『それが消えない後悔であったとしても』




「……千登勢叔母さんに聞きたいことは、もう一つあるんです」


 ひづりは姿勢を正し、再び千登勢に向き直った。訊ねたかった本題について、ようやく切り出すタイミングを得たと判断したからだ。


 その真剣な眼差しに千登勢も赤く腫れっぱなしの眼を少し丸くすると、自身も背筋をしゃんと伸ばし、座ったまま少しひづりの方に体を向けた。


「はい。なんでしょうか」


 崩れた化粧をティッシュやハンカチで拭ったせいでやはり少々悲惨な具合になってこそいるが、元の形が良いのだろう無様な感じはあまりせず、またその真剣な眼差しを正面から向けられると、確かに自分や母と同じ、気の強い眼をしていることが分かった。


 だから、ひづりは一瞬躊躇った。これから訊ねようとしている話は、さっきまでの内容よりずっと重く、答える千登勢が心に《傷》を負う危険があったからだ。とても優しい人で、母を想ってくれていた人で、これからも仲良くなれそうな人だったからだ。


 ひどい結果を引き起こすかもしれない、という恐怖が、一瞬、ひづりの口唇を縫い付けるようにした。


 しかしここで引き下がって、質問をする機会を先延ばしにしても、きっと結果は変わらないだろう、とひづりはそう思った。それに、人と人の間の時間というものは驚くほどに短い、ということを、ひづりすでに三ヶ月前に充分に思い知らされていたのだ。


 待てない。待たない。訊ねる。今。失うとしても、もしかしたら叔母を傷つけるかもしれないとしても。


 それでも自分は先に進みたい。知りたい。だからひづりは問うた。


「……千登勢叔母さんは、どうして、そんなに母を大事に思ってくれていたんですか。それを、最初から、教えてくれますか」


 一瞬、意味が分からなかったのだろう。千登勢は表情を変えずにひづりを見つめていた。しかしその直後理解したのか、彼女は眼を丸くして顔色を少し悪くし、逃げるように視線を逸らした。


 彼女はひづりが店内で「何故自分を養子にしたいのか」と質問した時、激しく取り乱した。そこでひづりは引っかかっていたのだ。彼女があれほどまでに、不自然なくらいに動揺していた、その本当の理由について。


 だが、いま改めて目の当たりにした彼女のその反応に、ひづりは知りたかったことのうちの一つを、もう疑うこともできないほどに理解してしまった。ほぼ確信していた。


 そうなのだ。あのような自由奔放で自分勝手、人を振り回す事をなんとも思わない女を、なぜそこまでこの花札千登勢が愛していたのか。万里子から愛されていたのか。普通だったら、たとえ仲が良い姉妹だとしても、こんな風にこじらせたりしない。


 しかも二人が出会ったのは高校生になった時だという。幼少期に両親が離婚し、苗字が変わり、計算してみれば離婚当時、花札千登勢は三歳の子供で、姉との幼少期の事など憶えているはずがないのだ。


 だから、重要なのだ。その《高校生の時期》というものが。二つ違いの姉妹が高校で出会ったとしたら、その時花札千登勢は高校一年生で、扇万里子は高校三年生なのだ。そして母が児童養護施設で守られるに至ったのは、その高校三年生の年だと聞いている。


 母は、当時扇の苗字を持っていた扇万里子は、実母や祖母、そして義父によってひどい虐待を受けていた。その当時の母の体にあった傷は、ひづりが生まれてから見て来たような白く薄まったものではないだろう。毎日のように増えるそれらは、きっと新鮮な赤い切り傷と、痛々しい紫の痣だったはずなのだ。


 当時恋人同士であった幸辰と、その父……つまりひづりの父方の祖父と、その知人を始めとした法律関係者、そして警察によって、ようやくその権威者であった扇家から万里子は救い出されたという。


 そんな傷だらけだった扇万里子と、在学期間の問題できっと一年も話すことが出来なかったはずの、実質それが初対面だった花札千登勢との間に一体何があれば、あの葬儀の日、あれほど取り乱し終始泣き続けるようなほど愛し合う姉妹仲にまでなれたのか、それがひづりは気になったのだ。


 児童養護施設へ入ったのち大学へ進むと、その三年後に父と結婚し、翌年長女を産むなり母はイギリスへと渡った。慌しい日々だったに違いない。


 高校で触れ合えた期間は一年も無かった。その一年の間か、あるいはその後児童養護施設で守られた母が大学へ通う間の、そのどちらかでしか、二人のその普通の姉妹を超えた愛情は芽生えることは出来なかったはずなのだ。その後母はほとんどイギリスに居たのだから。


 それに、ひづりが知る限り、前途の通り母は性格がかなり特殊なのだ。十代の頃どうだったかは知らない。暗い少女だったかもしれないし、明るく振舞おうとしていたかもしれない。だがとにかく十七年見て来た母の性格は、最後まで貫徹していた。


 花札千登勢は一体、何を見たのだ。何をしたのだ。それがひづりには理解も想像も出来ないのだ。当時、わずかしかなかった姉妹としての互いの時間の中で、彼女達の間にそこまでの絆を結ばせるだけの、一体どんな物語があったのか。


 それを聞きたい。そこにこそ、二年以上抱え続けて来た母への《後悔》を少しでも打開する答えがきっとある、と、ひづりはそんな気がしていたから。


 だから教えて欲しい。この世の地獄を見て十代を過ごした母が、何故あれほど幸せそうに生きて、父を愛し、妹を愛し、死ぬことが出来たのか。何故十七歳まで生き別れていた妹に対し、こんなに想われるほどの愛情を抱くことが出来たのか。


 ひづりは今、おそらくはとても重大なことを知るべく、ここに居た。


「それは……」


 花札千登勢はなかなか語りださなかった。記憶の中から、姪に語れるであろう部分を抽出し、義兄である幸辰への配慮、そして亡き姉への想いを胸に、慎重に言葉を選んでいる風だった。


 その苦しげな顔に、ひづりはまた今更ながらに胸が痛んだ。


 花札千登勢と扇万里子の間にあった出来事は、二人が仲良しになれた理由というのは、万里子が救い出されるその瞬間にこそあったのではないか、とひづりは考えていた。あの優しい父、幸辰の口からはおよそ今後も語られないであろう、そのきっと耳を覆いたくなるような凄惨な被害を受けていた少女であった頃の母の話だ。


 それを自分は今、叔母に語らせようとしている。この優しくて気弱で、けれどとても愛情深くて可愛らしい、そして自分に対し好意を抱いてくれているこの叔母に。……自分はひどい姪だ、とひづりは服のすそを握り締めた。


 それでも、これは二度と転がり込んで来ないかもしれない、重要な機会なのだ。当時の正確な事実を聞き出す事が出来るのは、やはり当事者であったこの叔母、花札千登勢を措いて他に居ないから。


 これは自分のエゴだ、とひづりは自覚していた。自分の中にある母への《後悔》に対し向き合う事が出来る手段を、情報を得たがる自分のエゴだ。


 だが、叔母を苦しめてでも、それでも自分には知る権利もあるはずだと自分に言い聞かせ、ひづりはエゴを通す覚悟をした。


 無くしてでも。傷つけてでも。教えて欲しい。一緒に背負わせて欲しい。


 良い意味の言葉としても、悪い意味の言葉としても、自分たちは家族なのだから。


 やがて千登勢は顔を上げ、ひづりを見つめて言った。


「……お父様が……幸辰さんがきっとお話しになっていないから、わたくしに訊ねますのね……?」


 再び罪悪感が胸を満たしたが、ひづりは視線を逸らさずに問い返した。


「はい。父は、そういった話を一切してくれません。優しい人ですから。特に私に対しては、少々度が過ぎるくらいです。けれど、私もあの母の娘で、あなたはあの母の妹です。知りたいんです。高校生の時の姉さんと、千登勢叔母さんの間に何があったのか」


「…………どうして、知りたいんですの?」


 問い返され、ひづりは一瞬頭が止まった。


 覚悟ばかりしていたが、そこの理由が説明できない自分を、ひづりはこのとき発見してしまった。


 子供の頃、母の体の《傷》の事で母を泣かせてしまったこと。それを後悔していること。《傷》の話をする母を止めてあげられなかったこと。それを最期まで謝ることが出来なかったこと。それらの《後悔》に答えが欲しいという、エゴ。


 果たして自分にそれを話せるのだろうか。官舎万里子を愛していた、そして今も変わらず愛しているであろうこの叔母に、自分はこの胸のうちの汚れを、叔母が愛するその官舎万里子にしてしまった残酷な行為の話を。


 ――言えない。ひづりは視界が暗く、せばまっていくのを感じた。いつの間にか動悸がしていた。自分の中の最も汚らわしい部分、認めたくない自分の圧倒的な非。それを、一番傷つくであろう人の前で語る? そんなことが正常な人間の頭で出来る訳がない。


 茫然自失のひづりの様子に気づいたのか、千登勢がシャツの袖を摘んで声を掛けた。


「ひ、ひづりさん? ひづりさん? どうなさいましたの?」


 はぁっ、と深い息を吸うと同時に我に返り、ひづりは荒げた呼吸のまま視線を叔母に向けた。彼女の顔には心配の色があった。


「ひづりさん……?」


 ひづりはおもむろに立ち上がるとうつむいたまま言った。


「……タクシーを呼んでください。その足で歩いて帰るのは無理です。悪化するとひどくなりますから、絶対に二日は安静に……」


「え、あの、ひ、ひづりさん……?」


 明らかに様子が豹変したひづりに叔母はにわかに立ち上がって声を掛けた。そばの《ヒガンバナ》が、一応彼女が転ばないようにと片手を背後に添える。


「……ごめんなさい。聞くべきじゃない……するべきじゃない質問でした。私が間違っていました。すみません、今の質問は忘れてください。二度としません」


 ひづりは力なく立ちつくしたまま、ぽつりぽつりと、今の精神状態で言える精一杯を伝えた。


 エゴがなんだというのだ。自分の《後悔》がなんだというのだ。家族だから知りたいなんて、ただの卑怯な方便だ。自分がしようとしていたのは他でもない、自分が楽になりたいがためだけに叔母を傷つける、そんな最低な行為だった。


 何をしていたのだ自分は。何を焦っていたのだ。こんな馬鹿みたいに、何を……。


「千登勢さま!」


 にわかに、背後で《ヒガンバナ》の叫ぶような声が聞こえた。ぼんやりと振り返ろうとしたひづりの体に、凄まじい質量の衝撃が走った。


 大きくて、熱くて、柔らかい。そんな何かが、ひづりの体に密着して、そしてがっしりと捕まえていた。


 ふわりとした黒髪が視界に入り、見ると、左肩に黒い頭が乗っていた。……花札千登勢の頭だった。彼女は少し屈んだ姿勢で、ひづりに抱きついていた。


「叔母さん……? 急に立ったら、足が……」


「足なんてどうだって良いんですの!!」


 大声で、ひどく怒った声で彼女は怒鳴った。至近距離で発せられたその怒号にひづりは思わず我に返るようだった。


「お、叔母さん……?」


 花札千登勢はよりぎゅっとその腕に力を込めると、にわかに語り始めた。


「……姉さんが虐待を受けていたのは確かですわ。姉さんのあの傷は、全てその時の物です。そしてそんな環境にあった姉さんが助かったのは、当時お付き合いをされていた幸辰さんと、そのお父様と、知人の弁護士の方や、警察の方々の協力あってのこと……」


 急に、彼女の腕から力が抜けた。ひづりは振り返り、彼女を正面に見据えた。まっすぐ立ってうつむいた彼女の顔を、ちょうど目の前で見上げる格好になった。


 彼女はまた泣いていた。けれど、その泣き顔は今までのそれとは少し違うとひづりは感じて、そしてその正体が《後悔》という名の《痛み》だと気づくのにも、そこまで時間は要さなかった。


「……わたくしは……わたくしはあの時、何も出来なかったんですの……。姉さんが、あんな眼に遭っているって知って、分かっても……それでもあの頃のわたくしには、何一つ姉さんのために、何も出来なくて……扇の家が怖くて……。たった一人の妹なのに……姉さんはずっとつらい思いをしていたのに……わたくしは……わたくし……は……」


 彼女の顔はもうトマトのように真っ赤になって、八の字に歪んだ眉毛の下では涙と鼻水がもう一度に溢れ流れ、言葉も絶え絶えになんどもしゃくりあげながら子供のように泣き続けた。


 ああ、ああ、駄目だ。駄目だ。こんなことは。


 ひづりは思わず叔母の頭に手を伸ばして抱き寄せるとそのまま頬をすりつけながら頭をそっと撫でた。


 あの日。葬儀の日。彼女は《鏡》だったのだと、ひづりはそれを思い知った。


 花札千登勢は、母を失った悲しみだけで棺桶にしがみついて泣き喚いていたのではない。それだけではなかったのだ。


 彼女にはずっと《後悔》があったのだ。生き別れた姉が、同じ人権を持つ少女として生まれたはずの姉が、健康に真っ当な教育を受けて育った自分と違い、およそ普通の少女が受けるにはあまりにも凄惨に過ぎる仕打ちを十七年間も受け続けてきた、それを知って尚、何もしてあげられなかった当時の自分の無力さを。扇家を恐れて何もしなかった自分の弱さを、そんな自分の醜さを。彼女はずっと悔いて生きて来たのだ。


 さぞ苦しかった事だろう。彼女は四十三歳。もう三十年近く、そんな《後悔》を抱えて生きて来たのだ。遠く離れた地で生きる姉に、きっと一度も贖罪する機会を得られず、言い出せず、何も果たされないままに――。


 だから彼女は姉の棺桶を前に、あんなにも泣き喚いていたのだ。あんなにも取り乱して、悲しみと後悔に押しつぶされていたのだ。


 自分の《後悔》など、彼女に比べてどんなものなのだ、とひづりは思った。あの時、母の棺桶を前に「ごめんなさい」などと泣く資格が自分にあったのか。


 官舎ひづりは遺された。それを今こうして自覚した時、自分に一つ成さねばならない事があるとすれば、それはきっとこの場で《後悔》という痛みに泣き崩れる叔母に対し、《大切なこと》を伝える事に他ならないのだろう。


 ひづりは叔母の頭を撫でながら、安心させるように優しく、ゆっくりと語った。


「……千登勢叔母さん。叔母さんがどんなに《後悔》していても、何も出来なかったとしても、それでも母さんはきっと、ほんの少しだって、千登勢叔母さんのこと、恨んだりなんてしていませんよ。きっとむしろ逆ですよ。だって母さんは、私に千登勢叔母さんのこと、ほとんど話してくれなかったんですから」


 そう言うと少し頭を離し、ひづりは千登勢の眼を見つめた。涙でぼろぼろの顔のまま、彼女は不思議そうな眼で見返して来た。


「だって、考えてみてください。母さん、葬式で誰も友達が来なかったんですよ。母さん、嫉妬深い人だったから。父さんの浮気は疑わなかったけど、他の女の人が近づくことを極端に嫌っていました。ほんと、子供っぽくて、自分本位で、わがままで……だから」


 ひづりは微笑んで、伝えた。


「私が、《あの頃の自分》に似ているから、妹を私に取られるのが、きっと嫌だったんでしょう。あの人は寂しがりだったから、妹からの、千登勢叔母さんからの愛情も、ずっと独り占めしたかったんでしょう。本当に、本当に子供みたいな人でしたから……」


 そう言い終えると、千登勢はうつむいて、また顔をぐしゃぐしゃにゆがめて涙をぼろぼろとこぼしながらひづりの胸元に顔を押し付けた。


「愛されていましたよ、千登勢叔母さんは。母さんにちゃんと愛されていました。過去にどんなことがあったとしても、千登勢叔母さんが《後悔》を忘れられなくても、それでも、最期まで母さんは貴女を愛していましたよ。自分が欲しいものはずっと自分のものにしておかないと気が済まない。それだけは揺るがない、そういう人だったじゃないですか、あの人は、ね……」


「うええ……ええ……ひぅ、うう……ええぇぇん……」


 ひづりの胸に顔を押し付けたまま、子供のように千登勢は泣いた。わがままで自分勝手で子供のように我慢の利かないあの母と同じように。


 姉妹ですよ、貴女たちは。本当に、心から本当に羨ましいと思うくらい、素敵な……。


「……すんっ……。……ひづりさんも、そうだから、なのでしょう……?」


 するとにわかに、千登勢がぽつりと言った。


 ……何だ? そう思った矢先、千登勢は今度は逆にひづりの頭をぎゅっと抱きしめて自身の胸にうずめ、そのままいきなり撫でまわした。


「分かっていましたもの……ひづりさんが『ごめんなさい』って何度も謝っていたの、すぐそばで聞いていましたもの……わたくし、分かっていましたもの……」


 千登勢はまるでその涙が出尽くしたかのように、今度は優しい落ち着きの有る声で語り始めた。


「この子は、わたくしと同じ《後悔》を抱えているんだって、分かっていましたの……それが何かは分かりませんが……でもきっと、姉さんが、母親があんなに早く亡くなるなんて、思っていなかったんですわよね……」


 千登勢は言った。


「生きているうちに、謝っておきたかったんですわよね……。姉さんは、ひどいですわね。こんな良い娘を放って、ずっと海外で……。ひどい人でしたわね……もっと話したかったのでしょう? 伝えたいことがあったのでしょう? ずっとずっと、《後悔》されて来たのですわよね……ずっとお一人で……」


 ……それがとどめであった。ああ、違うのだ、こんなはずじゃあないのに、と思う気持ちとは裏腹に、ひづりの眼からは涙が零れた。零れ、溢れ、止まらなくなった。


「……違いますっ、違います! 私は、傷つけてしまったんです……!」


 ひづりは千登勢から離れるように腕に力を込めた。けれど彼女の力は思いのほか強く、逃がしてはくれなかった。


「……私は……私は、母さんを傷つけたんです! あの時の自分は、傷のことなんて、もう十分に分かっていてもおかしくない年齢でした。……普通の女の人に、あんなひどい傷の痕は無い、夏になればそこら中で水着姿の女性の姿を雑誌の表紙やテレビで見かけることが出来ました。知っていたんです。普通は、あんな傷を持つ人生を送ることなんてないことを……。……それなのに私は……あの馬鹿で……好奇心に突き動かされた、最低なクソガキだった私は……! 人の気持ちを考えられなかった私は! 母の、一番傷つけてはいけない場所を傷つけて……!!」


 何であんなに馬鹿だったんだ。何で、すぐに謝れなかったんだ。人がいつ死ぬかなんて誰にも分からないのに、そんなこと、十四歳にもなれば分かったことなのに。


「違いません!!」


 にわかに、大きな声で花札千登勢は叫んだ。


「ひづりさんも、わたくしと同じです。先にひづりさんが言ったのですわよ。姉さんは幸せに生きて、そしてそのまま死んだんだって」


 千登勢はひづりの体を強く抱きしめたまま続けた。


「不幸だった訳ありませんもの!! こんなに優しくて、賢くて、良い娘を持って、不幸なんて言う馬鹿な親、居る訳ありませんもの!! 姉さん確かにちょっと馬鹿でしたけれど、その点でだけは絶対に間違うはずありませんもの!! 絶対、ひづりさんに《後悔》を抱かせてしまったことを、姉さんも《後悔》していたはずですもの!! 姉さん優しいから、絶対、絶対、ひづりさんの抱いているその《後悔》のことを憂いて死んでいったに違いありませんもの……!! 絶対、ひづりさんの幸せを願って死んでいったに決まっていますもの!!」


 ……叫び終えるなり、千登勢はまた泣き出してしまった。


 ひづりは何も言えなくて、抱きしめ合ったまま彼女と同じようにしばらく泣いた。


 母さんはひどい人だ。こんなに可愛い妹を、こんなに泣かせて。


 けれど、ちゃんと愛していたんだね。大切に思っていたんだね。我侭な母親だったけど、そこだけは褒めておいてあげる。


 やがて、いつの間にか胸のうちにあった《後悔》が薄らいでいるのをひづりは感じ、気づかされていた。


 自分の《後悔》に必要だったのは、言い逃れの理屈でも、立ち向かうことでもなく、ただ一緒にこの《後悔》を抱えて泣いてくれるこの叔母のような人だったのだ、と。


 ただそれだけで良かったのだ。一人で抱え続けた《後悔》であっても、一緒に誰かと泣いたって良かったのだ。


 ひづりと千登勢はこの日、ようやくそれに気づけたのだった。




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