『執着心の亡霊』 4/6
「天……使……?」
ひづりは思わず息を呑んだ。これがラウラや天井花さんの言っていた《天使》……? 《ボティス王》の持ち物の奪取を目的として《和菓子屋たぬきつね》を監視しているとそう想定し警戒していた敵の本隊……?
《天使》を見るのは初めてだった。けれど創作物や天井花イナリ達の話、そして実際に七月に見た《堕天使ベリアル》の姿とそこまで乖離していない事から、ひづりはその容姿に関して予想外に思う部分はさほど無かった。想像していたより小さい、十代の人間くらいの体をしているんだな、と思った程度だった。
だが驚いたのはその数であった。一体何人居るのか、三十……五十……いやもっと居る。それらが、槍や盾、弓といった武器を手にこちらを睨んでいた。
戸惑いつつも周囲をよく観察すると、ひづりと天井花イナリは先ほどの《鳥篭の檻》に閉じ込められたまま《天使》たちの一団からずいぶんと遠ざけられた場所に立たされていた。《檻》の外は平らな地面にたんぽぽの綿毛が一面敷き詰められたようになっていて、景色は前後左右どちらを向いても青空しか見えない。恐らく先ほどの巨大な《転移魔術の魔方陣》でどこか知れない全く別の場所へ連れて来られたらしかった。
《檻》から最も近い、およそ十メートルほどの場所に凍原坂と《火庫》が居た。二人は何故かビロウドのソファに座らされており、何が何だか分からない、という顔で硬直していた。傍らには一際大きな《光輪》を持つ《天使》が一人と、それから弓と弩の様な物を携行した《天使》が四人、二人を取り囲む形で配置されていた。
凍原坂たちの左奥に《天使》たちが特に大勢集まっている場所があった。ほとんどの《天使》がそこに割り当てられているようだった。弓と弩を持った《天使》に加え、こちらには槍と大きな盾持った《天使》も混ざっていて、それらが四列に並び大きな輪の様になって《フラウ》一人を隙間無く包囲していた。よく見ると凍原坂たちのそばに居たのと同じ、大きな《光輪》を持つ《天使》がそこにも一人居た。
凍原坂たちの右奥には十人程の《天使》が密集していた。こちらも槍と盾の兵、弓と弩の兵が居て、そしてその《天使》らに護られる様な位置に、先ほど自らを《指揮》と名乗った《天使》が、ずいぶん豪華な装飾の施された椅子に座って顎を上げ、じっくりと一帯を見渡していた。その頭上に掲げた《光輪》は見たところこの場に居る《天使》たちの中で最も大きく、その名の通りの階級に居る《天使》なのだろうと推測出来た。
《指揮》の背後には、金属製だろうか、正四角形の小さな檻が浮かんでいて、中には猿轡をされた夜不寝リコが四つんばいの格好で囚われ、面の部分からは頭、両手、足首が飛び出し、がっちりと枷で固定されていた。凍原坂と《火庫》もそんな夜不寝リコの状態に気付いたらしい、ソファから飛び上がって悲鳴を上げた。
漠然とだが自分達の立たされている状況を把握し、ひづりは背中に嫌な汗を掻いた。これは……夜不寝さんを人質を取られている、という事なのだろうか……?
「うわぁ!?」
その時突然複数の声が上がった。それは《フラウ》の居た辺りで、ひづりも咄嗟にそちらを見た。
一瞬だった。円形に集まった大勢の《天使》たちの頭上を紫色の炎が飛び越え、《指揮》の居る方角へ向かって流星の様に飛翔した。《フラウ》の炎だった。
だが《指揮》を護る様に密集していた他の《天使》達がその手の巨大な盾を空に掲げ、爆発音と共に炎を受け止めた。炎は盾の表面を抉るほど黒く焦がしたがそのまま燻って消滅した。
《指揮》は眼を丸くして数秒放心した後、笑い声を立てながら椅子から腰を上げた。
「ふふははは! さすが《フラウロス王》! 話をするならまずは実力を……という訳ですね! ふふふ、理解出来ますよ、その御意思……! ふふふふふ!」
そして腕を組み、機嫌が良さそうに頷いた。
けれど。
「しかし……《王》なら状況くらい見るべきでは?」
と一転して冷たい声を放った。
「──ッ!!」
檻の近くに居た《天使》が夜不寝リコの太腿に思い切り槍を突き刺した。ドキリ、とひづりは心臓が跳ね上がった。鋭い呻き声を上げながら夜不寝リコはもがいたが檻はガシャガシャと鈍い金属音を立てるだけだった。
「リコちゃん!!」
「リコさん!!」
咄嗟に駆け寄ろうとした凍原坂と《火庫》の前に弓と弩の《天使》たちが立ち塞がり二人の足を止めた。
「──!! ──ッ!!」
猿轡で悲鳴を禁じられた夜不寝リコは低く荒い呼吸で真っ赤にした顔に涙と脂汗を流していた。体は痙攣するようにずっと揺れており、檻もカチカチカチカチと小さな音を立て続けていた。
「《フラウ》、駄目よ!! 攻撃しては!!」
《火庫》が包囲陣の向こうに居る《フラウ》へ悲痛な声を上げた。
その時、《指揮》がニヤリと笑ったのをひづりは見た。酷く嫌な印象を受ける笑い方だった。
「ご安心ください皆様。今のはこちらの話を聞かず行動した《フラウロス王》への対応に過ぎません。人質をいきなり殺したりはしませんし、急所も外しています。ですが、状況だけは理解して頂かないと困ります。お集まり頂いたこの場のどなたにも……」
そしてそう言いながらひづりと天井花イナリ、凍原坂と《火庫》、最後に《フラウ》、と全員の顔を確認した。辺りに無言の緊張が張り詰めた。
しばらくしても《天使》たちの包囲陣から再び紫色の炎が飛び出す気配は無く、《指揮》は満足そうな顔をした。
「賢明なご判断です。さて、では改めて自己紹介と、本日の用件をお伝えしましょう。我々は《天使》。皆様の《人間界》を護り安寧を齎す我らが《神》、その白き翼の一枚の羽に御座います。そして本日はその職務のため、《フラウロス王》と《ボティス王》、お二人の首を頂戴しに参りました」
そう言って恭しくおじぎをした。
「ふっはっはっはっはっは!!」
ひづりはまたびっくりして、そして今度はすぐ隣の出来事であったから思わず肩を竦めてしまった。
天井花イナリが大声を上げて笑っていた。タイミングもそうであったし先月以来の事だったので本当にびっくりした。
「《ボティス王》。何やらご機嫌でいらっしゃいますが、如何なさいました?」
《指揮》が訊ねた。言葉遣いは丁寧だったがその目尻がぴくりと小さく痙攣したのをひづりは見逃さなかった。
天井花イナリは笑いながら言った。
「《ベリアル》、《グラシャ・ラボラス》と来て、さて次はどの様な刺客を寄越してくるのかと思えば、まさか……ふはははは! 《主天使》とは!! これだけ思わせぶりにしておいて、よもや早くも種切れと言うのでは無かろう!?」
そしてまた馬鹿にするように哄笑した。
「《主天使》……?」
ひづりは、確か《レメゲトン》で時折眼にした名前だったような……と思い出した。と同時に、こちらに向けられている《天使》たちの顔その全てが天井花イナリに対して強い怒りの感情を露にしている事にも気付いた。
《指揮》の顔からは表情が消えていた。
「……何故、我々が《主天使》だと? あなたに《天界》の事情を話した《堕天使》でも居ましたか? それとも、それも《グラシャ・ラボラス王》の推測ですか?」
天井花イナリはまだ、ふふふ……と笑っていたが、そこそこ満足したのか今度はちゃんと答えた。
「何故も何もあるまい。そのちんけな《光輪》、一目で《下級天使》と分かる。しかしそれにしては翼が無闇に大きく傷みも無い。またどの者も構えた武器の扱いから精錬されたものが見えん。と来れば、お主らは三千年前の大戦の生き残りではなく、あの時も変わらず遠征広報のために彼の地から遠ざけられ、終始参戦の許可を与えられんかった、除け者の《主天使》以外に考えられまいよ」
そう言って眼を細めた。
ひづりは改めて《天使》たちの容姿を注視した。突然降って来た《檻》に、《転移》に、その数に、と圧倒されていたが、しかし確かによく見ると《天使》たちの頭上に輝く《光輪》はたとえ一番大きな《指揮》の物であってもせいぜいレコード盤くらいの大きさしかなかった。《堕天使》の《角》は《天使》であった頃の《光輪》がそのまま変化したものだ、と以前天井花イナリから聞いた事があった。あの時間近で見た《ベリアル》の頭上に伸びていた《円形の角》は、直径八十センチメートルはあろうかという厳めしい代物だった。
となると、天井花イナリの言う通りこの場には少なくとも《ベリアル》以上の力……《神性》を持つ《天使》は居ない、という事だった。それに、《角》や《光輪》は《魔力》を受け取るアンテナであり、また受け取った《魔力》を溜め込む貯蔵器官でもあるから、やはりそれが小さい者より大きい者の方が《魔力》を潤沢に扱え、《魔術》の発動回数も研鑽回数も増加するので、そうした《角》や《光輪》の大きさが往々にして直接その者の評価に繋がる《魔術界》の定説で言えば、こんな風にどれだけ数が居ようと、どうしても《下級天使》では《ソロモン王の七二柱の悪魔》のような《上級悪魔》には叶わないはずなのだった。
そう思えば、《天使》たちが夜不寝リコを人質に取った理由も分かる気がした。勝てないからだ。この場の《主天使》……《下級天使》では、《ボティス王》にも、《フラウロス王》にも。
そう、やはり人質という手で来るのだ、《天使》たちは。《ベリアル》の時に体験していたし、それ故に実感としても分かっていたつもりだったが、それでも変わらずあの時と同じ強烈な不快感をひづりは禁じ得なかった。
《指揮》が一つ、長く大きなため息を吐いた。
「さすがは《ボティス王》、博識であらせられる。確かに我々は《主天使》です。かつて遠方に放り出され、各地で信仰を広める役割を与えられた、僻地担当の《下級天使》でした。戦争に最も関わりの無い、彼の大戦に於いても《天界》から一方的に役立たずとみなされ、控えにさえしてもらえなかった者達の集まりです。……しかし……今日は我々のこの《主天使》という階級も、あなたの《悪魔の王》という肩書きも、まるで意味を成さないでしょう」
そしてそう得意げに謳うように言った。
「ほう、それは何故であろう?」
天井花イナリが訊ねた。
《指揮》は両目と口を大きく開いて声を高めた。
「何故? 先ほど貴方はその身で体験したはずだ。《上級天使》の大盾すら両断する、彼の《ボティス王》の《調停の剣》。しかしかつて猛威を振るったその《剣》の刃は今、貴方たちを閉じ込めた我らの《檻》を破壊するには至らなかった……。その意味、聡明な貴方に分からないはずがないでしょう?」
強気な《指揮》の言葉に天井花イナリの眉が微かに揺れた。
《指揮》は続けた。
「《七二の悪魔の王》はこの惑星に祝福された存在です。故にそれを縛る《魔術》はこの地球上ではそもそも誕生し得ない。この先何千、何万という月日を人類が歩もうと、恐らく《防衛魔方陣術式》以上のものを編み出す事は叶わないでしょう。しかし数年前、とても良いニュースが我々の元に届きました。《ボティス王》。あなたが《神性》に縛られた、というニュースです」
《指揮》の唇が三日月に歪み、他の《天使》たちの口からもクスクスと笑い声が生まれた。
「貴方たちを閉じ込めたそれは《封聖の鳥篭》。《天界》にのみ伝わる《概念魔術》であり、かつて大罪を犯した《天使》を封じ込め《魔界》へ堕とすのにも用いられた、究極の《対神性兵器》です。《悪魔》であった頃の貴方には何の意味も無い硝子細工の檻だったでしょうが、しかし今の貴方はこの日本の《神性》に縛られた《ウカノミタマの使い》だ……。その体が持つ性質も、その体から生じる権能にも、必ず《神性》が伴う。つまり、《神性》を帯びた今の貴方の《剣》では、その《封聖の鳥篭》は破壊出来ない、という事です。加えて貴方には飛び道具がない。知っていますよ。貴方が髪を伸ばせる最大射程は先日の《ベリアル》との戦いで《神性》が強化された状態でもせいぜい九メートル弱だった事……」
ひづりと天井花イナリが居る《檻》と、そこから最も近くに配置された弓と弩の《天使》たち、その間に空けられたおよそ十メートル強の距離。それをなぞるように《指揮》は人差し指を動かして見せた。
「貴方のおっしゃる通り、我々は《下級天使》で、貴方がたは《上級悪魔》だ。ですから《概念魔術》が有効に働こうと決して過信はしません。ナメてもいません。必要な対応を、必要なだけさせて頂いている、という訳です。それと説明ついででお話ししますが、皆様がお立ちになっているこの大空に浮かぶ白い雲のような場所、これも《天界》が編み出した《結界》の一種で、《神のてのひら》と言います。《上級天使》や《上級悪魔》が用いる《結界》と比べると多少性能は劣りますが、それでも光、音、電波、そして微弱なものであれば《魔力》も遮断出来ます。故に今、地上の何者も我々の姿を視認することは出来ませんし、《悪魔》が用いるという《交信》も此処と外では通信不能です。ふふ。残念でしたねえ《ボティス王》? 《人間界》で再会したというあなたの配下、《ヒガンバナ》でしたか? 純粋な《悪魔》であるあの者に《交信》で事情を説明しこちらへ来るように言えたなら、ひょっとしたらその《封聖の鳥篭》も破壊出来たかもしれませんね? あぁ、それでも確かあなたは《千里眼》と《転移魔術》をお持ちだ。試しに貴方から彼を呼び寄せてみてはいかがです? ふふふ……《交信》による状況説明も受けられず、《転移魔術》で呼び寄されたばかりの《下級悪魔》が、一体どれほどの速度でその《封聖の鳥篭》を壊せるのでしょうね? 我々の矢があなたの《下級悪魔》の体に風通しのよい穴を開けるのとどちらが早いか、試してみるのも一興ではないですか?」
そう《指揮》は捲くし立てるように言い終えた。
「…………」
天井花イナリは口を一文字に結び、何も返さなかった。
「ご自身の置かれた状況をご理解頂けたようでなによりです」
《指揮》は胸を張り、また大げさにお辞儀をした。
「そんな……」
ひづりは《檻》を見上げて絶句した。
《概念魔術》。その言葉を知っていた。それぞれの《魔術》の中で最も秀で、対象に絶対的な効果を示すが故に、この世界が生み出した決して曲げようの無い《概念》……万有引力や時間等と同種の力ではないかと区分されている、歴史的にもごく一部の者にしか扱えなかった究極の《魔術》。
そしてひづりがその単語を知ったのは《レメゲトン》に記されていた《防衛魔方陣術式》の項目に眼を通した時だった。
短い一文だったがそこには確かにこう書かれていた。
『──この防衛魔方陣術式は、天界に存在する高度な概念魔術を元に再解釈し、編み出されたものである──』
……と。ひづりは己の体が急速に冷えていくのを感じていた。
これなのだ。《魔方陣》の色の濃さと描画の出来によってはこの上ない防御性能を発揮するとされる《防衛魔方陣術式》、あれは、この《封聖の鳥篭》と呼ばれた《概念魔術》を元に作られたものだったのだ。
そして先ほどの《指揮》の説明が全て事実であるなら、天井花イナリの《剣》の刃が一切通らなかったのはこれが《神性を持つ存在の攻撃を悉く封じる概念魔術の檻》だから、官舎万里子に騙されて《神性》の存在である《ウカノミタマの使い》にされてしまった今の天井花イナリではどうあがいても決して打ち破れず、実質この直径三メートルほどの《檻》の中で彼女は完全に無力化されてしまった、という事だった。
しかしだからといって煽られるがまま《ヒガンバナ》を呼び寄せて《檻》を破壊してもらおう、などという手も採る訳にはいかない。確かにこの《檻》が《神性を持つ存在》に対してのみ高い防御効果を発揮するなら、《魔性》しか持たない《ヒガンバナ》などの《悪魔》であれば破壊出来るのでは、とも考えられるが、けれど先ほどの《指揮》の口ぶりから察するに、きっとこの《封聖の鳥篭》自体が《神性》も何も関係なく最初からそれなりに強度のある材質で作られていて、だから破壊するためには《下級悪魔》の力では確実に幾らか時間が掛かるだろう、とはっきりとした当てをつけているのだ。そうでなければ「やってみてはどうだ?」なんてわざわざ言う必要が無い。あの《指揮》の顔は明らかに、呼び出された《ヒガンバナ》が《檻》を破壊出来ないまま無惨に殺されるのをこちらに見せつけて絶望感を与えようとしている、そういう類の考えがある顔だった。
残された手として、ひづりの《防衛魔方陣術式》を《封聖の鳥篭》にぶつけてみる、といったものがあったが、しかしこれも期待出来るとは言えなかった。天井花イナリが《神性》に縛られている事や《ヒガンバナ》の事など、ここ数ヶ月の《和菓子屋たぬきつね》の活動は、どのような手段を用いているのかは知らないが、監視され、様々なデータを取られていたらしい。であれば、ひづりが八月から《防衛魔方陣術式》を使えるようになった事だってこの《主天使》たちが知らないはずはないのだ。故に、その対策は既にとっている、あるいは、官舎ひづりの《防衛魔方陣術式》ではこの《封聖の鳥篭》を打ち破る事は出来ないという確実な根拠があちらにはある、と見るべきだった。
それにあの《指揮》はどうもおしゃべりが好きらしいが、それでもこれだけの人数を揃え、ここまで考えて《ボティス王》を倒すための準備をして来ている。現時点で見えているだけでも、夜不寝リコが囚われている檻の遥か後方にはまだ触れられていない二門の大きな弩砲らしき物が四人の《天使》らによって護られているし、この《封聖の鳥篭》や《神のてのひら》のように、これまでこちらが知り得なかった《天界の兵器》や罠がまだまだ用意されている可能性は十分にあった。
だから、《指揮》の言葉を借りる事になるが、こちらも決して油断など出来ないのだ。天井花イナリは最初に「下級天使がわしらに挑むなぞ冗談であろう」と笑ったが、それもこれだけの兵力と下調べと用意がなされているとなると話は大きく変わってくる。天井花イナリが先ほどから黙っているのもきっと自分達が置かれている抜き差しならない状況を理解し、うかつな発言や行動は危険だと判断したからなのだろう。
ひづりの背中を嫌な汗がじっとりと濡らしていた。《隔絶の門》が在る現在の《人間界》に於いて《悪魔》は《天使》に対し圧倒的に不利である。それは分かっていたつもりだったが、まさかここまでこちらの弱点を突く手段が《天使》たちにあるとは想像していなかった。それも、本来の《ボティス王》が真っ当に戦えば負けるはずが無いであろう、こんな《下級天使》たちに……。
「《ボティス王》はもう言葉の用意が無いようだ。ですがご安心ください、貴方の《順番》は最後ですので、それまではそちらでごゆっくり、次の会話の内容でもお考えになっていてください」
《指揮》は天井花イナリへの嘲笑を片手間に椅子へ座り直すと、今度は《フラウ》の方を向いた。
「では、お待たせしてしまいました、《フラウロス王》。ご機嫌は如何でしょう? そこから私の顔、見えていますでしょうか? ずいぶん縦に縮んだと聞き及んでいたものですから、謁見のためのこの椅子も世界中探し回って特別脚の長い物を用意したのですが……どうでしょう?」
椅子にどっかりと腰掛けた格好のまま《指揮》は見下ろすように顎を上げて言った。天井花イナリとの会話でもう面倒になってきたのかそこにはもう敬意など欠片も見受けられなかった。
ニヤニヤと笑う大勢の《主天使》たちの中心で、《フラウ》はしゃんと背筋を伸ばしたまま《指揮》の言葉に応じた。
「ああ、悪くはないな。わっちの前に立つならば、種も位も関係なく《勇者》の素質がある。故に貴様らの出迎えに不満は無い。その顔もよく見える。ただ……ずいぶんと遠くに椅子を置いたものであるな、貴様? これまで出会った《勇者》は皆我先にとわっちの元へ急いだものであるが……貴様はいつ此処へ来るのだ?」
そう言って足元を指差し、優しく笑った。
《指揮》は一気に険しい表情になった。けれどすぐに眼を細めて深呼吸をした。
「申し訳ありません。何分私共も貴方の様な高名な《王》に拝謁するのは初めての事でして……。ご無礼をお詫び致します。どうかこちらがご用意致しました《催し物》の必要な手順とご理解頂ければ幸いに御座います。またそのためにそちらの家臣である《火庫》にもお伝えしたい事があるのですが、よろしいですか?」
そう言って取って付けたような殊勝な態度を見せた。
「催し物と。……ふん、まぁ良かろう」
早く来い早く戦いたい、という風にその黒い尻尾が左右に揺れていたが、《フラウ》は《火庫》の方を見て譲った。
「有難う御座います」
《指揮》はまた薄っぺらいお辞儀をした。
「…………!」
《フラウ》さん、夜不寝さんを人質に取られてるのにやけに強気に振る舞っているけど、何か考えがあるのかな……? 私達はここから夜不寝さんを助けたり出来ないんだけど……。と気にしていたひづりはそこでハッと思い出した。
そうだ。あるのだ。《フラウ》さんと《火庫》さんには、あんな風に人質を取られていても打てる強力な一手が。
九月の半ば、突然店で働きたいと言い出したあの日、《火庫》は『凍原坂さまを人質に取られても《フラウ》とわっちが意識を合わせて本気を出せば見える範囲どこまでも燃やせます』と言った。それについてあの時は話の流れでつい質問し損ねたが、後で天井花イナリに訊ねてみると「確かに《フラウロス》にはそうした攻撃手段がある」と彼女は教えてくれた。
《空間爆破》と言うらしい。炎が届く範囲に存在する燃やしたい対象物全てを瞬きほどの間に最大火力で消し炭にする《フラウロス王》究極の火炎攻撃で、炎に対する抜きん出た耐性を持たない者や全方位に対応出来る《紫苑級》の防御手段を持たない者は皆攻撃範囲内に居ただけで何も出来ず即死させられたと言う。
火力と範囲と着火速度に秀でる分、発動時に消費される《魔力量》は他の攻撃方法と比較にならず、一度使うと《フラウロス》はその場で戦闘不能となって休眠状態に入りしばらくは何も出来なくなってしまう、といったデメリットもあったが、しかし《空間爆破》発動時、《フラウロス》によって庇護対象扱いとなっている者だけは特殊な《結界》で護られており範囲内に居ても火傷すら負う事が無いため、《空間爆破》による敵殲滅後も味方だけは全員生存させて引き続き戦力として残しておけるので、戦闘不能のデメリット等を押してもやはり状況次第では十分使う価値のある強力な一手には違いなかった。《契約》によって《火車》と融合し分裂した今でも《火庫》の言う通り《フラウ》がその《空間爆破》を使えるのだとしたら、人質を取られたこの形勢を一瞬で逆転させる事もきっと不可能ではない。
それに何より、その技を目撃して生還出来た者が少ないからなのか、それとも単にこれまで《フラウロス王》が頻繁に用いなかったからなのか、とにかく《レメゲトン》の《フラウロス》の項目に《空間爆破》に関する記載は一切見当たらなかった。とすれば、戦場に出る機会が無かったというこの《主天使》たちはその技を知らず、今日に至っても対策していないかもしれない。勝算となる可能性は高い。
そうなれば後はタイミングだけだ。《空間爆破》を使って最も効果があるタイミング、それを恐らく《フラウ》は待っている。おしゃべりな《指揮》との会話から《主天使》たちの弱点を探り、夜不寝リコを救い出す道への確かな標を見定めようとしている。
そしてそこでまたひづりは気付いた。もしかしたら先ほどから天井花イナリが黙り込んでいるのもそうした打てる手がまだあると《天使》たちに悟られないよう追い詰められている風を装っての事だったのかもしれない。彼女はポーカーフェイスを決め込んでおりその考えは読めなかったが、それでも七月からの付き合いであるひづりにはその横顔が諦めを抱いている様には見えなかった。
そう、こちらには《堕天使ベリアル》だって打ち負かした頼もしい《悪魔の王》が二柱も居るのだ。反撃の好機は絶対に来る。静かに深呼吸し、ひづりは腹を決めた。チャンスが巡ってきた時、すぐに《防衛魔方陣術式》を描けるよう頭の中では覚悟とイメージをしながら、一方で《天使》たちに対しては何も出来ない無力な人間のフリを、このまま──。
「……と、ああ、そうでした。失礼。先に《あれ》の説明をしておかなくてはいけないのでした。興奮のあまり失念しておりました。……ご覧下さい。《あれ》です」
《火庫》の方を向いて口を開けた《指揮》は、しかしそこでふと何か思い出したという風に瞬きをし、それから徐に自身の背後、夜不寝リコを捕らえた檻の更に向こう、先ほどひづりがその存在だけ確認した二門の弩砲らしき物を畏まった仕草で指して見せた。身動き出来ない夜不寝リコと他の《主天使》以外、皆そちらを向いた。
「距離がありますのでちょっと分かりづらいかもしれませんが、あそこに二門の《神性施条弩砲》と、それを扱う四人の《弩砲兵》を配置しています。休ませている訳ではありません。四人全員、しっかりと《砲》の照準をここに居る夜不寝リコと凍原坂春路に合わせています」
「なっ!?」
ひづりと《火庫》の口から全く同時に声が出た。それを聞いて《指揮》は愉快そうに眼を細め口角を上げた。
そして言った。
「《空間爆破》、に期待していたんでしょう? 知っていますよ、《フラウロス王》の最終攻撃手段、広範囲に影響を及ぼす自爆技……。しかも範囲内に居る味方を爆破から護る事も出来るので、人質を取られた時にも非常に有効だと。しかし……それも自身の軍勢や同盟関係にある《悪魔の王》が隣に居てこその話。調べさせてもらいました。《フラウロス王》の《空間爆破》は自身を中心に半径五十メートルの巨大な《発火型魔方陣》を描き、その《魔方陣》内部を残りの《魔力》全てを使って瞬時に焼き尽くす技であると。そしてそんな超高温になる《発火型魔方陣》の中で何故ピンポイントに庇護対象の居る場所のみを防護出来るのかと言うと、《発火型魔方陣》の描画と全く同時に《フラウロス王》は庇護対象の周囲に真逆の効果を持つ《魔方陣》……《不燃作用型魔方陣》とでも呼びましょうか、それを描いて小さな《結界》を作り出せるから、灼熱の《空間爆破》の中でも絶対に燃えない安全地帯を発生させられる。……ただ、その《不燃作用型魔方陣》……《結界》とは言いましたが、その効果は《フラウロス王》自身の炎に対する不燃作用に特化しているだけで、それ以外の衝撃に対しては特別秀でてはいないようなんですよねえ……。そして同時に、《フラウロス王》が《空間爆破》で燃やした周囲一体が鎮火するまで、庇護対象は《不燃作用型魔方陣》の内側から動く事が出来ない……」
「…………!!」
ひづりは《指揮》が何を言いたいのか理解し、背筋が凍った。
「《神性施条弩砲》は名の通り、《神性》を持たせた重質量の矢をライフリング加工のバリスタで撃ち出す、強力な《魔城侵略兵器》です。その威力は期待出来るもので、過去、直撃させた《上級悪魔》の肉体に十分な傷を負わせた、という記録もあります。ただ、本来攻城兵器である《弩砲》故に装填と照準に時間が掛かるので、動く対象を狙ってもまず当たりません。ですからかつての大戦でもあまり功績を挙げられなかった武器の一つだと言われて来ましたが……しかしお察しの通り今回我々がご用意させて頂いた作戦に於いてはそうした欠点もまるで関係がありません。ええ、そうなのです」
くっくっくっ、と《指揮》は堪えきれないという風に零した。
「《フラウロス王》と《火庫》、お二人がこの後同調し《空間爆破》を行って、仮に私をはじめとするこの場の《主天使》を皆殺しにしたとしても、ここから七十メートル後方、《空間爆破》の効果範囲外に配置した《神性施条弩砲》と《弩砲兵》は無傷のまま健在ですので……《空間爆破》の熱が消えるまでは《不燃作用型魔方陣》から外に出られない夜不寝リコと凍原坂春路はその時格好の的として《神性施条弩砲》の前に晒される……という事です。ふふ、ふふふふふ、ふふふふふ……!」
語り終えた《指揮》は椅子の肘掛けに頬杖をついてそれはもう嬉しそうに笑った。
ひづりは足元が無くなったような絶望感に暮れた。全部見抜かれていたのだ。《主天使》たちは《ボティス王》だけでなく、今の《フラウロス王》の状況や周辺環境についても入念に調べ上げ、一分の隙も無い完璧な対策をとっていた。見ると《火庫》も両手を胸の前で強張らせ、顔を真っ青にしていた。
「……さて、情勢は分かったな、《火庫》?」
しっかり笑って満足したらしい《指揮》は一つ深呼吸をするとそんな《火庫》に問うた。
「お前が選ぶんだ。抵抗せず、《フラウロス王》と同調せず、我々に《フラウロス王》を差し出し、その見返りとしてこの場に居る人間達だけは見逃して欲しい、と懇願するか。それとも我々に抵抗し、《フラウロス王》と同調して《空間爆破》を行い、本来の効果範囲である半径五十メートルを越えた場所……七十メートル向こうにあるあの《神性施条弩砲》までどうにか頑張って燃やしてみるか……。仮に《神性施条弩砲》まで届かなかったとしても、《空間爆破》の威力ならひょっとしたら《封聖の鳥篭》を壊せるかもしれないな? 官舎ひづりの《防衛魔方陣術式》の射程はせいぜい五メートル先くらいまでだから《不燃作用型魔方陣》の中からでは凍原坂の場所にすら届かないが、しかし《空間爆破》直後の高温の中でも《上級悪魔》である《ボティス王》ならどうにか動ける……かもしれない。そうすれば《ボティス王》に凍原坂か夜不寝リコ、どちらか一人くらいは護ってもらう事は出来るかもしれない。ふふふ……かもしれない、かもしれない、だ……。どうする? お前が前者を選ぶなら、我々もお前とお前の妹、お前の愛する父親、ついでにお前の父の恩人の娘である官舎ひづりの命、これら全てを保証しよう。しかしもし後者を選ぶなら、以降お前の言葉にはもう猫の死骸ほどにも価値が無い。交渉は決裂し、後はお前が望むまま血の結果だけが残るだろう。今、家族を助けられるのはお前だけだ」
そう言ってゆっくりと両腕を広げて見せた。
「はぁ……はぁ……はぁ……!」
《火庫》は苦しげに肩で息をしながら、《主天使》たちに囲まれた《フラウ》、隣の凍原坂、血と涙を流す夜不寝リコ、そして《封聖の鳥篭》の中で何も出来ないひづりと天井花イナリとを、何度も忙しなく見比べるようにした。
「くそっ……!」
ひづりは拳をきつく握り締めた。《ベリアル》に襲われたあの時と同じ、大切な人達のために何も出来ない無力な弱者である己を思い知らされていた。
《天使》とは何故こうも残酷な仕打ちをするのだろう。愛する家族である凍原坂さんと夜不寝さんの命と、十四年間肉体と精神を共有してきた《フラウ》さんの命。こんなもの《火庫》さんに選べるはずがない。選ばせるべきじゃない。
「ああそうだ。決めかねているならもう一つ、お前にとってのメリットをやろう。同じ《神の使い》としての情けだ。我々に従うなら、お前がさっき蚕影で望んでいたこと、あれの《口利き》をしてやっても良い。勿論、お前が交渉を蹴るなら我々は二度とお前の前には現れないが」
パニックに陥った様に定まらなかった《火庫》の視線がぴたりと止まり、《指揮》の方を向いた。その大きく見開かれた彼女の目を見て《指揮》は軽く顎を上げた。
《火庫》はうつむき、追い詰められた表情で何か酷く考え込む様にした。
「口利き……?」
ひづりは眉根を寄せた。一切話が見えなかった。
《火庫》さんが蚕影神社で望んで、叶わなかった事……? それに、もし命令に従わなかったら二度と現れないって、一体どういう……?
するとひづりが零した独り言に気付いたらしい、《指揮》は徐にこちらを向くとここまで見せた中で一番の気持ち悪い笑みをその顔に浮かべて言った。
「そういえばお前達は全員知らないんだったな? 《火庫》が今日、何故あの筑波山神社や蚕影神社に一人足を運んだのか……その理由について」
「!!」
ばっ、と《火庫》が顔を上げた。そして叫んだ。
「やめて……やめてください!! その事は皆様には話さないで下さい!!」
必死の表情で縋る彼女に、しかし《指揮》は楽しげな表情を変えず続けた。
「いいじゃないか! お前の父親だって知りたがっているぞ? それにこの数年間、お前は《フラウロス王》と半身を分け、同じ屋根の下で暮らして来たんだろう? なら! 何故ここで《主天使》に殺されなくてはいけないのか、何故お前が最初から一切同調の素振りを見せないのか、それくらいは冥土の土産として教えてやるのが、《フラウロス王》に対する、家臣としての最後の手向けってものじゃないか!?」
そう言いながら《指揮》は《フラウ》を指差した。
《火庫》はまた、はぁ、はぁ、と呼吸を乱しながら、ゆっくりと《フラウ》の方を振り返った。《フラウ》は《火庫》と視線を合わせたが顔色は変えずまた何も言わなかった。
《指揮》は失笑した。
「さっぱり分からない、という顔ですね、《フラウロス王》? ですが単純な話です。我々はこの日本を担当する《主天使》。この地に棲む《神性の生物》の出生や《記憶》を調べるくらい訳ありませんし、多少であればその《神性》の機微にも干渉が可能です。今回はそれを利用させてもらったのですよ。七月に凍原坂の《魔術血管》が不活性化した後、ご存知の通り貴方の《魔力》は飽和し、貴方と《火庫》の間で凝っていました。我々はその《魔力》をすくって《火庫》の《神性》へと注ぎ込み、彼女が《前世の記憶》を取り戻すよう細工をしたのです。貴方たちは自然とそうなったと思っていたようですがね。ここまで漕ぎ着けるまでに我々もずいぶんと手間を掛けさせられましたが……しかしやっただけの価値は充分にあったようです」
そう言いながら《火庫》と《フラウ》の顔を一瞥し、それから、ぱんっ、と手を叩いてまるで冗談でも言って回るような喜々とした声音で語り始めた。
「それでは皆様どうぞお聴き下さい。醜く、哀れな、《執着心の亡霊》の物語を……」
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