえ、何でもない、と思います。ええ、ただ何か、良い予感みたいなものがしたのかもしれません」


 その要領を得ない回答に千登勢は首を傾げていたが、ひづりの顔色が明るいことだけは察したようで、「そうでしたのね。きっと、そういうこともありますわよ」とだけ言って微笑んだ。


 バスの案内板が、じきに目的地の温泉宿に到着する旨を表示した。




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