第2話 『楓屋紅葉の和裁』




 『二年C組にとんでもないのが転校して来た』という噂は、ほんの二日で学校中に、それはもう十分過ぎるほどに広まっていた。


 オーストラリアから交換留学生としてこの綾里高校に編入して来た女学生、ラウラ・グラーシャ。彼女が《凄まじい》のは、誰もが見惚れたそのその美貌だけではないことを、二年C組の生徒たちは転校初日の一限目からそして放課後に至るまでのたった半日だけで充分過ぎるほどに思い知らされることとなった。


 例えば水泳の授業。彼女は学年一位の運動能力を誇る味醂座アサカと二人、他の生徒たちを完全に置き去りにした水練能力を見せつけた。


 例えば筆記の授業。本と筆を持たせれば彼女は誰より正確にあらゆる科目への理解と解答を示して見せた。こちらは比較が難しいが、学年トップを走り続けている奈三野ハナが珍しく熱く対抗意識を燃やし、競うように授業中に何度も手を上げるほどだった。


 そうしてラウラは、彼女は、その普通の高校生と遥かに次元の違う自身の《性能》の噂を、二年C組を中心にあっという間に綾里高校中に知らしめてしまっていた。明日は土曜で休みだが、週明けには近隣の高校にまで噂は届いてしまっていることだろうと思えるほどに彼女は本当に《凄まじかった》。


 そしてそんな彼女にこの二日間、授業中と言わず休み時間と言わずくっつき回られ続けている官舎ひづりの心労はと言えば、それはもう同じくらい凄まじいものだった。


 初日。午前の授業の段階でもうすでにその《性能》を見せつけ始めていた彼女を昼休みに百合川と共に図書室へ案内すると、引き続き強烈な午後を過ごした後もまた彼女に引っ張られて図書室へと向かうことになり、そして本日金曜日も全く同じ状態となってしまっていた。


 「日本、ちょっとやっぱり寒いです」などという、理由になっていない理由で彼女はしょっちゅうひづりにくっついて腕を組んで来た。また席が隣というだけで、彼女は授業中、常に机も肩も顔もひづりに近づけて来るのだった。


 ただ彼女は本当に図書室が、本が、何より大好きなようだった。それは転校する以前から須賀野に何度も語っていた事らしく、そして良い性格をしている彼は、ラウラが二年C組に編入し、図書委員のひづりに懐いたと知ると、それをもう完全にひづり任せにした。しやがった。


 そして当然問題は起きていた。アサカとハナ、特にアサカだ。初日、いきなりラウラがひづりに抱きついたせいでうっかり流血沙汰が起きかけた。素早く反応した百合川たちのおかげでそれは防がれたが、それからもうアサカは完全にラウラを敵対視するようになっていた。


 しかし初日のホームルーム以降、アサカがラウラに直接的な攻撃をするような事は無くなった。それがひづりとしては幸いであった。


 アサカは幼稚園の頃からずっとひづりにべったりではあったが、しかし彼女には「ひづりが望んでやっている事」に対して絶対に反対しない、という部分があった。つまり「図書委員として、図書室が好きな転入生の世話を任され、それを引き受けたひづりの意向」というものを、彼女は決して否定しないのだ。その邪魔をしない。ひづりがやる事を彼女はいつも正しいと信じてくれる。たとえどんなに、今回のようにラウラ・グラーシャのような気に食わない存在がひづりのそばに居たとしても、それは変わらないようだった。ラウラを無理やりひづりから引き剥がすようなことを彼女はしなかった。


 ただ前途の通り、水泳の授業ではアサカは完全に全力を以ってラウラと競い合っていた。ハナもハナで、負けじとその知識と学力を競っていた。ひづりがその責務を引き受けた事をアサカが認め、それにハナも追従してくれたとしても、両名共に対抗意識が消えた訳ではないようだった。


 しかしそれでもラウラはまだ余力を残して楽しんでいるようにすら見え、アサカやハナの眼も気にせず引き続きべったりとひづりにくっついてまわるのだった。向けられるアサカの視線が、ハナの視線が、ひづりの心臓へ間接的に突き刺さり続けていた。


 なのでひづりも可能な限りラウラが度を越えた肉体接触をしてこないよう、「ちょっと暑いから」とか「汗掻いてるから」とかいろいろとその都度言い訳を考えて極力アサカたちの精神的負担を減らすことに努めていた。努める他なかった。


 特にアサカに対してひづりは申し訳ない気持ちでいっぱいだった。彼女はひづりの意向には全力で肯定してくれるのだが、かつてそのために凄まじい事件を起こしたことがあった。あれはすごく危険で、恐ろしい事だった。ひづりとしては彼女にはもう血飛沫だとか骨折だとかいう恐ろしい事にその才能を使って欲しくなかった。だからラウラには遠慮というものを、距離感というものを、これからひづりは理解してもらえる様に努めていくつもりだった。


 ただ、二日目にしてもうひづりは疲れ果ててしまっていた。放課後、ひづりはラウラを百合川に押し付けるとハナとアサカにハグと頭なでなでをしてから、「すまん。ちょっと疲れた。今日は一人で帰って休む。ごめん。ありがとう」と告げ、そのままそそくさと下校した。


 休んだ三日分の回復が、まるで全部消費されてしまったようだった。ひづりは一人ふらふらと帰路についた。








 校舎を出てから一時間弱。あぁ、やっと帰って来た、とほとんど空っぽの頭で玄関の扉に鍵を刺した瞬間、ひづりの意識はにわかに冴え、一瞬動きが止まった。


 右に回したその鍵に、手応えが無かったのだ。鍵の右回転は官舎宅の玄関の解錠を意味していた。サムターン錠の下がる感触が本来なら鍵越しに伝わるはずだった。しかしそれが無かった。


 要するに玄関の扉に鍵が掛かっていなかった。


 ひづりは扉から静かに離れるとマンションの廊下の左右、自分が乗って来たエレベーター、そして階段の方へと視線を素早く伸ばした。聴覚にも集中するが、周辺住宅の喧騒や風の音のせいで、近くに誰かが隠れている、というような気配を察知するのは不可能だった。


 ひづりは意を決し、引き続きマンションの廊下周辺に意識を向けつつ、音を立てないようそっとドアノブを捻って数センチばかり扉を引いた。やはり解錠されており、戸はゆっくりと開いた。


 父からは何の連絡も無かった。まだ家に帰って来てはいないはずなのだ。だが確かに朝、家を出る時に消したはずである官舎宅の廊下の電気は点けられ、またその奥のリビングに繋がる扉のすり硝子の向こうも灯された蛍光灯の明かりが窺えた。


 視線を落とすと見知らぬ女物の靴が玄関に雑に脱ぎ散らかされていた。


 ……誰だ? いや、女一人の空き巣、と油断させて、その実、奥の部屋に男の強盗が数人居る、という可能性だってある。


 もう一度マンションの廊下側に視線をやってから、ひづりは靴の先端を扉にそっと挟み、スマートフォンを取り出して一一〇を押し、通話ボタンを――。


 と、その時だった。知っている臭いが仄かにひづりの鼻を掠めた。意識を集中するとそれはどうやら家の中から漂って来ているようだった。


 間違いない、ひづりの知っている、嗅ぎ慣れた、とあるお酒の臭いだった。確かプルースト効果と言うのだったか、その酒を愛好している女の知り合いの顔がひづりの頭に不意に浮かんで――。


「あれぇ? あー! やっぱりひづりちゃんだぁ! おかえりぃ~!!」


 ……それが、リビングに通じる扉の隙間からにょっきりと現れ、笑顔で手をぶんぶんと振った。


 ひづりは通報のボタンを押しかけた指を離し、静かに眉間に皺を寄せた。


「…………紅葉さん」


「あははー! そうだよ紅葉お姉さんだよ~! 久しぶりひづりちゃ~ん!! 元気してたぁ?」


 そう言って彼女、楓屋紅葉は。旧姓、官舎紅葉は。ひづりの父方の呑んだくれの叔母は。廊下を駆けてひづりに抱きつくとそのまま上機嫌に酒臭い息を吐き出しながら姪の顔をその胸にぎゅうと押し付けて楽しげに笑い声を漏らし始めたのだった。




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